Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人権闘争の巌窟王 ネルソン・マンデラ 南アフリカ大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  陽光が降り注ぐなか到着したマンデラ氏は、意外なほど穏やかな風貌の紳士だった。深き川は静かに流れる。にこやかな笑みを絶やさぬ氏の温顔に、私は鋼鉄の意志の象徴を見た。
 体調がすぐれないのをおして、「ぜひとも」と来てくださったことも知っていた。
 学生たちが氏の古里の言葉で歌った。
 〽オリオッサ・マンデラよ
  自由はあなあたの掌中にある
  私たちに自由の道を示せよ
  このアフリカの地で
3  見たいのは「青年たちの輝く瞳」
 あとから、うかがったが、青年たちの歓迎を、氏はことのほか喜んでくださったようだ。
 「今回の日本訪問での思い出といえば、あの日です。あの輝く目。笑顔。はつらつとした若者たちがいた。立派に育てられていた」
 成田空港で、次の訪問国マレーシアへ旅立つ前、見送りにきた在京のアフリカ各国大使館の代表に語られたという。
 「青年たちの輝く瞳──それこそ氏が南アで実現したいものなのだ」。氏の悲願、氏の苦悩が、ずっしりと私の胸にきた。
 会見で、私は具体的行動を提案し、お約束した。人権展や反アバルトへイトの写真展、人権講座を通しての社会教育。そして南アの小学校への援助。創価大学への留学生受け入れ。私は会見を、その場だけ、言葉だけのものにしたくなかったのである。
 私は率直に申し上げた。「一本の高い樹だけではジャングルはできません。『マンデラ』という飛び抜けた偉材が一人だけいても、他の人々が成長しなければ、マンデラ氏の仕事は完結しないのではないでしょうか」
 「そのとおりです」。氏は提案を心から喜んでくださった。
 マンデラ氏を動かしているのは、白人への憎悪ではなかった。「人間」への愛であった。黒人が白人に取って代わろうというのではなく、だれもが平等に、希望に瞳を輝かせて生きられる社会。「これこそが、私が生涯をかけて達成したいと願っている理想なのです。そして必要であれば、そのために死をも覚悟している理想なのです」
 今の日本人に、そのためなら死をも覚倍できる「理想」があるだろうか。一万日の地獄にも耐えうる「理想」があるだろうか。
 私は青年たちに、いつも語る。「アフリカの人から学びなさいアジアの人々から学びなさい。教えるのではなく、教わるのです」
 人間を上下関係で見がちな日本的意識は、近代化の歴史のゆがみとともに、アジア・アフリカの人々を、何か下に見る悪弊をつくったかに思える。「日本には『見えない鉄条網』がある」と、閉鎖的な差別心を告発したカンボジアの少年もいた。
 私は南ア人民の蜂起を描いた『アマンドラ』の中の言葉を思い出す。
 「もしも自分より下に人をことうとすれば、自らも下ってしまうということを忘れてはならない」(ミリアム・トラーディ著、佐竹純子訳、現代企画室)
 「人権」も、平凡なようだが、「人を尊敬する」ことが基本であろう。人権の闘士の来日は、世界という鏡に日本人の顔をくっきりと映し出したのではないだろうか。
 (一九九四年三月二十日 「週刊読売」掲載)
4  (二)
 マンデラ大統領の笑顔は格別である。
 実直な「大地を耕す者」の清らかさがある。鋼鉄の信念で民衆を引っ張ってきた「王者の柔和さ」がある。冷たい権力者は、とても、こんな笑顔はもてないであろう。実際、大統領の顔には、冷酷さを示す線が一本もない。
 先日(九五年七月五日)、五年ぶりに語りあった大統領は、自信にあふれ、大樹としての年輪を一回りも二回りも太くされた感じがした。
 大統領就任から一年余。「高い地位は大人物をますます大きくし、小人物をますます小さくする」という格言どおりのお姿であった。
 人権闘争の巌窟王は健在なり。私はうれしかった。権力と戦い抜いた、この人を大切にせずしてだれを──。喜寿(七十七歳)を迎える大統領の長寿を私は祈った。
 大統領も再会を喜んでくださり、南アとの交流、ガンジーと氏の共通点など語らいがはずんだ。注目の「氏の後継者」問題についても楽観的見通しを語られた。
