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日蓮大聖人・池田大作

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体制を超えた人格の魅力 ホフロフモスクワ大学総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  初訪ソで私は心に期していた。素朴と言われでもよい、ともかく人間に会うことだ。人間として、人間同士の友情を結ぶことだ、と。
 当時の日ソ関係は、凍てついた大地のようであった。米ソ関係も中ソ関係も、たがいを疑いながら、その不安を軍拡競争で埋める悪循環から脱しきれていなかった。
 日本人はソ連の人々の素顔を知らず、何となく怖い、冷たいというイメージが広められていた。
 そこには、さまざまな歴史的経緯もあった。しかし、それを強調しても何にもならない。不信感から不毛な対立を続けることは、こんな危険はないし、次の世代に対して無慈悲であろう。
 私は総長に申し上げた。「未来の世代のために、私は来ました」。総長は、にっこりうなずかれた。
 国家。民族。体制。イデオロギー。違いは違いとして、「違いがあるからこそ」積極的に近づくべきだと私は信ずる。
 私は「できることから始めよう」と決めた。ロシアの氷の冬に、一つ、一一つ、人家の窓の明かりが、ほっと安心をあたえるように、小さくともよい、友情の灯を灯してこよう。終わりがないかのように思えるシベリアの冬にも必ず春がやってくるように、少しでもよい、しっかりと、春の種を播いてこよう、と。
 総長にもこの信念を語った。
 私は政治家ではない。だれに頼まれたのでもない。それどころか批判ばかりであった。「今ごろ、なぜソ連へ行くのか」「宗教者が何のために宗教否定の国へ行くのか」「共産主義を認めるつもりか」──。
 私は、その三ヵ月前に中国も初訪問していた。中国の友人からもソ連へ行くなんて、とんでもないと非難された。六〇年代から本格化した中ソ対立は、このころには決定的になっていた。中国と友好を進める人はソ連と友人になれず、ソ連に近づけば中国への道が閉ざされる。概略的に言えば、そういう状況であった
 しかし、私には私の信念がある。どんな風圧があろうとも、平和のためには、だれかが突破口を開くしかなかった。
 こうして訪れたモスクワで、最初に、お会いしたのが、ホフロフ総長だったのである。これは私にとっても、日本の多くの人々にとっても幸運なことであった。それは総長を通して、「こんなにも立派な人格者がおられるのか」と、ソ連を見る目が大きく変わっていったからである。鉄のカーテンの向こうに、私たちと同じく平和を愛する、血の通った人間が見えてきた瞬間であった。
 モスクワ大学の展望台に立ち、私たちはモスクワの市街を一望しながら、「教育交流による平和」を語りあった。
 「わが創価大学は、モスクワ大学と比べれば、孫のような存在です。しかし二十一世紀には貴大学に匹敵する大学になって世界に貢献を、というのが私の夢です」
 総長は、私の目を見返して言われた。「大学の意義は決して大きさで決まるのではありません。創価大学には、全人類的価値を掲げる、すばらしい『建学の精神』があります。だからこそ私たちは真剣におつきあいしたいのです」
 そして、このとき、総長室で私は見た。壁に大きく広がる絵──三十二階建ての壮大なモスクワ大学の全景を、綴れ織に描いたゴブラン織であった。「これは大学の二百周年の記念に、北京大学から贈られたものです」
 ああ、少なくとも、ここには″壁″のない世界がある。教育の世界の友情の証だけは中ソ対立の嵐をも生き延びている。私は励まされる思いだった。
3  ホフロフ総長と約束した再会は、思いのほか早くやってきた。私の帰国から一カ月半後、総長が夫妻で来日され、創価大学にも来訪されたのである。
 ご夫妻は東京の創価学園にも来られた。(七四年十一月三日)
 学園生が出迎えるなか、夫妻は車から降りられた。エレーナ夫人の髪を風が揺らした。そっと手を添えて髪を整える気品ある夫人の隣で、総長は、あの笑顔で学園生に声をかけられた。
 「皆さんは日本の宝です」「英知の人材の集まりです」「世界が皆さんを楽しみに待っています」
 若い人の歓迎の心に心で応えたい、励ましたい、という総長の誠実を、その場のだれもが感じた。普通なら、ただ手を振って中に入ってしまうところであろう。人格の人は、行く先々で、忘れ得ぬ一枚の絵を描き出すものだ。
 翌七五年五月、私は二度目の訪ソを果たした。リンゴの白い花が咲きこぼれるモスクワ大学で、私は名誉博士号を頂戴した記念の講演「東西文化交流の新しい道」(本全集第1巻収録)を行った。
 講演のあと、「そうです。そのとおりです。精神のシルクロードを通わせましょう」。総長の一言は、当時の閉ざされたソ連にあって、深い決意がこめられていた。
4  「より高く」に挑んだ人生
 翌五月の総長からの礼状には認められていた。「またモスクワでお会いしたい」
 総長の突然の計報が届いたのは、それから三月も経たない八月であった登山中の事故であった。初訪ソ以来の大切な友人であるトローピン副総長によると、ホフロフ総長は、ソ連の最高峰コミュニズム峰(七四九五メートル)に三度目の挑戦をしていた。
 五〇〇〇メートルまで登り、その後、山頂をめざしたが、体が山の気候に十分慣れないまま、高原部で急に冷えこんできた。足はしびれ、感覚が鈍くなった。しかし総長の性格が、登頂を簡単に諦めることを許さなかった。
 そのうえ、何という方であろうか、下山を決めたあとも、重病の自分を後回しにして、一緒に登っていた青年たちを先に下山させ、自分は残ったのだという。
 「それで手遅れになった面があるかもしれません」(トローピン副総長)。総長は空路運ばれたモスクワの病院で息を引きとられた。五十一歳の若さだった。
 友人の追悼文集の一文が、総長への人々の尊敬を物語っていた。
 「彼は最高峰に挑みつつ『死』を迎えた。彼の『生』もそうであったように」
 つねに「より高く」「より遠く」を見つめて行動したホフロフ総長。総長のあの優しい笑みは、自分への極限までの厳しさから生まれていたのである。
5  あれから世界は激変したが、総長の逝去後も、ご一家との友情は続いている。
 九二年にはホフロフ総長の長男アレクセイ・ホフロフ教授(モスクワ大学)と三重で再会できた。総長の墓へ参じた(八一年五月)あと、ご自宅でお会いしてから、三度目である。
 「父と池田先生との間から両国の新しい交流が生まれたことを私は誇りに思っています」と言ってくださった。
 「今でこそ外国との友好を口にするのは簡単ですが、あのころ、無理解のなかで『国は違っても、人間はたがいに仲良くできる』と主張し、行動することが、どんなに大変だったかを私たちは知っているからです」とも。
 私は、立派に成長されたど子息を見つめながら、ホフロフ総長が、この姿をどんなに喜んでおられるかと、胸に迫る思いがあった。
 父から子へ、心はつながっていた年々歳々、両大学の交流も二十年間で多くの人材を輩出した。
 「やりましょう。未来の世代のために!」。総長と語りあった、あの日、あの時。
 人間性は通じあうと信じ、目には見えない心を信じて始めた「春への一歩」の正しさを、若き世代が今、証明しようとしてくれているのである。
 (一九九五年六月十八日 「聖教新聞」掲載)

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