Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ソニア・ガンジー女史 ラジブ・ガンジー元首相夫人

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
3  さまよう人生ではなく
 ラジブ氏が少年のころ、腕を骨折すると、母のインディラ女史は手紙を書いた。
 「……傷つくことを恐れてはいけません。世の中は様々な痛みで溢れていますが、それらに立ち向かってこそ、強く勇敢になって、偉大なことを成し遂げられる自分になるのです。優秀な騎手は何度も落馬を経験し、一流のスキーヤーも骨の二、三本は折ったことがあるものです」
 「この世界には、幾百万人もの人がいますが、そのうちのほとんどは死ぬことを恐れ、それにもまして人生を生き抜くことを恐れて、たださまよい流れているのです」(RAJIV,by SONIA GANDHI, Penguin Books India (P)Ltd., 1992)
 その父ネルー首相は、かつて東京で語った。
 「人生の喜びは、一つの偉大な目的にみずからを結びつけ、全身全霊をそれに傾注することであります。
 小我も、つまらない不平も、泣きごとも忘れ、偉大な目的を実現するために、あらゆる困難を冒して努力することであります。
 そして力を使い尽くし、たとえ、その身は捨てられ、焼かれようとも、そんなことはたいした問題ではないのです。あなたは、あなたのなすべき仕事をやったのです」
 義弟の突然の死が、ソニア夫人の人生を変えた。インディラ首相を政治的に支えていた次男のサンジャイ下院議員が、飛行機事故で亡くなったのだ。(八〇年)
 義母は大きな打撃を受けた。支え、救える人間は、長男のラジブ氏しかいなかった。政界入りを周囲は強く彼に迫った。
 出会って初めて、二人の間に緊張が走った。ソニア夫人は「雌虎のように私は戦った」と述懐しておられる。
 自分たちの自由を守りたかった。子どもたちから父親を奪いたくなかった。
 何より、政治家になることは夫をつぶし、壊してしまうと信じた。小鳥と花と写真を愛し、あまりにも清潔なラジブ氏だった。「蓮華」の意味をもつ、その名そのままに――。
 ラジブ氏は妻の気持ちも、母の気持ちも、痛いほどわかっていた。悩みに満ちた一年がたち、とうとう夫人は、二つに引き裂かれたままの夫を見ることに耐えられなくなった。
4  「行こう それが私の使命ならば」
 夫人は決めた。どうなっても、ラジブは私のラジブだ。どうしても彼が母親を助けなければと思うのなら、どうしても抵抗できない巨大なものが彼を連れ去るというのなら――「私も、どこまでも一緒に行こう」と。
 決まった以上、ラジブ氏に中途半端はなかった。愚痴もなかった。夫人も真剣に支えた。愛が彼女の勇気となり、導きの星となり、航海の羅針盤となった。
 しかし三年後、また悲劇が。義母が銃撃された。しかも官邸で、自分の警護兵に――。
 真っ先に駆けつけたのは夫人だった。救急車の中で、彼女が抱く膝の上で、この伝説の女性は静かに冷たくなっていった。
 国民会議派の党首――首相の後継はラジブ氏しかいなかった。夫人は、周りに人々がいるのもかまわず叫んだ。「絶対に、首相にならないで」。今度こそ、この人は殺されてしまう。
 夫は懇願する夫人の手を握って、なだめた。「選択の余地はないんだ」
 二人は、子どもたちに署名入りの遺言状を作った。二人が死んだら、それが同時であれ、別であれ、どこであれ、二人の灰はガンジスに流せ――。
 だれが死を決意した人間を止められようか。氏は母の死を悲しむひまもなく、理想に向かって突進した。
 スローガンは「二十一世紀に向けて」。
 四十歳の若き首相は、外交に内政に新風を吹きこんだ。インド首相として中国へ三十四年ぶりの訪問。二十九年ぶりのパキスタン訪問。就任したばかりのゴルバチョフ書記長とは「新思考」の波長が合った。
 国内の古い官僚的機構に挑戦し、「行政は民衆に奉仕を」と訴えた。リーダーの義務は、うまく「形を整える」ことではなく、「結果を出す」ことだ、と。
