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日蓮大聖人・池田大作

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第30回「SGIの日」記念提言 「世紀の空へ人間主義の旗」

2005.1.26 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

前後
1  きょう26日の第30回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、池田SGI会長は「世紀の空へ人間主義の旗」と題する提言を発表した。提言ではまず、続発するテロなどの危機的状況を打開するためには、今一度、「対話」の力に目を向ける必要性があると強調。分断された世界に友情の橋を懸けてきたSGIの民衆運動の30年の歩みを振り返りつつ、紛争の背景にある過激主義や教条主義的な動きを、人間主義の潮流で方向転換させるための要諦について考察している。
 また地球環境問題に焦点を当て、牧口初代会長の思想などに触れつつ、自然界との相互依存性に立脚した「環境としての人間」の視座の復権を呼びかけている。その上で、「平和と共生の21世紀」を築くための具体案を提示。まず国連改革については、「グローバル・ガバナンス調整委員会」の設置によるソフトパワー機能の拡充とともに、国連とNGO(非政府組織)との関係強化の重要性を強調。続いて「国連アジア太平洋本部」の新設を提唱する一方、日本と中国と韓国が教育交流を積極的に進めながら、東アジアで不戦の共同体づくりに挑戦を、と訴えている。
 最後に、核軍縮のための専門機関を創設するプランとともに、国連が取り組む「軍縮・不拡散教育」の意義に言及し、民衆レベルでの意識啓発の推進を呼びかけている。
 SGIの発足30周年を記念し、私の所感の一端を述べ、世界平和と人類共生への確かなる方途を求めて提言を行いたいと思います。
 まず最初に、このたびのインドネシア・スマトラ島沖地震と津波によって亡くなられた方々に、衷心より哀悼の意を表させていただきます。とともに、被災された皆さま方に、心からお見舞い申し上げます。
 この未曽有の大災害によって甚大な被害を受けた国々が復興を果たすためには、国際社会の力強い、また継続的な支援体制が不可欠であり、より一層の協力を強く願うものであります。
 そして、被災者の方々が悲しみを乗り越えられ、一日も早く、希望と安穏の生活を取り戻されるよう、復旧・復興が進むことを、心よりお祈り申し上げます。
2  安全保障政策が優先化する世界
 2001年9月のアメリカでの「同時多発テロ事件」以来、世界ではグローバルな緊張状態が強まっています。
 いつ起こるともしれないテロに対抗する形で、多くの国で安全保障政策が優先化される中、こうした緊張状態から生じる言いようのない不安が市民生活の間で広がりつつある現実は、異常な事態といえましょう。
 冷戦時代もこれに似た状況はありましたが、現在の脅威にはそれ以上の底知れなさが感じられます。相手の姿がはっきりとつかめないばかりか、何をもって終結となるのかが一向に見えないために、軍事行動や治安措置をいくら講じても安心感を得られず、たえず不安にさらされる重苦しさがあるからです。
 イラク情勢も依然、混迷が続いています。昨年6月に暫定政府への主権移譲が行われたものの、各地で武力衝突やテロが続発しており、今月30日に予定されている国民議会選挙の成功が危ぶまれています。
 これらの問題に加えて、暗礁に乗り上げている中東和平の行方や、北朝鮮の核開発問題の膠着化、多発する地域紛争などの不安定要因が相まって、「戦争と暴力の20世紀」の再来を懸念する声さえあがっています。
 一方で、近年、多くの国々で「セキュリティー(安全保障)」の優先度が高まるあまり、軍縮どころか軍拡への傾向が強まったり、治安優先のために人権が制限される事例が増えるとともに、貧困や環境破壊といった他の地球的問題群への国際的な対応が遅れがちになり、人々の生活や尊厳を脅かす脅威が深刻化していることは、テロの時代が招いたもう一つの大きな悲劇といえます。
 では、こうした21世紀の人類が直面する危機をどう乗り越えていけばよいのか――。
 もとより、“魔法の杖”を一振りすれば済むような打開策はなく、前途は険しいと言わざるを得ません。問答無用の暴力にどう立ち向かえばよいのかというアポリア(難問)が、立ちはだかっているからです。
 とはいえ、いたずらに悲観に陥る必要はないでしょう。人間が引き起こした問題である以上、人間の手で解決できないものはなく、どんなに時間がかかろうとも、もつれた紐を解くための努力を投げ出さない限り、打開の道は必ず見えてくるはずだからです。
 その最大のカギとなるのが、言い古されているようで、なお未解決の難題であり続けている「対話」の二字であります。「対話こそ平和の王道」とは、人類史がその歩みを止めようとするのでない限り永遠に背負い続けていかねばならない宿題ではないでしょうか。
 どんなに知りたげな反論や冷笑を浴びようとも、この叫びを最後まで叫び抜く気力を失ってはならない。その思いを込めて、20年前のこの提言で触れた、敬愛する詩人タゴールの言葉を今一度繰り返しておきたいと思います。
 可能は不可能にたずねる、「君の住居はどこですか?」
 「無気力者の夢の中です。」という答えであった。(『タゴール著作集』第一巻、藤原定訳、第三文明社)
3  対話の渦の中で発足したSGl
 思えば、SGIが発足した1975年は、第4次中東戦争やベトナム戦争の余燼が冷めやらぬ中、西側諸国がサミットを初開催して結束を固める一方で、東側陣営内での中ソ対立が激化するなど、世界の分裂が深まっていた時代でした。
