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日蓮大聖人・池田大作

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イタリア・パレルモ大学での記念講演 文明の十字路から人間文化の興隆を

2007.3.27 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

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2  最先端の知性と文化の発信地
 シチリアが放った、悠久なる歴史の光のなかで、ひときわ注目されるのが、ノルマン・シチリア王国が、「12世紀ルネサンス」と呼ばれる大文化運動に果たした役割であります。
 私も、以前、創価大学での講演(「スコラ哲学と現代文明」本全集第1巻収録)で論じましたが、中世のヨーロッパは、いわゆる"暗黒"などではなかった。
 イタリア・ルネサンスの開花に先駆けて、その萌芽となる学問や芸術などが、すでに奥深く発展していたことは、決して見逃すことのできない歴史であります。
 当時、王宮のあったバレルモでは、ギリシャ、ビザンチン、イスラムの哲学、数学、天文学等に関する多くの貴重な文献が、ラテン語に翻訳されておりました。
 そして、それらの宝石のごとき知識が、やがてヨーロッパの各地へと伝えられ、広まっていった。まさしくバレルモは、世界の最先端の知性と文化のセンターとして、比類のない光彩に包まれていたのであります。
 その光輝ある精神の伝統は、現存するバレルモの多くの建築物に、今も名残が留められております。
 現在、シチリア州議会堂となっているバレルモ王宮は、アラブ人が城として建て、ノルマン人が宮殿に改築し、スペイン人が華麗な装飾を加えた名建築として知られる、かけがえのない世界の宝の宮殿であります。
 異なる文明を受け容れ、融合させながら、新たな価値を創造し、その豊かな実りを、世界へと発信していく──。コスモポリタン都市としての真価を、きわめて象徴的に体現した場所であります。
 ここバレルモを都として、シチけア王国は、西欧の近代国家の揺籃ともなりました。それは、異なる文明との創造的な対話と交流がもたらすダイナミズムを、じつに雄弁に語りかけてくれます。
 キリスト教にせよ、ユダヤ教、イスラムにせよ、大乗仏教にせよ、世界の主な宗教は、いずれも「文明の十字路」において誕生しました。
 紀元2世紀頃、カニシカ王の治世に全盛期を迎えた古代インドのクシャーナ朝は、インド洋やアラビア湾の海路や、オアシスの交易路を通じて、ペルシャ、ローマ帝国とも、さらには中国とも結ばれ、交流を行っていました。
 そして、その触発と融合のなかで、かの有名な「ガンダーラ美術」が生まれ、そして「大乗仏教」が興起していったのであります。大乗仏教の勃興は、この壮大な交流なくしては、あり得なかったことが、最近の研究でも明らかになっております。
 まさに、文明の交流は、より豊饒な人間文化を興隆させ、時代の扉を大きく開く、新たな思想を育んでいったのであります。
3  発展か衰退かの大きな岐路
 もちろん、歴史上、異なる文明の出あいと接触が、予期せぬ事態を招き、また、数多くの対立や紛争の悲劇を生んできたことも事実であります。
 かつて私が対談集(『21世紀への対話』本全集第3巻収録)を発刊した歴史家アーノルド・トインビー博士は、人類文明の盛衰の歴史を「挑戦と応戦」の概念で分析し、考察しました。
 端的に申し上げるならば、"異なる文明との出あい"という「挑戦」に対し、どのように「応戦」し、適応していくか──それが、発展か衰退かの大きな岐路となるという史観であります。
 グローバル化が、急速な勢いで進む現代世界において、異なる文化や文明との出あいを、平和と共生の方向へ、創造的な方向へと、断じて向かわせていかねばならない。トインビー博士との一致点も、ここにありました。
 これこそ、現代の人類が突きっけられた重大な課題なのであります。
 とはいえ「文化の交流」といっても、「文明の対話」といっても、すべては人間と人間の「一対一のコミュニケーション」から始まるものであります。