 話の問も終始、ユーモアと笑みが絶えない。氏は獄中でもユーモアで人を励ます名人だったという。私は「笑いを発明したのは、一番苦しみを味わった人間だったにちがいない」という言葉を思い出す。笑いをつくらなければ生きていけないほど配瞭な生活があったのだ。
 獄舎一万日。二十七年半の獄中闘争は想像を絶する。
 そこは人間から、理想を追求する「勇気」を根こそぎ奪おうとする場所であった。
 囚人服も、囚人から自尊心を奪うように″工夫″されていた。だぶだぶの服をあたえてピエロのようにしたり、反対に小さな服を与えて、大の男が子どもの服を着ているような滑稽な格好をさせた。
 食事も「人間が食べるようなものではなかった」。長い間、ベッドもなかった。酷寒の夜に毛布二枚は紙のように感じたという。夜明け前に起こされ重労働に従事した。何と、自分たちが入る独房を作らされたこともある。独房では読むものも、書くものも、話す相手もなく「一時間が一年のよう」であった。
 十八年いたロベン島では、夏には石灰石の切り出しを、やらされた。採石場まで鎖につながれて行った。焼けつく太陽のもとで、硬い岩層の中から切り出すのだ。手がしびれるほど打っても、岩層はびくともしなかった。看守たちが、どなって追いつめた。中にはナチスの鈎十字をとぶしに彫っている看守もいた。石灰石の粉塵で氏も目を悪くした。
 牢の規則はどれも、ひどかった。しかも、それすら看守の気まぐれで守られなかった。戦うために生まれた男は、ここでも待遇改善に立ち上がった。そのために手ひどく懲罰されたが屈しなかった。皆で何でも分かちあうようにした。
 知識も分けあった。人々はこれを「マンデラ大学」と呼んだ。
 氏は、たとえ″地獄″にいようとも、その場の人々を全力で味方にしていったのである。
 看守たちでさえ、氏の不屈さに、次第に敬意をはらわずにいられなくなった。
 しかしもっともつらい拷問は、家族の受難に対して何もできないことであった。当局はマンデラ家を破壊しようとした。家は襲撃され、夫人は繰り返し逮捕され、虐待され、職場も追われた。南アの法律では、当局が「必要」と認めればいくらでも逮捕・監黙できたのである。その犠牲者は数知れなかっ″た。多くの子どもたちが父を奪われた。母も奪われた。
 氏は獄中で母の死を聞いた。若いときから闘争に明け暮れ、母を心配させたまま逝かせた痛恨が胸を噛んだ。そして長男の″事故死″──このときばかりは一晩中、顔が上げられなかった。
 人間が人間に対して、どこまで残酷になれるか。南アはまるで、その実験場のようであった。否、南アの黒人は「人間」として見られてさえいなかった。
 五年前の会見のとき、私は「反アバルトへイト(人種隔離)」の展示会や写真展、人権講座、文化交流を提案し、実行してきた。
 口先ではなく行動で、南アの人々を支援したかった。
 提案に対し、マンデラ氏は、本当にうれしいと喜んでくださった。氏の秘書であったミーア氏の言葉が私の胸をえぐった。
 「(教育交流の)提案は、私たちを人間として遇してくださる心を感じます。南アフリカでは、私たちは『人間』ではなく『黒い人種』として″登録″されているのです」
 何ということだろう。何と、この友人たちは苦しんできたことだろう。
 「人間」として見ない、「レッテル」で見る──これは南アだけの特殊事情ではない。人権抑圧の根っこには、いつも、この錯誤がある。日本でも、そうである。
 同じ人間を「朝鮮人だ」「中国人だ」「アカだ」等と″分類″して済ますとき、相手の気持ちへの想像力は働かなくなる。「相手の身になってみる」という当たり前のことができなくなる。一人一人の顔が見えなくなる。目の前にいても見えないのだ。
 同じ理由で、子どもたちを「一個の人間」としてではなく「子どもだから」としか見ないとき、大人には子どもの心が見えなくなる。人間を人間として見る。それが真の「人間」である。
 南アの抑圧者によるレッテル張りは、解放運動を続けるANC(アフリカ民族会議)の組織力にも向けられた。
 「黒人には自分で考える力がないのだから」、「何もわからない連中」が少数の指導者に扇動されているのだ、というのである。
