Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「人間仏教」を宣揚する 趙樸初中国仏教協会会長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

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2  人の世の光を求めて
 幼き日から、文学・歴史・哲学の薫陶を受け、東呉とうご大学時代に仏教学にふれて研究を始められた。
 祖国は嵐に揺れていた。傍若無人の列強のくびきと戦い、日本の侵略に抵抗しながら、国内は分裂し、内乱。テロも横行していた。
 「人の世の光は、どこにあるのか」──。越青年は、暁を求めて、仏典の森に分け入り、社会救済運動に奔走した。
 学ばずにはいられなかった。動かずにはいられなかった。
 上海にも日本軍がやってきた。飛行機が低空飛行で、うなりながら民家の屋根に爆弾を落とした。軍艦が黄捕江こうほこうから砲撃を続けた。
 いたる所に巨大な火炎が上がり、人々は逃げまどった街角で機関銃の掃射音。工場は爆破され、家々に火がつけられた。
 昼も夜も、略奪が続いた。難民の保護区にまで侵入し、暴行し、虐殺し、盗み、女性を連れ去った。近郊の村さえ、破壊し尽くされ、池には腐った死体の臭いが立ちこめた。畑に転がる死体を見ても、もう、だれも顔色ひとつ変えなかった──。
 街では、路上で寝るしかない人たちが朝になると凍死していた(一九三七年〈昭和十二年〉の状況)
 趙先生は言われた。
 「私は難民や不幸な子どもたちのために、死にものぐるいでした。当時、数百人の子どもを保護したでしょう。しかし悩み抜いていました。古い社会は、不幸な人々を、きりもなく生んでいくのです。私たちが、どんなに尽くしても、どうにもなりませんでした」
 当時の仏教界にも話はおよんだ。
 「仏教には、もともと自分たちで労働し、生産していく伝統があります。しかし、長い封建時代の影響を受け、封建のほとりを、かぶってしまったのです。
 かつて仏教は権力と結びつき、とくに宋時代から下り坂になりました。僧侶は大地主になったのです。仏教は本来、民衆のものです。そして新中国建設後、仏教は本来の精神に帰ったのです」
 趙先生は著書にも、こう書いておられる。「歴史的にみれば、仏教がもっとも隆盛したのは、僧侶が一ばん多かった時代ではありません。僧侶の多すぎた時代は、むしろ仏教が衰退した時でした」(『仏教入門』法蕨館)
 自分の私利私欲のために出家した僧が多かったからである。
 「いや、本当の仏教は、そんなものではないはずだ。民の嘆きを止めるために、あるはずだ」
 趙先生の悲願は、「まず平和を」であった。まず食事を、まず寝る場所を、まず着る物を、そして安心を──それを新中国があたえてくれたのですと、歩みを淡々と語っておられた。
 私どもの信奉する日蓮大聖人は言われている「智者とは現実社会の中にのみ仏法を行じるものである」と。
 中国の殷王朝の末期、太公望が出現して悪王を倒し、民の嘆きを止めた。秦王朝のあと、張良が出て、漢の国をつくるのを助け、民衆の生活を豊かにした。
 「これらは仏法以前ではあるが、釈尊の御使いとして民衆を救ったのである。意識せずとも、それらの人々の智慧は、仏法の智慧をふくみもっていたのである」(「減劫御書」趣意)
 この考え方から見れば、たとえ仏法者を名乗ろうとも、民衆を苦しめる者は、悪の外道である。反対に、現実に民衆の幸福を向上させたならば、それがだれであれ、仏法者の一分であるということになる。
 ここに「一切の世間の法は皆、仏法」と説く法華経の大乗の心がある。
 大聖人にとって、民衆の幸福こそが、すべてであったのだ。
 趙先生は、法華経にも精通しておられる。私が「色心」と言うと「不二」と返ってくる。打てば響く感じであった。「十如実相」「化城」「依正不二」「相待妙と絶待妙」「一大事因縁」。いつお会いしても、話は尽きなかった。
 趙先生が力を尽くして宣揚されたのも「人間仏教」である。「人間」と「世の中」のこと。
 仏教は世の中の現実を離れたところに逃避してはならない。社会の中で菩薩行に励み、「すすんで人を救うことを楽しみとするような精神文化を打ち立てさせ、国家社会に利益をもたらす」(前掲『仏教入門』)ものでなければならない、との思想である。
 人間を離れるな──これが、祖国の焼かれるごとき苦しみの中から生まれた、近代中国仏教の結論であり、旗印であった。
 四回目の訪中(七八年九月)のある日。趙先生は私とともに、明の十三陵の一つ、定陵を訪れてくださった。この年の春には、日本でもお会いしていた。
 明王朝の皇帝の陵墓は、石畳が、しっとりと小雨に濡れていた。
 先生と散策しながら、仏教談義に花を咲かせた。
 「日本を訪問したとき、創価学会の文化祭の映画を見ました。そこには『人間』が躍動していました。仏教は元来、民衆の中へ、衆生の中へ、入っていくものです。皆さんの姿に、それがありました」と語っておられた。
 その日は、中秋の名月の日であった。私は大陸の月を仰ぎたかったが、あいにくの雨である。
 その夜、人民大会堂での歓迎宴を終えて宿舎に戻ると、「趙樸初先生から預かりました」と、通訳の青年が、墨痕鮮やかな一詩を届けてくれた。
 それは前日、私が先生に「お月さまの願い」と題する小詩を贈った返礼であった。
  我は今 君の詩に和し
  うちとけて玄妙を談ず
  中秋に雨は止まずとも
  心の月は常に相照らす(三首のうち第二首)
 雨止まずとも──そのとおりである。文化大革命では、すべての宗教が攻撃を受けた。先生も反革命分子と罵られ、仏教協会の代表も、迫害を受けて世を去られたという。
 しかし、いかなるときも、先生の「心の月」は輝いておられたのであろう。四人組を粉砕した後、先生は「仏教の前途は限りなく明るい」と言い切っておられる。
 詩の終わりに、さらに続きの五言絶句があった。三首認められたところで雨が止み、満月の光を仰いで、つけ加えられたのである。
 その一首は今も、私の胸に温かく灯っている。これまで雨に打たれ続けた中国の輝かしい未来を象徴しているように思えるからである。
  詩成りて 雨急に止む
  外に出て 月の出づるを待つ
  世界に光明を放つを
  君とともに喜ばん
 (一九九七年三月二十三日 「聖教新聞」掲載)

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