4  バレルモと日本結んだ世界市民
 歴史のドラマを繙くとき、私たちの心に希望を贈ってくれるのは、異なる文化のなかに飛び込み、生き生きと活躍していった「コスモポリタン(世界市民)」たちの群像であります。
 バレルモと、遠く離れた日本との間にも、そうした麗しい先人たちの足跡が刻まれております。
 そもそも「コスモポリタン」という言葉は「コスモス」(宇宙)に由来します。その同じ名前を持った「コスモス」の花を、近代日本に紹介したのは、シチリアが生んだ偉大な芸術家ヴィンチェンツォ・ラグーザ(1841〜1927年)でありました。
 ラグーザは、日本が近代国家としての歩みを始めた黎明期に、西洋美術を初めて日本に伝授し、多くの若き芸術家たちを育成してくださった、近代日本美術の大恩人の一人であります。
 その彼が、明治政府によって設立されたばかりの工部美術学校の西洋彫刻の教師として招請されたのは、1876年(明治9年)のことでした。
 ラグーザと結婚した日本人の妻・玉も、のちにラグーザが設立したバレルモ工芸美術学校の副校長・教授となり、日本美術の紹介や日本画の制作にも尽力しております。
 彼女は、貴バレルモ大学の美術専攻科にも学び、芸術家としても活躍しました。
 そして、夫の死後は、日本に帰国し、最初の女流洋画家として、人生を飾ったのであります。
 私は、シチリアと日本を心から愛し、人々を芸術と文化で結ぼうとした、ラグーザ夫妻の深き心に、「コスモポリタン」としての一つの模範を見る思いがするのであります。
 私の恩師である、創価学会の戸田城聖第2代会長は、日本の軍国主義と戦った「コスモポリタン」でありました。
 戸田会長は、第2次世界大戦後、いち早く「地球民族主義」を提唱し、仏法を基調とした民衆による平和の対話運動を開始しております。
 それは、とりもなおさず、「一対一の対話」を基軸としながら、草の根の民衆の心の連帯を拡大する闘いでありました。
 そして、その地道な積み重ねのなかにあって、地球をわが郷土とし、多様な民族と心を結びゆく、「開かれた世界精神」を、青年たちに育んでいったのであります。
 ともすれば、「差異」がぶつかり合い、緊張を生みがちな文明と文明との関係を、平和的で創造的なものへと転換しゆく原動力は、いったい何か──。
 私は、そのベクトル転換のカギこそ、第2のテーマである「内発的精神に基づく開かれた対話」であると考えております。
 それは、換言すれば、互いの共通性を見出し、それぞれの多様性を生かしゆく、「開かれた精神の対話」とも言えます。
 かつて、平和を「精神の力から生ずる徳」と位置づけたのは哲学者のスピノザでした(畠中尚志訳註『スピノザ・思想の自由について』理想社)。
 たしかに、"平和"を叫んでも、そこに人間の積極的な意志が伴わなければ、他者との関係は、不安定な状況を免れません。
 また、「消極的な寛容」の域を脱しない限り、"差異=互いを隔てるもの"との発想から抜けきれず、"独善"という暗闇の中を、さまよい続けることにもなりかねない。
 そうではなくて、異なる文明との交流を、自身を啓発し、向上させゆく」"成長の糧"としていく。その基盤を成すものこそ、暗闇の中で、互いの足元を照らす灯りとなり、人間の心と心を結ぶ紐帯(ちゅうたい)となる「開かれた対話」なのであります。
5  奇跡の和平を成し遂げた偉業
 そこで、21世紀に要請される"開かれた対話"の要件を考察するにあたり、シチリアの歴史に燦然と輝く"平和の対話"──バレルモが生んだ名君フェデリコ2世(フリードリヒ2世、1194〜1250年)と、イスラムの君主アル・カーミル(1180〜1238年)が成し遂げた、平和協定の偉業について触れておきたい。
 申し上げるまでもなく、幼くしてシチリア王に就いたフェデリコ2世は、1215年、神聖ローマ帝国の皇帝に即位しました。
 歴史家ブルクハルトが「王座にある最初の近代人」と呼び、「世界の驚異」とも讃えられたフェデリコ2世は、ギリシャ語やアラビア語をはじめ、七つもの言語に通じ、イスラム文化にも深い造詣があったとされております。
 さらにまた、ヨーロッパ最古の大学の一つであるナポリ大学の創設など、教育事業にも力を注ぎました。
 特筆すべきは、このフェデリコ2世が、エルサレムの奪還のために、軍隊を率いて戦いを挑まねばならなくなった時、彼のとった行動であります。
