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日蓮大聖人・池田大作

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アルゼンチン・タンゴの帝王 プグリエーセ氏

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「私の指は、クギのように固くなってしまっています。私は、ピアノを打ちたたいているだけの職人なんです」
 これが、タンゴの帝王の心意気であった。
 一筋に生きてきた人が、私は好きだ。
 オスバルド・プグリエーセ氏はタンゴの化身のような方。一九〇五年生まれ。タンゴ百年の歴史とともに生きてこられた。「ラ・ジュンバ」「想い出」などの名曲がある。
 「タンゴとは何でしょうか」
 そう問うと、「人々の『心』から生まれたアルゼンチンの民衆音楽です。ブエノスアイレスの場末に生まれ、一時は下品な音楽とされて遠ざけられたこともありました。しかし、庶民の心に受け入れられて根を張った。今では、国を代表する音楽となり、アルゼンチンのみならず外国でも愛されています」。
 日本でも戦後の一時期、タンゴ喫茶が東京だけで何十軒もあったと記憶する。創価学会の本部があった神田にも。
 七〇年(昭和四十五年)から始まった民音のタンゴ・シリーズも四半世紀を越える息の長い人気を誇っている。
 タンゴを世界の芸術に高めた大功労者の一人がプグリエーセ氏である。
 氏の血管には、タンゴのあの「体の芯に訴えるリズム」が脈打っている。
 今世紀の初め、ブエノスアイレスの下町で生まれた。周囲には町工場や安アパート。結核の女工さんや、貧しい移民の家族が、ひしめきあって暮らしていた。その分、人々の情愛は濃く、喜怒哀楽は赤裸々だった。
 お父さんは酒場を経営しながら、フルート奏者としてタンゴの舞台にも上がった。
 「父は私を、いろんな場所に連れていき、タンゴの多彩な世界を呼吸させてくれました」
 タンゴの詩情。せつなさ。自由への迸る思い。希望への祈り。「悲しみを歌う喜び」。乙女の笑い。男たちのつぶやき。温かい安らぎを探す求愛の声。その野性、洗練、ユーモァ、おしゃれ、怒り、美しさと厳しさ。名状しがたい何物かへの郷愁。
 それらすべての波を、謹厳な学究風の風貌につつんで、プグリエーセ氏という大海は生きておられる。
 「タンゴという大海を私たちは航海している。大事なのは、民衆の根のある港にたどりつく海流を知ることだ」
 「タンゴは、人々の感情にしたがって演奏されなければいけない。タンゴは人間の声なんだ。だから人間の感情どおりに音を引き出さなければいけないんだ」
 楽団のメンバーに語った言葉に、氏の音楽人生の長寿の秘訣が顔を出している。
 民衆が今、心の底で欲しているもの、感じているものは何なのか。人々の気持ちを体で感じられるまで、謙虚に、時代に近づいていくこと。人々の声に共鳴して自分という楽器が鳴り出すまで自分を新しくしていくこと。
 「十年前と同じじゃいけない。いつも何か新しいものがなければ」
 引退公演(八九年の民音公演)にさえ新作を入れられた氏である。
 一口に七十余年の演奏生活といっても、祖父母、父母、子ども、孫と四世代にわたっての民衆の心をとらえ続けてきたことは、並大抵の努力ではない。
 そこには、「絶対に民衆の心情から離れない」という氏の鉄の信念があった。大衆の無限の豊かさへの信頼があった。「私の最高の先生は、民衆でした」と言われたこともある。芸術のジャンルによって、高尚な芸術と下品な芸術に分かれるのではない。クラシックの世界にも品性の低い芸術家もいれば、大衆音楽にも磨き抜かれた超一流がある。
 氏は、はじめクラシックのピアノを学ばれた。
 「母は、私の努力をいつも見守り、『がんばって』と励ましてくれました。練習中も、ドアの陰で温かく見つめてくれていました。その母が、あるとき、『将来、コロン劇場に出演できたら‥‥』と、もらしました」
 コロン劇場は、世界三大オペラ・ハウスの一つ。最高のアーチストだけが出演できるクラシックの殿堂であった。
