Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカの良心 ノーマン・カズンズ博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
1  おそらく人間には、二つのタイプがある。
 問題が起こったとき、解決のために「行動すべきだ。しかしむずかしい」と、しりごみする人。一方、「むずかしい。しかし行動すべきだ」と挑戦する人である。
 逃走か闘争撃か──ノーマン・カズンズ氏は、二十世紀における後者の代表的人物であった。
 問題を「むずかしい」と見きわめる点で氏は現実主義者であり、「しかし行動すべきだ」と譲らない点で理想主義者だった。
 どっちつかずの感傷ほど、氏に無縁なものはなかった。ため息を数えるよりも、自分に可能なことを数えることに、いつも心が向いていた。
 私は鮮やかに思い出す。カズンズ博士の目が、鷹のように鋭く、それでいて菩薩のように深く温かかったことを。
 開学したばかりのアメリカ創価大学まで、地図を頼りに、みずから車を駆って来てくださった。しなやかな青年のような足取りだった。カリフォルニアの空の青さが、氏の力強い笑顔と、名画のようにマッチしていた。
 現れるだけで、その場がパッと明るくなる魅力があった。人を励ます何かが発散していた。氏は、その英知と誠実無比の人柄で、人々の善意と善意を結びつけた。
 原爆で両親を失った「原爆孤児」四百余人の里親になってくれるよう、編集長を努める「サタデー・レヴュー」誌で読者に呼びかけ、実現してくださったのは一九四九年(昭和二十四年)のことである。子どもたちは、援助のおかげで高等教育が受けられた。氏も里親の一人になった。
 被爆した若い日本人女性の方々をアメリカで治療させるために奔走したのもカズンズ氏であった。どれほどの苦労や障害が続いたか、わからない。しかし氏は、彼女たちを勇気づけたかった。それは人類の一員としての責任と感じた。
 世界市民の氏にとって、原爆は「敵国の上に落とされた」のではなかった。それは「人類の上に落とされた」のだ。
 氏は「現代人は時代遅れだ」(以下、引用は『ある編集者のオデッセイ』松田銑訳、早川書房から)との一文を書いた。
 「一九四五年八月六日をもって人間は新しい時代を迎えた」。核兵器の出現によって、国家が行う戦争は国民を守るどころか、自国をふくむ全人類を破滅させ得るものになった。ゆえに「原子力時代においてもっとも時代遅れなのは国家主権」であり、人類は一蓮托生の運命共同体である。時代が決定的に変わったのだ。人間も変わらなければならない。「国民としての人間から、世界人としての人間へ」と。
 国家主権から人類主権へ。国家益から人類益へ。競争的人間から協力的人間へ。世界戦士から世界市民へ。
 氏が、この主張を行ったのは、何と一九四五年八月十八日である。本質を見抜く先見には驚くほかない。時に、三十歳の若きだった。氏の目には「権力の狂気」が、ありありと映っていた。
 以来、風圧に抗して、核兵器廃絶へ堂々たる論陣を張った。六三年四月には、ソ連のフルシチヨフ首相にも会ぃ、ケネディ大統領の平和の意思を伝えた。
 氏は首相にアメリカの皮肉な新聞広告を見せた。
 われわれはロシア人を
 三六〇回殺すことができる
 ロシア人はわれわれを
 一六〇回しか
 殺すことができない
 われわれのほうが上ではないか?