 当時は、アイユーブ朝の君主アル・カーミルがエルサレムを支配し、西欧世界からの攻撃を退けていました。
 ヨーロッパの盟主となったフェデリコ2世にとって、エルサレムの奪還は、好むと好まざるとに関わらず、至上命令となったのであります。
 とはいえ、幼い頃からイスラム文化に慣れ親しみ、多くの有能なアラブ人の臣下を抱えていた彼にとって、イスラム世界との戦いが、不本意であったことは、想像にかたくありません。
 彼はそこで、一計を案じ、1228年、エルサレム攻略の拠点であるイスラエル北部の町アッコに向かいました。
 フェデリコ2世が、まずそこで行ったのは、イスラムの君主アル・カーミルに対し、深い敬意を込めた書簡と使節を送ることでありました。
 アル・カーミルも、フエデリコ2世の英知と人格に、深い感銘を受けたようであります。そして、5カ月にわたる粘り強い和平への交渉が始まったのであります。
 驚くべきことに二人は、書簡を通じ、抜き差しならない領土交渉を進める一万で、哲学や数学などの難問を巡り、闊達な学問の対話を重ねていました。
 その過程で、互いの信頼関係を育みつつ、自らの地位を危うくしかねないギリギリの線まで譲歩を重ねていった。
 そしてついに、聖地の平和的統治を取り決めた歴史的な「ヤッファ協定」が締結されました。
 両者は、一度も武器を交えることなく、「和平」を実らせたのであります。
 宗教的熱狂と憎悪、政治的・経済的利害の渦巻く、聖地をめぐる争いの歴史の中で、まさに奇跡の出来事でありました。
 なぜ、このような「平和協定」が可能となったのか──。
 当然、さまざまな見方があるでしょうが、それは第1に、両者があくまで「平和的解決」を目的としたこと、第2に、二人がともに「コスモポリタン」としての資質を備えていたこと、第3に、両者が一貫して「敵─味方」という敵対的関係ではなく、一人の人間としての対等な立場で相対し続けたことにあるといってもよいのではないかと、私は考えてきました。
 書簡という形であるにせよ、精神の対話を重ねていくなかで、いつしか二人の間には、友情さえ芽生えていったのであります。
 もちろん現代とは、あまりにも時代状況が逢うかもしれない。しかし、二人の成し遂げた偉業は、時を超えて人類が学ぶべき多くの示唆を投げかけております。
6  冷戦下に中ソの首脳と会談
 私自身も、これまで、戦争に苦しめられた世代の一人として、平和を求める一仏法者として、世界の多くの識者や指導者との対話を重ねてきました。
 1968年に「日中国交正常化」を提言した私が、初めて中国を訪問したのは、その6年後(74年5月)のことでした。
 当時、中国とソ連との間には政治的緊張が高まっており、北京では、人々が掘った地下防空壕を見ました。
 訪れた中学校でも、生徒たちが、攻撃に備えて、校庭で地下室を掘る作業にあたっており、その不安げな様子が、じつに痛々しかった。
 米ソ対立に加え、中ソの関係が険悪化するなか事態の打開を願いつつ、私は、その3カ月後、ソ連に向かいました。
 10日間に及ぶ滞在で、モスクワの市井の人々とも会話を交わしながら、皆、北京の人々と同じく、平和な暮らしを切実に取っていることを肌身に感じました。宿舎で部屋のカギ番をしていた無口な婦人からも、夫を戦争で失った悲しみを聞きました。
 両国の民衆は、等しく平和を望んでいる。そのためにはまず、互いへの不信感や掃疑心を取り払い、首脳同士の間で確たる信頼関係を構築するしかない──。
 その思いを込めて、最終日に臨んだ、クレムりン宮殿でのコスイギン首相との会員で、私は、ソ連が中国を攻めるつもりがあるかどうかを、率直にうかがいました。
 コスイギン首相は、「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と明快に応えられたのであります。
 74年12月、再び訪中を果たした私は、中国の首脳に、そのことを明確に伝えました。
 周恩来総理から「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です。すべての国が平等な立場で助け合わなければなりません」との言葉を聞いた私は、中ソの和解も遠からず実現することを確信しました。
