Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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英国の行動するプリンセス アン王女

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「聡明な女性」
 「強い女性」
 「イギリスを背負い、支えている女性」
 アン王女に、お会いしてすぐに、私はそう直観した。
 「世界で一番輝いている女性の一人ではないだろうか」
 話が早い。何を話題にしても、打てば響くように、答えが返ってくる。ホシ(焦点)をそらさず、率直に会話が進む。
 ロンドン。うるわしきメイ・フラワーの季節。(一九八九年五月二十五日)
 バッキンガム宮殿に王女を表敬訪問した。ヴイクトリア女王以来、歴代王室のお住まいである。
 午後五時でも明るい。
 近くの公園グリーン・パークでも、セント・ジェームズ・パークでも、多くの市民が思い思いに散策し、折からの夕立に洗われた緑を楽しんでいた。
 グレーの色調の風格ある宮殿は、正門こそいかめしいものの、門の左右は鉄柵で固まれているだけである。棚の間から、だれでも中庭や宮殿を眺められる。
 散歩中の親子が手を振れば、中から手を振り返してくれそうな親近感と開放感があった。
 宮殿のエレベーターへと案内され、三階へ。右側が窓になっている長い廊下を少し歩くと、アン王女がみずから執務室で出迎えてくださった。
 「こちらへ、どうぞ、おかけください」
 にとやかな応対。生き生きと動く瞳。すらりとした長身。
 ブルーに白い水玉模様のワンピースが、王女の活動的な雰囲気に、よく似合った。
 書架が並んだ部屋も、実務的で、質素と言ってよいほどである。
 ソファで向きあって、私は「行動するプリンセス」への共感を語った。
 「不幸な人を助けようという信念。そして慈愛。私は仏法者として、人々に尽くすという生き方を評価いたします。『行動の人』を尊敬します」と。
 外交辞令ではなかった。そういう口先が通用する人ではない。また、そんな必要もなかった。
 「歴史上、彼女ほど働いた王女はいない」と、だれもが認める
 関係する団体は百以上。出席する行事は年間四百とも五百とも言われる。東奔西走。移動の機内でも資料に目を通す。時には、自分で車を運転し、会場に駆けつけることも。
 役職も名目だけではない。
 「引き受けるからには参加します」「私にやれることについては責任を果たします」
 王女には中途半端がない。
 乗馬でもモントリオール・オリンピック(七六年)の英国代表に選出されるまでに徹底して努力した。層の厚いイギリスで代表の一人になるのは大変である。
 ロンドン大学の総長に圧倒的多数の得票で選ばれたときも(八一年)、このイギリス最大の大学の全機関(五十以上)を訪問しようと決意。激務をぬって、二年間で二十六回、大学を訪れた。その中には遠くスコットランドの施設もあった。
 どの機関でも、教員や学生は王女の知識の深さに驚いた。必要とあらば何時間でも話し込み、要望に耳をかたむけて改善に努めた。
 どこに行っても彼女は気さくで、人々はうっかり、自分が王女と話していることを忘れてしまうほどだったという。
2  「私は、おとぎ話の王女ではありません」
 あるテレビのインタビュアーが、王女を表現する言葉として「実際的」「プラグマティック(現実的)」「地に足がついている」「直言する」などを挙げて、質問した。
 「これらは当たっていますか?」と。王女の答えの賢明さ。
 「自分のことは、だれしも、よく見え、ないし、最大の短所が最大の長所になることもあります。また、その反対もあります。ただ私は、実際的なやり方で、ものごとを進めるのが好きなのです」
 実際的──というのは、現実に対して責任をもっていくということであろう。
 インタビュアーが、「これらの特性が他の人にあれば敬服しますか?」と問うと、王女は「イエス」。
 しかし、すかさず「でも、世界中の人がそうだったら、退屈じゃない?」と、ユーモアたっぷりに付け加えた。
 明快であって、幅がある。自分を客観視しておられる。そして、人間のあらゆるタイプを描いたシェークスピアの国らしく、「人さまざま」な人生模様を楽しんでおられる。
 王女の大きな人柄を映し出したやりとりであろう。
 「私は、おとぎ話の王女ではありません。これからも、そうならないでしょう」
 王女の人生は、ある意味で、押しつけられた「虚像」との戦いだったかもしれない。
 このインタビューの中でも「これまで皆が私に失望しました。私は、いわゆる″プリンセスのイメージ″ではなかったから‥‥」「でも日常生活の中で、白いロングドレスに宝冠をつけて動くのでは、実際的ではないでしょう?」と。
 ″彼女は百パーセント、現代っ子だ″と呼ばれた「お転婆な」青春時代。
 話題の前衛ミュージカルの舞台へ飛び入りで上がって、一緒にゴーゴーを踊ったり(六九年)、型破りの王女さまだった。
 しかし、それは「ありのままの自分に生きる」という王女のひたむききであり、強さであったと思う。
 七〇年、十九歳で「セープ・ザ・チルドレン・ファンド(児童救済基金)」の総裁に就任。同基金が五十周年を迎えたときである。
 王女は「若者の情熱」を宣言された。
 「″まだ、これから″という意義ある仕事を手伝いたい。そういう若者の情熱は、すでに、あふれんばかりになっています。私と同世代の青年こそが、この基金が、これまでの半世紀と同じく、次の五十年も偉大な発展を遂げるよう、責任を引き受けなければなりません」
 しかし、この宣言を聞いただれも、王女のその後の大車輪の行動は予測できなかった。
 学校にも行けない子どもたちを救おう! 家をなくし、親をなくし、食事にもこと欠く世界の子どもたちに手を!
