Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ぺレストロイカの設計者 ヤコブレフ博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「桜の圏」が、王朝の絵巻のごとく、広がっていた。
 東京牧口記念会館。咲き誇る桜を、窓から眺めながら、ロシアのヤコブレフ博士が言われた。
 「美は世界を救う」(『白痴』米川正夫訳、岩波文庫)という、ドストエアスキーの言葉について。
 「池田会長、もしかしたら、彼が言いたかった『美』とは『人間主義』のことだったのかもしれませんね」
 人間主義が世界を救う──これが、現代史を塗り替えた「ぺレストロイカ(改革)の設計者」の結論であった。
 牧口記念会館に、お迎えするや、博士は言われた。
 「地上には、さまざまな宮殿があります。その多くは、たくさんの人間を殺した人物をたたえるために造られたものです。たとえば軍人を。あるいは戦争に加担した聖職者をたたえるために。しかし、この建物は違います。命がけで『善』を守り、そのために命を終わらせた人物をたたえる建物なのです」
 この会館は、獄死した先師牧口常三郎初代会長への感謝の結晶である。博士は、その「感謝の心」に「文化」があると言ってくださった。
 「歴史上、多くの政治家たちは『感謝の心』をもとうとしません。なぜか。それは、彼らの行動に『文化』がないからです。権力の座につくと、前任者を罵り、その権威を傷つけることによって評価されようとするのです」
2  人間自身のペレストロイカを
 その言葉の裏に、クレムリン中枢での博士の苦闘を、私は垣間見た。権力がいかに人を堕落させるか、博士は目のあたりにしてきた。
 政治家は、自分の理想の実現のためではなく、居心地がよい地位と暮らしのために、つまり私欲のためだけに動いていた。
 人類の利益よりも国の利益、国の利益よりも党派の利益、党派の利益よりも自分の利益。これを打ち破らなければ!
 ゆえに博士にとって、改革とは「新しい人間」を育てることであった。政治と倫理に橋を懸けようと試みたのである。「人間自身のペレストロイカ」こそ、博士の挑戦であった。
3  麦畑での語らい
 博士は、民族主義に反対した論文によって、出世コースから外され、一九七三年、カナダ大使として「流刑」された。
 十年後(八三年)、ゴルバチョフ氏(当時、政治局員兼中央委員会書記)が、カナダを訪問した。ある日、オンタリオの南の麦畑で二人きりになり、忌憚なく語りあえた。二人は意気投合した。
 「国民を愚弄するだけのこの社会は、このままにしてはおけない」と。
 豊かな資源と、先端の科学をもちながら、どうして民衆は、こんなにも貧しいのか?
 人類を何回も絶滅させられるほどの核兵器を、いったい、何のために増やしているのか?
 正直な、人間らしい幸せな生活がつくれないほど──われわれは愚かなのか?
 博士は言う。ペレストロイカの源泉は「人間的価値の回復」であり「精神性の復権」であった。ぺレストロイカを要求したのは「商店の棚が空っぽであることだけではなく、魂が空っぽだったためだったのです」と。
 しかし多くの人々は、ぺレストロイカは「商店の棚が空っぽ」だったからと見ている。その偏見自体が経済至上主義の病であろう。
 冷戦の終結を「資本主義の勝利」としか見られない人もいる。そういう敵対心や物質主義のなかにこそ、時代遅れの「冷戦」が根を張っているのではないだろうか。
 五月のカナダの農園は美しかった。あたりに花々が咲き乱れていた。生命にあふれた、この麦畑から、ロシアと世界の人間化への挑戦が始まったのである。
 ヤコブレフ博士には「土のぬくもり」がある。
 目の上に張り出た太い眉。大きな頭部。ざっくばらんな話しぶり。そして獅子のごとき不屈の眼光。「彼は正真正銘の農夫だ」と慕う民衆も多い。温かい心と、明敏な頭脳と、働き者の手を持っているという意味だ。
4  北の村に生まれて
 英雄生まるるところ、山河清し。ロシア北部のコロレヴォ村がふるさとである(一九二三年生まれ)。村には三十軒しかなかった。すべて農家。ミルクをしぼり、ジャガイモを植え、週に一度だけ、肉を食べた。雌牛が一頭、馬が一頭いた。子どもたちは朝から晩まで森へ行って、キノコや木の実をとった。
 どの家も「鍵」はなかった。「わが村は道徳的だったんですね。──もっとも、盗むものもないほど貧しかったからかもしれません」
 笑うと、顔の深い皺が快活に踊る。
