Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「文明の共存」を探るハーバード大学文化… ヌール・ヤーマン博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  個人的に「知りあう」ことが平和を
 博士が身をもって体験してとられた、イスラム世界への偏見の根強さ。私はトインビー博士が、ヨーロッパ人によるトルコ人虐殺の報をイギリスの新聞に送って批判をあびたことを思い出す。
 トインビー博士は書いている。「ごく少数の人びとを除き私の同国人にとって、トルコ人は名の知れない食人鬼であった」「トルコ人は、侮蔑的な集合名称はもっていたが、人間的な個人名や顔はもたなかった」(『交遊録』長谷川松治訳、オックスフォード大学出版局)
 そして個人同士の友情の必要を述べ「人間は、個人的に知っている人に対しては、残虐行為を働かないものである」(同前)と強調された。
 レッテルを張ることは恐ろしい。個人の顔を消し、人間を抽象化することは恐ろしい。日本には鬼畜米英などと決めつけた愚かな歴史もある。しかも、決めつけの多くは、権力者の都合によって作られ、扇動されたものなのである。
 社会主義が崩壊した地域の民族紛争について、「操られることに慣れてしまった大衆がまた操られている」と指摘する声もある。
 これほど情報化が進んだ世界で、なぜ相互理解が進まないのか。そこにも情報の偏向と操作があろう。ヤーマン博士は「情報化の拡大は、相互理解のスピードだけでなく、相互誤解のスピードをも増大させた」と批判する。
 「感情のインフレーション」を論ずる人もいる。現代人は、カンボジアで何百万もの人々が殺されたニュースも、野球の試合の結果と同じように、心の上っ面を過ぎていくだけになってしまった、と。
 「どうして笑っていられるの? 中国では苦しんでいる子どもたちがいるというのに」。これがシモーヌ・ヴェイユ(フランスの思想家)の白熱光のような人生を貫いた問いであった。(田辺保『シモーヌ・ヴェイユ』講談社。参照)
 無関心は「心の死」である。
 「地球社会」「地球村」へと歴史は進んでいく。その未来を決めるのは、遠い何かではない。私たちの心が生きているのか、死んでいるのかである。心の「狭い檻」を壊せるかどうかである。人間を抽象化し、物体化する悪を見抜けるかどうかである。
 昔、こんな詩を聞いた。「交通事故死二名と言うな。太郎が死んだ、花子が死んだと言え」
3  ヤーマン博士の庭に木の葉が舞った。目が大地に向かった。多様な樹々のその多様さをたたえ、愛おしみながら支える大地。
 私たちの社会も、「人間愛」という共通の大地を豊かに耕し、広げていかなければと私は思った。
 一つの庭にも全宇宙が宿っているように、一人の身近な人を思いやり、一人の新たな友人をつくる。その「開かれた心」にこそ、人類の新しい世紀が、くっきりと映っているのではないだろうか。
 (一九九五年五月二十八日 「聖教新聞」掲載)

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