Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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字宙を謳うインドの詩人 クリシュナ・スリニバス博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
3  博士自身が「風」となって辺際なき虚空を駆けた。博士自身が、「川(水)」とともにわき立って、創造と破壊の岸辺を洗い、「聖なる火」となって人類を浄化し、「地」に天の国を建立せんと命をふりしぼった。
 そして「空」──。
  孤り? 否‥‥
  汝は孤りではない‥‥
  銀河の彼方から声がする
  宇宙塵の雲の彼方から
  
  幾光年のはるか
  幾百万年の太陽を越えて
  
  我、真如の国より来れり──
  休みなく続く、ピラミッドのごとき創造また創造の領域より──
  
  この不死鳥の真如から
  にわかに新しき楽園が花開くだろう
  不屈の男たちと花の女性たちの種族
  彼らの目は、歴史の生成を見るだろう
  彼らの耳は、天空の魅惑の音楽を聴くだろう
 スリニバス博士の歌いぶりは、蒼古なる神話的な高さにいたっている。
 博士は、万物がそこから生まれた「空」という宇宙の沈黙の深みに、じっと耳をかたむけておられる。その淵底から、″天球の音楽を聴く″新しき人類が生まれることを予感しながら。
 「詩人の言葉は、ほんの一部分でしかなく、あとは沈黙なのです。この途方もなく広大な沈黙の深みから、ホメロス、ダンテ、カーリダーサのような人たちが不朽の叙事詩を取り出し、自分を表現しようとしたのです。この尊い沈黙の大空間のなかに、古代から今にいたるまで、どんな詩人も見いださなかった思想、だれも歌わなかった詩歌があるのです」と
4  かけがえなき「今」を生きる
 私は思う。詩人は永遠を見る人である。全身で永遠を感ずるゆえに、彼は諸行の無常を観ずる。諸物の止まらない流転が目に映るゆえに、この一瞬一瞬のかけがえなさを知る。
 この「今」。充溢の「今」。生命にあふれた「今」を愛おしみ、詩人は歌わずにいられない。
 詩人はいつも元初の地平に立っている。彼は毎朝、新しく誕生する。彼には毎日が始まりの日である。「久遠の子ども」の汚れない瞳で詩人は世界を見る。
 すると日常は何と美しいことだろう。
 葉裏に透ける陽の光──何という奇跡!
 窓ガラスをすべる銀の雨粒──何という宝石!
 詩人は宇宙の法則の探究者であり、万象を黄金の大生命の表れと見る。ゆえに彼はつねに「ほめたたえる人」である。
 詩人は、平凡な日常にも、不滅の生命が浸透していることを知っている。だから彼は、ものの価値を機能で見ない。「それが私の何の役に立つか?」でなく、「その命は光っているか?」を、それ自身のために思いやる。消費文明の市場価値でなく、心による価値が彼の基準である。一枚の粗末な紙でも、心がこもっていれば、億万の紙幣より彼は大切にする。
 科学は「だれでも代わりになれる」と突き放し、詩は「君でなければならない」と呼びかける。
 詩人は戦う人である。
 彼は人間の運命に責任を感じる。彼は、世界のどこかで非人間的に扱われる人間がいることを容認できない。一人の人間こそ全宇宙という織り物を結びつける結び目であり、どの一人なくしても宇宙は完全ではないことを彼は感じている。
 だから──私は博士に語った。
 「現実に埋没した社会にあって、詩は心の窓を開けます。その窓から、さわやかな生命の涼風が吹きこんできます。詩は人間性の証であり、崇高な魂の歌です。詩は人間を人間に立ち戻らせます。ゆえに指導者層も含めて、あらゆる階層、あらゆる立場の人々が、詩を愛するようになったとき、どれほど社会は明るく、美しく、活力に満ちて進歩することでしょうか」
5  感動する心に「永遠」は宿る
 世紀の病は深い。人々は無感動、無気力という「心の死」に呻いているかに見える。物質主義の青黒い病菌が心をも機械にしてしまったかのように、悲しむべきときに悲しめず、喜ぶべきときに喜べず、その苛立ちを刹那の陶酔に、まぎらそうとし──。
 この心を蘇生させるのが、詩の力である。広くは文化の力、美の力である。
 詩──それは夏の雲のようにわきあがる清朗なエネルギーであり、生き生きと感動する心であり、みずみずしい目の輝きである。そこに永遠は宿っている。
 スリニバス博士は八十歳を超えた今もお元気で「詩をとおしての平和」へ活動しておられる。大いなる人生を彫琢し続けておられる。
 あの日の濠とした言葉そのままに。
 「そうです、詩は境涯です。偉大な詩は、偉大な人間からしか生まれません!」
 (一九九五年六月二十五日 「聖教新聞」掲載)

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