Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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プーミポン タイ王国国王 国民の中へ中へ

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  「プーミポン国王は方言を話しておられる」と言う人がいる。タイの小さな村々を、隅から隅まで歩き回られた結果だという。
 国王ご自身が説明された。
 「おそらく地方の人々と対話することが多かったからです。訛をもつ人々の話を聞き、会話することが習慣になったため、話し方が少し変わったのでしょう」
 訛がうつるほどの行脚――農村での膝づめの対話のために、一年のうち七カ月は地方へ。年間五万キロを旅するという。ヘリコプターで、ジープで、列車で、船で、時には徒歩で。
 「民衆を助けるために働くなら、まず民衆を知らなければ。『近道』はない。調査機関が用意した調査書類を読んで、民衆を知ることはできない。彼らに会わなければいけない。そして彼らを好きにならなければ」
 書類を捨てよ、人間に会え!
 スタッフに対する、この呼びかけをみずから実践し、全国津々浦々、歴代王室のだれも足を踏み入れたことのない辺地にまで行かれた。
 カメラを首にかけ、消しゴムつきの鉛筆と地図を手に、長靴を泥まみれにして歩く。ある人は言う。まるで子どもを気づかう父のようだ、と。
 訪問は儀礼ではない。土地の人々の気持ちを楽にさせてから、じっくりと要望に耳をかたむけ、何ができるかを一緒に考え、具体的な救済策を示される。
 こうして生まれた王室プロジェクトは、優に千件以上。人々は、額に汗をにじませて全魂で心を配る王のふるまいに、人間として感動した。
 それまで“わしらは、お偉いさんたちには、無視されているんだ”と思っていた人たちが、変わった。
 地雷で負傷した兵士が言った。「私は足を一本なくしただけだが、国王は国のために、ご自身を全部、犠牲にされている……」
2  「この写真が、そうです」
 プーミポン国王に、私が献呈したのは、アメリカ・ボストンでの一葉。二回目の表敬訪問の席である。
 その前年、講演のために訪れたハーバード大学で、思いがけない出会いがあった。ケネディ政治大学院の前の街角に、この地での国王御誕生(一九二七年十二月五日)を記念する標識が立っていたのだ。国王は、笑顔をほころばせて、写真に感謝してくださった。
 父君のマヒドン親王は「タイ現代医学の父」。当時、ハーバード大学医学部の最上級生であった。
 病弱の身でありながら、あるいは、そうだったからこそ、マヒドン親王は祖国の医療の向上に全精力を捧げられた。家族とゆっくり話すひまもないほど、昼も夜も貧しい人々の治療に尽くした。必要ならばみずから献血もされたという。
 医学教育、看護教育、科学研究の態勢づくり。公衆衛生の改善。
 「医師からは、このままでは『あと二年の命です』『あと半年の命です』と警告されながら、父は、あえて仕事を続けたのです」
 そう語ってくださったのは、プーミポン国王の姉君ガラヤニ王女である。
3  「権威や名声を気にするな」
 マヒドン親王は、王女が六歳、国王が二歳にもならない一九二九年、三十七歳の若さで命を燃え尽くされた。
 その信条は「人間として生きる」であった。
 「権威や名誉を気にするならば、何もできない。ただ黙っているしかない。なぜなら、行動する限り、権威や名誉は傷つくこともあるからだ」
 みずからつくられた奨学金制度。奨学生の選抜においても、基準は「人間」であった。
 「頭がいいだけの人は、いらない。必要なのは真剣な人だ。頭のいい人は、要領よく怠ける。ただ机に座って命令書を書くだけだ。愚直な人こそ、まじめであり、信用できる。裏切らないし、不正をしないからだ」と。
 苦しむ人を救いたい、何としても――父君の熱き魂は、遺された王母妃から子どもたちに伝えられた。
 私は国王を三度、表敬訪問したが、いつも変わらぬ温かい御人格に感銘した。そして、その聡明さ。
 何が話題になっても、国王は、まっすぐに、ものごとの「核心」に迫っていかれる。これは一流の人物に共通する特長である。
 青年へのメッセージをうかがうと、「過去・現在・未来、時は瞬時もたゆまず流れていきます。一切は変化します。ゆえに未来をあれこれ思い迷うよりも、現在にこそ自己のベストを尽くすことです」。
 文化を語れば「社会に芸術的な側面がなければ、科学も進歩も、意味をもちません」。
 また「大事なことは、悪人にいばらせぬよう、善人が、もっともっと成長することです」との国王の信条が話題になったこともある。
 教育については、四児の父としてのご経験を具体的に紹介してくださった。
 「子どもたちは、生まれる前から、“吸収するエネルギー”をもっています。そのエネルギーを、うまく方向づけてあげるのが、親と教育者の責任だと思います」
 シリントーン王女が、「学校の数学が非実用的に思える」と興味をなくされたときは、国王はみずから「実用的な」問題をつくって与えたという。
 “ある男が、お金を借りにきた。何度も借りにきて、どんどん増えた。ここに、そのメモがある。足し算して、いくらになるか”
 “ある所で、水不足になった。貯水池を直すのと、水を運んでくるのと、どっちが安上がりか”
 計算だけでなく、考え方や原理を身につけることを主眼におかれた。そのため王女は、たとえば村へ行って、野菜をどうつくるかを村人と話しあうさいに、やり方を自分で考える力がついたという。
 「このように知識というものは一つ、きちんと学べば、雪ダルマ式に大きくなっていくものです」
4  文化大王の五十年
 国王は、音楽も絵画も写真もスポーツも、それぞれ傑出し、「文人国王」として国際的に英名を馳せておられる。
 私は国王にお願いし、芸術作品の代表作を広く紹介させていただくことができた。御撮影の特別写真展を東京、ロサンゼルスで。
 そしてロンドン展を、国王の祖父君ラーマ五世が、かつて二カ月間滞在された、ゆかりのタプロー・コート(イギリス創価学会の文化拠点)で。
 また御作曲作品の特別演奏会は創価大学で開かれた。
 それらの曲には、華があり、月光があり、勇壮な流れとともに、幽玄の響きがあり、大都会の洗練があり、天人の舞う緑園の風光があった。だれもが魅了された一夜となった。
 そして御即位五十周年の九六年は慶賀の特別展として、御制作の絵画、玉璽をはじめとする王室の貴重な名宝を貸与していただいた。
 これらのために、わざわざ来日してくださったガラヤニ王女、チュラポーン王女の御厚意も忘れられない。
 私は、日本とタイの関係が経済だけを中心に進むことが寂しかった。“民衆の心に触れる”友好の歴史を残したかったのである。
 タイ王国の「黄金の大地」を洗う悠久の大河チャオプラヤのごとく、時は流れ、時は走る。すべては変わる。
 変わらないものは――ただ民衆という厳たる実在。ゆえに民衆に根を張ってこそ、激しき変化の波を越えて、永遠なる建設はある。
 プーミポン国王の「国民の中へ」の人生も、その確信に発しておられるのではないだろうか。
 草の根をわける思いで、民衆の中へ、人間の中へ、心の中へ。
 国王は平和への思いを、こう語ってくださった。
 「『平和』といっても、『世界』といっても、結局は一個の人間に集約されます。ゆえに私が言いたいのは、こういうことです。『人間の問題』を解決せよ! そうすれば『世界の問題』を解決することになる」
 哲人王。人間主義の王。
 プーミポン国王には、全国民の総意で「大王」の称号が贈られた。

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