Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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シン カトマンズ市長 ネパール民主化闘争のヒーロー

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
2  「ネパールのガンジー」夫妻
 父君ガネシュ・マン・シン氏の人生は伝説的である。自由の闘士。ネパールの巌窟王。
 高校時代、「ラナ家の生徒に敬意を表さなかった」ために退学になった。働いたが、ラナ家の宮殿の前で自転車に乗っていただけで職を奪われた。しかし、こういう事件は、彼を「おとなしくさせる」どころか、ますます燃え立たせることになった。
 氏のその後の人生の軌跡もまさに「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」であった。
 身の置きどころがなくなり、インドのカルカッタで学びながら、祖国と連絡を取り、反ラナ闘争を続けた。インドの独立運動の盛り上がりを目の当たりに見て、若き血潮をたぎらせた。
 反ラナ政党を発足させた――直ちに逮捕された。(一九四〇年)結婚したばかりだった。
 シン女史が九歳年上のガネシュ・マン・シン氏に嫁いだのは十五歳のときである。シン氏の祖父は政治の中枢にいる高い身分であり、大家族制のため、女史は夫の祖父たちとともに住んだ。
 嫁いで、わずか数カ月後に夫が逮捕――権力は夫に終身刑を言い渡した。
 夫が囚われた。それは彼女も囚われたことだった。夫は壁の中で、彼女は外で。
 しかし、それよりも不幸だったのは自分自身の中に牢獄をもつ権力者であったと私は思う。独裁者の心は、ねじれて小さかった。ヒマラヤは、あれほど雄大にそびえているのに。
 牢獄の夫を援護するため、女史は決意した。「私も、ともに戦おう!」
 良家の女性は家に閉じ篭っているものとされていた時代であった。外出するときは、お付きの女性がついた。女史は、お付きの女性に、待っている場所を指示し、一人、反ラナ闘争の秘密の会合に行った。女史以外は、すべて男性であった。
 シン氏は四年間、獄中にいた。自由に歩き回れるのは、自分の思想の中だけであった。仲間が次々に処刑されていった。
 このままでは自分の処刑も時間の問題だ――シン青年は命がけで脱出した。監獄の下水管の中を通って。汚物まみれになった。
 「この国を救うのだ!」。いかなる目に遭おうとも、胸に彫り込まれた決心が消えることはなかった。インドに逃亡し、ガンジーの非暴力運動を学んだ。
 女史も走った。「女性も立つべきだ」。活動家が次々と逮捕されるなか、「ネパール女性協会」を設立した。表向きは女性と幼児の医療を助ける協会であり、看護婦を一人おいて、カムフラージュした。嫁いできたときに持参してきた、かなりの貴重品があった。彼女は、それらを密かに売って活動資金にした。
 「女性を立たせるためには教育で目覚めさせなければ。納得できれば、女性は何ものも恐れないのだ」。こういう確信であった。
 あるとき、女史は時の権力者、摂政のパドマ・シャムシェル・ラナを訪ねた。二十数人の同志の女性とともに。女史が面会を申し込んだとき、諂う様子がないのに驚いた守衛が「そんな口のきき方をすると、舌を抜かれる」と言った。女史は「ああ、そう! ラナは舌を抜くの。それは知らなかった!」と言って、さっさと入って行った。
 摂政は、独裁体制のなかでは聞く耳をもった人物であり、一人だけなら会おうと言った。女史が部屋に入ると、そこには夫の祖父がいた。祖父は身内の女性が突然、現れたことに仰天し、自分の身が危なくなることを恐れた。「一体全体、何のためにきたのだ?」「女性の権利のために」。女史は言って、摂政に女性のための学校を開く許可を求めた。
 これを機に、ネパール初の女性のための学校が誕生することになったのである。しかし、これ以来、祖父は「彼女を家には置けぬ」と別居させてしまった。
 転居先には姑や他の女性の監視の目が光っていた。ラナ一族の一人が言った。「そんなことをしていると、牢屋にぶちこまれるよ! ラナ家に逆らっても、どうしようもないよ!」。女史は答えた。「ラナの支配はすでに腐っている。必ず倒せます!」
 反ラナ闘争は高まっていた。インドも独立した。新中国も誕生した。新しい時代の波音が聞こえてきた。しかし、だからこそ警戒心を強めた独裁体制は、疑わしいというだけで日常茶飯事のように処刑を繰り返した。女史も見つかったら殺される状況であった。女史は連日、処刑の現場に行った。流された血を見ては、「この人たちのために絶対に独裁者を倒す」と誓った。
 監視の目をかいくぐって、パンフレットを作り配付した。このときに、パンフ作りを手伝ってくれたのが、まだ十歳にもならないシン市長であった。
 夫も何度も入獄した。あるときは、ラナ家出身の裁判官を「閣下」と呼ばず「あなた」と呼んだために、千回の鞭打ちの拷問を受けた。六百回で意識を失った。その体を、さらに鞭打たれた。人々は彼を「鉄の男」と呼んだ。
