Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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巨視的展望で今日を生きる キッシンジャー博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  何度も語りあった古き友人でも、忘れがたいのは、やはり初対面の思い出である。
 キッシンジャー博士を、ワシントンの国務省に訪ねたのは、一九七五年の一月であった。
 朝から小雪がちらついていた。国務省付近の木々も、枝を白く装っている。七階の国務長官執務室に案内された。
 ドアを開けると、キッシンジャー長官が、立って待っていてくださった。にこにこと私に笑いかけ、どうぞどうぞと、窓ぎわのソファに導いてくださる。長官は隣の椅子に座った。
 かなり大きな部屋に、通訳の方と私の三人だけである。
 お会いする何年も前から、長官とは何回か書簡のやり取りがあった。ベトナム戦争和平について、私なりの提案も送った。
 そうしたなか、長官から「訪米のさいには、立ち寄ってほしい」との連絡を受けての表敬訪問であった。
 もとより私は政治家でもなければ、外交の専門家でもない。切実に平和を願う一民間人としての語らいであったことは言うまでもない。
 しかし、考えてみれば、平和の専門家などいるのであろうか。
 とくに、核時代にあっては、平和は人類すべてにとって、「わが身のこと」であるはずだ。
 冷戦の激しかったころ、「第三次世界大戦」の可能性さえ、杷憂と断言できる人はいなかったはずである。
 長官と私の間には、アラベスク模様の電気スタンドがあった。やや暗い部屋で、スタンドの薄明かりのもと、話題は主に中東問題であった。
 私は、三点の基本原則を提案した。
 ① 力をもつ国の利益よりも、もたざる国の民衆の意見が優先されなければならない。
 ② 武力的解決を避けて、あくまで交渉による解決を貫くべきである。
 ③ 具体的交渉は、あくまで当事者同士の話しあいによって決定されるべきである。
 この原理原則のうえに、全体観に立った第三者による調停が必要な場合もあるであろう──と。
 幸い、長官は全面的に賛同してくださった。
2  世界を変えた男
 キッシンジャー博士は、これまでの既成のパターンにとらわれない人である。正しいと信じたら、逆風にも向かう。徹底して緻密な作戦を立てたうえで、勝利に向かって、馬車馬のように突進していく。
 「ヒマラヤ越えの北京入り」は、その典型であろう。世界を「米ソの二極構造」から、「米中ソの三極構造」に劇的に転換した。
 諸葛孔明の「天下三分の計」を想起した人もいたにちがいない。
 米中国交のほか、米ソのデタント(緊張緩和)、中東での往復外交の成功、ベトナム戦争の和平協定。すべて、この情熱が世界を変えたのである。
3  ナチスに追われて
 会見の話題は、米中関係、SALT(米ソ戦略兵器制限究渉)などにもおよんだが、語るにつれて、「何としても平和を」という博士の思いの強さが、あらためて鮮明に浮かび上がってきた。
 私は申し上げた。「平和とは何でしょうか? 平和とは、戦争と戦争の幕間にすぎないのでしょうか? 永遠の平和をつくることは不可能なのでしょうか?」
 ──博士は十五歳のとき、ドイツからニューヨークに、一家をあげて、やってきた。一九三八年である。ヒトラー政権下、ユダヤ人迫害は日に日に激しくなっていた。
 父母と弟が一緒だった。財産の国外持ち出しは禁じられ、着のみ着のままである。
 後に博士は、私に語ってくださった。
 「若くして私が悟ったことがあります。幼いころ、私たち一家はすべてを放棄して故国ドイツを出なければならなかったので、人生において、財産や社会的地位は、はかないものだと知ることができました。
 その結果、『自分が心から信ずることを、毎年必ず実行すべきである』との信念をもつにいたりました。もし結果が悪かったとしても、少なくとも『自分として、なすべきことはやりきった』という実感が残ります」
 教師であった父君は、アメリカでは教職につけず、工場の帳簿係になった。薄給であった。
 しかも大恐慌時代である。家計は苦しく、キッシンジャー少年は、昼間は髭剃り用ブラシの会社で働き、夜学に通った。
 ドイツに残った親族のうち、十三人もが強制収容所でくなったという。
 少年時代の原体験は博士に、人間のもつ邪悪と野蛮を骨身に徹して教えたにちがいない。
