Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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世紀の名ヴァイオリニスト ユーディー・メニューイン氏

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「ヴァイオリンの賢者」メニューイン氏は、音楽そのもののような方であった。
 ご案内すると「ああ、花が夢のように美しい」「日本の皆さんは、まるで花に話しかけるように、花たちを愛しておられる」
 感情を繊細に伝える声。洗練された物腰。
 ささやかな夕食をおもてなししたが、女性の方が膳を上げ下げするたびに、いちいち「メルシー」「メルシー」と、ていねいに会釈される。だれに対しても優しい方なのであろう。声に心がこもっていた。
 優しさ。そこに人間の証はあるのではないだろうか。ある作家は言った。優しいという字は優れていると書く。人の痛みに敏感なことが人として一番優れていることではないかと。
 「十で神童、十五で才子、二十歳すぎれば、ただの人」とよく言われるが、神童がそのまま偉大な人物になったら──そのすばらしい見本がユーディー・メニューイン氏である。
 七歳で独奏者としてデビューし、十一歳のときには、カーネギー・ホールに立っていた。十三歳のとき、ブルーノ・ワルター指揮のベルリン・フィルハーモニーと共演。アインシュタイン博士が感動のあまり舞台にかけ寄り、メニューイン少年を抱きしめて言ったという。「やはり天には神様がいらっしゃることが私にはわかりましたよ」
 一九九二年、お会いしたとき、氏は七十五歳。その数年前から会見の希望を寄せてくださっていた。アインシュタイン博士のエピソードにふれると、「博士は小さな虫にさえも″神″を見いだす方でした。だから私の演奏が特別だったわけではないんです」と、謙虚なお答えであった。
 「博士の見方は、すべての生命に″仏性″を見る大乗仏教の心にも通じます。大科学者の偉大な直観です」。私がそう言うと、うなずかれ、氏は大切なことを言われた。
 「人間は、大人になるにつれて、たしかにさまざまな知識を得ます。しかし、私は思うのです。人によっては、その知識が、同情や励ましといった『人間の自然な反応』をさまたげる壁になっている場合もあるのではないかと」
 そのとおりである。知識が人を倣慢にし、だめにする不幸があまりにも多い。
 「私には今も、どこか大人に成りきれないところがあるのです。冷静な分析よりも、直観が先走るような‥‥」。はにかんだような言葉のなかに、大人の聡明さと子どもの純粋さが融合していた。柔らかな童心のナイーブさを守り抜いてきた、真の強さを私は感じた。
 優しい人は強い人である。大指揮者フルトヴェングラーが、ナチス・ドイツ下で多くのユダヤ人を助けたにもかかわらず、戦後、″ナチ協力者″として糾弾された。メニューイン氏は勇敢に彼の名誉回復に尽くした。「自分はユダヤ人ですそのユダヤ人がフルトヴェングラーの指揮する演奏会でソロをひくという事実を、世界の人に知らせたいのです」
 今も、多忙のなか、人権を守る活動を大車輪というべき真剣さで続けられている。
 ユダヤの方々が、ヴァイオリンに長じている理由を聞いてみた。「弾圧され続けてきたユダヤ人には、ヴァイオリンによって表現すべき、あまりにも多くの″思い″があったのです」。この言葉を私は紅涙したたる思いで聞いた。
 私の折々の平和提一言も、かねてから熟読してくださっていたという。「環境・開発国連の構想に賛成です」「世界の人々の善意を結集する世界機構が必要です」「あらゆる国の人々が、国や民族を超えて『人類を救うために何ができるか』を話しあう──なんと美しい光景でしょうか」「世界はより高い次元に進むべきだと思います」と。
 国家の「力の均衡」を機軸にした旧思考は、とっくに捨てるべきときがきている。自分のエゴ、国家のエゴにとらわれた指導者について、氏は「長く君臨するうちに、権力は『人間』を忘れてしまうのです」と厳しかった。
 人間を忘れた指導者とは、子どものような「柔らかな心」を忘れた人といえるのではないだろうか。人間としての素朴な願いを見くだし、嘲笑する傲慢な心が当たり前になってしまったかのような現代である。
 核抑止理論の華やかなりしころもあった。人間同士が武器を突きつけあって身動きが取れない──それを平和と呼ぼうと言うのである。道理にも人間性にも反したこんな理論が「専門的データ」で麗々しく飾られ、それを得々と語る学者もいた。「おかしい」と声をあげることが、「国際政治の現実」を知らない幼稚な夢想のように非難される風潮さえあった。アンデルセンの「はだかの王様」の大人たちを笑う資格のない人が多かったといえまいか。
 知識だけでは賢くならない。「心」がなければ知恵へと深まらない。
 世界はあまりにも、たけだけしくなってしまった。「世界には昔のていねいさ、静けさがなくなってしまいました」と氏は嘆かれた。そんな世界にあって、芸術こそが人間性を目覚めさせる。機械のように硬くこわばった心をほぐしてくれる。
2  「昼は町を掃除し、夜は四重奏を」
 氏は「昼間、町を掃除する人々が、夜には四重奏を演奏する。それが私たちのめざす世界です」と。大衆に音楽を──私が三十余年前(六三年)、民主音楽協会(民音)を創立したのも、文化によって民衆の心の大地をうるおしたかったからである。また美への共通の感動で世界を結びたかったからである。
 芸術は「命令」できない。心が心に呼びかけるだけである。その意味で権力と対極にある。
 「最後のタンゴ王」と言われるアルゼンチンのプグリエーセ氏とお会いしたが、氏も同じ考えであった。「庶民の思いを抑圧する者とは敢然と戦うのが文化にかかわる人間の役目です」
 芸術は人を傷つけない。芸術は悩み多き人生を慰め、希望を贈る。芸術と一体になった一流の芸術家も、いばらない。人に楽しみをあたえる。いばる心、人を見下す頼り。それは文化と一番遠い心であろう。
 五一年(昭和二十六年)。メニューイン氏の初来日は、日本人にとって久方ぶりの本格的なヨーロッパ音楽だった。小林秀雄氏は「私はふるへたり涙が出たりした」「あゝ、何んという音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」(『小林秀雄全集』8、新潮社)と書いた。
 会見の同席者の一人が、そのコンサートを聴いた思い出を紹介した。「初任給が四千円の時代に入場料が千五百円でした」。すると「それでは、これをどうぞ」メニューイン氏の指先に手品のように千円札が現れていた。いたずらっぽく微笑んだ氏の顔には、「柔らかな心」で一生を戦い抜いた高貴さが、美しいメロディーのように浮かんでいた。
 (一九九四年四月三日 「週刊読売」掲載)

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