 何もしなければ危険はないが、「改革者」には反発も大きかった。すきあらばと敵が狙った。夫人は、氏の帰宅が予定より少しでも遅れると、最悪の事態を想像して、胸がしめつけられた。
 地方にも海外にも、ついて行った。自分の目で、安全を確認したかった。
 夫は身をすり減らして働いた。移動中の仮眠でも、自分に用事がある人がいたら、すぐ起こすように夫人に言った。少しでも眠らせてあげたいと思って、起こすのを何分か遅らせると、夫は叱った。
 私が東京の迎賓館で首相にお会いしたのは、就任後、一年のこと(八五年十一月)だった。
 私は鮮烈な印象を受けた。「政治に大切なのは釈尊の慈悲の精神です」と語る首相。
 天からの使いのごとく不思議な魅力のある方であった。首相も「日本人らしい日本人にお会いできた」と喜んでくださった。
5  ジャングルの掟よりも残酷に
 インドの若き英雄――氏への個人攻撃は激しかった。氏は令嬢のプリヤンカさんに書いた。「現実世界というのは、まるでジャングルのようなものだ。しかし公的人生を送る人間にとっては、ジャングルの掟でさえ通用しない」
 つくり話や裏切り。「蓮華」を泥まみれにするための策動が続いた。大きなダメージを受けた。「クモの巣につかまった」格好だった。
 あまりにも、氏は純粋すぎたのかもしれない。
 しかし、人がよいことは罪であろうか。高貴に人を信ずることは罪であろうか。
 五年一カ月の在任の後の下野(八九年十一月)。命の危険はさらに強まっていたにもかかわらず、新政府は氏の警護を弱めてしまったという。痛恨のことであった。
 亡くなる三カ月前。九一年の二月、二十三年目の結婚記念日を、氏はどうしても、ソニア夫人と一緒に過ごしたいと言った。氏の選挙区に入る夫人の予定までキャンセルして、氏はイランのテヘランに夫人を同行させた。
 二月二十五日の午前零時になると、夫はプレゼントをくれた。公式行事のあとには、レストランへ行った。何年かぶりだった。ホテルに戻ると、夫はカメラを取り出し、セルフタイマーで二人の写真を撮った。そんなことは初めてだった。
 最後になった、夫人の誕生日の祝いに、氏は書いた。
 「時が変えるどころか、(ケンブリッジの)バーシティの二階の隅に座っていたのを初めて見たとき――あのすばらしき日よ――そのときよりもさらに素敵になった妻に、私の永久の愛とともに贈る」
 五月、激しい選挙戦も終わりに近づいていた。大勝利と首相再任は確実だった。五月二十日。「あと、もう二日で終わるよ」、明るく言って夫は出かけた。
 カーテンの陰から、姿が見えなくなるまで見送った。それが最後になった。
 五月二十一日の午後十時二十分。南インドの小さな町。テロリストの爆弾で、インドと世界の希望は吹き飛ばされた。
 その人さえいれば――そう思って、ここまで来た。その人さえも奪われた。夫人の思いを、だれが知ろう。
 されど、こよなき悲しみは、人を天に結ぶ。心が押しつぶされそうな苦しみの底で初めて、宇宙の奥の奥にある生命の真実がわかってくる。ひとたび聖なる苦しみの杯を飲みほした人は、虚しい現世の騒ぎには心を動かされなくなる。
 ラジブ氏はインドの大地に帰っていった。氏はインドと一つになった。行く雲も氏の顔だった。吹く風も氏の声だった。
 氏はインドに溶けこみ、夫人の命に溶けこんだ。その人は宇宙そのものになった。どこにでも、その人はいた。そして、その人ゆえに、すべては神聖になった。――きっとそうだったと私は思う。
 人生、最高の生き方とは、一番、大切な人が亡くなったとき、一番、高貴で勇敢な信念をもって立ち上がることではないだろうか。
 夫人の私邸。私は言った。
 「ソニア夫人が悲しめば、ご主人も悲しまれるでしょう。夫人が笑顔で立ち上がれば、ご主人も喜ばれるでしょう。
 前へ、また前へ進んでください。振り返らないことは、とてもむずかしいことです。無理なことかもしれません。けれども偉大な人は、あえて足を踏み出す人です。