 その中で私は、SGI発足に先駆ける形で、74年に中国とソ連を相次いで初訪問し、一触即発の緊張下にあった両国の首脳と誠心誠意、対話を重ねました。
 当時の日本では、ソ連の人々に対する敵対意識が激しく、「なぜ宗教者が宗教否定の国へ行くのか」といった批判も数多く受けました。しかし、世界の約3割を占めていた社会主義諸国の存在を無視したままで世界平和の展望を描くことはできず、その状態を一日も早く打開しなければならないというのが、仏法者としての私の偽らざる思いだったのです。
 初訪中の際、ソ連の空襲に備えて地下に防空壕をつくる北京の人々の姿を目にした私は、3カ月後にお会いしたコスイギン首相に「中国はソ連の出方を気にしています。ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と、単刀直入に聞きました。
 「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」との首相の言葉を得た私は、再び中国へ向かい、そのメッセージを伝えるとともに、周恩来総理とお会いし、日中両国が友好を深め、ともに世界のために行動する重要性について語り合いました。
 そして75年1月にはアメリカを訪れ、国連本部で創価学会青年部による核廃絶1000万署名を手渡し、キッシンジャー国務長官とも意見交換を行いました。
 こうした「対話」の渦を広げるまっただ中で、30年前のきょう1月26日に、第2次世界大戦の激戦地の一つであったグアムに51カ国・地域の代表が集い、SGIは“民衆による一大平和勢力”の構築を目指して、出発を果たしたのです。
 以来、今日にいたるまで私どもは「対話こそ平和の王道」との信念のままに進んできました。
 私も、分断化に向かう世界を友情と信頼で結ぶ「人間外交」と、文化・教育分野における幅広い「民衆交流」の推進に全力を傾けてきました。
 国家やイデオロギーを超えて、世界の指導者と対話を重ね、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教やヒンズー教や儒教をはじめとする、あらゆる思想的・文化的・宗教的背景をもった識者の方々と語り合う中で、21世紀の人類に要請される対話の依って立つ基盤は、やはり、「結合は善、分断は悪」を信念とする「人間主義」をベースにしていく以外にない。これが、私の変わらぬ結論なのであります。
 私なりに挺身してきたそうした人間主義に基づく外交の軌跡を総括しながら、改めて痛感することは、多くの紛争の根源となっている過激主義(エクストリーミズム)、教条主義(ドグマティズム)を、何としても人間主義の方向へと軌道修正していかなければならないということです。
 世界に続発するテロや報復戦争、民族や宗教がらみの紛争を目の当たりにすると、その軌道修正は、途方に暮れるような難事業に見えてくるかもしれない。しかし、ともかく一歩を踏み出すことであります。
 トリムタブという譬えがあります(ハロルド・ウィレンズ『核をやめさせる力』向笠広次監訳、創元社)。
 トリムタブとは、航空機の翼やヨットの竜骨についている小さな補助フラップのことで、これを操作することによって、機体や船体のバランスや安定を確保することができる。このトリムタブを動かすには一人の力で十分であって、それが主舵につながり、船の方向を変えていく、と。
4  人間主義の力は、このトリムタブの力に譬えることができましょう。
 過激主義や教条主義に対する人間主義という図式にしても、主義と主義の対峙といった漠たる対立があるわけでは決してなく、あくまでそれを体現した人間同士の、腹を割った一対一の対話こそ、原点であり実像であります。
 首脳外交から様々な民間外交にいたるまで、真実の対話とは、20世紀を代表するユダヤのヒューマニストであり、“対話の哲学者”といわれたマルティン・ブーバーのいう「狭い尾根」(『我と汝・対話』植田重雄訳、岩波書店)――磨きすまされた精神の緊張を要し、少しでも気を抜けば急峻を転がり落ちてしまいかねない尾根――での、真剣勝負の出会いを基調にします。その一波を二波、千波、万波へと広げ、対話と人間主義の巨大なうねりのなかに、過激主義や教条主義の固まりを包み込んでいく。そして、火花を散らすような出会いと対話の精神闘争を通じて、人間をひとつことに拘泥、拘束させているこだわりの結び目を、一つ一つ、丹念に解きほどいていく労作業こそが肝要なのであります。
 その積み重ねは、必ずやトリムタブの小さな力が巨大な機体や船体を動かしていくように、時流の軌道修正につながっていくにちがいない。
 ところで、過激主義や教条主義といっても、まことに種々雑多であります。すぐさま念頭に浮かぶのは、一神教的性格のものですが、そうした精神風土に限ったことではなく、人間社会万般に見られることであります。
 過激主義とは比較的遠いと思われている仏教にあっても、後述するように、“過激主義の罠”と決して無縁とはいえません。
 宗教に限らず、20世紀に猛威をふるった政治イデオロギーの多くが、こうした“罠”にはまっていったことは、私どもの記憶に新しいところでしょう。
 そこで、最も留意すべきは、“イズムの功罪”ということであります。
 およそ(広義の)イデオロギーというものは、“イズム”としての属性を有しており、人々の考えや行動を一定の方向へと導く規範としてのはたらきをもつ。つまり、“功”の側面を否定することはできない。
 と同時に、それは、知らず知らずのうちに、人間の自由な思考、判断をひとつことに縛りつける拘束性の側面を有しており、それが高ずると、“イズム”が人間に君臨するという逆倒を招いてしまう。“罪”の側面であり、“イズム”はこの方向に傾きがちな慣性を内蔵しています。