 以来、王女のエネルギーと時間の多くが、この理想のためにささげられた。
 国内から海外へと飛び回り、基金の心を伝えてスポンサーになってもらう。その浄財をもっとも有効に使うため、「一番苦しんでいる人」の現場へと足を運ぶ。
 その足跡は、世界のあらゆる地域におよんでいる。
 「日本にも、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン(基金の支部)ができたんですよ」と、ソファの王女が、にっこりされた。「日本の皆さまに、私は期待しています」とも。
 そして、難民の援助について語りあったさいには、「もっとたがいに協力すべきなんです、国連はじめ国際機関や民間団体が。みんなが協力してこそ効果があがるのですから」と、強い口調であった。
 現場に徹してきた人の声であった。
3  山を登り、砂漠を渡り、腕まくりし
 八一年のネパール訪問。一つの母子診療所を訪ねるのに、険しい山を四時間も登り続けなければならなかった。山といっても、″世界の屋根″の地帯である。空気の薄さに、皆、あえぎあえぎ進む。王女と同行した他のスタッフは次々に、へばっていった。
 翌年の十月、十一月には、アフリカ・中東八ヵ国を訪問。三週間で二万二千キロを行く強行軍であった。
 朝は七時半から活動を開始。精力的な活動は、連日、深夜におよんだ。
 「自分の目で見る」「自分の耳で聞く」「自分の足で歩く」「自分の良心に照らして判断する」──王女の戦いが続いた。
 旅には記者やカメラマンも同行していた。王女は彼らに、難民の窮状を広く世界に訴えてほしかった。
 しかし彼らの中には、いつものようにゴシップや悪口の″ネタ″を探して、ついて来た者もいたらしい。
 王女とマスコミの関係は決して良いものではなかった。
 自然体の王女は、愛想をふりまいたり、ポーズをとったりしない。「私は私だ」と割りきっていた。そのためか、「高慢」と批判され、わざと険しく見える表情の写真だけを掲載されたりした。
 「叡智も美徳も悪人には悪としか映らぬ。汚れは汚れを好むものだ」(『リア玉』、小津次郎・関本まや子訳編『シェイクスピアの言葉』所収、彌生書房)
 マスコミは「売る」ためには刺激的な内容にかたむく。
 「『アン王女が子どもたちを魅了した』という見出しよりも、『アン王女は、かわいそうな孤児たちを無視した』という見出しのほうが、いいわけである。そして何百人もが並んでいれば、『王女は自分には目を向けてくれなかった』と文句を言う子どもを見つけ出すのは難しいことではない」(ブライア・ホイ『プリンセス・アン』から)
 アフリカ・中東の旅でも、初めは同じような目が、王女を包囲していた。しかし、その目に映ったものは何だったか。
 それは、彼らにどう思われようと、一直線に仕事をし続ける女性の「実像」であった。腕をまくり、ジーパン姿で、日中、泥まみれになって難民キャンプで活動する王女の姿であった。
 そして王女が、現場の複雑な問題をよく把握し、真剣に配慮している事実も彼らは知った。
 「この真実を伝えなければ、われわれは嘘つきになってしまう‥‥」
4  「行きます。私を待つ人々のもとへ」
 日程の半分が過ぎたころ、イギリス外務省から、「旅程の中止を」と勧告が届いた。
 ケニアからソマリアを訪問する直前だった。当時、ソマリアはエチオピアと紛争中であった。訪問予定の難民キャンプは、エチオピアとの国境から八キロしか離れていない。きわめて危険だったのである。
 しかし、王女は主張した。
 「決めたことです。私は行きます。私を待っている人たちがいるのです。病人もいるのです。彼らを、がっかりさせるわけにはいきません」
 アフリカでも一番ひどい道路を通って、予定どおり、王女はソマリアへ向かった。車は五時間、激しく揺れ続けた。
 「王女がやっているのは、遊びでも、ポーズでもない」──周囲の目は変わった。
 最後の訪問地も、戦火の続くレバノンであった。しかも、大きな爆破事件のあった直後である。危険をもかえりみず、難民キャンプや医療施設を訪れてくれた王女に、現地の人々は感動した。
 その感動は世界に広がっていった。同行の記者たちも、「人間・アン王女」の情熱に胸を打たれたのである。三人のジャーナリストが、子どもたちを支援する個人的スポンサーになりたいと申し出た。
