Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

大学革命をめざすハーバード大学学長 ルデンスタイン博士

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  大学は「大学に行けなかった庶民」のためにある
 大学は、社会の指導者をつくる場である。しかし、「大学はもはや、知識ある野蛮人をつくっているだけである」と言われ、「権威に従順なロボットの生産工場になった」とさえ嘆かれている。
 問題は、大学で「何を学んだか」ではない。「どんな人間になったか」である。大学を出たために、大学に行けなかった庶民を見下すような人間になったならば、いったい何のための学問か。
 大学は、大学に行けなかった人々のためにこそあるのだ。そう言えば、言いすぎであろうか。
 近代ハーバード大学の父エリオット学長は「大学は民衆のためにある」「ハーバードの精神は″奉仕″の一語に尽きる」と言った。
 「われわれは行動する人間を育てるのだ。公共の利益に大きく貢献する人を世に送るのだ。われわれは漫然とした世の傍観者、人生のゲームの見物人、あるいは他人の労苦を口うるさく批評する評論家などを養成することには関心を持たない」(R・N・スミス『ハーバードの世紀』村田聖明・南雲純訳、早川書房)
 民衆への「奉仕」という根本の哲学を教えること。大学の指導者自身が身をもって「奉仕」を実行すること。それこそが、模索されている「大学ルネサンス(復興)」の基本ではないだろうか。
 ルデンスタイン学長は、イギリス・ルネサンスの文学がご専門だが、当時も大転換期。激動ぶりは現代に通じている。
 変化の激しい時代に教育はどうあるべきか──学長は「知識」とともに、「確固たる人生観」を学生に身につけてほしいと語っておられた。
 「確かな人生観があれば、環境の変化にも柔軟に適応でき、つねに成長していくことができます。知識は、どんどん変化していきます。つねに学び、つねに成長することが求められているのです」
 知識と信念──学長ご自身がこの二つを備えた方であられる。有名なエピソードがある。
 七二年の春、三十七歳の氏はプリンストン大学の学生部長であった。学生たちがある研究所を封鎖しようとして、研究所の職員と、けんかになっていた。氏は仲裁に入った。そのとき、職員が氏のあごを殴った。横転した氏の写真が大々的に報道されてしまった。
 「さぞかし、腹が立っただろう」。同僚が言うと、「いや、彼は間違って、ぼくを殴っただ。あれは、その場の緊張を静めてくれたよ」
 「これがルデンスタイン流なのです。彼がいらいらしたり、怒ったり、平静を失ったのを見たことがない」と人々は感嘆した。
 学長は、あなたが発揮できる一番強い力はと問われて、「何より私は『聞きたい』」と答えている。
 学長の魅力を室内楽に譬えた人もいる。四重奏のように、他の人の音に耳をかたむけながら、それに自分の音を調和させていく──。
 高校教師である令嬢のアントニアさんは「父は世界を『全体的に』見ています。人々がたいに作用しあっている模様を。父は人々がともに働けば、必ずものごとを成しをげられるのだと感じているのです」と語る。
 人々の力を引き出す名人。これこそ現代の求めるリーダー像であろう。
 「教育の大統領」に、庶民の心を知る人を選んだ。それ自体、時代の最先端を走る同大学の英知を象徴していよう。
 日本も謙虚になって「指導者革命」に本気で取り組まなければ、学歴社会が進むほど、冷たい傍観者や評論家だらけの国になってしまうのではないか。そう私は憂えている。
 (一九九五年二月五日 「聖教新聞」掲載)

1
2