 母は信心深い、誠実な人だった。しかし、余りにも貧しかった。幼い氏が重い病気にかかったときも、十分な手当てもできなかった。苦しみが終わるよう、早く「天国に召される」ことを祈らざるを得なかったという。
 十七歳で、第二次世界大戦に招集された。勇敢に戦い、前線で足を負傷した。「今も、肺と左足に銃弾の破片が残っているんですよ」
 戦場で兵士たちが上官から過酷な扱いをされるのを見て、衝撃を受けた。しかし、それ以上のショックが待っていた。ナチスの捕虜となった戦友たちが、やっと帰還した途端、ドイツの収容所からそのまま祖国の収容所に入れられたのだ。この打撃は大きかった。
 こんな打ち明け話をされた。
 「戦争から帰って『今後四十年間、決して武器を手にすまい』と誓いました。なぜ『四十年』と考えたのか自分でも、わかりません。おそらく、あと四十年も生きるとは思っていなかったのではないでしょうか」
 しかし四十年後(八五年)、博士は「武器を捨てよ」というペレストロイカを開始したのである。
 ──もちろん「改革者」の運命が安らかなはずがなかった。
 長年の「精神の蜘妹の巣」は、払っても払っても、まとわりついた。既得権益を守るために軍産複合体が抵抗した。政治局員の氏でさえ、ソ連に核弾頭がどれだけあるのか知らされなかったという。
 権力の亡者は自己変革するつもりなど、まったくなかった。それどころか、国民が「改革者」に対して敵意をもつよう、あらゆることをした。
 いつものように、デマとレッテル張りが彼らの武器だった。「西側からいくらもらったのだ」というような下劣な非難が続いた。
 スキャンダルの捏造。そして暗殺やテロの脅かし。
 それら自体が「生き続けるスターリン」の証明だったとも言えよう。
 博士は、スターリン主義の犠牲者の「名誉回復のための委員会」委員長も務めた。
 深夜まで多くの書類に目をさらした。読むほどに、つのってくるのは、政治というものへの幻滅であった。何と、数千万の罪なき人々が犠牲になったのである。書類から、人々の血が滴り落ちているような気がした。
 何の理由もなく突然、家族が逮捕され、愛する人々が奪われた。
 何か落ち度があったから処刑されたのではない。各地の機関は、あらかじめ割り当てられた数だけの「人民の敵」を見つけ、処刑したのである。
 博士の父も、彼らが訪問したとき、たまたま留守で、あとから聞いて身を隠し、助かったのだという。間一髪だった。
 犠牲者が埋められた、ある森(白ロシアのクロボチ)。四年半の間、毎日、罪なき人々が縛られて連行された。そのためのトラックが日に十何台も来た。
 トラックから降ろされて初めて、処刑されることがわかった。
 「助けてくれ!」「なぜなんだ!」。叫んでいるうちに、頭の後ろを撃たれ、穴に投げ込まれた。その数、二十五万人──。
 今も、森の向こうには、荒涼たる穴また穴が広がっている。目の届く限りの広大さで。
 ある墓に、風雨に色槌せた手書きの文字があった。
 「父よ、母よ
 私はあなた方が一九三七年にいなくなって以来、ずっと行方を捜してきました
 ついに、五二年経った今、私はあなた方を見つけました   ガイーラ」
   (へドリック・スミス『新・ロシア人』上、飯田健一監訳、日本放送出版協会)
 人は言う。この森では今なお「木々でさえも涙を流すのです」。
 そして、全土に多くの「クロポチの森」がある。
5  「政治の破産」の世紀
 殺したほうも悪夢であった。良心を捨てさせられたテロリストたち。毎日、毎日、兵士は血の臭いをさせて家に帰ってきた。お父さん、今日は何十人殺したの? 地獄だった。酔っ払って、石になるほかなかった。
 国家によるテロであり、魔女狩りであった。密告、逮捕、拷問、処刑。何の説明もない。ただ「あんたの父親はいなくなった」、ただ「君の娘は死んだ」。それだけであった。
 道義は退廃し、人間性は破壊され、人は人を信じなくなった。人民はたんなる道具にすぎなかった。人間は″豚か、国家に仕える優秀なネジのどちらか″になるほかなかったという。
 博士は、ため息をつく。
 「この世紀は──政治と政治家というものの破産の世紀でもあった」
 彼らが「血と涙の海をつくりだした」。彼らが「言語に尽くせぬ人間の苦しみ」を生んだ、と。ゆえに博士の叫びは、幾千万人の血涙の叫びでもある。
 「権力者よ! 『政治家として』行動するな。『人間として』行動せよ!」と。
 そして博士は主張する。
 「『国家(官)が上、民衆が下』という権威主義のピラミッドを逆転してこそ、民主主義なのです。人間が、このピラミッドの頂点に立たなければなりません。民衆が頂点に立って、国や政府を『雇う』のが民主主義です」