 安全に守られて暮らしている者には想像もつかない非情な現実。そこでは、「弱さ」は「死」を意味した。
 強く! 強く! 強くならなければ! 博士は自分を鍛え上げた。感傷にも憎悪にも悲観にも左右されないほど「強い人間」に。
 ハーバード大学の学究として、ナポレオン戦争後のヨーロッパの安定期を研究した。第一次世界大戦まで「一世紀間の平和」を可能にしたのは何かとい探究である。
4  その成果は『回復された世界平和』として発刊されているが、歴史の知恵は、博士にとって、未来への洞察の土台となった。
 国際秩序の安定。それは十九世紀のみならず、今、核時代にこそ第一の目標のはずだからである。
5  米中ソの首脳と相次ぎ会見
 キッシンジャー長官に会う前年(七四年)、私は中国、ソ連を相次いで訪問した。
 初訪中(五、六月)の後、初訪ソでコスイギン首相に、お会いし(九月)、三カ月後には北京で周恩来総理と会見した。(十二月)
 長官にお会いしたのが一月だから、半年の間に、米中ソ三国の首脳と語りあったことになる。
 冷戦戦構造の真っただ中であったった。中ソの対立も険しかった。
 しかし、三首脳に、お会いした私の実感は、だれもが真剣に「平和」を念願しているということであった。
 三者の「平和」の中身は、それぞれ差異があったかもしれない。首脳として、「国益」を第一にしなければならないことも当然であったろう。しかし、国益といっても、「人類全体の生き残り」という根本条件が崩れれば意味をなさない時代であることも、三者とも鮮烈なまでに自覚しておられたのである。
 私の三首脳訪問は、はからずも、その共通の意思を確認する旅となった。
 この共通の思いを、何とか結びあわせていきたい──私は、私の立場で、「自分としてなすべきことはやりきった」と言える行動を決意したのである。
 そしてキッシンジャー長官とは、今後も対話を続けることを約束しあった。
 (八七年に対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』潮出版社を発刊)
6  「外交が成功する秘訣は何でしょうか?」
 キッシンジャー博士に聞いてみた。
 場所は、渋谷の創価学会国際友好会館。窓の外の、ささやかな日本庭園が、秋の霧雨に煙っていた。(八六年九月)
 「博士の場合は、国と国という大きな次元ですが、企業にせよ、個人にせよ、どう外交で勝っていくかが、大きな課題になっています。多くの人が関心をもっていることでしょう」
 「外交の魔術師」と呼ばれ、世界一の名外交官の名を、ほしいままにしてきた博士である。
 しかし、その答えは意外にも、いや、じつは博士ならではの、地に足のついたものであった。
 「私の信念は『交渉する相手の人物を理解することがきわめて大切だ』ということです。相手の知性をというよりも、人格を理解することです。
 なぜなら、交渉における困難な問題はすべて、『知的レベルでは、賛否両論が真っ二つに分かれた場合』に起きるのです。そこで、可能な選択肢の中から何を選ぶか──その場合、人格こそがカギとなるからです」
 低い、いくらか口ごもるような声。打てば響くように答えは返ってくるが、決して、立て板に水というような話しぶりではない。
 厳密に言葉を選ぶ正確さは、ハーバード大学の教授であったころを、しのばせる。
 博士の言うとおり、「賛否両論が真っ二つに分かれた場合」こそが、外交の腕の見せどころである。
 意見の違いを峻厳に認識したうえで、″たがいの得になる道″は何が残されているのか。
 それを博士は、科学者のような厳密さで追求する。過去・現在の、あらゆる情報を計算に入れて。
 こうして見いだされたいくつかの選択肢をさらに、熟練工のように、ふるいにかけていく。こうして精選された可能性のなかから何を選ぶか。
 ここまでくれば、最後は、「選ぶ人物次第」なのである。
7  「意見の一致を生み出す」才能
 博士は、「(エジプトの)サダト大統領の場合には、人物を見定めるために数日を費やしてから、ようやく具体的な問題に入りました。周恩来総理の場合も同じでした」という。
 いわば「科学」プラス「人間学」という名人芸であろうか。
 ノーマン・カズンズ氏も私に、「キッシンジャー博士の才能は、意見の一致を生み出す『技師の才能』だと思います」と言われたことがある。
 (カズンズ氏はアメリカのジャーナリストで平和活動家。著者と対談集『世界市民の対話』毎日新聞社を発刊。本全集第14巻収録)
