Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「軍隊なき国家」の挑戦 フィゲレス コスタリカ共和国大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  コスタリカ共和国のフイゲレス大統領は、一九九四年、三十九歳の若さで就任された。
 コスタリカに招聘してくださったとき、私は申し上げた。(九六年六月)
 「若いということは偉大な力です。若さ自体が、何ものにも代えられない宝です。私も三十二歳で恩師の後を継ぎました」
 大統領の父君は、ホセ・フイゲレス元大統領。コスタリカの近代民主主義の父である。ドン・ペペの愛称で親しまれた偉大なヒューマニストであった。
 第二次世界大戦後の混乱の時代に、腐敗政権を倒し、未来を見通して、国の軍隊を廃止した。
 軍事費をなくした分、教育費にあてた。平和・文化・教育という国の根本レールを敷いた。
 五ヵ国語を話す教養をもちながら、「私は百姓だ」と胸を張っていた。
 父君は自分の大統領就任を祝う式典でも、タキシードは着たものの、用意されたエナメルの靴は拒否した。「私は、これでいい」。履いたのは農作業用の長靴だった。
 「偉大な父上でした。父上が見守っておられます。これからさらに年輪を重ねて、国の大樹になってください。
 大統領の若さは、それ自体、大いなる未来です。
 中国の周恩来総理も、ソ連のコスイギン首相も、私が若いから大事にしたいと言われていました。『若いあなたを信頼します』と。トインビー博士も、孫のように私を、かわいがってくれました」
 「池田会長──私の記憶に間違いなければ──私と同じ四十代前半で、トインビー博士と対談されました。今、読んでもすばらしい内容の対談です」
 大統領は、驚くほど謙虚な方である。「学びたい」という気持ちが全身から、にじみ出ている。傲りや気どりなど微塵もない。「一生懸命」を絵に描いたような人柄である。
 私はキューバ訪問のあと、コスタリカの首都サンホセ郊外の空港に着いた。何と、フィゲレス大統領夫妻が、ご母堂とともに、わざわざ空港まで足を運んでくださっていた。私は恐縮した。
 出国のさいも、私と同じ車に乗って、空港まで見送ってくださる。出張先から、そのために帰ってきてくださったのだという。私が車に乗るときは、ドアに手を添えて、私がぶつからないようにと心を配られる。
 私は感動した。ご両親の人間教育の片鱗を見た気がした。
 滞在(六月二十六日~二十九日)の間、胸にはずっと創価大学のバッジをつけておられた。
 人なつっこい笑顔で、「いつも、つけているんです。創価大学の一員(大統領は名誉博士)であることは、私の誇りです」と言われる。
 核の脅威展(「核兵器──現代世界の脅威」展)では、こんなスピーチをされた。
 「私は、たたえます。世界のいずこであれ、人間共和の大河をつくるために長年、貢献してとられた人々を。
 その代表は創価学会の方々です。
 真実と自由を愛するがゆえに、創価学会は、あるときは弾圧され、迫害されてきました。それでもなお、屈することなく戦い続けておられます。
 日本で、そして世界の各地で、『教育』という最善の手段で『平和』を築いておられる。
 『平和』のために新しい『文化』をはぐくんでおられる。そうした困難な仕事に、営々として取り組んでこられたのが創価学会の皆さまです」
 「コスタリカと創価学会は、人間主義の同盟を結びましょう」と言われたこともある。
 平和の先進国からのエール。私は、苦労してきたわが同志に聞かせてあげたいと思った。
3  刑務所を「子ども博物館」に
 ″脅威展″の会場は、コスタリカ科学文化センター。サンホセ市の、なだらかな丘の上にあった。もとは刑務所だったという。それを閉鎖して、「子ども博物館」をはじめとする教育センターに改造した。今も残る黒光りの鉄窓が、往時をしのばせる。
 私はユゴーの言葉を思い出した。「学校の門を開く者は、刑務所の門を閉じる」
 だれが、すき好んで犯罪者になるだろうか。生まれたときは、幼いころは、だれもが天使のごとく、伸びよう、善くなろう、人に喜ばれる自分になろうと、希望にあふれでいたのだ。
 それを、貧しさや、冷たさや、蔑みが、ねじ曲げてしまう。盗みが悪いとわかっていても、盗みをせずには生きていけない子どもたちが世界には数限りなくいる。
 子どもたちに愛の教育を!
