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日蓮大聖人・池田大作

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字宙を謳うインドの詩人 クリシュナ・スリニバス博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1   永遠が ここにある
  限りなき「今」のなかに
  晴れ晴れと輝く「今」のなかに
  憎しみの死滅のなかに(詩集『五大』の「火」から)
 インドの詩人クリシュナ・スリニバス博士の宿願は、「五大」すなわち宇宙をつくりあげている五つの要素「地水火風空」を語い上げることであった。
 「それが私の使命であり、それが終われば、私はもうどうなってもよい、と思っています」
2  博士の話しぶりには巧まざる韻律があった。声は正直である。博士の私心なきお人柄が、言葉の中身以上に声の抑揚に表れていた。
 横浜の港のかなたに雄大な夏雲が隆起していた。一九七九年(昭和五十四年)七月。私は神奈川にいた。空は光にあふれ、海も耀い、人の世の不透明な相克を朗笑わらっているかのようであった。
 その日盛りの午後、インドの港町マドラスからの賓客を迎えて、私は詩論を楽しんだ。マドラスは、その十八年前、私が「精神の大国」への第一歩を記した忘れ得ぬ町である。あの喧騒。あの活力。それでいて、時の流れが変わったような、永劫感覚とでもいうべき、あの悠久の趣。
 スリニバス博士は、ことの町を拠点に、世界五十ヵ国に読者をもつ英語の月刊詩誌『ポエット(詩人)』を一九六〇年から発行しておられる。世界詩歌協会の会長、国際詩人学会の会長を務め、このときの来日は、ソウルで開かれた第四回世界詩人会議の帰途であった。菜食主義者らしい、ほっそりとした長身である。
 「偉大な詩人がいなくなりました」。博士が大息された。
 「私は『ポエット』をとおして、世界中の多くの詩を見ます。それらは『良い詩』であっても『偉大な詩』ではありません。かつて私は『挨りの舞い(Dance of dust)』という詩集を出版しました。今の詩は塵芥ちりあくたが舞っているようなものだ、しかし偉大な詩人が、いつかきっと現れる、という内容です」
 博士の名を高めたこの詩集(一九四六年刊)は、T・S・エリオット、オーデン、スティーヴン・スペンダーら錚々たる詩人に絶賛された。
 博士は言われる。
 「真実の詩人は、宇宙、精神、真理などについて語る詩人です」「詩にはつねに呼びかけるもの(メッセージ)がなければなりません。また永遠性がなければなりません」
 メッセージとは、「歌わずにいられない」何かをもっているかどうかということであろう。これを表現し終えれば死んでもいい、これを伝えなければ生きている甲斐がない──そういう炎が内に噴き上げているのが詩人である。
 博士の炎が向かう焦点が詩集『五大』であった。私は申し上げた。
 「五大は、わが生命でもあります。この一個の生命は大宇宙と同じく地水火風空からなる。すなわち五大は我即宇宙の哲学を表しています。この五大は妙法蓮華経の五字でもあります‥‥」
 八一年に完成した詩集で、博士は、遍在する地水火風空のその魂を荘厳に謳い上げた。
3  博士自身が「風」となって辺際なき虚空を駆けた。博士自身が、「川(水)」とともにわき立って、創造と破壊の岸辺を洗い、「聖なる火」となって人類を浄化し、「地」に天の国を建立せんと命をふりしぼった。
 そして「空」──。
  孤り? 否‥‥
  汝は孤りではない‥‥
  銀河の彼方から声がする
  宇宙塵の雲の彼方から
  