 過激主義、教条主義とは、この側面が著しくバランスを欠いて肥大化したものといってよく、その結果、自殺、他殺を問わず死が美化、正当化されたり、人間の命など、まさに“鴻毛の軽き”にまで貶められてしまう。イデオロギーの世紀であった前世紀が、空前の殺戮の世紀でもあった所以であります。
 それに対し、私の強調する人間主義とは、主義という言葉はつきますが、“イズム”の慣性とは、ほとんど対蹠的であります。人間主義の最大の特徴は、“イズム”のような規範、それも外的規範としてはたらくのではなく、あくまで、人間精神の自由で内発的な発動、主体的な判断を第一義とする点にあります。
 たしかに、人間あるいは人間性が基準となることは間違いありませんが、そこからすぐさま、一定の判断基準なり行動規範が導き出されるわけではない。
 優れた文化人類学者であった故・石田英一郎氏は、かつて、人間性の普遍的な基準について聞かれた時、文化相対主義の立場に立てば、これを“普遍的”とする線引きはできないとして、「結局自分がこれを人間的と感ずるのだと、最後はそこに行ってしまうのです」と苦渋を語っていました(竹山道雄『歴史的意識について』、講談社)。
 一見、曖昧のように思えても、そうとしかいいようがない
 ――内発性や主体性というものは、そういうものであります。
 とはいえ、それは“何でもあり”の無原則、無責任を意味するものでは決してない。厳しいジレンマに直面すればするほど、「これを人間的と感ずる」という自由な主体的決断を貫くには、想像以上の困難が伴うと思ったほうがよい。
5  アインシュタインの“魂の呻吟”
 一例を挙げれば、自らもユダヤ人として、ナチスの情け容赦のない弾圧、暴力の脅威にさらされた稀代の平和主義者アインシュタイン博士は、いかに最悪の事態を防げばよいのか、悩みに悩んだ上で、ナチスと対決せざるを得ない心情を、こう述べました。
 「原則は人のためにつくられるのであって、原則のために人があるのではない」と(ウィリアム・ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る』雑賀紀彦訳、工作舎。以下、引用は同書)。
 ガンジーをこよなく尊敬し、「命令で人を撃つくらいなら、この身を八つ裂きにされた方がましだ」とまで語っていたアインシュタインの信条を、教条的に捉えれば、原則の修正とみえるかもしれません。しかし、私が留意したいのは、第一にアインシュタインが、ナチスのような問答無用の暴力を前に無抵抗でいることは、結局「敵に塩を贈ることになる」とのやむをえざる決断を迫られたこと、第二に専らナチスに先に保有されることへの恐怖を前提にした原爆製造(使用ではなく)の是認が、意に反して、日本への投下を招いてしまったことへの後悔、「生涯において一つの重大な過ち」(金子務『アインシュタイン・ショック』、河出書房新社)との罪の意識、そして第三に、罪の意識を淵源とする戦後の核廃絶、世界政府樹立への積極的かつ献身的な取り組み、平和運動の推進であります。
 そうした魂の遍歴を通底していたものこそ、その都度「これを人間的と感ずる」普遍的心情のやむにやまれぬ発露であり、ぎりぎりの選択、決断であったにちがいない。
 その善なるものを求めての内なる葛藤、精神闘争こそ、人間主義の人間主義たる証であります。ナチズムの渦中にあったアインシュタインは「人の心を変えねばならない」(『アインシュタイン、神を語る』)としきりに語っていますが、それには、そうした葛藤、精神闘争を欠かすことはできないのであります。
 戦後のアインシュタインは厳密な意味で“非暴力”であったわけではありませんが、そうした巨大な魂の闘いは、ガンジー(“イズム”としてのガンジー主義ではなく)の非暴力闘争と、深処で回路を通じていたと思います。それは、晩年の彼が、このインドの聖者に「われわれの時代における最大の政治的天才ガンジー」(『アインシュタイン・ショック』)との讃辞を贈っていることからも明らかでしょう。
 「原則は人のためにつくられるのであって、原則のために人があるのではない」
 ――思うにアインシュタインのこの肺腑の言は、簡明にして直截な人間主義の“黄金律”といってよい。
 しかし、この20世紀の巨人の苦闘を待つまでもなく、自明のようで、これほど「言うは易く行うは難し」のものもないのではないか。宗教であると政治イデオロギーであるとを問わず、いかに多くの人々がこの“黄金律”を忘失し、人間を原理・原則に従属させ、結句は犠牲を強いてきたか――考えるほどに空恐ろしくなります。
 その倒錯のよって来るところは、過激主義、教条主義に走りがちな性向が、ある意味で人間性の本然に根ざしているからではないでしょうか。
 仏典に、「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とありますが、人間は、ややもすると、この「丈夫の心」に背を向け、一つのドグマにすがり、その虜になってしまう。ドグマへの軽信や盲信、つまり「浅き」につこう、「易き」につこうとする本然的な弱点を有しています。そこに“過激主義の罠”が仕掛けられる。
 人間誰しもが有しているこの弱さ、愚かさにつけこみ、あるいはおもねり、術数の限りを尽くしながら、僧しみ、怒り、妬み、傲りといった三悪道、四悪趣へと誘い込もうとする。こうした人間精神の劣化、弱化、愚化をもたらす点こそ、過激主義、教条主義の反人間主義たる所以であります。
 こう見てくれば、私どもがここ十数年来続けている邪悪な宗教的権威との戦い、”平成の宗教改革”運動も、そうした反人間主義に対する人間主義の戦い以外の何ものでもない。聖職者の権威を盾にとって、自らの腐敗、堕落に頬かむりし、その権威、権力の下に信徒の魂の圧殺を図るなど、最悪の反人間主義であります。
 それに怖じ気づいたり、屈服したりするのは、人間性の敗北であり、一宗一派の問題を超えて、人間の尊厳という普遍的な心情――「これを人間的と感ずる」心情にかけて、一歩も退いてはならないのであります。
