Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第24巻  

小説「新・人間革命」あらすじ

前後
1  【母の詩】
  1976年(昭和51年)の8月末、山本伸一とフランスの作家アンドレ・マルローとの対談集が発刊された。また、同月半ばから10月上旬にかけて開催された方面・県の文化祭は、「人間革命の歌」とともに、人間讃歌の絵巻を繰り広げた。
  9月5日、東京文化祭に出席した伸一は、彼の詩に曲をつけた「母」の歌の調べに耳を傾けながら、世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げるとともに、病床にある彼の母・幸を思い、心で唱題した。2カ月余り前、危篤状態に陥り、奇跡的に一命を取り留めた母は、伸一に語った。「皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」と。その母の心を体して、この日も、崩れた5段円塔に再挑戦した男子部員らに励ましを贈るなど、奮闘し抜いてから母のいる実家へ。苦労に苦労を重ねてきたが、「日本一の幸せ者」と言い切った母。翌朝、母は、安らかに霊山へ旅立つ。
  9月14日、伸一は静岡県の東海研修所に先師・牧口常三郎を顕彰する牧口園を訪問。さらに、10月25日には恩師・戸田城聖の故郷・厚田村に建設される戸田記念墓地公園の着工式に出席。11月には、北陸を訪問し、石川文化会館に戸田記念室を、富山文化会館に牧口記念室の設置を提案。関西牧口記念館の開館式にも臨み、歴代会長の遺徳を宣揚し、その精神を伝えるために全力を尽くす。
2  【厳護】
  1976(昭和51)年晩秋の夜、伸一は学会本部周辺を巡回していた「牙城会」の青年に出会うと、一緒に建物の隅々まで点検しながら、絶対無事故を期す基本を徹底し、学会厳護の精神を訴える。
  11月、登山会の輸送を担ってきた「輸送班」を発展的に解消し、諸行事の運営・整理などを担う「創価班」が発足すると、翌年1月6日に「創価班総会」の開催を提案した。
  77年(同52年)「教学の年」が明ける。新年勤行会終了後、伸一は次々と記念のカメラに納まり、「白蓮グループ」のメンバーも激励。彼女たちに、民衆奉仕の精神と「冥の照覧」への確信を語り、励ます。
  一方、聖教新聞の元日付から、伸一の「諸法実相抄」講義が始まり、「大白蓮華」の1月号から「百六箇抄」講義の連載も開始されるなど、仏法研鑽の息吹が学会に満ちあふれる。伸一は、1月15日に大阪で開催された教学部大会で、〝宗教のための人間〟から〝人間のための宗教〟への大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。
3  【人間教育】
  77年、学会は、広宣流布の主戦場である第一線組織の強化に取り組む。伸一は、各部大ブロック幹部の勤行会に出席し、仏法への大確信を打ち込んでいく。伸一に代わって勤行会を担当する最高幹部との懇談では、全同志の功徳と歓喜の実証こそが、組織強化の要点であることを訴える。
  2月6日夕刻、創価学園生との懇談に続いて、第1回となる東京教育部の勤行集会に出席。創価の源流を継承する教育部が61年(同36年)に誕生して以来、伸一は、その育成に精力を注いできた。勇んで立ち上がった教育部員はそれぞれの場で人間教育に奮闘。実践報告大会の開催や体験談集を発刊していく。また、地域では教育相談室を開催し、社会貢献の大きな実績を挙げてきた。伸一の励ましによって、教育部は、新時代の大空に雄々しく飛翔し、全国津々浦々に、「平和の世紀」「生命の世紀」を開く人間教育の潮流を広げていく。
4  【灯台】
  社会本部に、社会部、団地部、農村部(現在の農漁光部)、専門部の設置が発表されたのは、オイルショックの引き金となった1973(昭和48)年10月の第4次中東戦争の勃発直後であった。
  いずれも、信心を根本に、社会、地域に貢献していくことを目指して設置されたものである。
  1977(昭和52)年の2月2日、山本伸一は、社会部の勤行集会に出席し、皆が職場の勝利者となる要諦を語る。社会部員は自覚を一段と深め、職場の第一人者として光り輝いていく。
  17日には、全国のメンバーが集って開催された第1回「農村・団地部勤行集会」へ。過疎化のなかで農業再生のために「農業講座」や「農村青年主張大会」などを開催する農村部へ、伸一は〝地域、学会の灯台たれ〟との指針を示す。
  一方、団地部は、過密化した居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をつくるために献身していた。伸一は、団地部のメンバーには〝幸福への船長、機関長たれ〟との指針を贈る。一人一人が、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出す——そこに、創価学会の使命がある。

1
1