 事実、歴史はそう動いたのであります。
7  20世紀の悲劇招いた分断化
 20世紀の歴史を、あえて一言で総括するならば、「敵と味方」や「善と悪」といった二元論による分断化が地球的規模で進むなかで、戦争や破壊が繰り返され、あまりにも多くの尊い人命が失われた"メガデスの世紀"でありました。
 ホロコーストしかり、ジェノサイド(大量殺戮)しかり、冷戦後に続発したエスニック・クレンジング(民族浄化)も、またしかりです。
 「人間は、一方の側へ善を押しやり、一方の側へ不善を押しやるために、世紀をかさねてたたかい努力している」(中村白葉訳『リュツェルン』、『トルストイ全集3』所収、河出書房新社)とのトルストイの警告から、人類はいまだに脱することができないのであります。
 すべての「善」は自分たちに引き寄せ、すべての「悪」は他の人々に帰す。
 そのような生き方に身を委ねれば、メフィストフェレスに魂を売ったファウストのように、いつしか良心の呵責さえ感じなくなってしまうに違いありません。
 テロや民族紛争に苦しむ21世紀の世界が、このアポリア(難問)を乗り越え、外在的な「差異」に基づく呪縛を打破し、平和と共生の地球社会を築きゆく源泉となるもの──それこそ「対話」であり「コミュニケーション」なのであります。
 先に触れたフェデリコ2世とアル・カーミルの例のように、「敵─味方」の次元を超えた、人間としての共感、そして精神の内発性に裏打ちされた言葉は相手の心の内奥に届き、ともに平和の方向への一歩を歩み出せるのではないでしょうか。
 この点、仏法では、「善悪不二」といって、すべての人間の生命には、潜在的に「善悪」の両面が具わり、縁に触れて善にも悪にも転じると教えております。
 ゆえに私は、自他ともに、内なる「悪」の発現を抑え、「善」を薫発しゆく、生命の錬磨作業こそ、創造的な「対話」の真骨頂であると思っております。
 現代に要請される「対話」のあり方も、「コミュニケーション」の要件も、突き詰めれば、ここにいたるのではないでしょうか。
 この問題を深く掘り下げる上で、示唆深いのが、釈尊の次の言葉であります。
 「『かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である』と思って、わが身に引きくらべて、(生きものを)殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ」(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫)
8  ここには、二つの重要な視座があります。
 第1は、守るべき戒律を、外在的なルールとして規定するのではなく、「わが身に引きくらべて」とあるように、同苦の眼差しに根ざした内省的な問いを出発点としていることです。
 第2は、「他人をして殺させてはならぬ」とあるように、単に自身が殺生を行わないたけでなく、他の人々にも生命尊厳の思想を強く働きかけていくことを、促している点であります。
 この「内省的な問いかけ」と「他者への働きかけ」の往還作業──つまり、たえず自己を省みながら、相手の善性を信じ、呼びかける「対話」は、自己を統御し、規律する力を、揺るぎないものへと鍛え上げゆくプロセスになるに違いありません。
 その意味において、対話を支える両輪とは、人間誰しもに備わる「善性への信頼」と、それを粘り強く引き出そうとする「忍耐の精神」にあると言ってよい。
 この両輪こそ文明間対話、そして宗教間対話の“画竜点晴”なのであります。
 私は、対話の真価は、対話を通じて得られる成果以上に、人間の精神と精神が打ち合い、織りなす対話のプロセスそのものにあると強く感じてきました。
 私がこれまで、世界のリーダーや識者の方々と1600回を超す対話を重ね、約50点に及ぶ対談集を発刊してきたのも、ひとえに、「対話の力で世界を結び、地球的問題群の解決の糸口を、共に見出したい」との思いからであります。
 また私が創立した三つの研究機関(東洋哲学研究所、戸田記念国際平和研究所、ボストン21世紀センター)でも、これまで文明間対話や宗教間対話に意欲的に取り組んできました。いずれも、具体的な紛争防止や貧困の克服、地球的規模での環境破壊の防止といった“問題解決志向型”の対話を通じて、人類の英知を結集することを眼目としております。
