Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人民の力の証明者 コラソン・アキノ フィリピン大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「お母さん、苦しみはもう十分なのではないですか」
 フィリピンのアキノ前大統領に、子どもたちが言った。大統領選挙に打って出る直前である。マルコス独裁政権と戦う決意を告げると、子どもたちは、ためらった。
 「お父さんの七年七ヵ月の獄中生活で、苦しみは十分だったのではないのですか。お父さんが暗殺される悲劇も経験したではないですか。それなのに、お母さんは、今また、命を失う危険に身をさらして、独裁者と戦うつもりなのですか」
 母も悩んだ。夫のベニグノ氏の殉難で、権力と戦うことが何を意味するかは、身にしみでわかっている。
 彼らは平気で嘘を流し、闇から闇に人を葬る。あらゆる策謀と暴力を使って、権力の座をゆるがす者に報復する。
 しかし、人々は自分に期待している。独裁政権と戦い、凶弾に倒れたアキノ氏は「民主主義の殉教者」であった。その遺志を継げるのは、アキノ夫人しかいない、と。
 母は迷った。どうすればよいのか──亡き夫に語りかけた。
 夫はび付先のアメリカから帰国するや、飛行機から降りたとたんに殺された。(一九八三年八月二十一日)
 最後の別れのとき、彼は言った。
 「ぼくは、マルコスに殺されるかもしれない。しかし、そうなったとしても、ぼくの死はむだではない。祖国を解放するために死んだのだと思って、そのときは許してほしい‥‥」
 死の予感は現実となった。
 今、何をすれば、夫は一番、喜ぶだろうか──。
 女史は祈った。そして決めた。
 「夫が私に語りかけ、お前は立つべきだと言うのです」
 彼女は、子どもたちに言った。
 「そうね、確かに私たちは多くの苦しみに耐えてきたわ。でも、あなた方も、自分たちが持っている恵みを考えてほしいの。あなたたちのお父さんと私は、よい結婚をしたし、五人のよい子どもたちにも恵まれた。生活にもゆとりがあったし、愛もあった。
 国民の90%以上の人々と比べれば、あなた方は、ずっと幸せだったのよ。だからこそ、私たちは自分の国民のために、もっとやらなければならないことがあるのです。
 この先、つらく厳しいことがあることは、わかっています。でも、今まで受けた多くの恵みを思うと、その恩返しのために、人々の助けにならなければいけないと、お母さんは信じています」(九三年十一月二十日、芦屋市での「地球家族会議」の講演から)
 子どもたちは、うなずいた。
 国民は、圧倒的にアキノ夫人の味方であった。
 選挙運動のスローガンは「もう、たくさんだ」。
 長い抑圧と嘘の政治に、人々は倦んでいた。その不満を、腐敗打倒のエネルギーへと結集したのが、アキノ氏暗殺への怒りであった。
 危険を覚悟で祖国に帰った英雄。彼の死が、積もりに積もった民衆の怒りを爆発させた。
 私は恩師(戸田城聖第二代会長)の言葉を思い出す。「一人の青年が死を決意するとき、革命は成る」──。
 マルコス陣営は、アキノ夫人が「素人」であり経験不足だと批判した。彼女は見事に反撃した。
 「経験という点では私は、マルコス氏にはとてもかなわないことを認めます。私には、国民を欺し、人の物を盗み、嘘をつき、政敵を暗殺するという経験が全くないのですから」(ルイス・サイモンズ『アキノ大統領誕生』鈴木康雄訳、筑摩書房)
 アキノ派のシンボル・カラーは「黄色」だった。「あなたを忘れません」「あなたを今も愛しています」。黄色いリボンには、そんな意味があった。
 アキノ氏が空港に降り立ったとき、出迎えた支持者が黄色いリボンをつけていた。
 西部劇「黄色いリボン」で、出獄してきた夫を、奥さんが、今も愛していますという合図として、樫の木に黄色いリボンをつけて出迎えた。その話にちなんで、アキノ氏を迎えたのだ。
 アキノ派の運動では、いつも黄色のTシャツや、黄色いリボン、黄色い旗が通りを埋めつくした。それは、何があろうと変わらない「誠実」の心のシンボルだったのである。まさに、生死を超えた「魂の共闘」のドラマだった。