 この主張が表しているのは、ANCの実態ではない。主張する側の民衆観だけである。彼らは民衆を「命令でどうにでも動くロボット」のように見下していたからこそ、こんな荒唐無稽の主張ができたのである。運動にこめられた個々人の祈りも、期待も、怒りも、何も見ようとしなかった。
5  「民衆が自由にならない限り」
 「戦いこそわが人生」。マンデラ氏は裁かれる法廷をも堂々たる言論闘争の場に変えた。氏の要求は黒人をふくめた全国民の選挙権である。「自分が選挙権をもたない議会によって制定された法律によって、私がなぜ裁かれなければならないのでしょうか?」。だれも答えられなかった。
 私は九四年の「SGI(創価学会インタナショナル)の日」記念提言の中で、在日韓国人・朝鮮人に参政権を認めるよう提言した。永住を決めている約七十万人もの方々が、日本人と同じように税金を払いながら、選挙権がない。義務だけあって権利がないのである。
 この問題にはさまざまな議論や複雑な経緯があることも承知しているつもりである。
 そのうえで、今なお続く就職差別など、言うに言われぬ差別と迫害のなかで生き抜いてこられた、この方々の基本的人権を認めないまま日本が二十一世紀を迎えることは、過去の″負の遺産″を次世代に持ち越すことになる。
 戦後も半世紀を迎えた。今こそ、勇気をもって改革の流れを起こすべきである。そうでなければ人権後進国としての汚名をぬぐい去れないのではないだろうか。
 マンデラ氏は獄中から南アの人々を鼓舞し続けた。通信はできなくとも存在そのものが「希望」であった。だれかが雲でおおい隠そうとしても、太陽は太陽であった。
 経済制裁をはじめ、世界からも連帯のエールが続いた。
 たまりかねた政府から何度も妥協案が出た。そのたびに氏は妥協を拒否し、出獄を拒否した。「民衆が自由にならない限り、私の自由もない」。氏の目には祖国全体が牢獄であった。
 ついに釈放の日が来た。九〇年の二月十一日。その日は私の恩師(戸田城聖第二代会長)の誕生日であった。南アの「夜明け」に喝采を送りながら、私は同じく巌窟王であった恩師を偲んだ。
 この日、マンデラ氏は民衆の歓呼と熱狂に応えて語った。
 「私はここに予言者としてではなく、あなたがた民衆のつつましやかなしもべとして立っています。みなさんの不屈の英雄的な犠牲によって私は今日ここにこうしていることができるのです。ですから私は、私の残りの人生をみなさんがたの手に委ねます」(ファティマ・ミーア『ネルソン・マンデラ伝』楠瀬佳子・神野明・砂野幸稔・前田礼・峯陽一・元木淳子訳、明石書店)
 氏を動かすエネルギーは人気とりでもなく、利害でもない。ただ民衆へのあふれんばかりの愛情であった。苦難を勝ち越えてきた同志が愛おしかった。一人一人をたたえたかった。肩を抱きたかった。
 この人たちのためだけに私は生きているのだ──。その黄金の信念は周恩来総理をほうふつさせる。
 大統領の悲願は、白人支配も黒人支配もない、どんな肌の色の人も平等に暮らせる「虹の国」である。「これが、私が生涯をかけ、そのためなら死をも覚悟している理想です」と。
 今、日本の指導者層の胸に、死をも覚悟し、一万日の地獄にも耐え得る「理想」があるだろうか。民衆に限りなき「希望」をあたえているリーダーがいるだろうか。
 大統領は言われた。「五年前の出会いを私は忘れません。あの輝く瞳の青年たちとともに温かく迎えてくださった」
 「ああ」。あらためて私は思った。「希望を奪われてきた南アの青年たちに『輝く瞳』を取り戻す。それこそ大統領の″夢″なのだ」と。
 人類は一つの生命体である。ゆえに、世界のどこかで苦しんでいる人がいる限り、私たちの真の幸福もない。
 人類は一つである。ゆえに、私たちは肩を組みたい。南アの人々と。世界の青年と。すべての抑圧された民衆と。そのスクラムに二十一世紀がある。
 ああ、その明日へ! 私は声を限りに呼びかけたい。
 「明日よ! 永遠に、汝こそが偉大なり」と。
 (一九九五年七月三十日 「聖教新聞」掲載)

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