Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民衆を守る大樹 周恩来総理夫妻

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  桜の季節になると、周恩来総理を思う。
 人間への愛情が全身からにじみ出ている、非凡な大政治家であられた。
 総理は言われた。「私は五十年前(一九一九年)、桜の咲くころに日本を発ちました」。総理の帰国直後、あの「五・四運動」が始まった。以来、「全心全意」で人民に尽くし抜かれた半世紀。
 私は申し上げた。「総理、桜の咲くとろに、ぜひ、もう一度、日本に来てください」
 「願望はあります。が、実現は無理でしょう」。ちょうど二十年前(七四年)の十二月、逝去される一年余り前である。ただ気力だけで命の炎を燃やしておられるご様子であった。
 会見は、その日、急に決まった。知らせを受けたとき、私は、長く病床にあると聞く総理の健康を思い、いったんは辞退した。しかし、会見は総理ご自身の意志であった。私にできることは、せめて会見をできるだけ短いものに、と申し出ることだけであった。
 夜の北京を車は走った。降りて玄関を入ると、周総理が、わざわざ出迎えてくださっていた。場所は市内の病院であることを、あとからうかがった。
 「二度目の訪中ですね」。開口一番、総理は言われた。半年前、私の最初の訪中のときは、病気がひどくて会えなかったが、今は快方に向かっており、会えてうれしい──。総理はありのままに、病気のことにもふれられた。
 「あなたが若いからこそ、大事につきあいたいのです」「中国は決して超大国にはなりません」。そして「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとってもっとも大事な時期です。たがいに平等な立場で助けあい、努力しましょう」と。
 平等な立場──明治以来、日中両国が平等の立場で友好を結んだことは一度もなかった。つねに日本が中国を虐げてきた。数千年来、あらゆる恩恵を受けてきた大恩ある国に、「恩を返す」どころか、言語に絶する非道を重ねた。償いきれる日は永遠にない。
 ビルマで戦死した私の長兄は、一時、中国戦線から帰国したとき、小学生だった私に言った。「日本はひどいよ。あれでは中国の人が、あまりにかわいそうだ」
 しかも、戦後も中国の人々に謝罪すらせず、アメリカに追随して、敵視政策を続けた。中国の国連加盟を最後まで妨害したのも日本であった。強きにはへつらい、他には居丈高になる──何と「心」のない国であろうか。ゆえに人間が見えない。民衆が見えない。道理が見えない。この傲りは″経済大国″に成長するにしたがって、いよいよ大きくなったように思える。しかし、そもそも中国への賠償金を日本が払っていたとしたら、その支払いには五十年はかかっただろうといわれる。日本経済にとって大打撃であったことは間違いない。
2  日本の民衆への慈愛
 周総理は「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と。この高潔な「心」を、恩義を、寛大を、日本人は夢にも忘れてはなるまい。今の繁栄は、この土台の上にあるのだ。
 この言葉のように、総理が見つめておられたのは、第一にも第二にも民衆であった。日中友好に関しても「大衆を基礎として」進められた。野党であった公明党をパイプ役に選ばれたのも、社会党の努力を評価されたのも、「国民の代表」としての立場を重視されたのだと思う。
 私に対しても、お会いする十年ほど前から、さまざまな伝言をいただいていた。すでに六〇年代の初めから、「創価学会は民衆を基盤にしている。創価学会を重視し、交流するように」と、孫平化氏(中日友好協会会長)に話されていたと聞く。
 民衆とそ海である。海に波を起こさずして、いかなる船の前進もあるはずがない。
 両国関係が冷えきっていた六八年、私があえて日中国交正常化を提言したのも、人類の五分の一という中国の巨大な民衆との友好なくして、どんな平和論も、未来展望も所詮、観念論だからだ。
3  「明春、桜が咲くころに日本へ行きたいと思っています」。周総理夫人の鄧穎超女史が言われた。総理との会見の四年後、第四次訪中の歓迎宴。女史は私の隣に座られていた。
 桜の季節に──総理の″願望″を実現して、女史は来日された。七九年四月のことであった。あいにく東京の桜は開花が早く、春嵐に盛りを散らしていた。「総理が愛された、日本の桜を見てもらいたい」。私は、せめてもと八重桜を迎賓館に届けた。創価大学に根を張った「周桜」「周夫婦桜」のアルバムをお見せすると、女史は本当に喜んでくださった。
4  二本の桜
 じつは、ご夫妻の住まいの庭には以前、二本の桜があった。二人で大事にされていたが、一本は枯死してしまった。二本の桜のもとで写真を撮り残さなかことが心残りですと、女史からうかがっていたのである。
 北京・中南海のご自宅には、二度うかがった。四年前(九〇年)の最後の訪問では、総理の遺品を贈りたいと話があった。ご夫妻の質素な生活は、だれもが知っている。数少ない、そんな大切なものをいただくわけにはいかない。何度も、お断りした。しかし女史は「私は生前の総理の先生への心情をよく知っております。だから、お贈りすることにしたのです」と譲られない。総理愛用の象牙のペーパーナイフであった。
 「とれをご覧になって、総理をしのんでください。先生と総理の友情の形見として‥‥」
 ともに頂戴した女史愛用の玉製の筆立ても、今は遺品となったことが悲しい。
 思えば会見のとき、総理は暴虐な四人組との戦いの真っただ中にあられた。安穏を願う十億の民の″思い″を一身に担って総理は一人、大樹のごとく立っておられた。逝去の報に、総理を親と慕う中国の人々の慟哭は、広大な山河をも震わせた。その総理の″思い″を胸に、女史は生き抜かれた。
 私たちも生きたい。ご夫妻のように。いかなる、心なき嵐があろうと、民衆を尊敬し、民衆のために、民衆とともに、民衆の中で、人間への愛情を貫き通したい。
 今、日中の交流は広がり、″春″は来たかに見える。しかし日本の関心が、ふたたび、中国との「友情の拡大」でなく「経済関係の拡大」にのみ向けられているのならば、あの戦争から何も学んでいないことになろう。
 年々歳々、春は巡り、桜花は匂う。
 私は祈る。総理ご夫妻が願われた、子々孫々までの友好の「心」が日本人の胸にも花と開いて、永遠に列島を埋め尽くしてほしい──と。
 (一九九四年四月十七日 「週刊読売」掲載)

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