 “平成の宗教改革”の当初、故・堀太郎先生(滋賀文化短期大学学長、当時)は、「今回の問題は、一人一人の心の中にひそむ『権威主義』と『おすがり信仰』への挑戦であると思います。今を乗り越えるならば、一人一人が見違えるほど成長されることでしょう」とのコメントを寄せてくださいました。
 以来十幾星霜、私どもは、堕落した宗教的権威との戦いを通して、個人においても団体においても、見事に脱皮・成長し、「丈夫の心」を鍛え上げてきたことを自負したいと思います。この自負は、私どもの戦いが、人間主義の構築という文明論的課題に通底しているとの自覚、自信に由来するのであります。
6  仏法に基づく人間主義の結構
 さて、私は3年前の提言で、仏教に基づく人間主義の結構(枠組み)について、あらあら触れておきました。ここでは、その大枠をベースにして、もう少し立ち入った考察を試みてみたいと思います。
 人間主義の結構は、次の3項目に要約されます。
 一、すべての事象は相対的、可変的である。
 一、ゆえに事象の相対性、可変性を見極めていく眼識を養い、事象の相対性に紛動されない強靱な主体を築くことが欠かせない。
 一、そうした眼識、主体をベースにするがゆえに、人間主義は、人間である限り、対象を選別しない。イデオロギー、人種、民族によって、人間を「定型化」したり、「限定性」を付与したりして、対話の道を閉ざさない。
 3項目のうち第一と第二の項目、つまり事象の相対性、可変性を見極める眼識の重要性が、仏教哲学の重要な側面である三法印――「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を押さえてのものであることは明らかでしょう。
 諸行は無常であり、すべては変化、変化の連続であって、「常」なるものは何もない。したがって、固定的、実体的な「我」なるものは、どこにも存在しない。諸法無我です。
 そう見極める眼識によってもたらされる悟りの境地が、「涅槃寂静」であって、それは、釈尊原初の悟りである“縁起”の世界――すべての事物が互いに縁となり依存し合いながら生起している、多様性の織りなす豊饒な世界とオーバーラップしております。
 問題なのは、通途の仏教理解に特徴的なのですが、私が人間主義の帰結として提起しておいた三番目の項目が濃密に帯びている対話や実践の能動的イメージと、「三法印」や「縁起」のイメージが、結びつきにくいということです。
 諸行無常、諸法無我、言語道断、心行処滅――「沈黙と言葉からなる真の対話」(アルベール・ジャカール、『世界を知るためのささやかな哲学』吉沢弘之訳、徳間書店)において、たしかにそこでは、「言葉」よりも「沈黙」の方に、圧倒的にウェイトが置かれている、との感を受けます。
 いうまでもなく、沈黙を空虚ではなく豊饒と捉えるのは仏教の重要な側面であって、言葉(ロゴス)中心主義で驀進してきた西洋文明が、現在、いたるところで破綻をきたし、疲れ果てた人々の心が、おもむくところ仏教的なものに癒しの場を求めている現象は、十分理解できます。
 しかし私は、言葉をもつことが人間の最大の属性であり続ける限り、人間主義(人間中心主義ではなく)を標榜するためには、いつまでも沈黙の場に止まっていることは、おそらく不可能であろうと思っております。否も応もなく人間の中へ、対話の海の中へ身を投じていかねばならないにちがいない。
 より具体的にいうならば、人間生活で必ず遭遇するであろう悪や不幸をどうするかという課題に、真正面から向き合うことであります。
 「衆生病めば、則ち菩薩も病み、衆生の病愈ゆれば、菩薩も亦愈ゆ」と維摩詰=注1=が誓っているように、大乗仏教の菩薩道は、まさにこの課題への挑戦であり、とくに法華経から日蓮仏法にいたる系譜にあっては、「涅槃寂静」のスタティズム(静寂)を踏まえた(否定や訣別ではなく)上での、菩薩道に伴う対話・実践のダイナミズムへのベクトル(力の方向性)の変容が、力強く促されているのです。
 こうしたダイナミズムを、仏教の重要な徳目と信ずるがゆえに、私はハーバード大学での講演(「21世紀文明と大乗仏教」、93年9月)において、仏典に描き出されている「喜びをもって人に接し、しかめ面をしないで顔色はればれと、自分から先に話しかける人」との釈尊像を、強く推奨したのであります。
 その躍動するダイナミズムは、おそらくアインシュタインが好んで口にしていた「宇宙的宗教感覚」(『アインシュタイン、神を語る』)とも、深く響き合っていると、私は推察しております。
 以上の点を踏まえながら、ここで“人間主義の行動準則”ともいうべきものを、私なりに次のように提起しておきたいと思います。
 「全ては変化――、相互依存(縁起)し合っており、調和や全一性はもとよりのこと、矛盾や対立といえども、結びつきの一つの現れである。故に、矛盾、対立の内なる制覇に発する、悪との戦いは、大きな結びつきに到るまでの避けられぬ、避けてはならぬ荊棘(=試練=事態の紛糾しているさま)である」と。
7  人間の「意志」が打ち破った“壁”
 調和や全一性を「順縁」と言うならば、矛盾や対立は「逆縁」=注2=であります。両者は、縁の表と裏として等価値、というよりも、人生が戦いでありそれを通じて人間が鍛えられるという意味では、逆縁にこそ勇んで立ち向かっていくことが、菩薩の勲章とされているのであります。「定型化」や「限定性」によって人を選別したりせず、たとえ逆縁に見えても、順逆不二の生命の回転軸をフル回転させ、粘り強い対話を通して順縁に転じていくところに、仏教を骨格にした人間主義の面目があります。
 私も、その信念で走り続けてきました。
 かつて、日中関係の厳しい時代に国交正常化の提言を行い、また中ソの緊張緩和のために行動したのも、“どんなに厳しい対立であったとしても永遠に続くわけではなく、平和を望む声がある限り、必ず希望はある”との確信からでした。