 13世紀の日本で記された日蓮仏法の「立正安国論」も、対話形式で綴られております。
 それは、思想的背景の異なる二人が「客来って共に嘆く屡(しばしば)談話を致さん」と、ともに社会の混迷を憂えるという共通の土台に立って語り始められております。
 そして、悲劇を生み出す原因は何か。悲劇を止める術はあるのかと、真摯な議論が交わされるなかで、最後は、ともに心を合わせ、人々のため、社会のために行動することを誓う場面で結ばれているのであります。
 宗教の本来の使命は、「生命の尊厳」という人類の普遍的な地平に、人間一人一人の心を立ち返らせ、「平和の文化」を構築していくためのエートス(道徳的気風)の源泉となり、それを確立することにあることが示されております。この「対話」が、“人間精神の眼”を開き、人々を狭隘な偏見と憎悪の呪縛から解き放つものであるならば、平和的共存の生き方を社会に定着させ、確かな時代の思潮へと高めゆくものこそ「教育」であります。
9  そこで、最後のテーマである「教育による『平和の文化』の創出」について考えてまいりたい。
 かつて、イタリアの偉大な教育者マリア・モンテッソーリは、「紛争の回避は政治がなすべきことであり、平和の構築は教育がなすべきことである」と喝破しました。
 そして「教育は、人間の改革を通して、人格の内面的な発達を可能にし、人類の目的と、社会生活のあり方を方向付ける」と達観しております。
 まさに、教育の成否こそが、人類の命運を決定づけていくのであります。
 私の尊敬してやまない友人であり、偉大な人権と人道の闘士である、南アフリカ共和国のマンデラ前大統領は、断言しておりました。
 「肌の色や育ちや信仰のちがう他人を、憎むように生まれついた人間などいない。人は憎むことを学ぶのだ」(東江一紀訳『自由への長い道──ネルソン・マンデラ自伝(下)』日本放送出版協会)
 それゆえに、マンデラ氏は、南アフリカ共和国の再建にあたり、人々の心から「憎しみ」の根を取り除き、「人間への信頼」と「非暴力の心」を植える政策と教育の推進のために、全力を尽くしたのであります。
 私どもSGI(創価学会インタナショナル)でも、アメリカ青年部による非暴力の対話運動「ビクトリー・オーバー・バイオレンス(暴力に打ち勝つ)」や、「世界の子どもたちのための平和の文化の建設」展をはじめ、世界の各地で、平和と非暴力のための教育運動に取り組んできました。
 ここパレルモ市でも、2001年の春に、多くの方々の協力を得て「現代世界の人権」展を開催させていただきました。
 地元の多くの青少年も見学に訪れ、大きな共感が広がったとうかがい、心から嬉しく思っております。
 そして、貴パレルモ大学を中心にシチリアの皆様方が、「非暴力の社会建設」と「平和の文化」の創造のために、断固たる言論の闘争を続けておられることに、私は、最大の敬意を表するものであります。
 それは世界に、そして後世に、限りなき勇気を贈る偉業であります。
10  哲人キケロの正義の言論闘争
 はるか2000年以上の歳月を超えて、かの哲人キケロが、ここシチリアで、民衆を苦しめる悪と、言論を武器に戦い抜いた歴史も、私たちを力づけてくれます。
 紀元前73年からの3年間、シチリアの総督を務めたウェッレスは、私利私欲のために、人々からありとあらゆる富を収奪し、横暴かつ残虐な圧政を敷いて、民衆を苦しめました。
 しかし、当時のシチリアの人々には、ウェッレスをローマの法廷に訴える手だてがなかった。そこで最後の望みとなったのは、かつてシチリアの財務官を務め、人々と深い信頼で結ばれていたキケロを代理人(訴追者)として選び、不正をただすことでした。
 キケロは、人々の願いを聞くと、即座に引き受け、立ち上がった。そして、シチリアに赴き、ウェッレスが、いかに非道の限りを尽くしたか、民衆の証言を徹底して集めたのであります。
 町々では、ウェッレス一味の陰謀によって、わが子を殺された母親たちの涙ながらの訴えにも耳を傾けた。
 キケロは、そうした母たちの願いに応えるためにも、50日にわたって、厳しき冬のシチリアを歩きに歩き、身の危険を覚悟で、法廷闘争の準備のために奔走し、万全を期したのであります。
