Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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親子二代のホセ・マルティ研究家 ヴィティエール博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  燃え上がる民衆愛
 少年は十六歳で逮捕された。権力者を批判する一通の手紙を口実に。親友と二人の署名だったが、彼は言った。「私一人が書きました」。この一言で、六年の刑が決まった。
 政治犯収容所は、この世の地獄だった。囚人服の腰に鎖を巻かれ、右の足首の足枷に鎖はつながっていた。夜明け前から日が沈むまで、石切り場で強制労働。
 病気の老人もいた。十二歳の孤児もいた。いつも肉を打つ棒の音が聞こえ、看守が笑いながら殴る音と、ののしる声が聞こえた。倒れたら、死ぬまで捨て置かれた。
 動くたびに足枷でこすられ、肉が裂けた。裂け目は膿んで、血と泥と石灰にまみれた崩れた足の肉は、一生、治らなかった。
 「これが権力者の正体なのだ!」
 何と多くの人間が抹殺されたことか。何と多くの子どもたちが、恐怖で、生きながら幽鬼となったか。何と多くの母たちが、悲しみのあまり気がふれたか。
 傲慢に、せせら笑う悪人どもよ!
 「人間を苦しめ、人間を見下す者は、いつか必ず裁かれるのだ」
 「人の名誉を汚すことはできる。正義を買収することもできる。すべてを握りつぶすこともできよう。しかし『善』そのものは、あらゆるものの上に浮上し、絶対に難破しないのだ」
 極限の苦悩の業火が、若き生命を灼いた。炎の中から不屈の革命家が鋳造されていた。
 「マルティの『鉄の意志』は、同時に『愛の意志』でもありました。だれから押しつけられたものでもなく、ただ、苦しんでいる人に奉仕する、尽くしていく。その気持ちから生まれた意志です」
 ホセ・マルティ研究所のヴィティエール所長のお話である。
 親は、子どものためなら、どんな我慢でもする。土下座でもする。マルティが、ありとあらゆる屈辱にも耐えたのも、ただ愛する民衆のためであった。
 収容所を半年余で解放されてからも、追放され、流浪し、亡命し、四十二歳の死まで片時も安穏はなかった。貧窮。病気。同志の卑劣な裏切りもあった。
 それでも耐えた。彼は炎であった。炎であったゆえに、迫害の風が吹くほど、それを「励みとして」大きく燃え上がった。
 炎であるゆえに、彼は自在に姿を変えた。詩人にして哲学者、ジャーナリスト、教師、雄弁家、有能な組織者、そして革命戦争の指揮官。姿は変えても、燃えているものは、ただ一つ「弱者への愛」であった。
 彼の戒律は「汝、奉仕せよ、そして生きよ。人を愛せ、そして生きよ。身を捨てよ、そして立ち上がれ」だった。カリブ海が生んだ菩薩であったと言えよう。
3  人間愛の大思想家を師と仰ぐ国民は幸せ
 「もしも、マルティが生きていたら『人間革命』の思想に全面的に賛成することでしょう。力の軍隊は必ず破滅します。必要なのは『人間愛の軍隊』です」
 そう語るヴィティエール博士は、親子二代にわたるマルティ研究家である。父上はキューバで初めてマルティの研究書を出版した高名な学者であった。
 気骨のある父で、文部大臣に任命されたとき、すぐに政権に愛想をつかし、歩いて文部省を出てきてしまったという。
 父君の創った学校が、そのまま実家であった。
 博士は若き日から詩を愛した。十七歳のとき、キューバに来たスペインの詩人ヒメネスに、自分の詩を送った。するとホテルに会いに来いという。大きな食堂で二人きりだった。一つ一つ詩を読み、評価してくれた。
 「君は詩人だね」──大きな励ましだった。ヒメネスは、マルティが開いた近代主義の詩を継承した代表者である。後に(五六年)、ノーベル文学賞を受賞した。
 「詩人とは証言者です」と博士は言う。
 「刹那、刹那に移りゆく時の流れの中で、『美』を見つけ、救い出し、表現し、永遠に残るよう証言するのです」
 その意味で、マルティの不滅の人間像を後世に残す──博士の仕事は、まさに詩人にふさわしい。
 ハバナで一度、東京で一度、お会いした。奥様も著名在マルティ研究家であられる。マルティをめぐる対談集を今、私は博士と準備しているが、こう思っている。
 「人間愛の大思想家を師と仰ぐ国民は幸せだ。どんなときも、心が貧しくなることはないから」と(=対談集は二〇〇一年八月、『カリプの太陽 正義の詩』として潮出版社から発刊)
4  不信仰な国民は死滅する
 マルティは書いている。「不信仰な国民は死滅する。精神の糧になるものが何もないからである」
 そう言えば、マルティは、いつも勇気の″糧″をあたえた。「頭を垂れるより、頭を上げるほうが、はるかに美しい」「雲に向かうより、太陽に向かおう」
 そして書いた。「私は善人だから、善人として、太陽を仰いで死のう」
5  彼は自分が敵の弾丸に当たりたかった。時をかせいで、各地の革命の息吹を一つに組織しながら、「腕が腫れ上がるほど」書きながら、心で思っていた。みずから弾雨に身を曝したい。身を捨てて、同志の心を照らしたい──。
 彼は炎だった。みずからを焼き尽くすことが望みだった。
 「光を注ぐ権利は、火に焼かれなければ得られない。薪は死に、みずからを焼き尽くして周囲を照らす。人間は薪よりも臆病なのだろうか!」
 一八九五年、祖国にやっと帰れた。一カ月後の戦闘で、彼は撃たれた。馬から落ちた。顔を「太陽に向けて」倒れていた──。
 亡骸を前に、弟子たちは、涙とともに誓った。「必ず仇は討ちますから」
 一粒の麦、もし死なずば──彼の死は万人を立ち上がらせた。時とともに、革命の種は人々の心の中で育ち続けた。スペインの支配は、やがてアメリカの支配と変わり、苦しみは続いた。だがマルティは生きていた。声を発し、光を放った。
 腐敗したバチスタ独裁政権を倒した「キューバ革命」(一九五九年)。成功の前に逮捕されたとき(五三年)、若き指導者フィデル・カストロは軍事法廷で答えた。
 「貴様らの首謀者はだれか?」「首謀者は、ホセ・マルティだ!」
 マルティの死後、五十八年がたっていた。
 私は記念館で、こみ上げる思いを、こう記した。
  偉大なる人には
  大きな嵐の如き難がある。
  しかし その人には
  永遠なる栄光と勝利と名誉が
  太陽の如く 悠久に
  赫々と 昇り輝いていく
  必ず それは必ず
 仏法では「分身散体」と説く。
 一人の英雄の魂の炎は、幾十人、幾百人、幾千万人の分身に必ず点火され、僚原の火のごとく広がりゆくことを私は信じている。
 (一九九七年三月三十日 「聖教新聞」掲載)

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