Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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シン カトマンズ市長 ネパール民主化闘争のヒーロー

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
3  「母さん その人はやって来るの?」
 その後も一家の闘争は続いた。完全民主化がなければ国の発展はないというモットーであった。百年以上も続いた専制体制の根は容易に抜けなかったし、ラナ家の影響力は依然、強かった。民主主義を根づかせるのは、なみたいていのことではなかった。
 入獄、追放の苦しみが繰り返された。シン氏は八年間、女史も五年間にわたり投獄された。長年の闘争のために、女史は自分の財産を使い果たした。夫妻で入獄と出獄を繰り返し、五人の子どもたちを養う余裕もなかった。女史の健康も損なわれていた。
 このときに女史の面倒を見ながら、子どもたちを育ててくれたのが若き日のシン市長であった。市長は結婚もせず、青春を一家のために捧げ尽くした。
 戦士は偉大である。そして戦士を支える人は、戦士とともに気高い。
 市長は「闇を嘆くな! 夜明けがほしければ太陽を昇らせよ。太陽がなければ太陽をつくれ!」という気概であったろう。
 民衆は忍耐強い。民衆はあきらめない。正義の夜明けが訪れる日を信じ、待っている。
 ネパールの革命詩人リマールは歌った。
 「母さん その人はやって来るの?
 『来るともさ 坊や その人はやって来るよ/朝日のように光をふりまきながら やって来るよ/その人が腰に吊した 露のようにきらきら光る/一本の剣を お前は見るだろう その人はその剣で不正と闘うのさ!……』
 『……私は母だもの 万物の創造力になりかわって/こう言えるんだよ/その人はやって来るとね……見ていてごらん その人は嵐となってやって来るよ/そのときお前は 木の葉となってついて行くだろう!……』」(「母さんの夢」、『現代ネパール名詩選』佐伯和彦訳註、大学書林)
 そして「そのとき」がきた。
 冷戦が終わった。東欧も変わった。九〇年。世界が注目したカトマンズの大闘争で、やっと念願の複数政党制が導入されたのである。半世紀以上にわたる闘争の結実であった。
 民主化を支持したビレンドラ国王は、ガネシュ・マン・シン氏に首相就任を要請した。しかし、七十五歳の氏の意向は「若い人の活躍を見守りたい」であった。
 その後も、政府が民衆を軽視する様子があれば、氏は容赦なく批判した。民主化の形ができても「魂を失ったら何にもならない」という心ではなかったろうか。
 市長は、お母さんをこよなく大切にされた。創価学会青年部の難民調査団の代表が市長にあいさつしたさい、おみやげを渡すと、市長は決してその場で開けようとされなかったという。「いただいたものは必ず、母に見せてからでないと開けないのです」と。
 その母堂が亡くなった。九六年の八月二十六日。一カ月入院しただけであった。七十二歳。長年、持病を抱えながらの闘争であったのだ。
 訃報を聞いてシン市長は病院に駆けつけた。走りながらも、涙が噴き出して、止まらなかった。ベッドにすがりついて、無言で涙を流し続けた。
 ただ民主化のために一生を捧げきった母だった。母の声が蘇った。「私は体に残る最後の血の一滴まで、人権のために捧げます。いかなる差別も認めません」。闘争の勝利を見届けて母は逝った。
 女性のガンジー。
 あの日、会場で女史は私に言ってくださった。「池田会長をおとしいれようという陰謀についても、私はよく知っています。しかし私は、くだらない批判の声は全然、耳にいれません」と、にっこりされた。迫害者のやり口は骨の髄までわかっています、という微笑みであった。
 市長も私の行動や書物について、恐縮するほどよく知ってくださっていた。「悪口が書かれていることも全部知っています。だから偉大なのです。立ち上がれば迫害があるのは当然です」
 名誉市民推挙の式典で、シン市長はあいさつされた。
 「ネパールは釈尊生誕の大地であります。その精神を源泉に、われわれはSGI(創価学会インタナショナル)と同じ理想を追求してまいりました。すなわち民主と人権と共生の時代への闘争であります。『平和とはたんに戦争がない状態ではなく、全民衆の尊厳と人権が尊重されることである』。このSGIの思想に私どもは全面的に賛成であります!」
 カトマンズは、ヒマラヤへの玄関。古来、「栄光の都」と呼ばれる。今、かの地の民主主義の闘争は、最高峰の「人間の栄光」を教えてくれる玄関になったのではないだろうか。
 式典であいさつした言葉を私は繰り返したい。「この神々しきまでのネパールの人々の輝きを見よ!」と。

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