Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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芸術の万花で民衆を励ます深別大学教授 蘇東天画伯

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
3  ″花人不二″の実相を妙筆で
 「梅の画人」の令名は高く、作品は天安門城楼や毛主席記念堂をも飾っている。
 創価大学での「蘇東天先生絵画展」(九五年六月)では、会場は絵のかもしだす芳香に酔う人々のため息で埋まった。
 蘇先生の妙筆にふれると、わが身が梅園に歩み入ったような、否、わが身が早春の梅花に変わりゆくような感に打たれる。
 ″花人不二″とでも言おうか。感応の深き境地を感じるのである。
 雪中の梅。枯れ野の中に「一輪の春」が開くとき、一つの宇宙が目ざめる。雪に覆われた大地の底から、熱は命の炎となって、根を昇り、幹を伝い、枝を温め、枝の先のつぼみに届く。一花が開くとき、地球が花開いたのだ。永遠なる宇宙の生命が、梅の五弁に顕れたのである。
 そして花と人が出あうとき、「ああ!」という美の感動のなかに、何かが通いあう。われも命なり、汝も命なり。一つの大生命の枝に咲く、われは花なり、花はわれなり、と。
 美に出あうとき、人間は根源に立ち戻る。生命に立ち戻る。人間に立ち戻る。
 画伯は仏教哲学にも通じておられるが、法華経では諸法実相と説く。ありとあらゆる万象(諸法)に、共通の大いなる生命(実相)の顕れを観る。
 その意味で、芸術も、諸法の実相を観る修行かもしれない。
 南宋の詩人、陸遊りくゆうは歌った。
  聞道梅花圻暁風
  雪堆遍満四山中
  何方可化身千億
  一樹梅花一放翁
  
  夜明けの風とともに白梅が開く。
  雪のように、四方の山中に遍く咲き満ちる。
  ああ何とか化身できないものか。
  千億の梅花に。千億のわが身に。
 四方の山々は、無数の白梅につつまれて白い。見ている詩人は、わが身が千億の花に変わりゆくのを感じる。我は千億の梅であり、梅は千億の我である。
 その姿のように、冬枯れの世界が人間主義の億兆の花で埋めつくされる未来を、画伯は願っておられるのではないだろうか。
 その億兆の花の海にさきがけて咲く「我は芸術の梅花なり」と。
 (一九九七年二月十六日 「聖教新聞」掲載)

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