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日蓮大聖人・池田大作

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中東和平の要 ムバラク エジプト大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「時代は変わりました」
 この一言が、ムバラク大統領を象徴していた。
 中東の未来について語りあったときである。(一九九二年六月)
 大統領がイスラエルとアラブ諸国を仲介されてきた「要の人物」であることは言うまでもない。
 「世界の歴史が証明しているように、『力』による問題の解決は、もはや不可能な時代になっています。
 中東の流血の現代史を知る者にとって、並々ならぬ言葉であった。しかし大統領の声には、断固たる決意がともっていた。
 四度の中東戦争で、どのアラブ諸国よりも多くの兵士を死傷させ、国民が犠牲を払ったのがエジプトである。大統領の言葉には、祖国と中東の民衆の苦悩を真正面から受け止めた責任感がにじみ出ていた。
 「『交渉』が必要です。たがいが直接、対話のテーブルに向きあって座り、粘り強く交渉することです。それがわれわれの信念です。この道は、パラ色で飾られているわけではありません。しかし難問の解決には『忍耐』が必要です」
 力強い大統領の声に、潮騒が混じった。目の前には、コバルト色の地中海が明るく広がっている。エジプトのアレクサンドリア。アレキサンダー大王を子どものころから知っていた私にとって、大王が建設したこの町には特別な思いがあった。
 アジアとアフリカとヨーロッパを結ぶ町。世界の人と知識が集まった町。
 アショーカ大王の平和使節が、はるばるインドから訪れた町。シーザーが、アントニウスが、恋と権力を争った町。クレオパトラとともに滅びるまで、ここは古代西洋文明の″首都″であった。
 会見の場所である、ラス・エル・ティン宮殿の下には、アレキサンダー大王の墓があるかもしれないという。
 「池田(SGI)会長、バルコニーへ出て、話を続けませんか」
 会見が始まってすぐ、大統領が提案された。
 扉を開けると、光る波、光る空絶景のパノラマがあった。地中海を舞台に繰り広げられた治乱興亡、祈りと愛──幾千年の絵巻が、私の胸に押し寄せては消えていった。
 「エジプトは、人類文明の源流です」──私は実感をそのまま口にしていた。
 「エジプトの方々は、あの偉大なる文明を築いた人々の子孫です。″創造力の血統″が体に脈打っているはずです」
 大統領は誇らしげに、うなずかれた。「世界で最初の統一国家は、ナイルのほとりで生まれました」
 そのナイルのほとりで、大統領も誕生された。一九二八年(昭和三年)だから、私と同い年である。
 お父さんは裁判所の職員だったが、封建領主のもとで、自分が十分に教育を受けられなかった。「その分、子どもには──」と、教育熱心だったという。
 しかし、村には中学校がなかった。
 「片道三キロ、往復六キロ、週六日間、ともかく毎日、毎日、通いました」
 やがて空軍士官学校へ。卒業後、母校の教官も務めた。大統領の人柄を伝えるエピソードが残っている。
 訓練生の中に、当時のナセル大統領の弟がいた。周囲は彼を特別扱いした。あるとき、彼が授業料を払わないで授業を受けようとした。これまで、そんな例はない。ムバラク教官は、断固、彼のわがままを拒否した。「家に帰って、授業料を持ってきなさい」。校長も驚いたが、ムバラク教官は頑として主張を通した。
 「今、エジプトは、どういう時か。これまでの狭い因習を打ち破って、立派な近代国家となるべき時だ。本来の威厳と古代エジプトの偉大さを回復するべき時だ。近代社会において、特権階級への″えこひいき″などあってはならない」
 ここにムパラク青年の「大志」が表れている。
 世界の一流の指導者は、どこが違うか。それは明確な「ビジョン(展望)」をもっていることである。その裏づけとしての「哲学」をもっていることである。
 指導者にとって、自身の「ビジョン」を実現することが目的であり、その手段として指導的立場がある。
 その意味で、ビジョンなき指導者は、手段と目的が逆転しているのである。それでは結局、立場のための立場、権力のための権力となり、保身と小手先の策を繰り返すことになろう。そういう指導者に率いられた国民ほど哀れな存在もない。