 裁判は、キケロの雄弁もさることながら、彼が代弁した民衆の証言と、収集した膨大な資料のゆえに、キケロ側の圧倒的な勝利となりました。
 私がここで、「ウェッレス弾劾裁判」に言及したのは、このキケロの言論の戦いにこそ、現代の私たちが「暴力」に抗し、「平和の文化」を構築する上で、学ぶべき行動規範が、明瞭に示されていると思うからであります。
 それは、何よりも第1に、キケロの闘争が民衆の「真実の声」に根差していたこと、第2に、民衆の「善の連帯」を成し遂げたこと、そして第3に、非暴力の手法として、法廷闘争によって、「法の正義」を実現しようとしたことであります。
 古今東西を問わず、社会変革を目指す善なる人々の連帯は、往々にして分断され、時としてその力を十分に発揮できないできました。
 第2次世界大戦中、日本の軍国主義と対峙し獄死した、創価学会の牧口常三郎初代会長も、「悪人は自己防衛の本能から、たちまち他と協同する」が「善人は、いつまでも孤立して弱くなっている」と慨嘆しておりました(『牧口常三郎全集第六巻創価教育学体系(下)』第三文明社、一部表記を改めた)。
 だからこそ牧口会長は、「教育」の力で、人間の無限の可能性を引き出し、一人一人を強く、賢明にすることが重要であると訴えました。そして、民衆の「善の連帯」を強めながら、平和と人道の世界を築いていく以外にないと、結論したのであります。
 その心を心として、私も、日本、アメリカ、ブラジル、マレーシア、シンガポール、香港などに創価教育を実践する学舎を関学してきました。そして、世界の諸大学との交流をはじめ、民衆レベルでの教育交流の拡大に全魂を注ぎ、取り組んできたのであります。
 なかでも私が、「平和の文化」を育む教育の柱として重視してきたのは、「"傍観者"ではなく、“平和の創造者”をつくる教育」であります。
 牧口初代会長は、善意の人々が社会に大勢いながら、混迷が一向に晴れず深まってしまう原因を、こう見通していました。
 「善人は古往今来必ず強大なる迫害を受けるが、これを他の善人共は内心には同情を寄するものの何らの実力がないとして傍観するが故に善人は負けることになる」(同)と。
 単なる知識の伝授や技術を学ぶことだけが、教育のゴールでは決してない。民衆という豊かな大地に根差しつつ、人間や社会の危機には敢然と立ち向かう「英和」と「勇気」を培う「人間教育」こそが、今強く求められているのではないでしょうか。
11  とともに私が、今後の教育の重要な柱となると考えるのは、コスモポリタンの資質でもある「多様な文化を尊び、学ぶ、開かれた心を養う教育」であります。
 本年1月、私は、中国文明研究の第一人者で、ハーバード大学教授のドゥ・ウェイミン博士と対談集(『対話の文明──平和の希望哲学を語る』第三文明社刊)を発刊しました。
 国連の「文明間の対話年」に関する賢人会議のメンバーとしても活躍された博士は、こう警鐘を鳴らしておられた。
 「学ぶことをやめ、他人に教えるのだとの高慢な態度をもつ文明や人間は、必ず衰退していくものです」
 そして、「異なった生活様式との出合いによって、『聞く』技術や思いやりの倫理観、自己発見の感覚を磨いていく」ことが重要であると訴えておられました。
 この「他者から学ぶ」という謙虚な姿勢こそ、世界に「平和の文化」を根付かせゆく土壌を耕す力であると、私は思っております。
 第3の千年が目指すべき方向を論じつつ、「過去二千年のシンボルは(矢)であった」「一方向性をもって突き進んだ」と洞察したのは、イタリアの思想家ウンベルト・エーコ氏であります。
 そして、エーコ氏は、「来るべき三千年紀のシンボルは(星座)であらねばならない。それは多文化社会の尊重ということである」と述べております(服部英二「3000年紀を見る『世界人』が訴えるもの」、「Ronza」97年5月号)。
 「星座」とは、まさに言い得て妙であります。
 個々の星が、それぞれ光り輝きながら、星座という一つの形として美を織りなしていく。そして、互いの美しさを損なうことなく、むしろ多様な相を織りなして天空を豊かに飾っていきます。
 この世界観は仏法が説く「縁起観」にも、まさに通じるものであります。
 仏典には、「帝釈天の網」という譬えがあります。大自然の力を象徴する帝釈天の宮殿には、縦横に走る壮大な網がかかり、多彩な輝きを放つ数多くの宝石が、取り付けられております。