 1996年の6月、アメリカとキューバの関係が民間機撃墜や経済制裁などで険悪化する中、アメリカ、キューバを相次いで訪問し、カストロ議長と親しく対談したのも、両国の敵対関係といっても決して固定的、永続的ではないという人間主義の信条に基づいたものにほかなりません。
 いつ終わるとも知れないと思われていた冷戦が終結し、そのシンボル的存在であった“ベルリンの壁”が崩壊したのは、「事象の相対性、可変性」を示す最大の証左であったといえるでしょう。
 思えば、今から44年前の61年10月、私は西ドイツ(当時)を訪問し、西ベルリンのブランデンブルク門の前で、同行の友に「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう」と語ったのを懐かしく思い出します。奇しくも“壁”が取り払われたのは、それから28年後のことでした。
 私が2度お会いし、友情を温めてきた南アフリ力共和国のマンデラ前大統領は、動かし難い現実の壁を突き破る力について、アパルトヘイト(人種隔離)政策を克服した自らの実践を通して次のように述べています。
 「私たちの社会は、不吉な予言をする人々や、紛争は終わらないという彼らの予想を公然とはねのけてきた。国際社会の人々の多くは、それを離れたところから見て、これは奇跡だと言う。しかし、この国の変化の過程に密接に関わった人ならば、それは人間の決断が生み出した成果であるということがわかるだろう」と(国連開発計画『人間開発報告書2004』横田洋三・秋月弘子監修、国際協力出版会)。まことに含蓄深い言葉であります。
 当事者以外からは“奇跡”としか映らない時代変革の波を起こすのは、事象の相対性、可変性を見抜く「眼識」であり、明確な展望をもって一歩前へと踏み出す人間の「意志」であります。
8  イスラム社会の実像知る努力を
 今、一番の焦点となっているイラク情勢にしても、最も懸念されるのは、それが「文明の衝突」という、イズムとイズムの対立といった様相を帯びてしまうことでしょう。
 いずこの国であれ、過激主義的な思考や、自国の文化や法制度を他国に押しつけようとする覇権的思考を、皆が抱いているわけではなく、むしろ少数派のはずです。
 私は5年前、イラン出身の平和学者であるテヘラニアン博士(ハワイ大学教授)とともに、仏教とイスラム教をめぐる語らいを収めた対談集を発刊しました。
 博士との語らいで、提起された問題点の一つは、イスラム教を暴力や脅威と結びつける偏見や誤解の根強さであります。「ジハード」という言葉の本意も、あくまで、より高い精神性を求めての人間の内面的な格闘にあることを、博士は強調されていました。
 また、かつてのオスマン帝国における他宗教への宥和政策や、イスラム圏の治世下に置かれたコルドバやサラエボなどのヨーロッパの都市で諸宗教の共存が図られてきた史実を踏まえて、イスラム文明の骨格には、他者への不寛容などとはまったく正反対の、「普遍性への眼差し」や「多様性の尊重」といった美質が脈打ってきたことを、正しく認識する必要があるとの点で、私たちは一致しました。
 私は2月から、トルコ出身の文化人類学者であるヤーマン博士(ハーバード大学教授)との連載対談をスタートしますが、ここでもイスラム社会の実像と精神性に光を当てながら、人類共存の地球文明への道を開くための方途について論じ合う予定であります。
 SGIとしても、4年前の同時多発テロ事件の直後から「ヨーロッパ科学芸術アカデミー」が定期的に開催してきた、キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教の代表による「四大宗教間対話」に参加するなど、ともに平和に貢献する道を模索してきました。
 また、私の創立した平和研究機関「ボストン21世紀センター」や、東洋哲学研究所でも、地球的問題群解決への視座を見出すために、文明間や宗教間の対話に積極的に取り組んでいます。
 いずれにせよ対立を泥沼化させないためには、文明そのものと暴力志向の動きを切り離し、「定型化」や「限定性」といった“過激主義の罠”に陥ることへの警戒を怠ってはならない。そうでないと、ミイラ取りがミイラになってしまう。
9  排他的な文化にみる二つめ特徴
 この点、地球規模で広がる文化的対立をテーマにした国連開発計画の『人間開発報告書2004』(前掲書)で示唆深い分析がなされています。
 報告書では、自分たちの主義主張を他者に強要し暴力的手段をも辞さないグループは、宗教に限らず民族や人種を背景としたものもあるとした上で、その特徴として、「現実の不満を解決することにではなく、危機感をあおるスローガンとして表面的な不満を利用することに力を注ぐ」「同じ集団に属する人々さえも対象にして、異なる意見を誹謗し、抑圧し、集団への誠実さや忠誠心(信仰の純粋さや愛国心)を問題にする」等の点を指摘しています。
 つまり、人々を過激な行動に駆り立てるのは、単に特定の宗教や民族に属しているからなのでは決してないこと、それらのグループは自分たちが属する集団に対しても排他的な行動をとること、といったように実態を正しく見極めることが肝要なのです。
 私がこれまで、中東からアジア・アフリカ地域に広がるイスラム圏諸国の指導者や多くの識者の方々と対話を重ねてきた実感からいっても、敵対ではなく平和的共存を望む穏健的な考えをもつ人々こそが、顕在的、潜在的な多数派であり、テロや紛争を起こすグループのほうが例外的存在であると思われます。
 ゆえに大切なのは、軍事一辺倒のやり方で暴力志向のグループに対峙し、市民の間にもグループへの支持や共感の裾野を広げてしまうような逆効果な手法ではなく、グループの活動の素地となる社会的不安や不満を粘り強く取り除きながら、その存立基盤を根元からなくしていく努力ではないでしょうか。