 だれ一人、人を恨む必要のないように!
 いじめられたり、「死にたい」などと思う子どものないように!
 それが父君の「ドン・ペペ」の心でもあったろう。
4  武器を捨てよ、子どもを救え
 父君の有名なエピソードがある。
 一九四八年十二月。「第二共和制」の歴史的な発足の日であった。サンホセの空は、青く晴れ渡っていた。海抜一二〇〇メートル。高原の風が「ベジャヴィスタ兵舎」と呼ばれる要塞にも吹いていた。
 閣僚、判事、議員、高位の聖職者、各国外交団、労働組合の指導者、多くの報道関係者が詰めかけていた。
 楽団のコルネットが一斉に響いた。太鼓が連打された。
 父君は演壇のマイクに向かった。「きょう限り、コスタリカ政府は、常備軍を廃止します」
 手短に宣言するや、演壇の後方へ行って、ハンマーを手にし、壁を力いっぱいに叩いた。
 何をするのか? 聴衆は驚いた。壁の石と石が、きしむ音がした。壁の一部が外に傾いた。会場は息をのんだ。
 積み上げた石が崩れ、壁の向こうの空き地に転がっていった。聴衆は、ホーッと太いため息をついた。
 父君は前方に戻って言った。「この兵舎は、これから教育省のものに変わります。美しい博物館に改造する費用も割り当てます」
 武器を捨てよ! その分、子どもたちのために尽くそうではないか。
 この劇的な行動は、氏の人物を象徴する。ヒューマニズムの哲学。大胆さ。雄弁。機知。人心をつかむ能力。
 そして用意周到さ──じつは、壁がうまく壊れるよう、前日に細工しておいたのである。
 氏は叫んだ。「軍隊は、往々にして、独裁体制によって、反対する者を打ちのめしたり、自国民を脅しつけるために利用されてきました。しかし私たちは、市民に対して恐れを抱いておりません。ゆえに政権維持のために武器は必要でありません」
 そのとおりである。創価学会の牧口常三郎初代会長も、軍部の権力によって獄死させられた。わが恩師(戸田城聖第二代会長)も牢で虐待された。
 沖縄では、味方のはずだった日本軍が住民を虐殺した。
 食糧難のなか、やってきた日本兵が「みんな、もっている食べ物は全部出せ。出さないと射殺するぞ」と脅した。子どもに食べさせるものさえ取られた。
 腹をすかした赤ん坊が泣くと、「泣き声で敵に見つかったら迷惑だすぐに殺せ!」と銃を突きつけられた。
 防空壕に避難していると、自分たちが隠れるために「お前たちは、すぐに出ていけ」と怒鳴り、老人をも棒で殴りつけたという。
 暴力は暴力を生む。憎しみは憎しみを生む。戦争は戦争を生む。
 有史以来のこの悪循環を断とうと、ドン・ぺぺは決断した。彼が兵舎の壁を叩き破ったとき、壁の向こう側に見えたのは、まったく新しい「平和と文化の世界」であった。
5  最上の防衛とは
 フイゲレス大統領の″核の脅威展″でのスピーチは、こう結ばれた。
 「私たちは信じています。悪に打ち勝つ人間精神の力を」
 「平和は『大砲』の力ではなく、畑を耕す『鋤』の″のどかさ″に基づくべきです。平和は軍部・権力者の″傲慢さ″に支えられるのではなく、農民の″人なつとさ″に支えられるべきです。
 『最上の防衛は、理性、公平、連帯による』とわが国民は確信しているのです」
 平和のためには、平和の準備をする以外にない。
 平和の園をつくるには、平和の種子をまく以外ない。
 平和のために戦争の準備をするのは本末転倒だというのである。
 その信念で、父君以来、コスタリカは、国家予算の三〇パーセントを教育費にあてた。「兵士の数だけ教師をつくった」ともいわれ、十人に一人が教師という。
 サンホセの街にも、こざっばりした制服の生徒たちが目につく。貧困のために学校に行けず路頭で稼いでいる子どもたちの姿はない。
6  それでもフイゲレス大統領は不満のようであった。
 「今も教育革命をしています。私も二年間で三十五校、学校をつくりました。小さな島にもつくりました。その島の子どもたちは、暗いうちから起きて、船に乗り、二時間もバスに揺られて遠くの学校に通っていたのです。夜中に起きるというのです。話を聞いて、涙が出る思いでした。私は島に学校をつくりました。
