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日蓮大聖人・池田大作

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全世界の中国人の心をとらえた大文豪 金庸氏

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  筋金入りの男たちを描く
 金庸氏が描くのは、信義の背骨をもった「筋金入りの男」の世界であり、彼らと運命をともにする「真情の女性」たちである。
 そのだれもが血の通った人間として描かれている十人十色、同じタイプの人間はない。
 そのうえで、氏は言う。
 「一番、書きたい人物像とは、苦境の中でも不撓不屈の精神で耐え忍び、万難を排して奮闘している人物です。なぜなら、これこそ、まさにわれわれ、中国人の姿だからです」
 そして、これこそ金庸氏の人生でもあった。
 金庸氏の本名は査良鏞さ りょうよう。一九二四年、浙江チョーチャン(せっとう)省のお生まれである。
 先祖も義人であった。金庸氏がもっとも尊敬する祖父・査文清さ ぶんせい氏は、清朝末期、県知事を務めていた。
 そのとき、丹陽タンヤンという所で、民衆がキリスト教の教会を焼き討ちする事件が起こった。教会は″西欧列強による侵略の手先″として憎まれたのである。
 焼き討ちの首謀者は処刑されかかった。それをかばって逃亡させたのが知事であった。知事は責住を一身にかぶって辞任した。「身を捨てて、民を救う」気概である。
 こうした先祖伝来の「気骨」が金庸氏の人生を貫いている。
 学校では成績はつねにトップだったが、二回、退学になった。
 初めは十七歳のとき、嫌われ者の訓導を風刺する文章を壁新聞に載せた。生徒は拍手喝采したが、退学処分。
 二回目は、二十歳のとろ。外交官をめざして、重慶の中央政治学校に入った。ここでも首席だったが、他の学生をいじめていた学生の横暴に怒り、処分を学校当局に訴えた。ところが逆に、自分が退学させられてしまった。
 やがて、香港で新聞(「明報」)を創刊してからも、招き寄せる波濤は重畳としてやまない。
 氏が私に言われた。
 「私はつねに、自分の主張を固く守ったために、あるときは暗殺の標的となり、生命の危険にさらされる重圧とまっこうから対決することになりました。しかし是非・善悪は明確です。私は決して、道理に合わない圧力に屈服することはありませんでした。
 私は自分に言いきかせました。
 『危険が迫り、恐怖を感じようとも、卑怯なまねをして退却してはならない。自分が書いた小説の英雄たちに、ばかにされないために!』と」
3  「命がけの男は百人力」
 氏の言うごとく、「命がけの男は百人力」である。
 氏のぺンは、剣であった。戦いのために、書いて書いて、書ききってきた。
 氏は、ご長男が亡くなったときでさえ、社説を書いた。書かねばならなかった。
 六二年、中国の大躍進政策の失敗で、香港に大量の難民が殺到した。氏は新聞で難民の援助を呼びかけ、みずからも救援活動に走った。
 六三年、中国の政治家が「ズボンはいらないが、核兵器はいる」と発言するや、「ズボンはいるが、核兵器はいらない」と反論。
 六六年、文化大革命が始まると、いち早く、その本質は「権力闘争」にあると見抜いて報道した。
 林彪りんぴょうの失脚を予測し、鄧小平とうしょうへいの復活や、江青こうせいの末路も、氏が社説に書いたとおりになった。
 「なぜ、こんなにすばらしい社説が書けるのですか」と問われて、氏は答えた。
 「独立の原則を保ち、いかなる誘惑にも威圧にも屈しないからです」
 まさに「大丈夫」である。
 「富貴も淫する能わず。貧賎も移す能わず。威武も屈する能わず。此れを之れ 大丈夫と謂う」(孟子)
 丈夫の志は、何をもってしでも変えることはできない。