 お国の釈尊は、『現在と未来』を見よと教えました。すべては『これから』です。いつも『これから』なのです。前進のなかに勝利があります。栄光があります。幸福があります。一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人です。悲しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が来るのです」
 語らずにおられなかった。言葉の意味が、たとえ通じずともよい。ご一家の幸福を祈る、この心さえ通じればいいのだ。
 夫人は、私の目を見て、にっこりとうなずいてくださった。
6  私は生きる 彼がめざしたあの星に向かって
 現在、夫人は「ラジブ・ガンジー財団」をはじめ、七つの財団の総裁である。
 婦人と子どもたちの健康のため、テロの犠牲になった家族の救済のため、その他、ラジブ首相が見つめていた「二十一世紀のインド」のために、全力で行動しておられる。
 宿命を使命に変えて。
 「母は」――お母さまがいない折、プリヤンカさんが私に言った。
 「母は、生まれた国を二十一歳で捨てて、インドの大地にみずからを置きました。それは父がいたからです。父亡きあとも、これは今も変わりません。
 世間で、いろいろやかましく書かれていますが、母の願いはただ、父の成したことを後世に正確に伝え、遺品等をしっかりと保存することです。母の心は、ただ父を顕彰し、後世に伝えることしかないのです」
 夫人は「未亡人」ではなく、魂の「後継者」なのだ。
 すばらしいカメラマンでもあった首相の写真の展示会を、私はお願いした。写真を通して、首相の豊潤な人格を多くの人々に伝えたかった。「文化交流」を大切にされた首相のお気持ちにもかなうと信じた。
 父親ゆずりで写真好きのプリヤンカさんが、一万三千点のオリジナルフィルムのなかから二百点を厳選してくれた。カタログの監修、レイアウト、基調色ごとに配列した独創的な展示会の構成。全部、プリヤンカさんの努力の賜だった。
 そして開幕式(九六年四月)であいさつしたのは令息のラフル氏。スピーチの頭上では、故首相の肖像写真が見守っていた。
 「ご兄妹の力でできた写真展です。お父さまが、どれほど喜ばれていることでしょうか」
 ソニア夫人に言うと、夫人は「じつは、これまでは遺品に関するものを、他の人と分かちあう気にはなれなかったのです」。正直なお言葉だった。私には、よくわかった。ラジブ氏に関することは、どんな小さなものも、すべて夫人の命そのものなのだ。
 「でも、池田先生から写真展のお話をいただいたときには、心が動きました。きょう、この目で展示会を見せていただき、私が開催を決めたのは正しかったと、あらためて確信しました」
 信じてくださる、そのお心がうれしかった。
 ご一家は、民衆のため、人類のために戦い抜いてこられた。犠牲になってこられた。人類の民の一人として、どうして、このご一家を守らずにおられようか。
 「偉大なるガンジー首相の生命は、ご家族の皆さまに受け継がれています。早く亡くなった父の寿命は、その分、家族に受け継がれ、家族が長生きし、守られ、幸福になっていく――仏法では、そう願うのです。
 お国の釈尊が説いた仏法です。目には見えなくても、首相の命は、ご一家を厳然と守っておられると信じます」
 「月の沙漠」の曲が私は好きである。金の鞍に、銀の鞍。王子・王女が乗って、はるばると月光の砂漠を越えていく――。ガンジーご夫妻を思うたび、この曲を想う。
 仏法では「三世一念」と説く。この「今」の一念のなかに、過去も現在も未来も全部、つつまれている。永遠といっても、この今以外にないのだ。
 今、夫人は、ご一家は、前へ前へ、ラジブ首相とともに、首相のめざした星に向かって、人生の旅を続けておられる。はるばると、金と銀との夢に乗って。
 その「今」こそ永遠である。永遠のご一家である。永遠の夫妻であり、永遠の父子である。
 ご一家の行く手を、勝利の月光、日光が優しく照らしゆくことを祈らずにいられない。

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