Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民主主義は「民衆の戦い」 グレド ジブチ共和国大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「将来は、男性と女性の戦争になるかもしれません。そうなったら──もう私は、まっ先に女性軍につきます」
 そう言って破顔一笑、グレド大統領の顔が、人のいい「優しいおじいさん」になった。ジプチ共和国では、国民は「おやじさん」と呼んで慕っているという。
 「じつは今、妻は北京の『世界女性会議』に参加しているんです」。大統領のそんな紹介から「女性が立ち上がってきましたね」という話になった。
 一九九五年九月。私に共和国の「グラン・エトワール(偉大なる星)勲章」を贈ってくださった折である。
 男女間の戦争──大統領の言葉をロシアのヤコブレフ博士(ぺレストロイカの設計者)にお話しすると、「私なら、戦う前から白旗をあげて降参します」と言って、ニーナ夫人に、いたずらっ子のような笑顔を向けられた。
 「男性が女性にかなうわけがありません。この五十年間、私は妻に負けてばかりなのです!」
 どちらのお話からも、平和なご家庭の雰囲気が伝わってきた。
 女性の時代。それは「力にものをいわせる時代」の終わりを意味する。
 道理と文化と人権と。
 「虐げられてきた人々が立ち上がる時代」の夜明けであろう。
 だからこそ──私の思いは、アフリカへ飛ぶ。
2  「一番苦しんだ人々」を「一番幸福」に!
 人類史上、一番踏みつけにされ、苦しみきってきた大陸は、アフリカである。ゆえに、アフリカこそが、一番幸福になってほしいのだ。そうでなければ「新世紀」ではない。
 グレド大統領は創価大学で、こんな話をされた。「必要なのは平和です。もっともっと大きな声が『人間』の中から沸き起こってこなければなりません。人間自身の奥深くにある『安らかさ』と『静穏』そして『自信』の声が!」
 大統領の信条は「どこに住んでいても、人間は人間」。気さくで、創大の学生たちとも、一人一人と握手をし、丁寧にあいさっされていた姿が印象的であった。
 広島の原爆資料館に行った後では「食事がのどを通らない」と。記帳には「この犠牲は、人類全体の犠牲である」と書かれた。
3  大切なのは「国の大小」ではない
 ジプチは四国の1.2倍という小国である。
 しかし、大切なのは、国の大小ではない。心がどうかである。心が大きいか、小さいかである。傲慢になった大国よりも、苦労し、人間味のある小国のほうが、どれほど偉大かわからない。
 人間でも、体が大きいとか、力が強いから偉いのではない。
 国も、国民と指導者が、何をめざし、どんな思いで進んでいるか。その「心こそ大切」なのではないだろうか。
 ジブチは、ソマリアとエチオピアという、自国よりはるかに大きな国に挟まれている。その両国が七七年、武力衝突を始めた。九月には全面的戦争になり、何百万という難民と飢餓をもたらす悲劇が幕を開けた。
 フランスから独立したばかり(七七年六月)のグレド大統領は直ちにソマリアへ飛んだ。「ソマリアは偉大な国です。未来への可能性を秘めています。和平を結ぶべきです」
 そしてエチオピアへも。
 何年にもわたる説得の結果、八六年には両国首脳の初の直接会談がジブチで行われ、八八年には和平協定が調印された。
 その間、ジプチには難民も増えた。今なお自国の人口の二〇パーセントにも当たる難民を受け入れている。
 もちろん台所は苦しかった。しかし大統領は言った。
 「この人たちは戦乱を逃れ、平和に暮らしたいと、ここに来た人たちだ。わが国の乏し生活物資であっても、それをあたえることが、神の御心にかなうと私は信じる」
 ジブチの国そのものが、寛容の国と呼ばれる。アラビア半島とは海峡を挟んで、わずか十二キロの距離。
 「シンドバッドの海」アラビア海とインド洋を渡って、アラブ文明、インド文明が、アフリカの文明と溶けあった。それにフランスの文化が加わった。
 大統領の口ぐせがある。
 「ジブチは、交流の地であり、出あいの地であり、平和の地である」
 東京牧口記念会館でお見送りしたとき、大統領は「立派な建物ですね。さぞかし管理が大変でしょうね」と言われた。さりげない一言だったが、苦労人の素顔を見る思いで、私は感動した。
 恩師戸田城聖先生も、そういう地に足のついた発想をされる方だった。
 大統領は一九一六年生まれ。アフリカ諸国のリーダーの最長老である。
 牧童として育ち、十四歳で家を出て、さまざまな職業を経験された。人徳か、次第にリーダーに推され、三十代半ばで、フランス上院に議席を得た。当時のフランス領ソマリランドの代表であった。
 以来、独立闘争をふくめて、一身をジプチのためにささげてこられた。お酒も飲まず、大好きだったタバコも健康のためにやめたという。
 大統領の哲学を伝える国連での独立記念講演がある。
 「真の民主主義者とは何でありましょうか。
 それは金力や権力によって堕落することを拒否し、貧しい人々の権利を擁護する人のことであります。
 彼にとって民主主義とは、たんなる言葉ではありません。平等を勝ち取るための″必死の戦″なのです。
 この戦いは『堕落』との戦いであり、貧しき者の『屈辱』との戦いであります。(戦わぬ人問の)空虚な演説ではないのです」
4  収奪された大地アフリカ
 屈辱との戦い──アフリカは、まさに「収奪された大地」である。
 大陸まるごと盗まれたといってよい。十六世紀からの奴隷貿易。十九世紀からの植民地支配。
