Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ラダクリシュナン インド・ガンジー記念… 恐れをたたき出せ

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  「ガンジーは、どうして勝利したのですか」
 その問いに、ラダクリシュナン博士の答えは明快だった。
 「何ものも恐れなかったからです」
 “わが意を得たり”の思いだった。
 マハトマ――大いなる魂。それは「大いなる勇気」の異名であった。
 勇気は伝染する。ガンジーに接した人々は皆、心が軽くなった気がした。恐怖と憂いの重しがなくなったのだ。
 インドの最南端ケララ州。
 騒ぎたてる群衆に向かって、一人、どなりつけている男がいた。
 群衆は口々に、ガンジーを、ののしっていた。男は「何を言うか!」と大声で反論していたのである。
 それが博士の父君ニーラカンタ・ピライ氏の若い日の姿だった。一九二四、五年ごろである。
 ガンジーが南アフリカから帰国して十年がたっていた。
 「私の生涯は終わることのない実験だ」(ルイス・フィッシャー『ガンジー』古賀勝郎訳、紀伊國屋書店)――ガンジーは、インドの人々を堂々たる「新しい人間」に変えようとしていた。「心の大掃除をするのだ」と叫んだ。そして全国を旅して歩いた。
 ケララ州でも歴史的に差別されてきた「ハリジャン」の抗議運動を指導した。「カーストの外」に置かれ、非人間的な差別にさらされていた人々である。
 ヒンドゥー教徒の寺院や家や店に入れず、持ちものにふれることもできず、公共の井戸や道路を使用することもできなかった。
 ガンジーが立ち上がった。
 「私は、インドを、イギリスというくびきだけから解放することに関心を抱いているのではない。いかなるくびきからも、解放することに心を向けている」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 社会を底から変えるのだ。一にも二にも「人間」だ。人間が変わらずして何を変えようとも永続性はない。ガンジー主義の真髄は、草の根の「人間革命」運動にあった。
 数千年の因習の根を引き抜くのは容易なことではない。ガンジーの同志さえ、彼の勇気には恐れをなした。しかしガンジーは、虐げられた人々を「神の子(ハリジャン)」と呼んで愛した。差別する側は、どんな高位の人間でも「悪魔の子」だ、と。
 ある会合に行くと、「ハリジャン」たちが片隅に追いやられていた。ガンジーは、まっすぐに彼らの中に入っていって座った。
 彼が、そこから聴衆に向かって話したので、ハリジャンたちの席が、たちまち「貴賓席」に変わってしまった。
 それと同じことを、社会全体でやるのがマハトマの望みだった。
 彼は恐れを知らぬ革命家であった。
2  釈尊は革命家 ガンジーは菩薩
 ラダクリシュナン博士は語る。
 「釈尊は当時の社会的差別に果敢に挑戦しました。釈尊は、たんなる仏という呼び方よりは改革者、教師、あるいは『革命家』と呼べるのではないでしょうか。そして、ガンジーの闘争は、ある意味で釈尊の再現でした。ガンジーは真の菩薩でした」
 両者とも、社会の改革に無関心な“隠遁の聖者”ではなかった。
 だからこそ、あれほどの迫害が一生涯、続いたのである。
 博士の父君も「闘士」だった。地元ケララ州の政府によって何度も投獄されていた。獄中生活は六年間におよんだ。家に戻ったのは独立(四七年)の後であった。
 「母は必死に支えていました。幼い子どもたちを育てながら、収入もなく、しかも自分たちも捕われる危険があったのです。本当に苦労のしどおしでした。しかし母は屈しませんでした」
 独立の半年後、ガンジーが暗殺された。(四八年一月三十日)
 ガンジーは、恒例の祈りの集いに向かう途中だった。
 来客のため、少し時間に遅れていた。七十八歳の高齢のうえ、断食で衰弱していたが、二人の乙女に両側から支えられ、時間を気にして、大またで歩いた。
 「薬を与えるのが、少しでも遅れたら、貧しい病人は死んでしまう。祈りも同じだ。たとえ一分たりとも祈りに遅れようなら、私は心おだやかでいられない」
 その直後、三発の銃弾が鳴った。狂信的なヒンドゥー国粋主義者の凶行だった。
 「たとえ一分たりとも」。マハトマは、最後の一瞬まで、命を民衆に捧げようとしていた。最後の一歩も、「民衆の中へ」入る歩みだった。最後の会話も、民衆を気づかう言葉だった。
 博士は、そのとき、四歳。
 博士にマハトマの心を教えたのは、両親であり、師ラマチャンドラン博士であった。
 ガンジーの死後、非暴力運動は急速に風化していった。ガンジー主義の施設の多くが特定の個人の独占物になってしまったという。