 そして王女の行動は、それまで「遠い国の出来事」であった難民問題へのイギリス人の関心を一気に高めた。その波は全ヨーロッパにも広がっていったのである。
 王女はまさに、「立場で輝く人」ではなく、「立場を輝かせる人」であった。
 王女と生まれ、多忙なご両親(エリザベス女王ご夫妻)のもと、通常の家庭の団らんも少なかった。子どものころから、一挙手一投足が、いつも注目され、監視された。
 しかし、王女と生まれた運命から逃げることなく、アン王女は生き抜いた。しかも、いつも自分自身であり続けた。自分らしく、自分にしかできない使命に生ききってこられた。
5  ボランティアの心
 私は申し上げた。
 「トップが動く。それでこそ現実は動き出します。号令をかけて、人にやらせるだけの指導者が多いから、世界は行き詰まっているのです。その意味で、私は王女の率先の闘争に敬意を表します。
 また貴国イギリスに息づくボランティアの崇高な精神は、日本人も模範としなければなりません」
 日本では、「いい人」とは、極論すれば、善いことも悪いこともしない人のことかもしれない。
 しかし、善いことをすれば必ず何らかの抵抗を受け、悪口を言われる。それを恐れず、敢然と「善」をなしてこそ、真の「いい人」のはずである。
 「人間の心は、いくら立派に作られていても、立派な行為となって現われなければ意味がない」(『尺には尺を』、前掲『シェイクスピアの言葉』所収)
 利害とは無縁のボランティアの行動がなければ、国際的に信用もされないであろう。第一、人生が、こせこせと小さく固まり、生き生きとしない。
 「人々のために自分は何をできるか」を自問しながら生きていく。そういう人間の基本を社会に広げることが、日本の将来にとって根本の大事ではないだろうか。
 アン王女が私に教えてくださった。
 「母親を教育することだ。そうすれば、子どもを教育したことになる」──児童救済基金の創立者の言葉だという。
 私は、私どもSGI(創価学会インタナショナル)の″母たち″が世界中で、地域のため、人類のために、ボランティアで行動していることを告げた。
 そして、ご自身も母である王女に、私の詩にメロディーをつけた「母」の曲のオルゴールを贈ったのである。
 教育に関して、王女は創価大学にも関心を寄せておられた。創大と創価女子短大への訪問をお願いすると、機会があればぜひ、との笑顔であった。
6  視野を広げる教育
 創価大学が海外交流に力を入れていることについて、こう言われた。
 「大学教育では、とくに学生が『視野を広げる』ことに重大な意義があります。その意味で、学生が国外に出かけ、見聞を広めることは、とても有意義なことだと思います」
 そのとおりである。
 大学を出ても、人格と一体の″生きた知識″がなければ、これからの国際的な実力社会、人道社会では役に立たない。形式の学歴社会は、すでに時代に合わなくなっている。
 しかし王女ご自身も、ロンドン大学の総長就任のさいには、″自分が大学に行ってないくせに″とマスコミが批判することを覚悟しなければならなかったという。
 王女は強い人である。「決断の人」である。感傷もない。逃避もない。
 王女の信条は、こうである。
 「あなたがベストを尽くしたならば、結果はどうあれ、それは失敗ではないのです。失敗から人は学ぶのですから」
 失敗とはむしろ、何も挑戦しないことだというのである。
 お会いして、はや四十分が過ぎていた。おいとまを告げると、王女は、わざわざエレベーターまで見送ってくださった。
 宮殿を出ると、五月の風が公園の花の香を運んできた。香しい空気を私は胸いっぱいに吸い込んだ。
 英国の伝統は健在なり。
 王女の毅然たる存在が、イギリスのため、世界のために、うれしかった。
 空を仰いで、シェークスピアの人間学を私は想起した。
 「王冠はわたしの心の中にある、頭の上にあるのではない。ダイヤモンドやインドの宝石で飾ってもなければ、目に見えるものでもない。わたしの王冠は『満足』という。との冠を持てる王はめったにいるものではない」(『へンリー六世 第三部』、前掲『シェイクスピアの言葉』所収)
 アン王女は、この、まれなる王冠をもてる女性であった。
 (一九九六年十月六日 「聖教新聞」掲載)

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