 先進国を回って、共通する印象があります。それは『ありがたさ』を忘れているということです。自分が勉強できるということは、社会が犠牲を払ってくれているおかげであることを忘れてはいけないと思います。
 発展途上国では、勉強したくてもできない人が、たくさんいます。そういう人は、勉強するチャンスがあるならば、すべてを投げ出しても勉強したいのです。そういう人のことを忘れてはいけないと思います」
7  私も、いつも言っている。
 「大学に行った人は、行きたくても行けなかった人のために働くべきです。そういう民衆の支えがあるから勉強できたのだ。それを忘れて、何のための学問か」と。
 エリートと呼ばれる人間ほど、人を見下す非人間的な人間になってしまうとしたら、教育の根本が間違っているのである。
 「何のため」という価値観のない教育は、人間を知識だけのロボットのようにしてしまう。
 ドン・ペベは、こう言っていました──大統領のご母堂が紹介してくださった。
 「大事なのは私たちが『どんな能力をもっているか』というよりも『私たちの能力をどう使うか』だ、と」
 平凡のようであって、日本の教育の行き詰まりの″元凶″を切る卓見ではないだろうか。
 夫君亡きあと、毅然として大統領を支え、国民に奉仕している立派なお母さまである。
 「私の夫(ドン・ぺぺ)は一九七三年ごろ(三期目の大統領任期中)、『私には大きな心配がある』と、よく言っていました。
 一つは『貧困』のこと。そして、『富』も心配だと口ぐせのように言っていました。
 彼は、将来、コスタリカが『富める国』になっても、『富』があるだけで(精神性のない)俗悪な国になることを恐れていたのです」
 私もそう思う。
 富はあっても、「力」をカサに人権を踏みにじる国が「平和」であると言えるだろうか。「否」である。
 そういう大人社会の反映で、子どもたちが「いじめ」に苦しみ、死に追いやられる国が「平和」な国と言えるだろうか。「否」である。
8  いじめは小戦争
 ある子どもは「いじめは小さな戦争です」と訴えている。学校は、生きがいをあたえる場所ではなく、絶望をあたえる場所になってしまった、という人さえいる。
 日本は、どこで間違ってしまったのだろうか。
 ある友の話である。戦後まもないとろ、外地の兵士が日本に帰ってくる復員の事務をしていた。訪ねてくる家族に「あなたのご主人は戦死されました」「あなたのお子さんは戦死されました」と告げなければならない毎日であった。つらかった。
 ある日、十歳ぐらいのおかっば頭の少女がやってきた。弟だろう、小さな男の子の手を引いていた。
 「お母さんが、病気で、おきられないので、わたしが、来ました。お父さんが、どうしているか、教えてください」
 名前を聞いて、調べると、すでに少女の父は南方で戦死していた。書類から目を上げるのが、苦しかった。少女は唇をかみしめながら、まっすぐに、こちらを見ていた。
 「あなたの父上は‥‥」。のどがつかえて、あとが、どうしても言葉にならなかった。
 「今でもあの母子はどうしただろうかと、ときどき思うのです」
 こんな思いのなかから、日本は「もう二度と、こんなことは」と平和国家を誓い、文化国家を誓ったはずである。
 それがどうして、少女たちが、少年たちが、みずから命を絶つような国になってしまったのだろうか。
 ″核の脅威展″では、子どもたちの作文コンクールの表彰式も行われた。大統領夫人の執務室の主催である。
 作文のテーマは「暴力のない世界を築こう」。入賞作に、こんな言葉があった。
 「なぜ他人を傷つけずに暮らせないのだろう。なぜ歩道を歩いている人を押しのけずに進めないのだろう」
 「暴力には肉体の暴力も、言葉による暴力もあります。暴力を受けると、子どもは怖がりになり、学べない人になります。大人になって子どもをもっても同じように育てるでしょう」
 「子どもは叫びます。私は動物じゃないし、おもちゃでもない。私は人間なんです。暴力には耐えられないのです」