 マハトマの心を忘れない人々もいた。博士の両親は、ガンジーの教えに基づく「建設的労働者の家」を開き、農業と工芸を営んだ。苦しい家計をやりくりしながら、成人教育センターも設けた。
 師の教え――「貧しき人々に奉仕せよ」を夫妻は具体化したかったのである。
 休むことなく働いた。七人の子どもたちにも、「額に汗し、労働者とともに働くよう」求めた。
3  博士は十四歳のとき、二度、逮捕される。共産党の州政府の教育政策に抵抗する学生運動にかかわったからである。
 少年が許せなかったのは、共産主義者がマハトマを「労働者の敵」「資本家の友」と誹謗したことであった。有名な財閥ビルラー氏と友人だったからというのだ。
 「大衆のために全生涯を捧げたマハトマを、労働者の敵とは!」
 父も子も戦った。妥協は、できなかった。今、博士は語る。
 「果てしない闘争に直面したときに、戦いを捨て、退くための理由をみつけるのは、何とたやすいことでしょうか。しかしインドの叙事詩にあるごとく、『善軍が悪軍に負かされるままでいるわけにはいかない』のです」
 学生たちの運動は、州政府の退陣を勝ち取るまで続けられたのである。
 大学院を終えたとき、博士は青年リーダーであり、有望な新進作家であり、芸術演劇祭で州の「年間最優秀俳優」に選ばれるという多才を開花させていた。
 兄たちは、インドの国家公務員行政職を勧めた。どの方向に進んでも輝ける未来が待っていた。
 “転機”は、師との出会いであった。ガンジーの側近であったラマチャンドラン博士が声をかけたのだ。「君のお父さんとは友人です。ガンジーの悪口を言う集団を一喝していた姿が、目に焼きついていますよ」
 青年の道は決まった。師の創立したガンジーグラム・ルーラル大学に勤め、二十余年を仕えた。
 厳しい師であった。「部屋に塵ひとつあっても許さないというような、やかましさがありました。時間に一分遅れても叱られました」
 たとえ一分たりとも――マハトマの厳しい訓練は生きていた。
4  「師よ父よ、わが戦いを見守りたまえ」
 六〇年代、政府が各大学に軍事訓練を強要しようとした。ラマチャンドラン博士は毅然として拒否した。「断じて学生に銃を取らせたりしない。たとえ私が最後の一人になっても抵抗する」
 亡き師ガンジーは、「青年よ! 非暴力の戦士となれ!」と願ったのだ。その心を、どうして裏切れようか。
 マハトマの直弟子の博士は、九十歳まで闘争を続けた。
 最後の言葉は、「わが肉体は滅ぶとも、わが心はつねに皆とともにある。ともに働き続ける。ゆえに、私と『同じ心』で働き続けてほしいのだ!」であった。
 私の恩師(戸田第二代会長)も厳愛の人であった。「よき弟子になったとき、師弟が定まる。師弟とは弟子の自覚の問題である」と、鋭い口調で語っていた。
 ――師よ、父よ、わが戦いを見守り給え。ラダクリシュナン博士はガンジー主義の伝道者として世界を駆けた。
 “さあ「後継の歴史」をつくろう!”と。
 「平和部隊」の活動では、青年とともに勤労奉仕や救援活動を続け、平和の戦士を実地訓練した。ガンジー以来の「差別との戦い」では、生命を危険にさらしてきた。
 九二年、ガンジー記念館を私は訪問した。ガンジーが“最後の百四十四日”を過ごした旧ビルラー邸である。館長の博士が案内してくださる。一階の一番奥に、質素な日用品とベッドだけの部屋があった。
 ここでマハトマは最後の断食をした(六日間)。インドの同胞が血を流しあうのに苦悩したあげくだった。
 マハトマの名を口にする民衆は多かったが、マハトマの心を知る民衆は、あまりにも少なかった。
5  「歩め ひとりで……歩め ひとりで」
 彼はタゴールが作った歌を、しばしば口ずさんだ。
  呼べど応える人なくば、歩め ひとりで
  恐怖で語る人なくば、語れ ひとりで
  人みなが踵を返して逃げ去れば、歩め ひとりで……歩め ひとりで
 (森本達雄『ガンディーとタゴール』第三文明社)        
 部屋から外へ、小道が続いていた。祈りの集いに向かった、ガンジーの最後の足跡が、一歩一歩、そのまま、かたどられていた。
 博士とともに、道をたどった。
 ニューデリーの青空は燦爛と輝き、緑の樹々の影が濃かった。
 短い小道が、長く感じられた。
 マハトマが、今も歩き続けているような感に打たれた。
 民衆の真っただ中へ。そして果てしない未来へ向かって。今も、その巨歩は晴ればれと、前へ前へ運ばれ続けている。
 「大いなる魂」は生きている。事実ここに、孫弟子にして、若き“分身”の博士が厳然としておられるではないか。
 記念館の庭に出ると、インド創価学会の友たちが、はつらつたる太陽の笑顔で待っていた。

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