Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

マハティール マレーシア首相 アジア・ルネサンスへの挑戦

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  マハティール首相とお会いしたのは、マレーシアが大揺れに揺れている渦中だった。
 一九八八年二月六日の朝である。
 二月四日に、首相が党首を務める統一マレー国民組織(UMNO)が、何と「非合法」であるとの判決がなされていた。
 党内の反対勢力から法的不備(一部の支部が団体登録をしていなかった)を指摘され、クアラルンプール高等裁判所は、“党全体が非合法である”と宣言したのである。
 この判決には、だれもが驚いた。そうなると党の議員の資格はどうなるのか?
 政府の閣僚の役職は? 国の運営にまで支障をおよぼしかねなかった。
 二月五日、首相は記者会見し、政府と政党は別の存在であると説明して、事態の収拾を図った。
 何しろ第一党が突然、法的に消滅したのである。混乱は続いていた。こういう激震のさなかの会見であり、タフで知られる首相にも、さすがに疲労の色がにじまれていた。
 しかし、多忙のなか、首相は毅然として、執務室の入り口で待っていてくださった。
 にこやかな歓迎。首相の胸には「マハティール」との名札が付いている。
 首相は八一年に就任すると、真っ先に「公務員に活を入れる」ことから始めた。タイムレコーダーで出退勤を明確にし、首相も毎日、朝夕、自分でパンチした。
 名札も、“仕事の結果責任を自覚させるために導入した”もので、みずから率先して、つねに付けているという。
2  私は首相に申し上げた。
 「いかなる時代にあっても、いかなる国にあっても、指導的立場にある人は、必ず何らかの苦難を受けています。そして、その苦難を乗り越えてこそ、偉大な輝きを増すものです」
 首相はうなずいて、ご自分のリーダー論を、こう語られた。
 「指導者はつねに、困難な事態や問題に突き当たるものです。しかし、どんな困難も乗り越えていく、また『あえて困難に挑んでいく』――そこにこそ、リーダーの要件があると信じます」
 党の非合法問題は、十三日に首相が新党結成を発表し、鎮静化へ向かった。
 マレーシアのことわざに「波のない海はない」とある。何かをなそうとすれば、批判は避けられない。
 マハティール首相の「マレーシアを世界から尊敬される近代国家へ」という悲願も、その大胆な行動力にはつねに毀誉褒貶がついて回った。
 本音でものを言う「原則の人」である。歯に衣着せない率直な発言に驚く人もいた。
 しかし、首相の真剣さを疑う人は、だれ一人いない。
 南アフリカについても、マンデラ大統領が獄中にあるときから支援を明確にし、徹底してアパルトヘイト(人種隔離)反対へ動いた。
 首相の行動を性格づけているのは、強者への反発である。
 「私は問題や相手を問わず、見下されたり、相手の弱みに付け込んで何かを押し付けてきたりされることに強い抵抗感がある」
 「相手がいくら強くても納得できないことに関しては同じだ」(九五年十一月二十八日付「日本経済新聞」「私の履歴書」)
 医師として、夜遅くまで貧しい人たちを診療していたときも、「まず、この人たちの貧困を何とかしなければ」と義憤にかられたという。
 この精神で、「大国の意見の押しつけ」や「欧米諸国のアジア蔑視」に抗議し、アジアにはアジアの価値観があり、各国には独自の文化と歴史がある、その多様さを認めるべきだと主張する。
 物質主義による退廃を批判し、大事なのは「財産がどれくらいあるかよりも、精神がどんな状態にあるか」だという。
 そして、理想的な先進国とは「思いやりのある国家」であり、精神的豊かさと繁栄が両立する“徳の高い”文明社会を構想するのである。
 いわば「アジア・ルネサンス」。これは文明論的な挑戦である。
3  首相は、そのリーダーシップを日本にとってほしいと何度も繰り返してきた。
