Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間自身のペレストロイカ ゴルバチョフ大統領

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  その「自由」が私を葬ろうとも
 共通の友人である作家のアイトマートフ氏が、あるとき、寓話に託して大統領に「二つの道」を語った。
 ──ある予言者が王に言いました。王には二つの運命、二つの可能性がある。一つは伝統にならい、圧政によって王座を固める道。それに従えば、最後まで権力の座に安住できるでしょう。もう一つは民衆の幸福のために、完全な「自由」を贈る道。これは受難の厳しい道です。なぜなら、彼らはその自由を使って、あなたをも非難するでしょう。裏切りや暴言が公然と横行し、嘲笑があなたを取り巻くでしょう。どちらの道を選ぶかはあなたの自由です‥‥。
 耳をかたむけていた大統領は言った。「考えるまでもない。私はもう選んだのだ。ただ民主主義を、ただ自由を──だれが理解しなくとも、私はこの道を行くしかない」
 忘れてはならないと思う。氏が書記長に就任したとき、無制限ともいうべき権力があった。そこに安住することもできた。それを、あえてなげうち、氏は変革の波を起こしたのである。波がみずからの足場をも崩す危険を承知しながら。
 その意味で、変革は指導者の「人間自身のぺレストロイカ」から始まったといえる。
 そして氏の「新思考」は全面核戦争の恐怖から人類を解放し、冷戦は終わった。しかも無血で。その恩恵を日本人もどれほど受けていることか。氏が大統領を退いたとき、私は手紙を送った。「これからです。これから、あなたの本当の人生が始まります」
 あくる九二年にも、九三年にも、日本での語らいが実現した。いずれも春四月。「春は私のシンボルなのです」。初の対話のとき、そんなことも言われていた。
 もう大統領ではない氏の政治的立場に煩わされず、私は喜んでいたしかし、大統領としての来日のときには先を争って会いたがったのに、掌を返したように冷淡になった人々もいた。″今ごろ何をしに来たのか″″今、彼に会っても何の得にもならないよ″という調子であった。
 そこには、ペレストロイカを導いた「全人類的視野に立つ」精神など、かけらほどもなかった。目先の利益に飛びつくだけの、旧思考そのものの「閉ざされた精神」があった。
 九三年には夫妻で創価大学を訪問された。じつは、来学するとロシアの国民投票に間に合わないことが、日本についてから判明した。しかし氏は迷わず、学生との約束を守ってくれた。その信義の心に打たれた。
 大学では約一時間の講演をされた。
 「ペレストロイカは精神のルネサンス運動です」「西側諸国では、ぺレストロイカを冷戦におけるソ連の敗北宣言とする見方が大勢を占めているでしょう。しかし、本質はその反対であります。ぺレストロイカは、ソ連の人々の真の精神的・道徳的勝利であり、偽りと二重道徳、シニシズム(冷笑主義)を断固として拒否した精神の表れなのです」
 元気になった氏の姿が私はうれしかった。また、氏が「技術本位の文明から、人間本位の文明へ」と語るのを聞いて感慨深かった。
 初訪ソ(七四年)のとき、コスイギン首相は私に「あなたは何主義か」と問うた。私は問髪をいれず答えた。「平和主義であり、文化主義であり、その根底は人間主義である」と。
 その十一年後にゴルバチョフ氏が登場した。
 二十年前は、ソ連に行くだけで、否、ソ連の関係者と会うだけで何やかやと言われた。しかし私は、日ソも中ソも米ソも、同じ人間として、人間の幸福を第一義に対話するならば、必ず「開かれた関係」になると信じていた。危険もあったが、何としても道を開きたかった。今、「道はできた」と信じる。
 九四年五月、私はモスクワで氏と本格的に対談を始めた。対談集の仮タイトルは、氏の提案で『二十世紀の精神の教訓』(潮出版社。本全集第105巻収録)とした。
 見つめているのは、ただ二十一世紀であり、二十二世紀である。平和の「道」に続いてくれる人々を待つだけである。それ以外、幾十年の嵐を生き抜いた私に何の望むものがあるだろうか。
 (一九九四年六月五日 「週刊読売」掲載)

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