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日蓮大聖人・池田大作

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世界的物理学者 ログノフ モスクワ大学総長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「これは私の欠点かもしれませんが──」
 ログノフ博士が言われた。
 「休むということを知らないんです。いつも何かやっています。仕事をしているときのほうが、自然な生活のリズムというか、普通の状態なんです」
 かといって、博士に、あくせくした感じは、まったくない。泰然として流れるヴォルガの大河のように、あせらず、休まず、わが道を進んでおられる。
 初めて、お会いしたときにはなかった白い″トルストイひげ″も、すっかり板につき、ロシアの大人の風格が漂う。
 博士の信条は「人生は創造」である。
 「人間にとって一番、大切なものは何でしょうか。私は『使命感』であると確信します。人は、だれでも自分の使命がなければなりません。過去を振り返って『歳月を無駄には過ごさなかった』と言えなければなりません。
 人間は、自分と、自分の仕事が、人々にとって有益かつ必要なものであり、自分の人生が創造にささげられたと信じなければなりません。創造の規模の大小は、問題ではありません」
 博士は若くして世界の「素粒子研究」の最先端に立ち、一九六七年、四十歳のときには、当時、世界最大の陽子シンクロトロン(加速器)を完成させた。
 加速器では、粒子を光速に近いスピードで衝突させ、そこから生まれる多くの粒子を調査する。
 複雑な「粒子の誕生」の様子をシンプルに表現するために、博士が考案された方法(インクルーシプ・プロセス)は、今や世界の主流として定着しているという。
 研究所もゼロからのスタート。モスクワから百数十キロの郊外、十世帯ほどしかない小村に新しい「研究都市」を創造する──その重責が若き博士にのしかかった。
 研究に専念してはいられなかった。
 「新しい経験でしたが、生活は生活です。生活が要求するものは、すねて成し遂げなければなりません。この経験で私は豊になりました」
 素朴なようで、ある種の人生観を百八十度ひっくり返す言葉であろう。
 「人生に私は何を要求するか」でなく、「人生は私に何を要求しているのか」を考えて生きるというのである。
 まさに使命感であり、創造者の生き方である。不平など入り込むが余地がない。
 今や、そのプロトヴィノ市の研究所には、八千人もの人々が働いているという。敬愛をこめて「ログノフ村」と呼ばれている。
 私も「ぜひに」と招待を受けているが、まだ果たせず、″宿題″になっている。
 博士の功績をたたえると、「私のことはともかく、私の師匠は偉大でした」という答えが返ってきた。それ自体、博士の偉大さを証明する答えであった。師とは、N・N・ポゴリユーポフ氏。十四歳で最初の学術研究を発表したという物理学の天才である。
 師は冗談まじりによく言ったそうである。
 「一番大事なのは、人間が発想をもつことであって、数学的な厳格さなどは、いつでもあとから付け加えられるんだ」
 私はログノフ博士と二冊の対談集『第三の虹の橋』『科学と宗教』(本全集第7巻収録)を編んだが、博士の思索には一貫して、師の精神が生きていた。
 「科学」といっても、それを生み出すのは、どこまでも「人間」であるという視点である。
 当然のようで、これほど忘れられがちな真理も少ない。
 博士は「どんな教科書も、どんな講義や教材も、生きた人間交流には、かなわない」と信じておられる。
 『第三の虹の橋』(八七年発刊)は、共産主義国家の指導的学者と仏法者の対話ということで話題になった。
 当時、博士はモスクワ大学の総長で、ソ連科学アカデミーの副総裁である。
 何回も、博士は原稿に手を入れられたようだ。それは国家の″公式の理念″に合わせるためであったかもしれない。
 そうしたご苦労のおかげで、「自由主義国家の宗教者と初の対談集」がソ連で発刊された。
 これが突破口となって、米ソの学者の対談集も実現したという。
 どんなにイデオロギーが違おうと、人間は人間である。対話できるはずである。否、違いがあればあるほど「対話」を避けてはならない。
 私が二十年前(七四年)、批判の嵐のなか、逆風に立ち向かう気持ちでソ連を訪問したのも、この信念からであった。