  幾光年のはるか
  幾百万年の太陽を越えて
  
  我、真如の国より来れり──
  休みなく続く、ピラミッドのごとき創造また創造の領域より──
  
  この不死鳥の真如から
  にわかに新しき楽園が花開くだろう
  不屈の男たちと花の女性たちの種族
  彼らの目は、歴史の生成を見るだろう
  彼らの耳は、天空の魅惑の音楽を聴くだろう
 スリニバス博士の歌いぶりは、蒼古なる神話的な高さにいたっている。
 博士は、万物がそこから生まれた「空」という宇宙の沈黙の深みに、じっと耳をかたむけておられる。その淵底から、″天球の音楽を聴く″新しき人類が生まれることを予感しながら。
 「詩人の言葉は、ほんの一部分でしかなく、あとは沈黙なのです。この途方もなく広大な沈黙の深みから、ホメロス、ダンテ、カーリダーサのような人たちが不朽の叙事詩を取り出し、自分を表現しようとしたのです。この尊い沈黙の大空間のなかに、古代から今にいたるまで、どんな詩人も見いださなかった思想、だれも歌わなかった詩歌があるのです」と
4  かけがえなき「今」を生きる
 私は思う。詩人は永遠を見る人である。全身で永遠を感ずるゆえに、彼は諸行の無常を観ずる。諸物の止まらない流転が目に映るゆえに、この一瞬一瞬のかけがえなさを知る。
 この「今」。充溢の「今」。生命にあふれた「今」を愛おしみ、詩人は歌わずにいられない。
 詩人はいつも元初の地平に立っている。彼は毎朝、新しく誕生する。彼には毎日が始まりの日である。「久遠の子ども」の汚れない瞳で詩人は世界を見る。
 すると日常は何と美しいことだろう。
 葉裏に透ける陽の光──何という奇跡!
 窓ガラスをすべる銀の雨粒──何という宝石!
 詩人は宇宙の法則の探究者であり、万象を黄金の大生命の表れと見る。ゆえに彼はつねに「ほめたたえる人」である。
 詩人は、平凡な日常にも、不滅の生命が浸透していることを知っている。だから彼は、ものの価値を機能で見ない。「それが私の何の役に立つか?」でなく、「その命は光っているか?」を、それ自身のために思いやる。消費文明の市場価値でなく、心による価値が彼の基準である。一枚の粗末な紙でも、心がこもっていれば、億万の紙幣より彼は大切にする。
 科学は「だれでも代わりになれる」と突き放し、詩は「君でなければならない」と呼びかける。
 詩人は戦う人である。
 彼は人間の運命に責任を感じる。彼は、世界のどこかで非人間的に扱われる人間がいることを容認できない。一人の人間こそ全宇宙という織り物を結びつける結び目であり、どの一人なくしても宇宙は完全ではないことを彼は感じている。
 だから──私は博士に語った。
 「現実に埋没した社会にあって、詩は心の窓を開けます。その窓から、さわやかな生命の涼風が吹きこんできます。詩は人間性の証であり、崇高な魂の歌です。詩は人間を人間に立ち戻らせます。ゆえに指導者層も含めて、あらゆる階層、あらゆる立場の人々が、詩を愛するようになったとき、どれほど社会は明るく、美しく、活力に満ちて進歩することでしょうか」
5  感動する心に「永遠」は宿る
 世紀の病は深い。人々は無感動、無気力という「心の死」に呻いているかに見える。物質主義の青黒い病菌が心をも機械にしてしまったかのように、悲しむべきときに悲しめず、喜ぶべきときに喜べず、その苛立ちを刹那の陶酔に、まぎらそうとし──。
 この心を蘇生させるのが、詩の力である。広くは文化の力、美の力である。
 詩──それは夏の雲のようにわきあがる清朗なエネルギーであり、生き生きと感動する心であり、みずみずしい目の輝きである。そこに永遠は宿っている。
 スリニバス博士は八十歳を超えた今もお元気で「詩をとおしての平和」へ活動しておられる。大いなる人生を彫琢し続けておられる。
 あの日の濠とした言葉そのままに。
 「そうです、詩は境涯です。偉大な詩は、偉大な人間からしか生まれません!」
 (一九九五年六月二十五日 「聖教新聞」掲載)

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