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日蓮大聖人・池田大作

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世界的数学者 蘇歩青 復旦大学名誉学長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  偉大な丈夫の隣には、賢妻がおられる。
 周恩来総理と鄧穎超女史が中国で「模範夫婦」と尊敬されたのに対し、蘇歩青博士と米子夫人は「理想夫婦」と慕われている。
 米子夫人が九年前(一九八六年)、亡くなった折には、追悼会で泣き崩れる学生もいた。
 人々は「東洋の女性の鑑」とたたえ、夫人の優しさを偲んだ。
 蘇博士は現代中国の数学界を育てた父であり、微分幾何学の世界的大家である。ナポレオンは「数学の進歩改善は、国家の繁栄を左右する」と言ったが、今の中国の発展に、博士の貢献は計り知れない。
 その宝の博士が「妻なくして私の人生はなかった」と言われる。奥様の亡きあとも、写真を肌身離さず持っておられるという。
 「私は今、『心に生きている』ということばを深くかみしめている。(中略)私と一緒に、構内を散歩し、教壇で授業をし、人民大会堂での会議に出席する‥‥」(「妻米子をしのぶ」、八八年四月号「人民中国」)と。
 中国の古人は歌った。
  山の みね くずるるとも
  かわの 水 るるとも
  冬に いかずち 震震なりわたるとも
  夏に 雪 るとも
  天と地 合するとも
  すなわち あえて君と絶たんや(漢楽府「上邪わがうえのてんよ」、『愛のうた 中華愛誦詩選』竹内実訳、中央公論社)
2  何が起ころうと絶たれない永遠の絆──蘇博士にとって、その出会いは日本の仙台であった。
 私は博士と五回、お会いした。博士から日本留学時代のお話をうかがったのは第五次訪中(一九八〇年四月)の最終日であった。
 帰国前の私の宿舎に、わざわざ足を運んでくださった真心が忘れられない。窓から見ると、上海の夕焼けが、絵のごとく、詩のごとく、大空いっぱいに広がっていた。このとき、博士は日本語で語ってくださった。
 博士が杜の都・仙台に着かれたのは一九二四年(大正十三年)。青葉域社や広瀬川のほとりに咲き誇る桜に目を奪われたという。
 関東大震災の翌年であった。東京高等工業学校に学んでいた蘇青年は、震災で住居も衣類も書物もノートも焼けてしまった。しかし、人の運命は、わからない。これを機に、博士は工業から数学に転向し、大成されたのである。思師の紹介で東北帝国大学へ。東北帝大には、開放的な雰囲気と独創を大切にする気風があった。
 人徳であろう。この青春の故地で、蘇青年は良き師・良き友に恵まれた。卒業後は、外国人にもかかわらず東北帝大の講師に迎えられた。地元紙に報じられるほど珍しい″事件″であった。
 松本米子さんは、東北帝大教授の令嬢。教養が豊かで、蘇青年は米子さんの生け花や琴を通して日本の文化を理解するようになったという。
 ずば抜けて優秀な博士であったが、米子さんとの結婚には障害が多かった。中国人をはじめアジアの人々を見下す病に、日本人の多くが侵されていた。また日中の間には暗雲が垂れこめていた。
 しかし二人の意志は固かった。一九二九年(昭和四年)、二十六歳の博士は、二十三歳の花嫁を娶った。このときも、桜の花が満開であった。やがて理学博士になり、次々と優れた論文を発表。仲睦まじい二人に、周囲の目も変わっていった。
 夫妻が中国に帰国してからのことである。異国の暮らしに慣れず、米子さんは悩んだ。そんな米子さんに博士は、いつも優しかった。米子さんが食べられない料理があると、こっそり砂糖を入れて味を改良したこともあったという。
 米子さんは芯の強い人であった。愚痴を言わなかった。人の悪口を言わなかった。そんな米子さんに接すると、周囲の人々は温かい気持ちになるのだった。
 満州事変が起こったのは、夫妻の帰国の年であった(一九一三年)。十五年にわたる抗日戦争が始まった。浙江大学教授の博士は、大学とともに奥地へと移転を続けた。数年間、一家が別れて暮らしたこともあった。防空壕の中でも蝋燭の明かりで勉強し論文を書いた博士である。学問と教育に一身をささげてこられた。米子夫人は苦しい生活のなか、夫を支え、家に来た博士の教え子に、母のような温かい声をかけた。
 一人で家事を切り回し、八人(六男二女)の子どもを育てた。全員が大学を出て、立派な社会人となった。博士が証言されている。「私は思う。母親が彼らの知恵と幸福をはぐくんだのだと」
 新中国になって、最初に中国国籍を取った日本人が米子さんである。中国名は蘇松本さん。博士は名門・復旦大学の教授となり、一家は上海に移った。