 そこでは、どの宝石が中心というのではない。それぞれが全体の中心です。そして、一つ一つの宝石が、互いを映しだし、輝きを増しながら、調和に満ちた「荘厳な世界」を創り出している。それが、この世界の実相であるというのです。
 その一つ一つの宝石を、それぞれの地域、民族の"文化の象徴"とすれば、宝石の放つ光は、それぞれの文化の独自性を示していると言えるでしょう。
 そして、すべての宝石が、互いに映し合い、新たな光彩を放ち、大いなる価値を創造しながら、荘厳に輝きわたる「地球文明」を創りだしていくのであります。
 "多様性"を尊重し、差異を讃え合い、学び合うなかで、それぞれの独自性とともに、人類共通の"普遍性"を見出していく──そのような「コミュニケーション」こそが、理想とすべき平和共存の「人間文化」「人類文明」をつくり上げていくのではないでしょうか。
 この"多様性を重んじる心"を育むことから、「世界市民教育」の第一歩が始まると、私は確信してやみません。
12  わが故郷は世界
 シチリアの詩人アブ・アル・アラブは、こう高らかに謳い上げました。
  「私は大地から生まれたもの、
   だから私はどこにいても居心地が良い
   何しろすべての人間が私の兄弟だし
   世界が私の国なのだから」
 (ジュゼッぺ・クアトリーリオ著、真野義人・箕浦万里子訳『シチリアの千年──アラブからブルボンまで』新評論)
 まさに世界をわが故郷と呼び、すべての人々をわが兄弟姉妹と心から呼べる広々とした精神こそ、私たちが未来の世代に責任をもって育んでいくべき、世界市民の「心」ではないでしょうか。
 バレルモの伝統的な街並みの中心には、主要な道路が交差する「クアットロ・カンティ(四つ辻)」があります。この十字路が、いみじくも象徴するように、パレルモは、多様な民族が賑やかに行き交う、壮大な歴史の舞台でありました。
 そして貴大学は、その「文明の十字路」にあって、多彩な人間文化を創造し、世界市民を輩出する「英知の殿堂」として、人類の発展に偉大な足跡を刻んでこられました。
 平和と共生の「地球文明」の創造が待望される今日、世界における貴大学の存在は、いやまして燦然たる輝きを放っております。
 きょうより私は、その誉れある大学の一員として、心より尊敬申し上げるシルヴェストリ総長はじめ、諸先生方とともに、世界にさらなる"対話の輪"を広げ、"人間教育の興隆"に努めていくことを、ここに固くお誓い申し上げます。
 最後に「シチリアのガンジー」と讃えられた、偉大なるダニ一ロ・ドルチの言葉を、貴大学の若き英才の皆様方に贈り、私の記念の講演を結ばせていただきます。
 「"平和"とは、"静寂"ではなく、"戦い"を意味する言葉である。明快なる視野を持ち、すべてを育み、向上させ、問題を解決しゆく、労苦を惜しまぬ生き方のことである」
 グラッツィエ・ミッレ!(大変にありがとうございました!)
13  主な参考文献
 アントニー・エヴァリッ卜者、高田康成訳『キケロ──もうひとつのローマ史』白水社木村毅著『ラグーザお玉』千倉書房
 チャールズ・H・ハスキンズ著、別宮貞徳・朝倉文市訳『十二世紀ルネサンス』みすず書房
 伊東俊太郎著『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫高山博書『中世シチリア王国』講談社現代新書
 同『中世地中海世界とシチリア王国』東京大学出版会
 ジャック・ヴェルジェ著、野口洋二訳『入門十二世紀ルネサンス』創文社
 小森谷慶子著『シチリア歴史紀行』白水社
 陣内秀信著『シチリア──〈南〉の再発見』淡交社
 吉村忠典著『古代ローマ帝国』岩波新書
 NHK「文明の道」プロジェクト編『NHKスペシャル文明の道4イスラムと十字軍』日本放送出版協会
 竹山博英著『シチリアの春──世紀末の文化と社会』朝日新聞社
 NHK「フッダ」プロジェクト編『ブッダ──大いなる旅路3救いの思想・大乗仏教』日本放送出版協会
 中村元著『原始仏教から大乗仏教へ 決定版中村元選集第20巻 大乗仏教1』春秋社

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