 あからさまな妨害にもかかわらず、選挙は圧倒的な勝利であった。しかし独裁者はそれをも認めず、権力にしがみついた。それを、もはや世界も国民も認めなかった。
2  「花」が「戦車」を押し返した
 民衆の抗議に、鎮圧軍が出動する。
 このときである。世界史に残る「人間バリケード」が出現した。腕を組んだ幾万の市民が、戦車に向かって、じりっ、じりっと進んだ。やがて人々は、祈りの声をあげながら、戦車の鉄板に手をつけた。群衆の中には突っこめない──戦車は空き地へ回った。ライフルを持った兵士たちが飛び降りて、取り囲む市民をにらんだ。
 一人の若い女性が一歩、進み出た。手には花をもっていた。深呼吸をし、思いきって花を差し出した。戸惑う兵士。一瞬、緊迫した空気が流れた。次の瞬間、兵士は目をそらし、「回れ右」をした。
 それを合図のように、殺気立った雰囲気は消えた。女性たちが、次々と兵士に花を差し出した。人々の歓声と口笛が、拍手とともに広がっていった。
 追いつめられたマルコス一家は国外に脱出した。
 アキノ氏の言葉が現実となった。「不正、虚偽、反逆のもとに永続的な力などあるはずがない」(若宮清『コラソン・アキノ──闘いから愛へ』立風書房)
 八六年二月二十五日、アキノ大統領が就住した。宣誓式のあと、彼女は言った。「彼がばにいたような気がしました」
 前政権の″負の遺産″を前に、アキノ大統領は奮闘した。
 私は、アジア初の女性大統領に陰ながら声援を送った
 「花」が「戦車」に勝った。それは、非暴力が暴力に勝ち、ソフト・パワーがハード・パワーに勝ち、「魂の力」が「剣の力」に勝つ時代の開幕を象徴していた。
 力の時代から、文化の時代へ。フィリピン革命は、数年後の冷戦の終結をも予告していたのである。その主役が女性だったことも、偶然ではなかったであろう。
 大統領は語っている。
 「母親はわが子を差別したり、力づくで支配したりはしません。私は、フィリピンの母となって、わが子ともいえる国民の心の中に、正義と真実と自由の尊さを伝えたい」と。これこそ今、求められている政治ではないだろうか。
 九一年四月、マラカニアン宮殿で、私はアキノ大統領に語った。「大統領の人生は、そのまま一編の『叙事詩』です」
 長編詩「燦たれ! フィリピンの母の冠」(本全集第41巻収録)を贈ると、大統領は、はにかんだような笑みを浮かべながら、「本当にうれしい」と喜んでくださった。そして語られた。
 「詩といえば、忘れられない思い出があります。夫が投獄されていたときです。夫は面会に行く私たち家族に『何も贈るものがない』と言って、詩を贈ってくれたのです。獄中では何も買えないかわりに、私と子どもたちに詩をつくってくれたのです」
 試練が鍛えた汚れなき魂──話題が経済に移ったとき、大統領は言われた。淡々とした口調であった。
 「わが国は、日本をはじめ各国から多くの経済援助を受けています。しかし、私は前政権と違って、それを個人的なことのために利用したことは一度もありません」
 大きな仕事は、小さな私欲があってはできない。今の指導者に一番、欠けているのは、この「無私」ではないだろうか。
 女性へのメッセージとしては、こんなことを言われた。
 「私たちは、必ず、自分でなければならない『無上の使命』をもって生まれています。私は、『自分を見つめてほしい』と呼びかけたいと思います。そして『一番ふさわしい、あなた自身の役割を見つけてください』と」
 平穏な生活を望めば、かなえられたはずのアキノ女史。しかし彼女は、自分を見つめ、自分の使命を見つけた。愛する夫君の理想のため、愛する祖国の幸福のために立った。
 愛するもののために戦う──苦しくとも、そこにこそ、美しい「人生の詩」は生まれる。
 女史は、私が作詞した「母」の曲のオルゴールを、とても喜んで聞いてくださったという。
 九四年の福岡大学での講演でも、女史は、青年に「行動」を呼びかけられた。
 「行動によってこそ、人はこの世界に意味を見つけられるのです」と。
 母は、今も戦っている。
 (一九九四年十一月二十日 「聖教新聞」掲載)

1
1