6  スターリンの死後も、スターリン主義は生き続けた。肉体的弾圧は減ったが、精神的な弾圧は陰険に制度化された。死の恐怖は薄れても、命令ひとつで、自分と家族の人生をめちゃくちゃにされる恐怖が支配していた。権力者は、その恐怖を十二分に利用した。
 「上の人間」の言いなりになり、自己主張せず、便利なタイプの人間だけが登用された。嘘を嫌ったり、何かを変えようと努力する人間は、地位を奪われた。
 これでは「あとは野となれ山となれ」の無責任が、はびこったのも当然である。
 体制順応主義と、あなたまかせの無気力。モットーは「他の人が生きるように生きよ」。
 これを、人ごととは思うまい。人ごとと思う心に、国家主義の毒が染み込んでいるからだ。「他国の人間のことだ。日本人には関係がない」「こんなソ連だから敵視したのだ」──他国の民衆への石のような無関心こそ「国家が上、人間が下」の毒に侵されているのではないだろうか。
 私は思う。
 じつは一人の人が抑圧されているとき、人類全体が抑圧されているのだ、と。
 世界のどこであれ、一人の人間の人権を踏みつけにするとき、そこにスターリンがいる。
 「下っば」に苦労させ、自分は命令するだけで甘い蜜を吸うとき、そこにスターリンがいる。金儲けのために嘘を書くとき、真実よりも良心よりも商売を優先するとき、そこに「彼」がいる。
 博士は嘆く。「権力を握ると、だれもが自分は普通の人間とは違うんだ、偉くなったと思ってしまいます」
 自分が「民衆以上」であるかのごとく傲りたかぶる人々──ドストエアスキーは、彼らにプーシキンの詩を引いて呼びかけた。
  謙虚なれ 高慢な人よ
  何よりもまず おまえの傲慢をおさえるのだ
  謙虚なれ 怠惰な人よ
  何よりもまず ふるさとの畑で働け
 (「ジプシー女」、アンリ・トロワイヤ『ドストエアスキー伝』村上香住子訳、中央公論社)
7  無宗教社会の悲劇
 そのドストエアスキーは、『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老に語らせた。宗教を否定する者たちは、「結局は世界を血の海にするに相違ない」(小沼文彦訳『世界文学全集』32所収、筑摩書房)と。
 彼はスターリン主義と今世紀の悲劇を正確に予言していたと言えよう。
 もと党のイデオロギー担当だったヤコブレフ博士が今、「マルクス主義は無神論という名の新興宗教であり、国家宗教でした」と言って、はばからない。
 「神を殺す」社会は、やがて人間をも殺し始める。
 反体制の本を焼く社会は、やがて反体制の人間をも焼き始める。
 旧ソ連時代に、二十万人もの教会関係者が殺された。最近まで、信仰をもっているだけで変人とされ、社会的に差別される現実があった。
 トルストイは「教会は宗教の敵」としたが、彼らは「宗教自体を敵視」した。そして、宗教なき社会は、国家こその指導者を神の代わりにしたのである。だからこそ博士の言葉は重い。
 「今、なお、人間は戦争をやめず、犯罪をやめず、自然破壊をやめないでいます。真に誠実な人ならば、わかるはずです。今、一番の課題は、人間精神を救うことだと。今、一番大切なのは、そのための『精神のリーダー』だと」
8  「国家よりも人間を」
 九一年八月、保守派によるクーデター失敗の後のことである。
 氏は沸騰するモスクワの広場で演説し、話を、こう結んだ。
 「皆さまお一人お一人が幸福でありますように!」
 七十年間、「個人よりも国家」だった体制への決別を象徴する言葉だった。
 話し終わるや、思いがけないことが起こった。熱狂した人々が博士を取り巻いた。そして「胴上げ」を始めたのだ。
 「一人の人を幸福に」。その祈りにペレストロイカの心がある。
 博士は、ニーナ夫人との間に二人の、お子さんがいて、七人の、お孫さんがいる。しかし「今はもう、″地球上の子どもは皆、わが子″の思いですし、そう心がけています」。
 東京で博士を出迎えた子どもたちが博士の似顔絵を渡した。「私の顔が日本人になっていました。今も、執務室に大事に飾っていますよ」
 博士は創価大学での講演では、こう言われた。
 「私は人間主義を信じています! 人間性を信じています! 人間そのものを信じているのです!」
 今、地球を舞台にした劇が幕を開け始めた。
 「国家から人間へ」という壮大な劇が。
 日本も国家主義を捨てて、この人間主義の劇の参加者になれるだろうか。あるいは劇の傍観者にとどまるのだろうか。それとも破壊者になろうとしているのだろうか。
 (一九九七年二月二日 「聖教新聞」掲載)

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