Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ロハス フィリピン文化センター前理事長… 信念の母と娘

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
2  「私は日本兵でも助けます」
 「ケンペイタイは、丁寧な口調でしたが、母に同行を迫りました。大きな体のケンペイタイに両脇をはさまれ、母は外に連れ出されて車に乗せられました。そして、当時、牢獄になっていたサンチャゴ要塞に連行されたのです。……母とは、それが最後でした」
 ジャーナリストだった父も、数カ月前に逮捕されていた。
 家に残った三人の憲兵隊は、部屋中をかき回して、何か反日運動の証拠はないかと捜した。
 「日本軍は、母がアメリカ兵までも助けていたのを見て、怒ったのでしょう。しかし、母は言っていました。『私は、たとえ戦局が今と逆になって、日本兵が牢に入って苦しんでいても、同じように助けます。人間として、なすべきことを果たします』と。
 母は、本当の人道主義者だったのです。すべての苦しむ人を公平に救いたかったのです。しかし日本の軍国主義者には、母の行動は理解できませんでした」
 エスコーダ女史は、仏法でいう菩薩のような人だった。
 あるとき、家の馬車を走らせていた御者が、鞭で馬を激しく叩いた。女史は馬車を止めて、御者をたしなめた。「かわいそうに――」。愛情は人間だけに注がれたのではなかった。
 一方、占領中、軍はフィリピンの人々に、日本兵に会えば頭を下げるよう強制した。きちんとお辞儀しなかったと言っては、街角で、びんたを張った。
 人々は、日本占領期を「国民全体が恐怖の収容所に入れられていた時代」と呼ぶ。
 ある日本兵は、フィリピン人の子どもを宙に放り投げ、落ちてくるところを刀で突き刺したという。
 少女であったロハス女史は、日本人を絶対に許せなかった。しかし母は何と、こう教えたのだ。「日本人にも、良い日本人と悪い日本人がいる。フィリピン人にも良い人と悪い人がいる。アメリカ人にも良い人と悪い人がいます。だから、良い日本人に対しては好意的にすべきです。悪い日本人を嫌えばいいのです」
 エスコーダ女史には、国籍など眼中になかった。 「人間として」以外に基準はなかった。
 日本は反対であった。第一に「日本国民として」であり、「人間として」は二の次であった。だから“日本国民”に対してはとうていできない非道も、フィリピンではできた。中国やかつての朝鮮ではできた。沖縄でもそうだったかもしれない。
 そういう非人間的日本に抵抗する日本人は“非国民”として弾圧された。牧口先生(初代会長)のように。戸田先生(第二代会長)のように。
 両先生は、女史が逮捕されたそのとき、同じく獄中にあったのだ。同じ日本の軍国主義によって。
 嘘と差別とエゴの抑圧者。
 真実と人間性の民衆運動。
 その戦いは今も続く。
3  「私はいい、あなたが食べなさい」
 「人間として」生きる――エスコーダ女史の信念は、獄中でも変わらなかった。
 残酷な拷問が続いた。体は傷だらけであった。日本軍は女史から反日運動家の情報がほしかった。女史は一言も、もらさなかった。
 一週間、食事を与えられないこともあった。それでも彼女は、牢の友に、未来の夢を語って聞かせた。彼女が育てた「ガールスカウト」の組織のこと、婦人団体の発展のこと。そして二人の子どもたちが、彼女の青春と同じく、アメリカで勉強できる日が来る夢を。
 少しでも食糧や水があれば、必ず人と分かちあった。人の分まで自分がほしいのが当然の状況だったにもかかわらず。「私はいい、あなたが食べなさい」。これこそ、いかなる名言にもまさる人間性の神髄の言葉ではないだろうか。
 四五年の初め、エスコーダ夫妻は牢から引っ張り出され、処刑された。どのように殺されたのか、今もわからない。「両親が、どこに埋められたかさえ、わからないのです」(ロハス女史)――。
 母は処刑の前に、メッセージを人に託していた。
 「私は私の責務をやり遂げました。もしも私が倒れ、あなた方が生き残ったならば、どうか祖国の人々に伝えてください。
 『フィリピンの女性たちも、使命を果たしました』と。『最後の一瞬まで、真実と自由の残り火を燃え立たせました』と」
 母は倒れた。
 「自由」の炎を立たせるために。
 母は死んでいった。
 「真実」に命を与えるために。
 死の沈黙ほど雄弁なものはない。その死が、魂を極限まで燃やした殉教の死であれば。四十六年の短い人生。しかし、女史の一生は今も声なき声を発し、人々の勇気を鼓舞する。フィリピンの最高額紙幣(千ペソ)の肖像ともなり、女史の名を冠した多くの通りもある。
 何より、女史には「魂の後継者」がいた。
 二人の遺児を、今度は、女史に助けられた人々が助けた。お金を出しあって、アメリカに留学させてくれた。獄中の“母の夢”の一つが叶った――。
4  母よ! あなたの人生のように
 愛娘のロハス女史は、母の志を受け継いだ。小さいころ、体が弱かったので、「丈夫になるように」とバレエを習わせてくれた母。
 文化を愛した「平和の母」の娘は、平和を愛する「文化の母」として立った。
 国立「フィリピン文化センター」を、ある人は「日本で言えばNHKと民音を合わせたような活動でしょうか」と説明する。文化の創造と継承、海外との交流の柱の存在である。
 その理事長として、ロハス女史は大きな足跡を残された。日本との交流も「日本人はフィリピンに対して、ゆがんだイメージをもっていると思います。それを変えたい」と真剣であられた。
 私との語らいの中から「バレエ・フィリピンズ」の民音公演が実現した(九三年)。アジア随一、世界でも「これを見に、百マイル(約百六十キロ)歩いても後悔しない」(米国ノースカロライナ州の新聞評)等、絶賛されているバレエ団である。
 それ以前にも、同センター所属の「ラモン・オブサン国立民族舞踊団」の民音公演(九〇年)が、日本人にフィリピンの文化レベルの高さを教えてくれた。
5  ロハス女史は言われる。
 「アジアの人々がいだく日本のイメージは、戦時中の軍国日本と、現代の経済大国の金もうけ主義の顔だけです。日本はもっと別の顔を見せるべきです。文化交流を進める人こそ、日本に必要なのです」
 「長い間、私はどうしても日本人に心を開けませんでした。しかし、夫の商用で来日し、日本の芸術にふれてから変わったのです。日本の芸術が好きになり、やがてそれを生み出した日本人にも心を開いていったのです。
 芸術は、憎しみをも超えさせます。文化こそ人間と人間の太い絆なのです」
 母子二代の生涯をかけた、この叫びは、“魂なき国”と呼ばれる日本の耳に届くであろうか。それともふたたび卑しき傲慢によって滅びていくのか。
 日本の選択を、アジアの厳しい目が、じっと見つめている。

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