 「他人を敬うことを、みんな、あまり、わかっていないようです。私が考えるのは、本当に仲良く生きている国は少ないということ。でも私たちは、そういう国の一つに住んでいます。誇りをもって、よりよい世界をつくっていきたい。わかっていない人を、じっくりと、わからせながら」
 人を敬うことを教えず、人を押しのけることだけを教える教育。それが暴力の温床になってしまう。
 ″脅威展″の式典会場は、壁一つを隔てて「子ども博物館」と隣りあっていた。遊ぶ子どもたちの元気な声が、壁の向こうから聞こえてきた。
 笑い声。友達を呼ぶ声。何かを見つけて、はしゃぐ声。走り回っている、天真爛漫な、さざめきが会場に波のように届いた。
 私は演壇に立って、呼びかけた。
 「にぎやかな、活気に満ちた、この声こそ、この姿こそ、『平和』そのものです。ここにこそ原爆を抑える力があります。希望があります」
 フィゲレス大統領夫妻も、深くうなずいておられた。
 子どもたちの、この姿こそ、ドン・ぺぺが願った未来ではなかっただろうか。
9  「人道の競争」の先進国
 長年の間、差別されていた少数者の黒人の差別条項を撤廃したのも、ドン・ぺぺであった。彼らの使う言葉で語りかけ、彼らと踊り、赤ちゃんにキスをして、語りあった。
 青年のオーケストラが貧弱だと知るや、直ちに言った。「ヴァイオリンが足りないなら、トラクターをいくら持っていても、しょうがない」。彼にとって、文化の喜びのために経済はあった。やがて世界でも指折りの青年オーケストラが育ち、国連でも演奏するまでになった。
 紛争たえない中南米での非武装国家。「私たちは孤独だ。孤独だ」と苦しんでいた。しかし亡くなった九〇年には、隣国ニカラグアの指導者が、こう言うまでになった。
 「彼(ドン・ぺぺ)がコスタリカに残した『平和』という財産を、私もニカラグアに残したい。九〇年代の中米を平和と協調の地域にしたい。世界は変化しているのだから」
 人権国家コスタリカの「モラル・パワー(人道の力)」が、世界の尊敬を集め、世界を動かし始めたのである。
 牧口初代会長は、人類の歩みは「軍事的競争」から「政治的競争」へ、次に「経済的競争」へ、そして「人道的競争」へと進んでいくと予見した。コスタリカこそ、二十一世紀を先取りした「人道の先進国」であろう。
 先見の指導者であった。
 人間愛の熱い血のたぎる指導者であった。
 あるとき、ハイジャック機が給油のために、サンホセの空港に緊急着陸した。それを知るや、ドン・ペペは人質の救出のために、鉄砲を担いで、単身、空港に向かった。着くと、ハイジャック機は離陸したばかりだった。
 飛び立つ機に向かって、鉄砲を向け、「人質を降ろせ!」と叫んだ。
 獅子であった。民衆を愛し、民衆のために生きた。「限りなき闘争」がモットーだった。
 そして今、獅子の子は立った。
 「お父さん! 私は戦います。あなたの愛した民衆を守るために。あなたの築いた平和の国を断じて発展させるために」
 この一念、この真剣。
 民衆のために命をささげる覚悟ある限り、一時の結果はどうあれ、その一念が「種」となって、祖国の未来に必ずや花咲くにちがいない。
 私が、そう言うと、大統領は、ぐっと、あごを引かれた。胸中の誓いを確かめるかのように。
 大統領の執務室には、晩年の父君の肖像が、厳として見守るごとく掲げであった。
 (一九九六年九月二十二日 「聖教新聞」掲載)
 戸田城聖先生(創価学会第二代会長)の晩年。ご一緒した東海道本線の列車で、当時″道路博士″と呼ばれた人物にお会いした。先生は、すぐに意気投合された。
 ″道路博士″が青森から大阪までの道路を計画中と聞くと、先生は、博士をたたえながら言われた。
 「ほう、いまだかつてない日本一の道路というわけですな。しかし、日本だけが世界ではありませんよ。どうせなら、もう一歩広く構想し、朝鮮半島から、中国、インドまで行く道路を考えてみたらどうですか」
 「世界につながる道ですか。。私は日本一の道路をつくることを誇りに思ってきましたが、そこまでは考えなかった。いやー、あなたの方がはるかにスケールが大きい」