 転機がきた。一九五〇年、王宮に軟禁されていたトリブバン国王(現ビレンドラ国王の祖父君)が一家で脱出し、インドに亡命したのである。
 そして翌年、王政復古が実現した。絶対と思われた体制は崩れた。以来、十年間、シン氏は閣僚として活躍した。初めての平和だった。このとき、以前は寄りつきもしなかった親戚が近づいてきた。「なんだ。こんなに変わるものか」と女史は思った。
3  「母さん その人はやって来るの?」
 その後も一家の闘争は続いた。完全民主化がなければ国の発展はないというモットーであった。百年以上も続いた専制体制の根は容易に抜けなかったし、ラナ家の影響力は依然、強かった。民主主義を根づかせるのは、なみたいていのことではなかった。
 入獄、追放の苦しみが繰り返された。シン氏は八年間、女史も五年間にわたり投獄された。長年の闘争のために、女史は自分の財産を使い果たした。夫妻で入獄と出獄を繰り返し、五人の子どもたちを養う余裕もなかった。女史の健康も損なわれていた。
 このときに女史の面倒を見ながら、子どもたちを育ててくれたのが若き日のシン市長であった。市長は結婚もせず、青春を一家のために捧げ尽くした。
 戦士は偉大である。そして戦士を支える人は、戦士とともに気高い。
 市長は「闇を嘆くな! 夜明けがほしければ太陽を昇らせよ。太陽がなければ太陽をつくれ!」という気概であったろう。
 民衆は忍耐強い。民衆はあきらめない。正義の夜明けが訪れる日を信じ、待っている。
 ネパールの革命詩人リマールは歌った。
 「母さん その人はやって来るの?
 『来るともさ 坊や その人はやって来るよ/朝日のように光をふりまきながら やって来るよ/その人が腰に吊した 露のようにきらきら光る/一本の剣を お前は見るだろう その人はその剣で不正と闘うのさ!……』
 『……私は母だもの 万物の創造力になりかわって/こう言えるんだよ/その人はやって来るとね……見ていてごらん その人は嵐となってやって来るよ/そのときお前は 木の葉となってついて行くだろう!……』」(「母さんの夢」、『現代ネパール名詩選』佐伯和彦訳註、大学書林)
 そして「そのとき」がきた。
 冷戦が終わった。東欧も変わった。九〇年。世界が注目したカトマンズの大闘争で、やっと念願の複数政党制が導入されたのである。半世紀以上にわたる闘争の結実であった。
 民主化を支持したビレンドラ国王は、ガネシュ・マン・シン氏に首相就任を要請した。しかし、七十五歳の氏の意向は「若い人の活躍を見守りたい」であった。
 その後も、政府が民衆を軽視する様子があれば、氏は容赦なく批判した。民主化の形ができても「魂を失ったら何にもならない」という心ではなかったろうか。
 市長は、お母さんをこよなく大切にされた。創価学会青年部の難民調査団の代表が市長にあいさつしたさい、おみやげを渡すと、市長は決してその場で開けようとされなかったという。「いただいたものは必ず、母に見せてからでないと開けないのです」と。
 その母堂が亡くなった。九六年の八月二十六日。一カ月入院しただけであった。七十二歳。長年、持病を抱えながらの闘争であったのだ。
 訃報を聞いてシン市長は病院に駆けつけた。走りながらも、涙が噴き出して、止まらなかった。ベッドにすがりついて、無言で涙を流し続けた。
 ただ民主化のために一生を捧げきった母だった。母の声が蘇った。「私は体に残る最後の血の一滴まで、人権のために捧げます。いかなる差別も認めません」。闘争の勝利を見届けて母は逝った。
 女性のガンジー。
 あの日、会場で女史は私に言ってくださった。「池田会長をおとしいれようという陰謀についても、私はよく知っています。しかし私は、くだらない批判の声は全然、耳にいれません」と、にっこりされた。迫害者のやり口は骨の髄までわかっています、という微笑みであった。
 市長も私の行動や書物について、恐縮するほどよく知ってくださっていた。「悪口が書かれていることも全部知っています。だから偉大なのです。立ち上がれば迫害があるのは当然です」
 名誉市民推挙の式典で、シン市長はあいさつされた。
 「ネパールは釈尊生誕の大地であります。その精神を源泉に、われわれはSGI(創価学会インタナショナル)と同じ理想を追求してまいりました。すなわち民主と人権と共生の時代への闘争であります。『平和とはたんに戦争がない状態ではなく、全民衆の尊厳と人権が尊重されることである』。このSGIの思想に私どもは全面的に賛成であります!」
 カトマンズは、ヒマラヤへの玄関。古来、「栄光の都」と呼ばれる。今、かの地の民主主義の闘争は、最高峰の「人間の栄光」を教えてくれる玄関になったのではないだろうか。
 式典であいさつした言葉を私は繰り返したい。「この神々しきまでのネパールの人々の輝きを見よ!」と。

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