Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ガンジーの直弟子 インドのパンディ博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
3  「心の大そうじをするのだ」
 奔走のなか、青年が目にしたのは、血が逆流するような、権力の傲りと残虐であった。そして「恐れを捨てた民衆」の崇高さであった。
 ペシャワルでは、無差別に四百人以上が虐殺された。しかし「背中に弾丸を受けている者」は一人もいなかった。だれもが前へ、前へと進んだのだ。
 ある州では、十人ほどの子どもが英軍のために木に逆さに吊るされていた。顔から血を出し、ほとんど意識がなかった。しかし近づくと、虫の息で声をふりしぼった。「‥‥革命万歳」
 三二年、ガンジーの逮捕に抗議してストライキが起こった。博士は町の人々とともに、騎兵隊の前に横たわった。警官が警棒で殴りつけた。騎馬が激しく踏みつけた。博士はひざを割られた。二度と、もとに戻らなかった。
 それでも博士たちは恐れなかった。
 ガンジーの力だった。一人の「大いなる魂マ ハ ト マ」の力が、人々を英雄に変えた。
 「心の大そうじをするのだ」。ガンジーが通ったあとには、人々の胸から、恐怖が消えていた。
 師弟のギアを合わせれば、どれほどの勇気が出るか、力が出るか、慈愛が出るか。それは、激動の民衆闘争を舞台にした壮大な実験であり、証明であった。
 四二年、博士は東ベンガルへ。千人のデモ行進の先頭には五人の少女がいた。「解散しなければ撃つ」。しかし少女たちは逃げなかった。旗を持った先頭の少女が撃たれた。三十秒間に二十八発の弾丸が小さな体を倒した。
 すぐに次の少女が旗を持った。また撃たれた。三人目、四人目、五人目。皆、胸に旗を握りしめていた。最後の少女が倒れたとき、旗はまだ立っていた──。
 博士は言われた。「独立が実現したときも手放しで喜ぶことはできませんでした。犠牲はあまりにも過酷でした」
 この涙を忘れまい。同じ二十世紀の市民として、今の私たちの自由も、この人々の闘争のおかげなのだ。
 ガンジーは教えた。「われわれは非暴力の兵士だ。魂の軍隊なのだ」「非暴力の実践のためには、いかなる苦労も惜しむな」
 師の死後も、博士は戦い続けた。「あらゆる人の目から涙をぬぐう」師の悲願は、まだ達成されていない。師が灯した光を消すわけにはいかない。
 博士は忘れなかった。あの「塩の行進」のとき、打たれでも打たれでも塩を握りしめて放さなかった婦人たちを。意識を失いながら病院で彼女たちは、まだ拳を固く握っていた。その手に握りしめていたのは、″侮辱された民衆が勝利する″その日への「希望」だったのだ。(一九三〇年、塩を専売にするイギリス政府に抵抗して、ガンジーは公然と塩税法に背き、海岸へ行進。海辺で塩をつくった。大衆がこれに続いた)
4  「もしも──」。博士が言われた。「あと二十歳、私が若ければ、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の世界不戦への戦いを、もっと、お手伝いできるのですが‥‥。私は戦い抜いてきました。だからこそ会長のご苦労がわかるのです」
 電流のような感動が体を走った。私は言った。
 「そのお心自体が、最大の支援です」
 多くの指導者が、立場を利用し、保身を考え、小手先の策に終始している現代にあって、何という誠実であろう。博士の胸には、あの少年の日の誓いが、今なお燃えているのだ。人々のために生きるのだ、と。
 博士は言われた。
 「じつはガンジーは、釈尊の教えをが″社会を変える武器″として実践した人なのです」
 「インドの仏教が滅びたのは、僧侶が金をもちすぎて堕落したからです」「今、釈尊、そしてガンジーのメッセージを行動で世界に伝えているのはSGIです」とも。
 ガンジーの配誌は「私の精神が世界の光明であり得るなら、私は墓の中からでも語り続けよう!」であった。
 遺言は実現した。今なおガンジーは語り続けているのだ。″分身″の博士がおられるゆえに。
 命、燃え尽きようとも。
 博士は私の目を見つめられた。
 「私はガンジーの弟子です。師の教えを叫び続けます。走り続けます。私の″両目が閉じられる″その最期の日まで」
 (一九九五年三月十二日 「聖教新聞」掲載)

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