 「貧しい境遇の私たちにとって、それは夢の、また夢でした」
 経済的理由で、氏はタンゴの道へ。十五歳からプロとしてかせいだ。はじめは無声映画館の伴奏ピアニストだったという。
 「当時、カフェで一晩演奏して四ペソ。帰宅しては、翌朝、そのギャラを母に渡したものです」
 長い下積みの時代を経て、三九年に楽団を結成(三十三歳)。頑固なまでに、じっくりと自分たちの音を育て、やがて爆発的な人気楽団となった。そのころ、流行に乗っていただけの楽団は次々と解散していった。
 氏は「練習の鬼」である。氏の楽団に入ったら自分の時間はないと言われる。たった二小節を納得するためにみずから三日間も練習したという。毎回、だれよりも早く会場へ行って練習するのも氏である。完ぺきな技法と真剣勝負のステージが、氏をタンゴ界のシンボルへと押し上げていった。
 印刷所で働きながら『資本論』を読んでいたという勉強家であり、音楽理論も徹底して勉強した。共産主義への共鳴ゆえに何度も投獄されたが、氏は不屈の人であった。
 六八年、楽団の結成三十周年を前に、これまで手塩にかけて育ててきたメンバーが大挙して独立する危機があった。このときだけは、だれもが「プグリエーセも、もう終わりだ」と言った。
 しかし氏は動じない。半年後には、新たな楽団を結成。老マエストロ(巨匠)の淡々とした強さに、人々は喝采を送ったのである。
2  母の願いが今‥‥
 八五年、タンゴの歴史に不滅の″事件″が起こった。あのコロン劇場に請われて、プグリエーセ氏のタンゴ・リサイタルが開かれたのだ。
 開会前、氏をたたえるルーチョ・スアルマンの詩が紹介された。
  妥協を拒否する純粋なメロディの男
  場末と摩天楼の男
  鉄格子と冷たい監視のなかで数々の作曲をしてきた男
  街を流れる歌で暁を燃え立たせた男
  このピアノにいまプグリエーセが座ろうとしている
  われら大衆の指名によって‥‥(八八年十月号「ラティーナ」誌、杵築實氏の紹介文から)
 万雷の拍手。氏はあいさつした。晴れの舞台を飾る言葉は、ただ一つ。これ以外、考えられなかった。
 「こよなく音楽を愛した私の母には、このコロン劇場は、天上のものでした‥‥」
 六十五年前の夢が今、実現した。それは凱旋だった。民衆に根を張った人生の勝利だった。
 私心のない方である。ブエノスアイレスの名誉市民、フランスの文化勲章──それらの栄誉を受けたとき、氏が喜んだのは、蔑まれてきたタンゴが認められたことだったにちがいない。
 楽団員の給与を、自分もふくめて組合制にし、公平に分けてきた事実も有名である。引退後も、私財をなげうって、タンゴの歴史保存と後進の育成のための「タンゴの家」に精魂をかたむけられた。
3  「座っていちゃいけない」
 私がブエノスアイレスを訪れた九三年、ご夫妻で空港に出迎えてくださったうえに、私どもの世界青年平和文化祭にも出演してくださった。出演だけでも市の大ニュースであったのに、本番の二日前には楽団を率いて練習に来られ、皆や驚かせた。
 「座っていちゃいけない。皆の中に出ていくんだ。そこで一緒に何かをつくるんだ」との信条そのものの行動であった。
 愛用のグランドピアノが運び込まれたときである。八十七歳の氏は、何とその重いピアノを自分で押そうとされた。何という若さ。本番の日、日本への友情のしるしとして私に作曲してくださった名曲「トーキヨー・ルミノーソ(輝く東京)」を弾く氏の健在ぶりに拍手を送りながら、東京で語られた言葉の真実を私はかみしめていた。
 「私は池田名誉会長とともに力をあわせて、平和へと進みたいのです。悲劇を断じて繰り返さないために。私は戦います。最後の最後まで、死の瞬間まで、『勝利』のために戦います」
 その真摯な姿は、氏の青年へのメッセージどおりであった。
 「学べ、学べ、深く学べ。人生とはいかなるものか。人生はどうあるべきか。それを探究するのだ」と。
 (一九九五年二月十二日 「聖教新聞」掲載)

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