 博士が加速器を作るときも、多くの反対があったそうである。
 「しかし、私はそれでもやろうと決めました。その後、反対していた人たちに『あなたたちは反対していましたよね』と言いましたが、彼らはそんなことは覚えてもいないのです」と笑っておられた。
 そして「彼らにとっては、その場だけの言葉だったのかもしれませんが、私には自分で決断しなければいけない責任があったので、はっきりと覚えています」と。
 日本とソ連・ロシア──要は、両国の握手が、人類にとって利益になるのか、否かである。問題の根本は、そこにある。枝葉にとらわれて反目しあっていても、何の得もない。未来の世代に対して無責任といえよう。
 不信感の厚い氷の壁を打ち破って、「友情の門」を、だれかが開かなければならなかった。門が開けば、そこから課題の解決へ、いくらでも糸口は見えてくるはずである。
 博士は、私の心情を熟知してくださった。
 「本当のことを言う人間は、つねに迫害にあうのです。先見の人の言動は、あとになってはじめて評価されるのです」と。
2  「科学は宗教の一部分」
 私が博士に二冊目の対談集『科学と宗教』(九四年刊)を提案したのも、このテーマが、二十一世紀へ、避けてては通れない根本課題であったからだ。
 じつは、旧ソ連当時から、博士の令嬢ログノワさんは信仰をもたれていた。党と国家の中枢におられた博士は、幹部である友人から″忠告″されたそうである。「何とかしろよ。著名な唯物論の指導者の一家の娘が信仰しているなんて、まずいじゃないか」
 博士は言われていた。
 「娘の気持ちが今になって、わかります。共産国家がエベレスト山のように崩れないと思われた時代から、なぜ信仰していたのか。生命という不可思議な心の次元の世界は、唯物主義、科学万能主義では、はかりしれない。微妙な、もっと別の観点から見なければわからないでしょう」
 九三年六月の創価大学での講演では、さらに突っ込んで論じられた。
 「地球は今、環境汚染をはじめ人間生命が脅かされています。ゆえに『人間』を蘇生させる宗教の力が必要です」
 「宗教は人間の精神世界をリードするものであり、その精神世界のなかに創造力があります。科学の発展は、この創造力によっています。したがって、科学は宗教を構成する一部分ともいえるでしょう」
 私との語らいでは「科学と宗教の対話を阻んだのは、宗教の本質を都合のよいようにねじ曲げた聖職者たちでした」「仏教は科学と矛盾しないと思います」「慈悲という言葉も、かつてロシアでは古くさく思われていましたが、今こそ慈悲が社会に必要です」と。
 博士の率直さと勇気を思うとき、私はドストエアスキーの言葉を想起する。「心から真理を追求しようと思い立ったものは誰でも、それだけですでにおそろしく強いのである」(「作家の日記(2)」小沼文彦訳、『ドストエアスキー全集』13所収、筑摩書房)
 私利私欲も、政治的計算も博士には無縁である。
 「ただ真理を極限まで見きわめたい」──少年のころからの情熱を、今も赤々と燃やしておられる。
 昨年夏、一人息子のオレグさんが急逝された血液ガンであった。モスクワ大学の優秀な物理学者で、レーザーの専門家であられた。
 病気と聞いて、私は「できることは、すべてさせていただきたい」と申し出たが、ガンの進行は速く、その直後に亡くなられた。私は心より追善し、長文の弔電を送った。
 博士は、「息子の死にあって、『生と死』の問題を真剣に考えました。これから、息子の分まで精いっぱい生きていくつもりです」と──。
 大河のごとく、一切を雄々しく受け入れ、なおも前進しようとされている。かつて対談で言われた言葉のとおりに。
 「人生は停滞を許さないのです。われわれが欲するかどうかにかかわらず、人生は絶えず新しい課題を提起しますし、まったく予期しない事態の前に立たせます。
 ロシアの詩人アレクサンドル・プロークの言葉は驚くほど正しいと思います。
 『人生は、すべてが戦い。やすらぎは夢に現れるのみ』と」
 二十年前の初訪ソの折、私は「宗教者がなぜ宗教否定の国へ行くのか」と言われて、答えた。
 「そこに人間がいるからです」
 そこで出会った、かけがえのない「人間」──そのお一人が、偉大にして寄なるわが友人ログノフ博士なのである。
 (一九九四年十二月十一日 「聖教新聞」掲載)

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