10  「平和の文化」へ世界市民を育成
 カギとなるのは、やはり、私がこれまで一貫して強調してきた教育、とりわけ青少年への教育であると思います。
 日本のかつての軍国主義教育が示しているように、教育はある意味で“両刃の剣”です。ということは、それを善用、活用すれば、人間を変え、社会を変えていくことができる。
 世界市民の育成は、「戦争の文化」を「平和の文化」へと転じゆく強力な武器であり、「言語人」(ホモ・ロクエンス)としての人間の本領が問われ、発揮されるところであります。国連は、何よりもそうした“場”でなければならない。
 今月からスタートした国連の「人権教育のための世界プログラム」は、そのための国際的な取り組みとして、重要な意義をもつものといえるでしょう。
 人権教育の世界的枠組みの継続の必要性については、4年前に南アフリカで行われた国連の「反人種主義・差別撤廃世界会議」に寄せたメッセージで私が訴えた点でもあり、今回の世界プログラムは、SGIとしても他のNGO(非政府組織)や国連機関、各国政府と協力を重ね、その機運が高まる中で、昨年4月の国連人権委員会での決議による勧告を経て、先月の国連総会の決議で制定されたものです。
 第一段階となる2007年までの最初の3年間では、初等・中等教育の場を通した青少年への人権教育にとくに焦点を当てていく予定となっています。
 SGIとしても、これまで国連「人権教育の10年」を支援し行ってきた「現代世界の人権」展に続く形で、新たな人権展示を制作し、各地で開催していく予定です。
 また今年からは、「持続可能な開発のための教育の10年」もスタートしております。これも、私どもが他のNGOなどとともにその制定を訴え、実現をみたものです。
 教育の10年を進める中心となるユネスコ(国連教育科学文化機関)が、その基本的なビジョンを「持続可能な未来と、社会の積極的な変革のために必要な価値観や行動、生き方を学習する機会」としているように、対象となる内容は環境教育だけに限らず、実に幅広いものです。
 いうなれば、平和や貧困の問題といった、人類が直面するあらゆる課題を視野に入れながら、未来の世代へと受け継いでいくことのできる「持続可能な地球社会」を、皆が力を合わせて建設するための礎となっていく教育であります。
 その意味で、この二つの教育は互いに密接な関係にあり、国連を軸にした二つの教育推進の取り組みを“21世紀の方向性を決定づけるチャンス”と捉え、国際社会が一致協力し、成功へ向けての努力を傾けるべきではないでしょうか。
11  「われーなんじ」の根源的出合い
 さて、現代という状況下での人間主義にとって、最も重大かつ差し迫った課題を忘れるわけにはいきません。それは、個や集団という人間社会のことだけを考えていれば、事足りる時代ではない、ということであります。
 そこで、前出の“対話の哲学者”ブーバーの言説に、耳を傾けてみたい。主著『我と汝』(植田重雄訳、岩波書店)は80年ほど前に著されたものですが、古典にふさわしく、今なお不滅の輝きを放っております。
 彼は、そこで近代的世界観の軸であった個と客体という主観・客観関係を、「われ―それ」とし、その表層を突き抜けた根源的な次元での全人格的な出合い、関係を「われ―なんじ」と位置づけております。
 そして、「すべて真の生とは出合いである」とし、近代文明を覆い尽くさんばかりの「われ―それ」の擬制を剥ぎ取り、鋭意「なんじ」の実像を探り続けました。
 “われ―なんじあってのわれ、われあってのなんじ”――こうした思考形態が、宗派の違いを超えて、仏教の縁起観と極めて親近していることは、申すまでもありません。
 彼は、静かに語り、呼びかけます。
 「関係の世界をつくっている領域は三つある。
 第一は自然と交わる生活。そこでは関係は暗がりの中で羽ばたき、言語は通じない。被造物たちは、われわれに向かって動いているが、われわれのもとに来ることはできないし、彼らに向かってわれわれが<なんじ>と呼びかけても、言語の入口で立ち止まってしまう。
 第二は人間と人間の交わる生活。そこでは関係は明白であり、言語の形体をとる。われわれは<なんじ>を与えたり、受けとったりすることができる。
 第三は精神的存在と交わる生活。ここでは関係は雲におおわれて見えないが、閃光のごとく自己を啓示している。言語はないけれど、言語を生み出す。われわれは<なんじ>を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ、形づくり、思惟し、行為しながら、これに答える」
12  「言語人」の宿命に誠実に生きる
 留意すべきは、第一にブーバーが、人間が「言語人」(ホモ・ロクエンス)であることの宿命に誠実であったことです。
 対話に不可欠の手段である言葉というものの位置づけ、扱い方に過不足がない。過激主義、教条主義の因となる言葉への過信はもとより、のちに構造主義の系列に属する多くの人がしたように、言葉への不信を言い募ることもない。言葉の機能――人間世界に特有の現象ながら、それを媒介に、自然界とも聖なる世界とも「われ―なんじ」の関係を織りなす「言語人」本来の姿が、注意深く描かれています。
 私の知友に、世界的文豪のチンギス・アイトマートフ氏がおります。
 何回となくお会いし、対談集(『大いなる魂の詩』)も上梓しておりますが、その彼が、10年余り前、来日した際の講演で、一つのエピソードを語っていました。
 ――ある日、対談集を読んで感銘を受けたドイツの著名なジャーナリストが訪ねてきた。人工衛星を打ち上げて「宇宙博物館」をつくり、人類文明のあらゆる成果をマイクロフィルム等にして納めたい。対談集も収録したいので、ぜひ、二、三行の言葉を付してほしいと請われた。
 そこで氏は、熟考の末、こう記したそうです。「石のなかにさえ秘められた生命が息づいている。私たち人間だけが、宇宙の森羅万象を思索と言葉によって意義づけることができる」と。