 日本、韓国に見ならえという「ルック・イースト(東方を見よ)」政策も、その表れである。
 会見でも、こう言われていた。
 「日本は『貧しい国でも豊かになれる』という、よき手本を示してくれました。われわれは、それを学びたいし、また“学べるようにしてほしい”のです。
 かつてアメリカは、日本の経済発展のエンジンになった。ぼう大な市場、技術、ビジネスの方法を提供してくれた。そのおかげで日本は発展しました。同じように、今度は日本がアジア発展の“エンジン”になってほしいのです」
 しかし、マレーシアの日本への期待は十分に報いられなかったようだ。
 一部の人々の誠実な努力はあったが、根本的には、日本はアジアの隣人を「共に生きるパートナー」として遇さず、日本の利益のために利用するという「経済植民地主義」から抜け出せなかったと言われている。
 なぜ日本は、いつも奪ってばかりいるのか? なぜ、同じ人間として隣人に手を差し伸べないのか? マレーシアの人々に、こういう失望感が広がったという。
4  「日本はもう一度、開国を」
 同様の不信感は、“日本に学べ”と送りこまれた留学生の声にも見られた。
 「日本で嫌いなのは、人種差別。アジア人をバカにする人が、アメリカ人には別人のように愛想よくなる」
 「日本では後輩は先輩に盲従しなければならない。こんな上下関係は、マレー人の間にはない」
 「日本の若者は、アジアの文化から学ぼうとしない」
 「日本の若者は、かわいそうだ。上の世代から何もかも与えられて、そのためにどれほどの苦労があったかを知ろうとしない」
 「日本は、もう一度、開国すべきだ」。こういう声を私は憂えていた。
 また偏った歴史観から、日本軍のマレーシア人虐殺の史実も十分には知られていない。女性も老人も、いたいけな幼児さえ容赦なく殺された。全滅させられた村もあるという。
 そもそも、マレーシアへの上陸は真珠湾攻撃より一時間五十分も早い。その意味では、太平洋戦争はマレーシアで始まったのである。そのことすら知られていないのだ。
 何とか、橋を架けなければいけない。口先ではなく、行動で。
 わが恩師戸田先生(第二代会長)は言われていた。「一番むずかしいところから始めよ。そうすれば、あとは、やさしい」
 人間関係でも、組織の改革でも、そうであろう。この言葉どおり、私は共産圏と文化交流の道を開いた。そして、深い歴史の傷をもつアジア諸国にも、平和の道を開きたかった。
5  七色の文化の虹
 マレーシアは多民族・多文化の国。「アリさん、陳さん、シャンさんがつくる社会」と呼ぶ人もいる。それぞれ、マレー人、中国人、インド人の代表的な名前である。宗教も違う。伝統も違う。
 私は、国の舵取りのむずかしさを思いつつ、「複雑な社会を、どう調和させ、すべてを生かしながら、発展の方向へとリードしていけるか、その『カギ』は何でしょうか」と首相にたずねた。
 首相は言われた。
 「多様な要素を合計し、統合した場合には、『文化』こそが、その国の在り方を規定している最も重要な存在でしょう。ゆえに、その社会を支える文化への理解が不可欠です」
 マレーシアと日本の親善の合同音楽会が行われたのは、その晩であった。
 マハティール首相も四人の閣僚とともに出席し、日本の「菊の会」と「マレーシア国立民族舞踊団」の熱演に喝采を送っておられた。
 徳島の「阿波踊り」が登場したときだ。腰を深く落とした男性と、編み笠に着物姿のスラリとした女性たち。陽気でユーモラスな舞に、和やかな空気があふれた。
 踊りが終わり、満場の拍手のなか、女性が編み笠をはずすと、その瞬間、場内がどよめきに揺れた。日本の女性とばかり思っていたのに、多くのマレーシア女性が入っていたからである。
 反対に、マレーシアの踊りに、日本のダンサーが溶けこんだ演目もあった。
 それらは、ささやかではあったが、七色の多彩な虹につつまれた「アジア・ルネサンス」の未来が、ほのかに見えた一瞬であった。

1
1