 アフリカの人も富も高度な文化も、侵され、奪われ、根こそぎに破壊された。
 奴隷貿易の犠牲者は何と推定六千万人。何の罪もない男女が突然、狩り出され、売り飛ばされ、焼きごてで印をつけられ、手かせ足かせで奴隷船に追いやられた。
 家畜以下の扱い。船倉に身動きもできないほど押しこまれ、トイレにも行けない。床は汚れ、伝染病が広がり、船からあふれた異臭は、数キロ先をすれ違う船にまで届いたという。
 「死ねば、愛する家族のもとへ魂が帰れる」と思い、海に身を投げる人。発狂する人。餓死しようと食事を拒否する人。
 しかし奴隷商人たちは、死なれては商売にならないので、拷問して口を開けさせた。それでも食べない人には「口開け器」が使われた。無理やり開けた口に食物を流し込むのだ。
 平均五週間の生き地獄の果てに、アメリカ大陸に着いたころには、多くの方々が、苦しみ抜いて亡くなっていた。生き残った人も、アメリカで新たな地獄が待っていた。
 人々を蛮人と呼んで、人間狩りに狂奔した者こそ、未開の蛮人であった。アフリカ大陸を暗黒大陸と侮辱した人間たちこそ、アフリカに暗黒をもちこんだ張本人であった。
 しかも、奴隷商人たちは、アフリカの対立している勢力同士に「奴隷狩り」をさせた。両方に鉄砲を渡して、たがいに「捕虜」を取らせる。捕虜を奴隷として買って、その分、鉄砲を渡す。
 人々は、相手に負けずに捕虜をつくらなければ、相手はどんどん仲間を捕らえ、鉄砲の数も増えていく。エスカレートせざるをえない仕組みになっていた。
 こうした非道のうえに、ヨーロッパの「近代国家」が「発展」した事実を、人類は忘れてはならない。
 ヨーロッパのある都市は「レンガ一枚まで、アフリカ人の血で固められている」と言われた。
 荒廃した大地を、さらに植民地支配が襲った。
 一八八四年から八五年のベルリン会議は、別名「アフリカ分割会議」。列強は地図上に勝手に国境線を引いた。そこに暮らす人々のことなど微塵も考えなかった。
 そのため、文化と習慣をともにする人たちが、国境線によって、突然、別々の国に分けられてしまった。一方、まったく文化の違うグループが、同じ国民にさせられた。
 今に続く内部抗争は、ここに根がある。
 しかも、戦争があるたびに武器を売って稼いだのは、またも「大国」なのである。
 働き手を奪われ、土地を奪われ、文化を奪われ、しかも大国が消費するための食糧をつくらされた。課せられた税金を納めるためには、大国が換金してくれる作物をつくらざるを得なかった。
 ヤシ油、ココア、コーヒー、ゴム、落花生。単一作物の栽培(モノカルチャー)を強いられ、自分たちが食べる主食にさえ、事欠いた。
 課せられた分を納めなければ処罰されたからである。罰として、手足を切断した国もあったのだ。
 農村は疲れ、荒れ果てた。心身は病み、希望は萎えた。
 そうしておいて、彼らは言うのだ。「お前たちが貧しいのは、お前たちが怠け者だからだ!」
 ──アフリカよ、アフリカよ、あなたは貧しい大陸なのではない。貧しくさせられたのだ。発展が遅れた大陸なのではない。独自の発展を邪魔され、歪められたのだ。
 手足を切られた人のように、アフリカよ、あなたは「世界一、豊かな可能性」をもちながら「世界一、貧しい境遇」に押しこめられたのだ。
 その構造は今在お続く。
 歴史を知るとき、アフリカを支援するのは、人類としての責務である。アフリカに繁栄の旭日が昇らない限り、人類の良心は血を流し続けよう。
5  「ともに生きる」心で二十一世紀へ
 一九六〇年十月。私はニューヨークの国連本部にいた。委員会や本会議を傍聴した。
 この年は「アフリカの年」とも言われ、十七ヵ国が一挙に独立した。国連でも、アフリカの代表の生き生きした表情が、私の目に焼きついた。
 老いた大国の傲りや、ずるさは、そこになかった。
 「さあ、これから国づくりだ!」。長い長い間の鎖を断ち切った喜びに、目が燃えていた。
 私も第三代会長に就任し、人権の夜明けへの長征を始めたばかりであった。
 私は万感の思いを、友に語った。「二十一世紀は、アフリカの世紀になるよ。その若木の成長を世界は支援していくべきだ」
 「アフリカの世紀」とは、一番苦しんだ人が、一番幸せになる世紀である。屈辱の泥をなめさせられた人々が、胸を張って太陽を仰ぐ世紀である。
 人類史の主役は代わる。
 世界から頭上に苦悩を押しつけられた人々こそが、次は、世界の未来を担う人々になる。
 人類の残酷さを極限まで味わった人々こそが、人類を変革する歴史的使命をもつ。
 アフリカの世紀。それは生きとし生けるものが調和して生きられる「生命の世紀」でもある。奪われても、奪われても、命の陽気な鼓動を失わなかったアフリカのエネルギーに、強さに、英知に、「世界が学ぶ」時が来たのだ。
 遅れた国を「助けてあげる」のではない。その心は、「未開人を導いている」と称した植民地主義者に通じてしまう。
 同じ人類の一員として、「ともに生きる」のだ。同じ人類として、アフリカの人々は、困難な挑戦を続けている。ならば私たちも、苦しみを「ともに生きる」べきであろう。世界市民であるならば。
 グレド大統領は、阪神大震災の報を聞くや、直ちに個人として一万ドルの義援金を送ってくださった。給与の三カ月分という。
 ジプチも地震国であり、人ごととは思えません──と。
 日本の多くの指導者の冷淡さと、何という違いであろうか。
 「人ごととは思えません」
 この心の中に「二十一世紀」があると、私は信ずる。
 (一九九七年四月六日 「聖教新聞」掲載)

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