 対立する双方に「彼の言うとおりにすることが自分たちにとって得だ」と思わせてしまうのである。
 それは技巧というならば最高の技巧であろう。事実、綱渡りのようなシーンも、再三ならずあったと聞く。
 しかし″華麗なるキッシンジャー外交″を支えたものは、たんなるテクニックではなかった。
 それは博士が勝ちえた「信用」であった。
 「相手の人物を見定める」と言っても、同時に、自分の人物も見定められているわけである。信用されずして、外交ができるはずがない。
 博士は、いったん「この人」と決めたら、がっちりとつかんで放さない。信義を貫き、信用を勝ち取っていく。
8  博士は、膨大な数の人々との出会いのなかから、とくに傑出した人物として、周総理、サダト大統領、ドゴール大統領の三人を挙げたが、「偉大な指導者には、必ず深い歴史観と展望がありました」と言う。
 「未来のビジョンをもっている指導者は、さまざまな障害を長期的な観点から見ることができます。そうでない指導者は、道路の小石のような小さなことでも、まるで大岩であるかのように騒ぎ立てるものです」
 この言葉が、そのまま博士の長所を語っていると私は思う。つまり、あらゆる細かいデータが頭に入っていると同時に、大局を見失うことがない。
 はるか、歴史が進む地平線の向こうを見つめながら、目の前の小さな路地裏にも目配りする。それがキッシンジャー博士である。
 「鳥の目」と「虫の目」を併せもった方と言えよう。
9  勇気を! 「偉業」も初めはすべて「夢」
 博士の実像をとらえることを困難にしてきた一因も、この多面性にあるかもしれない。
 博士は「冷徹な現実主義者」として知られ、「理想主義者」の対極のごとく描かれることも多い。
 しかし、ことは、そう簡単ではない。
 理想なき現実主義とは、近視眼の「現状追随」にほかならない。その結果、現実をリードするよりも、現実に引きずられる結果になりかねない。
 反対に、現実の冷酷さに目をつぶる理想主義は、理想というよりも空想であろう。いわば遠視眼の病である。
 近視眼でも遠視眼でもなく、正視眼でなければならない。
 必要なのは「新しい現実」を生み出すことであり、「世界は変えられる」という希望を示すことだからである。
 それを実現した博士が語っておられた。
 「どんな偉大な事業も、はじめは、すべて『夢』にすぎなかったのです。だから必要なのは勇気です。前人未到の道を一人征くには、勇気が必要なのです。真に新しいものは、何ごとであれ、人々の不評を買うものです。だから勇気が必要なのです」
10  ″畏敬″を捨てた権力の怖さ
 こう言われたこともある。
 「私は自分に宗教心があるとは思いません。しかし私は、人間が理解できないさまざまな力の存在を信じていますし、本質的に不可知の部分があることも信じています。したがって、人間はつねに、畏敬の念と謙虚さをもつ必要があるのです。
 そうした尊敬の念がなければ、国家権力の執行にも歯止めがなくなります。産業社会の結合力も失われ、人間の個性が真に認識されることもないでしょう」
 多くの世評には表れない″人間キッシンジャー″の奥行きを示す発言として、私の心に残っている。
 博士は、政府の要職を離れた今も、活発に言論活動を続けておられる
 最近も、「二十一世紀の世界は、中国がさらに重要度を増す」とするとともに、「日本の政策は将来、より国家主義的になるでしょう」と予測しておられたのが強く印象に残った。
 ともあれ、いかなる未来も、これから「どうなるか」ではなく、「どうするか」である。
 博士とは、カントの『永遠平和のために』も語りあったが、カントの言うように、永遠平和のためには、その終極の目標に向かって、「限りなく前進を続ける」以外にない。
 「永遠の平和」のためには、「永遠の努力」以外に道はないのである。
 これでよしと、ひとたび油断したとたんに、危機は訪れるであろう。
 だからこそ青年に「限りなき前進」を継いでもらうしかない。
 博士も、こう言われていた。
 「青年は、自分より大きなことに挑戦すべきです。私たちの世界を『過激で残酷な人々』の手に渡すことのないよう、彼らがやりたい放題のことができるような状況をつくらないよう、青年は献身的に努力すべきなのです!」
 語る博士の分厚い眼鏡の奥に、ナチスへの怒りに燃えて大西洋を渡る十五歳の少年の姿が見えた──そう言えば、博士は何と言われるであろうか。
 (一九九七年九月七日 「聖教新聞」掲載)

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