 首相は認めた。「まったくこの広告のいうとおりだ。核戦争は狂気の沙汰だ」
 同年九月、アメリカ上院が部分的核実験停止条約を可決した直後、ケネディ大統領は氏に、長年にわたる平和への世論づくりに感謝する手紙を送った。
 氏にとって、言論の自由とは、気ままに「言いたいことを書く」無責任ではなかった。「今、言わねばならないことを書く」ことで人を救う戦いであった。
 ナチスによる悪魔の生体実験の「モルモット」にされたポーランドの女性たちがいた。戦後も補償はなく、心身の苦しみは極限に達していた。氏は書き、動き、西ドイツ政府から補償を勝ち取るまで頑張った。
 「世界の人々の良心の火を掻き起こすことが必要なのなら、われわれがその最初の火を点じよう」
 ただ、苦しむ人々を癒したかった。
 しかし被爆した若い女性たちを支援するために来日した氏に、ある日本の記者は「本当の理由は何か」「金はどこから出ているのか」と聞いたという。なかには「ある興行グループがあって、娘たちをアメリカ中連れてまわり、法外な料金を取って見世物にするのだという噂もあるが」との質問まであった。
 氏の善意は、やがて民衆の間に伝わった。
 こんな大きな愛が──感動が世論を喚起した。うねりは被爆者援護法の成立へと連なっていったのである。
2  希望は「人生の秘密兵器」
 「くじけてはいけません」。希望を必要とする人を、そのままにしておけないのが、カズンズという方であった。なぜだったのか。
 氏の行動の原点には、少年時代の闘病体験があったと思う。
 十歳で肺結核になり療養所に送られた。一九二〇年代。まだ結核が死病とされたころだ。少年は多くの命が奪われていくのを見た。
 そのうちに、一つの不思議に気づいた。病状は同じ程度でも「自分はきっと治る」という希望をもっている楽観主義者のほうが、実際に治る率が高いという事実を発見したのだ。少年は将来を夢みることに決めた。
 ただ普通に暮らし、仕事をもち、家庭をつくる。そんな自分を想像するのにも「希望の力」を奮い起こさなければできない境遇がある。広島とポーランドの女性たちがそうだった。少年もそうだったのだ。
 「生命の不安にさらされたことのない人は、希望の大切さに気がつかないのです」
 この「希望の力」を極限まで追求することが氏の人生になった。少年は、一つどころか、たくさんの夢をみた。
 「十年単位の人生プランを考えていました。最初の十年間は音楽に、次の十年は科学・医学に、さらに物書き、ジャーナリストに、最後の十年を哲学に、と。
 しかし『サタデー・レヴュー』誌に長くかかわることになり、三十五年のジャーナリスト生活を送ることになってしまった。そのあと医学に移りました。(UCLA〈カリフォルニア大学ロサンゼルス校〉医学部教授)
 まだ二つの分野が残されていますが、だいたい計画どおりに進んでいると思います」
 細分化が進む現代社会にあって、ルネサンスの巨人たちのごとく「全体人間」を志向する人が、ここにいた。博士のスケールの大きさは、一個の人間の可能性を信じきる「希望カの大きさ」に比例していたといえよう。その力を知った人は、もはや自分で自分に枠をはめることは、できなくなるのである。
 一念の力。心身相関の科学的研究へ、博士は大きな波を起こした。つねに最先端の人であった。
 博士によると、人間には神経系や免疫系、循環系などのほかに、二つの重要なシステムがある。治癒系と信念系である。
 「治癒系」は病気と闘うとき、身体の総力を動員する機能をもつ。これと共同して働くのが、精神の「信念系」である。
 信念系における希望、生への意欲、安心感、愛情、使命感、楽観などの肯定的な精神活動が、治癒系を活性化し、「人体という薬局」を活発に働かせる。私の恩師(戸田城聖第二代会長)も「人体は一大製薬工場だ」と話していた。
 博士は言う。「希望こそ私の秘密兵器」と。
 五十歳で膠原病に襲われたときも勝った。六十五歳で心筋梗塞に倒れたときも勝った。医師の「回復は不可能」との宣告を聞いた瞬間、体中に「さあ、やるぞ」という猛烈なエネルギーがわき立ってきて、思わず笑みを浮かべたという。
 「人間の脳が、考えや希望や心構えを化学物質に変える力ほど驚嘆に値するものはありません。すべては信念から始まります」
 私は恩師の「科学が進むほど仏法は証明されていく」との言葉の正しさを確認する思いだった。
 あなたが「もう、だめだ」と思ったら、そのとたん、「もう、だめだ」という脳の命令にしたがって心身全体がその方向に動き始める。逆も同じである。
 その意味で、人生には二つの生き方しかない。「やらなかったから、できなかった」ことを証明するか、それとも「やれば、できる」ことを証明するかである。
 脳には莫大な余力がある。だれもが一個の天才なのだ。
 私の人生のテーマも「一人の人間が、平和のために、どこまでできるのかを証明する」ことにある。
3  博士の訃報が届いたのは、私との対談集『世界市民の対話』(毎日新聞社。本全集第14巻収録)の序文を届けてくださった約十日後であった。
 七十五歳──寿命を延ばしに延ばされた宝の一生であった。
 その一生が、私たちに呼びかける。「あきらめるな」「自分は無力だと思うな」「『それは夢物語だ』と決めつけてはいけない」「あたえられた生命を使いきるのだ」。生命開花の黄金の世紀へ──博士は二十世紀を駆け抜けた二十一世紀人だったのかもしれない。
 (一九九五年七月二十三日 「聖教新聞」掲載)

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