Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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トルコ革命の心を継いだ セリーン アンカラ大学前総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
3  セリーン博士には、お会いしただれもがほっとする温容がある。絶対にいばらず、淡々とした誠実そのもののお人柄である。
 「私の力はどこからくるのか。それは友人からです。私も、自分のためには何もほしいと思いません。いつも他人のためになることだけを考えてきました。人間、きょうは良くても、あすはどうなるかわからない。だから人間はたがいに助けあうべきなのです」
 博士は総長時代、学生の援助のため、アンカラ大学基金をつくられた。このおかげで、ある学生は肝臓の手術をアメリカで受け、別の学生は脳の手術をスウェーデンで受けることができたという。
 「私が若者に言いたいのも『他人を助けなさい』ということです。エゴはいけません。目先のことではなく、長い目で、家族のため、社会のために尽くせるよう成長してほしいのです」
 博士は、日本での語らいでも「『一つのパンがあれば、半分は貧しい人に分かちあう』。これがトルコの国民性です」と教えてくださった。
 人間として、だれが「優れて」いるのか。それは人の痛みを分かちあえる「優しさ」をもつ人ではないだろうか。その人こそ「優秀」な人なのではないだろうか。
 ある人から聞いた。小学生のころ、貧しくて家庭訪問の日がいやだった。教師が来ても、出す座ブトンもない。母親が隣家から借りてきた。普段は見たこともない、お菓子も無理して用意した。しかし教師はその座ブトンに座ろうとせず、お菓子にも手をつけなかった。それでも母は、お菓子を包んで「どうぞ」と渡した。
 だが教師は、外へ出ると包みを捨ててしまった。それを少年は、じっと見ていた。拾って食べようかと思ったが、母親が頑として許さなかった。「そんなもん、さわったらいかん!」。あのときの母の悔し涙が何十年たった今も忘れられない、と。
 人の思い、子どもの悲しみをわからずして、どうして人間が育てられょうか。
 人間が機械になったかのように、心が心に通じない社会の不気味さ。問われているのは、日本社会の根底の価値観である。
 (一九九五年五月十四日 「聖教新聞」掲載)

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