Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

世界最古のポローニャ大学総長 ロベルシ=モナコ博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  「総長は、ポローニャ大学の何代目の総長なのですか」
 初会見のときである。(一九八九年四月、東京)
 ロベルシ=モナコ総長の答えが興味深かった。
 「じつは、はっきりわからないのです。イタリア統一以後では三十代目なのですが‥‥。
 なぜ正確にわからないかというと、ボローニャ大学は、民衆の中から自然発生的に生まれたものであり、現存する最古の文書が示す一〇七六年以前のことは不明なのです」
 九百年の伝統。もちろん世界一である。しかも、いかなる君主や皇帝も、教皇も設立に関与していない。
 「はじめに学生ありき」──淵源は、ただ「学びたい」という若者たちの情熱であった。その情熱の「心」が学生という存在を生み、その「心」に応えて教師が生まれた。
 当初は、学生という存在の多くは教師の自宅に寄宿して学んだという。建物でもない、制度でもない、大学の実質は「知識への渇仰」であり、それを共有する師弟という「人間の絆」であった。
 「行き詰まったら原点に返れ」とは創価学会の牧口常三郎初代会長の言葉である。
 大学をはじめ現代の教育界にとって、ポローニャ大学という「学問の偉大なる母」の起源は、鋭い示唆を投げかけているのではないだろうか。
 「大学(ユニバーシティー)」の語源「ウニベルシタス」も、学生の集団を意味した。現在でいう「学長(レクター)」も、学生集団の中心者のことであった。
 学生が主人、否、「学ぶ意欲」が主人であった。
 教師は、一日欠勤するにも学生の許可が要った。講義の進行が遅れたら罰金を取られた。
 それほどの真剣さで学生は求め、そんな学生に従うことを教師は喜びとした。学生への「栄誉ある従属」と呼ばれるゆえんである。
 「学生が中心」──それは、ある意味で、「答え」よりも「問い」が中心ということでもあろう。
 問題を発見し、問う力。自分で考える力。
 それこそ、汲めども尽きぬ知の源泉ではないだろうか。
 私は哲学者ホワイトヘッドの言葉を思い出す。
 「わたしは優等生に大変疑念をいだいています」「すらすらと答えができる能力というのは、ある種の浅薄さや皮相さを立証します」(ルシアン・プライス編『ホワイトヘッドの対話』岡田雅勝・藤本隆志訳、みすず書房)
 むしろ、ゆっくりでもよいから自分で考える創造性こそ、大切に育てたいというのである。
 問い、考える「喜び」があって、はじめて学問は血肉となる。
 レオナルド・ダ・ヴインチの言葉は、あまりにも有名である。
 「食欲なくして食べることが健康に害あるごとく、欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない」(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)
2  大学は「野蛮な専門人」を生む所ではない
 ロベルシ=モナコ総長は足早に歩かれる。
 風貌もローマ時代の英雄のようであり、じつにエネルギッシュな方である。
 「世界最古の大学」を、新しき「二十一世紀の大学」の模範にしようと奮闘してこられた。
 「大学は変わらなければなりません。急速に変化する現代社会に適応もせず、過去のように、学術の世界に高慢に閉じこもっているならば、深刻なまちがいです」
 総長の信念が結晶したのが、ボロ一ニァ大学九百年祭の「大学憲章マグナ・カルタ」であった。世界四百二十大学の総長らが署名した。私が創立した創価大学も参加した。
 この歴史的な憲章は、人類に貢献する「大学の使命」を果たすための国際協力を謳っている。
 憲章の魂は「自由」。
 「全ての政治的舷尉や経済的圧力から、道義的にも知性的にも自立していなければならない」であった。
 その″自由なる大学″が国境を超えて連帯し、世界のヒューマニズムを守り抜いていく──。憲章の誓いが私の胸を打った。
3  ちょうど二十年前の秋だった(七四年九月)。モスクワ大学を初訪問した。
 中ソ対立のころである。この年、中国を訪問したばかりの私は、双方を訪れることについて、さまざまな非難を浴びた。
 しかし、私には私の信念があった。
 招かれてモスクワ大学の総長室に入ったときである。壁いっぱいの大きな絵が目に飛びこんできた。モスクワ大学の全容を描いたそれは、北京大学から贈られた絵画であった。
 私は思った。
 「政治の世界には厳しい対立がある。しかし学問の世界に国境はない。教育の世界の友情には永遠性がある」
 私は励まされる思いだった。将来、中ソは必ず和解するとあらためて確信した。事実、和解は成った。
 私の胸には、世界を結ぶ大学交流、教育交流の構想が広がっていった。
 「世界総長会議」「教育国連」「教育権を独立させた四権分立」も提案した。
 創価大学と諸大学との交流は三十カ国を超え、五十数校を数えるにいたった。
 じつは、ロベルシ=モナコ総長も、ソ連、中国との交流の重要性を考えておられたようだ。その意味で、創価大学が、すでに七〇年代から両国と交流を始めていた事実に注目されたと、うかがった。
 九百年祭の意義をこめた「ポローニャ大学特別重宝展」も、三十数カ国から開催の要請があるなか、「ぜひ創価大学で」と決めてくださった。(八九年十二月、創大に隣接する東京富士美術館で開催)
4  憧れの学都ポローニャ。南国の空は抜けるように青かった。
 ここかしこに中世以来の面影を残す、この古都で、ダンテが学び、ペトラルカが青春を謳歌し、コぺルニクスが天と地を思索した。ゲーテが、パイロンが、デイケンズが清遊した。
 九四年五月、総長の招きで講演のため訪れた私は、感慨深かった。
 学問の都は、自由の都であり、精神の砦である。
 神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世の横暴に対し、学生たちは「われらは一陣の風に屈する湖沼の葦にあらず」と一歩も引かなかった。
 忠誠を誓わせようという権力に徹底抗戦し、ついには教師と学生が一致してポローニァを去って、新たに大学をつくったことも再三あった。
 「力」に屈せず「魂」を死守する──ボローニャ大学旗にしるされた「リベルタス(自由)」の気風が、若きダンテらの魂をはぐくんだのであろう。
 総長室に向かう大学の廊下にも、毅然たる青年ダンテの胸像があった。
 そのダンテも、のちに故郷フイレンツェから追放され、「世界を祖国に」生きる運命となった。
 後世、ミケランジェロは嘆き、怒った。
 「最高の完成者こそ、最大の侮蔑をもって遇されるのか」と。
5  学歴社会といわれる今、大学教育は、いずこに向かおうとするのだろうか。
 もしも、知識のみあって魂なく、権威・権力に盲従する「才知ある動物」を生むだけであれば、何のための大学か。何のための学問か。
 総長は叫ばれた「大学は断じて『野蛮な専門家』を生むところであってはなりません」
 宿舎の近くに、ボローニァ市の中心、ネットゥーノ広場があった。
 その一角には、ファシズムに抵抗して倒れたレジスタンスの青年、学生が一人一人、顕彰されていた。
 自由を守り抜く──ルネサンスの青年と現代の青年を結ぶ清冽な「精神の水脈」を、私は見た気がした。
 (一九九四年十月二日 「聖教新聞」掲載)

1
1