 私が、「言語人」(ホモ・ロクエンス)の宿命といったのは、このことであります。
 第二に、ブーバーがユダヤ教徒として、同じ神の被造物であっても、人間と自然との間に明確な一線を引き、序列づけをしてきたヘブライズムの伝統の人でありながら、人間界も自然界も一体のものと捉えなければ、「われ―なんじ」という出合い、対話的原理は完結しない、としている点です。
 「ゲーテのゆたかな<われ>は、どんなにか美しく調和をもってひびいたことか。それは自然と純粋な交わりをなす<われ>である」(前掲書)と、汎神論者・ゲーテを讃歎する彼は、鳥にも植物にも岩石にも親しく語りかけた、13世紀の聖者・アッシジのフランチェスコ(1980年、「生態学者の守護聖人」に公認されました)の衣鉢を継いでいるかのようです。
 人間が人間界のことだけでなく自然環境にも目を配らなければ、二進も三進もいかなくなった現代文明の危機を考えれば、この点は、どんなに強調してもしすぎることはない。
 私も、カメラを手にした折々のスナップを心がけていますが、自然との対話にかける思いは同じであります。ブーバーの時代に比べれば、幾層倍も地球環境が悪化し、生態学的危機状況にある今日、こうした対話の要請もまた幾層倍となっており、平和という観点からも、厳に目配りを欠かしてはならない。
 “21世紀は人権の世紀”というスローガンにしても、人権を近代ヒューマニズムの系統だけで捉えていては、単なるかけ声だけに終わってしまうでしょう。
 個人の自由や尊厳という近代ヒューマニズムの原理は、“環境としての人間”“自然としての人間”という側面から補完されなければ、空洞化してしまう。それでは、人権の内実化は到底不可能であります。
 たとえば、ロデリック・F・ナッシュ氏の『自然の権利』(松野弘訳、筑摩書房)が詳細にその沿革をたどっているように、権利が人間固有のものではなく、「動物の解放」(P・シンガー)、「生命への畏敬の念」(A・シュヴァイツァー)、「ディープ・エコロジー」(A・ネス)、「土地倫理」(A・レオポルド)等々と、動植物や無生物まで生存する権利を拡大すべきだという声は、前世紀の後半から急速に高まってきています。
 こうした流れは、いわば時代の要請であって、私が、かねてより憲法に「環境権」の規定を盛り込むよう訴えているのも、その要請に鑑みてのものであります。
13  とはいえ、この人類史的至上命題への取り組みは、課題の重要性に比べ、あるいは背にした荷の巨大さゆえか、まことに遅々たるものといわざるをえません。
 その代表的な事例が、地球温暖化を防止するための取り組みです。92年にブラジルで開催された地球サミットの直前に「気候変動枠組み条約」が採択されて以来、紆余曲折が続く中、昨年のロシアの批准を経て、ようやく2月に同条約の「京都議定書」が発効する運びとなりました。
 「京都議定書」は、先進国の締約国全体で二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量を90年比で5%以上減らすことを義務づけたものですが、アメリカの離脱や、途上国の参加問題、議定書の対象外である2013年以降の枠組みをどうするかなど、問題が山積しています。
 この条約の実施交渉に並行する形で、各国でも持続可能な社会に移行するための法制度が検討されるようになり、90年代から欧州各国中心に温室効果ガスの抑制を目的とした環境税の導入や、石油資源に代わる再生可能エネルギーの割合を増やそうとする努力も広がってきました。
 しかし温暖化を止めるには、世界全体の排出量を半分以下にまで抑えることが必要であり、その困難な道のりの遠大を思うと、“グローバルに考え、ローカルに行動する”という鉄則が、まさにその通りであると首肯されます。
 本年、イギリスで開催されるG8サミットでは温暖化問題が主要テーマに取り上げられますが、イギリスが招待を表明している中国とインドの参加を実現させる一方で、アメリカの翻意を強く迫りながら、京都議定書に続く枠組みづくりへの一歩を踏み出すべきだと、念じてやみません。
 このように地球環境問題は、短期・中期的な課題として、国際政治や国際経済の議論の俎上にあがっております。より本質的な意味では、人類が生存する基盤自体を脅かし、人間の生き方や現代文明のあり方そのものを問い直すという、長いスパンで捉えるべき人類史的テーマといえるものです。
 昨年11月、NHKで「地球大異変」というドキュメンタリー番組が放映されました。「温暖化がもたらすもの」「水が危ない」「崩れる生態系」の3回シリーズで、カリブ諸国での喘息の流行とアフリカでの砂塵の嵐、ハワイの地滑りと南アメリカの植物といったように、一見関係のないような現象が実は非常に密接につながっていることを明らかにしながら、危機に瀕している地球の生態系の状況を描いた内容となっています。
 このような“バタフライ効果”(ブラジルにいる蝶の羽ばたきが、テキサスで竜巻を起こすといった連関性)は、私がモスクワ大学のサドーヴニチイ総長との対談で、資源環境問題について語り合う中でも話題になりました。
14  カッサンドラのジレンマ超えて
 個々の危険を示すシグナルには目はいっても、その無限の連鎖の中で、予想もしない結果を招いてしまうところに、地球環境問題の恐ろしさがあります。
 昨年1年間を振り返っても、ヨーロッパを襲った熱波、インドとバングラデシュでの大洪水、北米や中米を襲った大型ハリケーンなど、各地で異常気象が相次ぎました。これらの現象と、地球温暖化との関連性を指摘する專門家もいます。
 地球環境の危機を知らせる様々な兆候があったとしても、迫り来る危機を真剣に受け止め、認識し、行動に移すまでにはなかなかいたらないのが現実であり、地球環境問題への対応策が遅れがちな理由の一つも、そこにあるといえましょう。
