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日蓮大聖人・池田大作

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平和の闘士 アブエバ 国立フィリピン大学総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  「日本はアジアから尊敬されなければ平和国家ではない」
 孤児となったアブエバ兄弟は力を合わせて、皆、立派に成長された。
 アブエバ博士はフィリピン大学、米ミシガン大学で学ばれたあと、フィリピン大学の教授に。ネパール、タイ、マレーシア、ベイルートでも活躍された。
 いずこにおられでも、優しかった父母の思い出が見守ってくれた。
 何をしていても、あの丘が原点だった。「平和を、平和を、平和を!」──もう二度と、あんな悲劇は、と。
 「私の人生の大変な皮肉は、東京の国連大学本部で働くようになったことです」
 ″父母を殺した国″で約八年間(七七年から八四年まで)、ご一家は東京に住まわれた。
 海原のごとき寛き心で友好を広げられながら。
 そしてフィリピンの「ピープル・パワー(民衆の力)」が爆発した八六年の民主革命以後、アキノ大統領を支えられ、八七年、フィリピン大学の総長に選出された。
 初めてお会いしたとき、博士は、あふれる思いを、こう語ってくださった。(九〇年四月)
 「歴史上、″戦争のリーダー″は、たくさんいました。しかし、″平和のリーダー″は少ない。私はそういう人を育てたいのです」
 同大学の卒業生は、フィリピンのあらゆる分野のリーダーとなることが約束されている。
 博士は言われた。
 「日本でいえば東京大学に当たるでしょう」
 「しかし私は、卒業生がリーダーとして、社会に対する責任を、どこまで自覚しているのか、わが国の諸問題を解決へと導く意欲はどうか──大学は、何よりも学生の″リーダーとしての内実″を深めなければならないと銘記しています」
 博士ご自身が、愛情深き「平和の人」であられる。創価大学の留学生らも自宅にまで招いてくださり、慈愛を注いでくださった。私が博士のご自宅にうかがったときは、こうも言われた。(九三年五月)
 「総長になって、一番悲しかったのは、貧しい家の学生が、ほとんど入学できなくなっていたことです」
 博士は授業料システムを改善し、裕福な家の学生は高く、貧しい家の学生は払わなくてもすむようにされたという。
 総長としてとくに力を入れたのが、国際交流のための「平和の家」であった。それは、少年の日の誓いの結晶でもあったのかもしれない。
 国家と国家の関係よりも、民衆と民衆の関係を、より深く、より広く。青年同士の交流、文化と文化の交流によって、「平和」の大河をつくるのだ、断じてつくるのだ、と。
 博士は、「平和の家」の開館式に私を招いてくださった。そして光栄にも同館を「イケダ・ホール」と命名してくださったのである。「日本とフィリピンの友情」の象徴として──。
 あいさつで、私は語った。
 日本の軍国主義者と戦った恩師(戸田城聖第二代会長)の心は「アジアの民衆から心より信頼されたとき、はじめて日本は平和の国といえる」であったことを。
 そして、日本人の一人として、一生涯、徹底して、アジアの人々に尽くしていく決心を。
 心が心に通わずして、何ができよう。
 フィリピン独立の英雄ホセ・リサールは、独立の成功を見ずに処刑された。
  私は、わが故国の上に輝き出づる暁を見ずに、死ぬ。暁を見
  ることの出来る諸君よ、君たちはそれを歓び迎えよ。そして、
  夜の闇に斃れた人びとのことを、決して忘れるな!
 との思いのままに──。
 「平和の暁」を見ることなく、「夜」に死なれた総長のご両親。
 壇上から私は、総長に贈った詩を引き、呼びかけた。
  彼(リサール)の思いはまた 時移り
  あなたの父上 母上が
  あなたは託された
  命の叫びではなかったか
3  総長がメガネを取られるのが見えた。こらえ切れないように涙をぬぐわれるお姿に、私は半世紀のご一家の歴史を、かいま見た。
  父母を捜しに──あの旅を総長は今なお続けておられたのだ
  父母を捜しに──それは平和を捜す旅だったのだ。
  総長が立たれた。
 「貪欲による傷つけあいに、人類は終止符を打とうではありませんか。信条、階級、民族による殺しあいに終止符を打とうではありませんか。『貧しき者が弱い』ゆえの争いに、『強いものが不公正である』ゆえの争いに、終止符を打とうではありませんか!」
 「平和の家」に、博士の叫びが響きわたった。「あの丘」に届けとばかりに。
 (一九九四年十二月十八日 「聖教新聞」掲載)

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