 先生は、東洋へ、世界へ、人類をつなぐ「心の道路」を開きたいのだと説明された。
 ″博士″は「よくわかりました。形而上のことは、あなたに、お任せしましょう。そして形而下のことは、私がやりましょう」と。
 一九五七年(昭和三十二年)の晩秋のことであった。先生のこの大構想を現実にする戦いが、私の人生となった。
10  アレキサンダーの夢
 エジプトのアレクサンドリア。ホスニ文化大臣にうかがった。(九二年六月十六日)
 「アレキサンダー大王は、少年時代からよく知っています。小説(『アレクサンドロスの決断』)にも書きました。大王が開いたこの町に来て、強い感慨があります。大王は三十二歳で亡くなった後、この都に遺体が運ばれましたが、遺品等はわかっているのでしょうか」
 「じつは──大王の墓は、今私たちが話している、このラス・エル・ティン宮殿の下にあるという説があります」
 宮殿でムバラク大統領と会見する直前であった。他の説もあるとのことだったが、大臣の話は衝撃的に胸に焼きついた。
 世界の西端から「東へ! さらに東へ!」と道を開いていった大王の英姿が浮かんだ。私は言った。
 「アレキサンダー大王は、インドのアショーカ大王と並んで、歴史を変えた大人物です。ともに文化を愛しました。東西の文明を融合させた偉業は不滅です」
 ヨーロッパ、アジア、アフリカを結んだ大王の志について、「英雄伝」のプルタークは書いている。大王の目的は、哲学者にふさわしかった。自分の富や野望のためではなく、地上に住むすべての人に協調を教え、「人類は同じ一つの民族である」ことを理解させるために、前進また前進したのだ、と。
 「人類は一つ」という画期的な発想を彼が得たのも、文明の源流エジプトであった。今も、エジプトには人種・民族の差別がないという。
 ホスニ文化大臣は、日本で、お会いしたときも、アレキサンダー大王観の一端を語ってくださった。
 「彼には、政治家と言う以上に、『哲学者』の風貌を感じます。哲学が彼に何をあたえたか。一つは『瞑想』すなわち心を観る方法であり、一つは『夢』でした。
 『夢』とは『人間は大きい。たんなる小さな個人以上の存在である』という確信です。人間は権力をもつこともできる。しかし、それ以上の力をもっているという信念です。彼は、すべての人にそのメッセージを届けたかったのです」
 大王「一人の人間が、どこまでできるか」を歴史に刻みつけたかったのかもしれない。「われ、可能性をためさん!」と。
 全速力でインドまで駆けた。臣下がついてこれないほどのスピードとエネルギーであった。何とかなるだろう、だれかがやるだろう、そんな卑怯な甘えは、彼には微塵もなかった。
11  「希望」一つを持って
 青春をかけたペルシャ遠征に出発するにあたって、大王は一切の財産を兵士の家族に分けあたえた。。不審に思った側近が尋ねた。「すべての宝をあたえてしまって、王はいったい、何をもって出発されるのでしょうか」
 アレキサンダーは答えた。
 「ただひとつ、『希望』という宝をもてるのみ」
 この有名なエピソードについてうかがうと、大臣の答えには深い人間観がにじみでていた。
 「じつは彼は『アレキサンダーをもって旅立つ』『自分自身のみを携えていく』と言いたかったのではないでしょうか。『人間は皆、同じように偉大である。この裸一貫の自分さえあれば、すべてをもっているのと同じなのだ』と」
 「もうだめだ」とは絶対に言わない不屈の人間。その精神の力こそ「希望」の実体であろう。こ人間信頼に「文化」の真髄もある。
12  ピラミッドは「宇宙の法則への讃歌」
 大臣は一九三九年、アレクサンドリアの生まれ。エジプトを代表する画家であり、ヨーロッパをはじめ世界的な評価を勝ち得ておられる。
 「すべてのものにリズムがあり、音楽は生命のリズムです。私の抽象画は、エジプトの音楽を絵画に表現したものです」
 大臣は、人間と宇宙を貫く「根源のリズム」を探求しておられるようであった。
 「音楽とか絵画、詩、などの領域を超えて、芸術は同じところから流れ出ていると思います。また世界のすぐれた文明は、同様の″元″をもっていると思います」と言われる。
