Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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リー・クアンユー首相 シンガポール建国の父

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
2  「私は死んでもいい。だが国民はどうなる」
 もともと、みずから望んだ独立ではなかった。
 それどころか、「資源もないシンガポールが単独で生きるのは不可能」というのが信条であった。だからこそマレーシアとの合併・統一へ、長年、全身全霊を捧げてきたのである。
 そしてやっと、マレーシア連邦として、イギリスから独立したのもつかのま、わずか二年後(六五年八月)、いきなり連邦から「追い出されて」しまった。
 大きな理由は、人種政策の違いであった。
 小さな「カヌー」が、いきなり嵐の大海に、放り出されたようなものだった。
 「水」さえなかった。水の供給もマレーシアに頼っていた。
 「安全」もなかった。治安を撹乱しようという勢力もあった。それなのに警備にさく予算もなかった。治安が悪ければ、外国資本は遠ざかるだろう。貿易以外に、シンガポールには生計の道がないにもかかわらず。
 しかも、華人(中国系)、マレー人、インド人の各人種が、宗教も文化も、言語さえ、ばらばらのままなのだ。
 ほとんどの学者やマスコミが「シンガポールは崩壊するだろう」と言った。
 四十一歳の首相が直面したのは、まさに、国家が生きるか死ぬかの危機であった。
 四面楚歌――私も、若くして、大きな責任を担った身である。数百万の貧しき民衆とともに、ただ夢中で駆けた。朝も夜も、春も秋も、その人たちを幸福にすること以外、考えなかった。
 「あとは頼むぞ」の恩師の言が私を鞭打った。一瞬の停滞も、一つの判断ミスも許されなかった。
3  首相は耐えに耐えた。ありとあらゆる手段で、外には味方をつくり、内には団結を呼びかけ、知恵をしぼり抜くしかなかった。知恵以外、「人間の力」以外に、何もなかったのだ。
 人気も、批判も、富も、栄誉も、感傷も、眼中になかった。
 「私個人は生命の危険をおかす覚悟がある」「しかし、私には二〇〇万人の生命を危険にさらす覚悟はありません」(前掲『演説集』上)
 生き抜きましょう! 命をかけた叫びが、人種を超えて、人々を奮い立たせた。
 厳父であった。甘い顔を見せれば、全員が荒海に放り出されてしまうことを知っていた。
 リー首相に「悲しかったことは何でしたか」と問うと、「それは……たくさんあります」。首相は笑顔だったが、心中を想って、私は申し上げた。
 「そうだと思います。指導者は苦難の連続です。悲しみを経験せずして、偉大なことはなしえないものです」
 将来が危ぶまれたシンガポールは、多くの予測をくつがえして、目を見張る成長を遂げた。多民族が共に栄える模範を示した。
 崩壊を予測した専門家たち――「彼らは、一つの重要な要因を十分考慮しなかったので、あわてることになったのです。その要因とは、人間の意欲です。失敗するとどんなにひどいことになるか知っていて、決意をかためた、機略に富む人々のもつ力です」(前掲『演説集』上)
 首相は証明した。一念の力を。「勝つ以外に道はない」と腹をくくった人間は、不可能を可能にすることを。
 容易なことではなかった。なみたいていの辛労ではなかった。
 今、問題は、それをどうやって、次の世代に伝えていくのか――。
4  首相が十八歳のとき、シンガポールは日本軍の手に落ちた。三年半「生き地獄」が続いた。無差別な暴行。何万人もが虐殺された。義弟も射殺された。リー青年も、あやうくトラックに乗せられて処刑場へ連行されるところだった。命からがら難を逃れた。
 あるときは、日本兵に、何の理由もなく殴られたという。こういう屈辱のなかから、青年は立ち上がったのである。絶対に、だれにもバカにされない、だれにも左右されない国をつくるのだ、と。
 青年の胸には、いつも炎が燃えていた。留学生の身で、ケンブリッジ大学を首席で卒業もした。しかし、血涙の苦労で勝ちとった繁栄を、若い世代は、当たり前のように思っている……。
 シンガポールには、人材以外に資源はない。「成功への決定的な要因が人材にあることを理解していたからこそ、われわれは成功したのだ」(『シンガポールの知恵』斎藤志郎訳、サイマル出版会)
 人材とは何か。能力だけでは足りない。献身の心が燃えていなければ。
 「国をつくるには、情熱が必要です。自分のための計算――プラスかマイナスか、損か得か――そんな計算ばかりしている人間は失格です」
 建国の第一世代は「まず民衆のため」であった。汚職も絶対に許さなかった。しかし次の世代は「まず自分のため」になりがちだと首相は心配しているのである。
5  「王冠を捨てよ! 人間を救え」
 首相にお会いした翌日、私は地元の友に、シンガポールの伝承を語った。
 昔、一人の若き王が、新しき都を求めて、同志とともに航海に出た。美しい島影を前に、嵐に見舞われ、船は沈みかける。船を軽くするために、捨てられるものは全部、捨てた。それでも沈没は続く。残るのは、王の頭上に輝く重い宝石の王冠のみ。
 王は皆を救うために、ためらいなく冠を荒れ狂う海に投げた。すると、たちまち嵐はおさまり、全員が無事で、シンガポールの島に着いたという。
 「王冠を捨てよ! 人間を救え」。王冠とは、リーダーの利己心のことであろう。
 首相にとって、権力の座も目的ではなかった。手段にすぎなかった。早くから、後継の育成に全力をあげ、九〇年、若きゴー・チョクトン首相にバトンタッチした。
 しかし、その目は今も、愛する国民の未来を見つめて、爛々と光っている。
 「自分が死ぬことになり、棺桶が墓場に下げられた瞬間でも、もしシンガポールの政治が間違っているならば、ただちに起き上がって正す」(岩崎育夫『リー・クアンユー 西洋とアジアのはざまで』岩波書店)と。
 この気迫。この執念。
 私にも、「青年たちには、ただ『平和と繁栄の二十一世紀』を満喫してもらいたい。それこそが私の念願なのです」と、強く強く語っておられた。
 建国の厳父の獅子奮迅――その姿を忘れぬ限り、「獅子の都」シンガポールは、栄え続けるに違いない。

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