Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻  

小説「新・人間革命」あらすじ

前後
1  【智勇】
  1969年(昭和44年)5月3日の本部総会の席上、山本伸一は750万世帯の指標を示すとともに、創価大学に、「人間教育の最高学府たれ」等の三つのモットーを示した。
  また、過激化していく学生運動について「第三の道」を開いていくよう学生部員に提案する。
  伸一は、月刊誌に次々と筆を執り、暴力革命では真の社会改革はできないことを述べ、人間革命を根本とした無血革命こそ、社会の矛盾を乗り越える道であると強調。また、三権分立に教育権を加えた「四権分立」構想を提唱していく。
  未来ある学生を守りたいと願う伸一は、夏季講習会の折、男子学生部が大学の自治を奪う「大学立法」に反対する抗議集会を行うと聞けば、自らデモの先頭にも立った。
  その姿に、多くの学生部員が奮起。やがて彼らは、学生運動の「第三の道」を目指し、新学生同盟(新学同)を結成するのである。これは後の青年部の難民救援運動など、学会の平和運動の先駆的試みとなった。
2  【使命】
  この年は、広布の緑野に、多彩な使命の花が、新たに咲き始めた年であった。
  まず、女子部の看護婦(現・看護師)メンバーによる白樺グループが結成。「生命の世紀」へ飛翔を開始した。さらに鼓笛隊は、アメリカでのパレードに参加し、数々の感動のドラマが生まれていった。
  “新しい時代を担う人材を育成しよう”——伸一は、同志が使命に乱舞する時代をつくるために必死であった。
  夏季講習会では、37カ国・地域から集った海外の友に、雨中、濡れながら渾身の激励を重ねた。そして、文芸部の結成式に臨んでは、文は生命であり、文は魂であり、また文は境涯であると語り、新しきルネサンス(文芸復興)の担い手が、陸続と育つことを願うのであった。
3  【烈風】
  間断なき伸一の戦いは過酷を極め、体力も限界に達していた。
  師走。この年、7度目の関西訪問中、伸一は急性肺炎による高熱と咳に襲われる。だが、医師も危ぶむなか、和歌山に入り、病を押して学会歌の指揮をとる。その生命を賭しての激闘は、全同志を鼓舞し、偉大な民衆勝利の歴史を開く。
  当時、学会は荒れ狂う烈風にさらされていた。折から浮上した“言論・出版問題”に事寄せ、ついには、国会まで巻き込んで学会と公明党への攻撃が沸騰するのである。
  その背景には、大躍進を続ける学会、そして公明党に危機感を抱いた、既成の宗教勢力と政治勢力が結託し、迫害の構図が作られていたのである。
  だが同志は烈風をはね返して、70年(同45年)1月、目標より早く、会員750万世帯を突破する。伸一もまた、体調の悪いなか、同志を励ますために、小説『人間革命』第6巻の執筆を再開する。
  第三代会長就任10周年となる5月3日が近づきつつあった。伸一は、広宣流布の流れが渓流から大河へと変わる今、新たな展望を示そうと決意する。
4  【大河】
 1970年(同45年)5月3日の本部総会で、伸一は、広宣流布とは“流れそれ自体”であり、永遠の闘争であると強調。そして、広宣流布は“妙法の大地に展開する大文化運動”と位置づけた。
 そして、学会の組織形態について、これまでのタテ線——紹介者と新入会者のつながりで構成された組織から、ヨコ線——地域を基盤としたブロック組織へと移行することを提唱。それは、地域のなかに人間の連帯を作り上げるためであった。
 伸一の眼は21世紀に注がれていた。ゆえに、未来の主役となる少年少女の育成に全力を傾けた。その翼の下から、人材グループ「未来会」の若人が力強く羽ばたくことになる。
 同年9月、聖教新聞社の新社屋が落成。伸一は、日々、惰性を打ち破ることが、良い新聞をつくる最大の要件であると指導。1カ月半後の全国通信員大会では、“通信員と配達員こそ新聞の生命線”と訴え、“大河の時代”へ、着々と布石を重ねていったのである。

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