 暮らしが楽になっても、夫人の質素さは変わらなかった。「奥さんに服を作ってあげたら」と勧める人がいた。博士も、そうしたかった。結婚式の晴れ着姿が目に焼きついている。あれから苦労続きで、新しい服など無縁だった──。しかし夫人は首を横に振った。「子どもも多いし、まだ使命を果たしていません」と。
 夫人は公私の区別に厳しかった。大学のものは便箋一枚、使わない。博士には、やがて公用車もついたが、夫人は「これは、あなたの仕事のための車です」と言って、自分はバスの人波に、もまれていた。
 自分に厳しい分、人には本当に優しかった。地域の世話役として、皆のために働くのが、うれしくてしかたがなかった。家の保母さんが入院したときは、一週間、病院で看護に当たった。
 博士は多忙であり、二人で旅行する機会もなかった。博士は心でわびておられたのだろうか。一つだけ続けたことがあった。
 毎週、土曜日の晩、復旦大学では映画を上映した。博士は疲れていたし、映画が好きでなかったが、これだけは夫人のために一緒に行かれた。それが有名になって、皆は必ず前の方の席を二つ空けておいたという。
3  文革の嵐を生き抜いて
 文化大革命。「十年の内乱」と呼ばれる狂気の時代にふれるのは、あまりにも痛ましい。
 一家も嵐に巻きこまれた。紅衛兵が押しかけ、家中をひっくり返した。蘇学長は毎朝、″見せしめ″として一人、衆人環視のなかで大学の芝刈りを強要された。
 それはまだ耐えられた。ひどかったのは、自宅のそばから大学までの道である。「日本のスパイ」と書いた旗竿を持たされ、三角の帽子をかぶって歩かされた。名前にバツ印をつけた紙も首から下げて、市民の罵りの中を毎朝、毎夕、歩くのである。
 博士は夫人には極力、実情を知らせないよう努力した。大学に軟禁され連日、屈辱的な尋問や大集会での攻撃を受けた。農村に連行され、農民の前に立たされて″批判″を受けなければならなかった。
 博士には耐えがたかった。しかし、子どもたちが言った。「お父さん! 死なないでください。生きてください。お母さんのために、歯を食いしばって、どうか生き抜いてください」
 夫人との愛情が博士を生につなぎとめた。夫人ほど博士の真実を知っている人はいなかった。何が起ころうと、この一筋さえあれば、いいではないか──。
 子息の蘇徳昌氏(現・奈良大学教授)は言われる。
 「父の人柄を一言で言うと『剛直』ではないでしょうか。自分を曲げません。曲げないから文革中にも、ひどくやられた。曲げないからこそ、文革の後、また復帰できた。妥協しないのです。信念を貫くのですから敵もいます。敵がいるから、自分も前進できるのです。敵がいなかったら前進は止まります。創価学会や池田名誉会長に迫害がある理由も同じと思います。そのことを、父はよく理解しています」
 米子夫人は逝去の前、三年間、病床にあった。博士は毎日、午後四時半になると病院に駆けつけ、二時間余もつき添われた。ミカンの皮をむき、一つ一つ白い筋も取ってあげた。食事も一口一口、食べさせてあげた。見ただれもが厳粛な思いに打たれる光景であった。
 それ以前──金婚式の春であった。その日、博士は北京から夫人に思いを馳せて一詩をつづった。
  桜花の時節に愛情は深し
  はるか万里を共にわたりて臨む
  紅顔に白髪の添えるもかまわ
  金婚の佳日は金よりも貴し
4  仙台での出会いから六十年。八十一歳で亡くなった夫人に、博士は一着の服を着せてあげた。それは七年前に、やっと新調した二着のうちの一着であった。夫人は袖も通していなかった。今こそ「使命を果たした」夫人の晴れ姿であった。
 博士の一日は今も、夫人への呼びかけから始まる。遺影の前に立って目を閉じ、夫人と無言の語らいをされるという。思い出だけでなく、今のこと、これからのこと。博士には夫人の声が聞こえるのだろうか。
 戦前の上海で、通信社の支局長をされていた松本重治氏は、「東亜の一大悲劇たる日中戦争が惹き起された最大の原因」は「当時の日本人の多くが、中国人の気持を理解し得なかたことにある」とされ、″遺言″として叫ばれた。
 「日本人は、隣国人の気持をもっとよく理解して欲しい」(『上海時代 ジャーナリストの回想』中央公論社)と。
 蘇博士は、創価大学の名誉博士になられたとき、言われた。
 「人生は人類にどれだけ貢献したかで決まります。無為徒食ではいけない。その意味で、私は創価という名前が好きです。そこには人類のために価値を創造しようという心がこめられているからです」
 ご夫妻の人生こそ、価値創造の一生であられた。運命をも変えられた。日本の侵略で日中が引き裂かれるなか、日本と中国が必ず仲良くできるのだという証明をしてくださった。気持ちがひとつに通いあう人間の絆の強さ、美しさを象徴として示してくださったのである。
 理想夫婦──その芳しき名は、日中の歴史に永遠に薫っていくにちがいない。
 (一九九五年六月十一日 「聖教新聞」掲載)

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