 そして、氏の小説の人物は「ますらお」について言う。
 「恩と仇をはっきりさせるものだ」(『書剣恩仇録』〈一〉岡崎由美訳、徳間書店)
 中国の「ますらお」は、恩を受ければ、あらゆる手を尽くして、恩に報いる。恩人を傷つけられたり、悪意を向けられたら、相手を永遠に忘れない。だからこそ、善人は友になろうとし、悪人も下手な手出しができない。
 恩仇ともに、すみやかに忘れがちな日本人とは対照的である。
4  正義なき「小人しょうじんの国」
 しかし「大勇」は蛮勇とは違う。英雄は英雄づらしないものである。
 企庸氏は、仁厚にして大度たいど。いつお会いしても、にこやかで、朴訥なまでに飾り気がない。深山のごとき学問の蘊奥も、氏の口から流れ出るとき、衒いなき清流の趣をもつ。
 「日本人は、他の面では優れていても、国際感覚が優れているとは言えませんね。個人にたとえれば、ある人が学問もあり、能力も優れている。しかし人間関係の面でうまくない。これでは誤解されて『悪い人』だと思われかねません」
 氏が言われているのは、日本の政府が、いまだに侵略について誠実な謝罪をしていないことである。
 「私の家は、かなり裕福でした。しかし日本軍に跡形もなく焼き払われました。母は、戦時下、医薬品も看護の手も足らず、世を去りました。弟も死にました‥‥」
 氏は、「日本は過去の過ちを、率直に認めて謝罪したほうが、ごまかすよりも、よっぽど他国から信頼されますよ」と言われる。
 小人の過ちは、必ずかぎる──と言われる。(論語)
 過ちをしたこともだが、言葉を飾って過ちを認めないのが小人である。そのために、第二、第三の過ちを繰り返すと思われ、信用されない。
 アジアの人々から、否、世界から、日本は「小人」の国と思われているのである。なぜ、こうなのだろうか。
 そこには「義」が欠落しているからではないだろうか。
 「義は人の大本なり」(准南子えなんし)。正しき道理を知っているのが、人間の人間たるゆえんである。そのことを中国では「文明」という。
5  「血」よりも「文明度」
 「生まれ」よりも「文明度」を重視するのが中国の伝統である。
 ゆえに中国は本来、異民族にも寛容で開放的な社会である。
 金庸氏によると、唐の時代、漢民族以外で宰相になった人物が少なくとも二十三人いるという。
 生まれがどうかではなく、中国から見て「文明化」されていれば、それでよかったのである。「義」という人間の道を共有する者は、だれでも同朋なのである。
 この点、先天的な「血」でまとまってきた日本とは根本的に異なる。日本では、日本民族以外の血を引いていれば、永遠に″ガイジ″ン──″外の人″なのだ。
 文明で統合するのは、人間主義である。そこには普遍性がある。
 血でまとまろうとするのは、島国根性である。そこには排外主義が生まれる。
 トインビー博士の遺言は「中国に学べ」であった。これからの世界一体化の時代にあって、有史以来、一つの文明圏として続いてきた中国の知恵に学ぶべきだというのである。
 一番に学ぶべきなのは、隣国・日本ではないだろうか。
 日本が二十一世紀に生き残れるかどうか。それは、中国のもつ普遍性に学べるかどうかで決まると言えば、言いすぎであろうか。
 その「中国の心」を一番よく表現したと言われるのが金庸文学である。
 その「心」とは──迫害と戦って信念を貫き、体を張って約束を守ることに尽きる。私と氏とも、その心で結ばれている。
 初めてお会いしたとき、金庸氏は、にっこりと微笑んで、こう言ってくださった。
 「中国の格言に『迫害に遭わぬ人は、平凡な人なり』とあります。人に憎まれもせず、焼きもちも焼かれないような人は大した人物ではないのです!」と。
 氏をたたえて、そのままお返ししたい言葉であった。
 (一九九六年十二月二十九日 「聖教新聞」掲載)

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