 その根源的な「永遠なるもの」への渇仰が、ナイルのほとりにエジプト文明を生んだのだろうか。
 「私は大臣の座にありますが、こうした椅子は、たとえば明日にはどうなるかわからない。私の本業は画家であり、何より『人間』です。時聞は多くのものを減ぼします。文化と芸術こそ、時を超え、永遠に残るものです。変わってしまう政治や経済の次元よりも、より深い未来への橋となるものです」
 ピラミッドを論じあったときも、大臣の視点は「永遠性」であった。
 「私は思いにふけるとき、大ピラミッドの前に立ちます。そうすると日常の感覚から離れて、世界や宇宙を超えゆくような感情がこみあげてくるのです。私は信じます。ピラミッドと宇宙の間には、何らかの関係が存在していると」
 最近、「三大ピラミッドの並び方と大きさは、オリオンの三つ星の並び方と光度に対応している」との説が話題を呼んだ。
 ピラミッドは、「宇宙の法則への讃歌」であり、「天座の永遠を地上に移したい」という祈りの結晶だったのかもしれない。
 時を超えて生き続ける何かを。死にも滅ぼされない不朽の何かを。死に打ち勝つ不滅の力を。その探求が宗教を生み、芸術を生んだ。
 あらゆる文化の根底にあるのは、この「永遠を求める情熱」である。人間を他の動物と分かつゆえんもそこにあろう。ゆえに文化こそが人間性と人間性を結ぶ。
 権力と軍事力だけでは、人類は永遠に抗争の連続である。経済力だけでは、利害の葛藤に苦しみ続けなければならない。
 人類一体化の時代にあって、「文化力」こそ二十一世紀に高めていくべき力ではないだろうか。その上げ潮のうえに政治・経済の船を浮かべて、方向づけていくのである。
 そう言うと、大臣は「全面的に賛成です。人類を救うのは文化です。国と国も、一時的な物質的交流だけではなく、『精神の交流』を開かなければなりません」と。
 それこそ「現代のアレキサンダー大王」がなすべき仕事であろう。私どもSGI(創価学会インタナショナル)も、その使命を担い、走りたい。
 アレキサンダーの墓について、ある人は言った。「ヨーロッパとアジアの二大陸が、彼の墓だ!」。一人の人間の限界に挑んだ、壮大な生と死の軌跡であった。
 ホスニ大臣に「ピラミッドという″歴史の奇跡″を設計したのは『一人』だったでしょうか、それとも『複数』だったでしょうか」と問うと、こう即答された。
 「偉大なアイデアというものは、つねに『一人』から生まれるものです。ピラミッドも『一人の人間』から始まったと考えます」
 しかり。新たなる歴史の創造は、一人立つ勇者の責任感から生まれる。
13  世界へ世界へ「精神の道路」を
 月光の夜だった。
 寄せては返す地中海の波が、悠久のリズムを奏でていた。
 アレクサンドリア。地中海の花嫁。世界の文化の首都。
 大図書館でアルキメデスが学び、ユークリッドが幾何学を講じ、大灯台の明かりを目当てに、あらゆる民族が交流した世界都市。遠くインドからアショlカ大王の文化使節も歩いた街路。
 クレオパトラとシーザーたちとの、愛と葛藤のドラマ。ナポレオンが「フランス学士院会員」の肩書を誇りつつ、アレキサンダー大王に憧れて上陸した町。それらの絵巻も、きのうのような気がした。
 波の歌に「永遠なる命」の実在を直覚しながら、私は思った。
 巨大な古代エジプト文明を築いた人々は「百フィート(約三十メートル)の人間」と呼ばれた。
 今もまた、出でよ「大いなる人間」よ! 久遠の息吹を呼吸しながら、逞しく現実を開拓しゆく創造者よ!
 汝とそ「大いなる文化」の当体。「大いなる人間」が地から湧き出て世界を結ぶとき、文明の曙以来、民衆が夢見つづけた「黄金の世紀」は開幕する、と。
 世界へ、世界へ、永遠に崩れぬ「精神の道路」を。
 そのための文化戦線の偉大な同志のお一人が、ホスニ大臣なのである。
 (一九九六年十月二十七日 「聖教新聞」掲載)

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