 ムバラク大統領は八一年十月、暗殺されたサダト大統領の後継として、第四代大統領に就任した。
 就任するや、ただちに「西暦二〇〇〇年への長期開発プラン」に着手した。
 エジプト・ルネサンスの「大志」に向かって、動き始めたのだ。一日十八時間も働く大統領に、周囲は「ブルドーザー・マン」と呼んで感嘆した。
 大統領は、民主化を強力に進め、すべての政治犯を釈放した。
 三権分立を徹底した。
 「言論の自由」を推進するとともに、反対勢力とも対話した。「中傷や根拠のない非難ではなく、理性的な見解と建設的な批判を」と求めながら。
 「開かれた社会」への挑戦。これは、アラブ世界では目を見張るべき″事件″であった。
2  「ピラミッドは頂上からはつくれない」
 西側のジャーナリストは書いた。
 「はっきりわかっているのは、エジプトを近代的な民主国家に仕立て上げよう、というムバラク(=大統領)の決意だ。もし彼が成功すれば、ピラミッドを築いた先人を上回る偉業を達成したことに、なるだろう」(八六年五月二十二日号、日本語版「ニューズウィーク」)
 私は、大統領の真剣さに敬意を表した。
 「あのピラミッドも、頂上からつくられたのではありません。基礎からつくられたのです。未来の″繁栄のピラミッド″の基礎を、今、大統領がつくっておられると信じます」
 基礎をつくる土台石は「教育」である。
 長く続いた戦争で、教育環境は悪化し、大改革を必要としていた。
 「エジプトの子どもたちに、微笑みと、失われた子どもらしさを私は取り戻したい。しかし、これまで苦難に耐え抜いてきた国民に、これ以上、負担をあたえることは、とうてい忍びない。何とか他の財源によって、教育の改革をするのだ」
 これが大統領の心情だったという。民衆への愛情に、私は涙する思いであった。
 簡単に国民を犠牲にして、自分たちの利害を貧る為政者とは、千里、万里の違いではないか。
 大統領は「ものごとに耐え抜くことが、われわれの世代の責任です。われわれは、その運命から決して逃れることはできません。われわれは、子どもたちの未来のために、耐えうる限り、耐え抜きます」との信念であった。
 「時代は変わりました」
 大統領は、世界が一体化しつつある現実を冷静に見極めておられた。
 「ポーランドの大統領がいいことを言いました。一箱のマッチでも、一国だけではできないと。軸にする木、イオウ、箱、接着剤など、多くの国が協力しあって、一つのものが完成します」
 大統領の偉さは、そういう世界史の潮流を傍観するのではなく、みずからその潮流に船を進められたことである。
 世界の平和のカギを握る中東の平和──。
 「中東の平和のカギは、イスラエルとの交渉の継続にあります」
 あの日、私の目を見つめて、そう語られた翌年、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の歴史的な握手が実現した。(九三年九月、両者の相互承認、パレスチナ暫定自治共同宣言が実現)
 「世界の火薬庫」といわれた中東の大転換点であった。その当事者、イスラエルのラビン首相とペレス外相、PLOのアラフアト議長が、九四年度のノーベル平和賞に決定した。
 その陰で、忍耐強く、精力的に対話を続けた、仲介役のムバラク大統領にも、世界は喝采を送ったのである。
 私がピラミッドを初めて見たのは、一九六二年二月である。
 一分の狂いもなく、堂々として積み上げられた巨石の重畳。天地を圧する、千古の偉観に私は思った。
 「真に偉大なるは『人間』なり」と。
 かくも精確にして巨大なる金字塔ピラミッドを地上に生んだ、「民衆」の力こそ永遠なり、と。
 ヒエログリフ(エジプト象形文字)を研究した考古学者シャンポリオンは、古代エジプト人をイメージして、こう呼んだ。彼らは「百フィートの人間」だった──。
 大いなる建設には、大いなる人間を必要とする。
 堂々たる偉丈夫ムバラク大統領は、その心も、「高貴なまでの謙虚さ」とたたえられる度量の人である。
 世界が変わり、時代が変わる今、このときこそ、正義によって立つ「大いなる人間」が必要とされているのである。日本はその準備ができているだろうか。
 (一九九四年十月二十三日 「聖教新聞」掲載)

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