 アイトマートフ氏は『カッサンドラの烙印』(飯田規和訳、潮出版社)の中で、巧みな比喩をもって、そうした人間の心理状態を綴っています。
 「例えて言えば、サンフランシスコ湾にかかるあの大きな橋の構造に何か重大な欠陥が見つかったけれど、まだ通行可能だ、といったような状況です。通行可能なら、何を思いわずらうことがあろう、運ぶべき貨物はどんどん運べばいい、橋をどうするかなんてことは、もっと後になってほかの人間に考えてもらえばいい、というわけです」
 この作品は、ギリシャ神話に出てくるカッサンドラ=注3=の名に託す形で、アイトマートフ氏が、現代文明の深い闇を描いたものです。
 気候変動枠組み条約が、京都議定書の発効によって実質的な稼働にいたるまで、13年もの歳月を要したことに象徴されるように、国際的な取り組みが遅々とした歩みであるのに比べ、環境破壊のスピードは急速に進んでおり、このままでは、そのギャップは広がるばかりであります。
 カッサンドラの予言(地球環境が変動している様々なシグナル)を真剣に受け止め、大惨事にいたる前に、それを防ぎうる文明の舵を切るためには、国際社会のレベル、国家のレベル、地域のレベル、それぞれにおいて抜本的な方針転換が不可欠であり、急務であります。
 カッサンドラといえば、アイトマートフ氏と同様のテーマを、このギリシャ神話の女性に擬した『カサンドラのジレンマ』(アラン・アトキソン著、枝廣淳子監訳、PHP研究所)という本を、ある知人から紹介されました。
 副題に“地球の危機、希望の歌”とあるように、この本は明るいトーンに貫かれている。地球環境の諸問題にきちんと目配りしながらも、終末論的なペシミズム(悲観主義)や、アルビン・トフラーが「環境神権政治」と批判した教条主義的な思考を斥け、現実を踏まえながら漸進的に、カッサンドラのジレンマを克服しようと模索している――と。
 同書では、環境問題とは基本的にシステムの問題――互いに関係し合う「世界」というシステムと「自然界」というシステムとの間に生じる軋轢であるとされる。そこから発せられる黄信号、赤信号が的確に受信されない、つまりコミュニケーション不全に問題があり、その不全の責任は、いつに意識的にはたらきかけることのできる「世界」の側、人間の側にある、と。
 こうした論点は、いわば常識ですが、私が強く印象に残ったのは、著者が、このコミュニケーションということを、システム・ダイナミクスの用語を援用しながら、“フィードバック・ループ(環)”と名付け、このループが正しく機能しないこと(コミュニケーション不全)、「これこそが問題の核心」としていることです。いかにも行動派らしい、対応の柔軟さが躍如としているといってよい。
 “コミュニケーション”“フィードバック・ループ”――まさに、自然との「対話」です。自然との「出合い」による「われ―なんじ」関係の現出であります。とはいえ、「対話」も「出合い」も、自然は「言語の入口で立ち止まって」いるだけだから、人間の側から意識的に粘り強く関与し続けることによってのみ、「われ―なんじ」関係は成り立つ。ブーバは「関係は言語のきざはしにまつわりついている」(前掲書)と精妙に語っています。
 環境保全の運動論に、「われ―なんじ」という精神性、宗教的色彩を帯びた言葉を持ち込むことに奇異の感を抱かれるかもしれません。
 しかし、“グローバルに考え、ローカルに行動する”というスローガンが示すように、極めて具体的でありながら、文明史的なスパンの展望を要する課題、運動において、何よりも重要なことは持続性であり、その持続性を維持する上で、精神性の裏打ち、精神性による促しは、大変大きな力になることは間違いない。
 有情(=人間や動物)、非情(=草木、山河、大地等)にわたる生命の遍在を明かし、「草にも木にも成る仏なり」と草木成仏を説く仏教哲理も、その強力な根拠となるであろうことは、指摘するまでもありません。
 その「自然界」からのシグナルに耳を傾ける謙虚な姿勢、態度を忘れ、傲慢にも人間の「世界」の都合のみをしゃにむに押し通そうとすると、フィードバック・ループは機能不全に陥り、「自然界」のシステムの破壊は際限なく進み、「われ―それ」関係の一方的かつ一元的支配を招き寄せてしまう。“対話の哲学者”の透徹した視線は、そのような現代の“上げ底”文明の底の底まで見抜いていたようであります。
15  「人生地理学」の卓越した視座
 それにしても、私が感嘆してやまないのは、創価学会の牧口常三郎初代会長の先見性に富んだ卓見であります。
 牧口会長は弱冠32歳にして世に問うた主著『人生地理学』の中で、人間と環境との精神的な交わりとして、「知覚的交渉」「利用的交渉」「科学的交渉」「審美的交渉」「道徳的交渉」「同情的交渉」「公共的交渉」「宗教的交渉」の八つの項目を挙げています。
 その上で、最初の五つは、環境を自己とまったく異なる客体として単に経験の材料とし知識を広めるものであるが、残りの三つは、環境を自己と等しく世界の一部をなして生存するものと捉え、その交際の中で心情(人格)を涵養すると区別し、とくに後者の効用について次のように強調しています。
 「人間と外界との交渉は、一に人間の主観的性質に帰するを得べし。人はかくのごとく外界との諸般の交渉によりて円満なる発達をなすものなり。はたしてしからば外界ことに天然は、真に吾人の啓発者たり、指導者たり、慰藉者たりと謂つべく、吾人の天然と諸般の交わりを締することは、この盛衰浮沈極まりなき人生に処するにおいて欠くべからざる要務にして、人生の幸福はこれが広狭親疎の程度に比例するものと謂うも、大なる不可なかるべし」(『牧口常三郎全集』第一巻、第三文明社、現代表記に改めた)
 細部の異同はさておき、大まかにいって、牧口会長が「経験」に属するとした前の五つは、ブーバーのいう「われ―それ」関係に当たり、後の三つが「われ―なんじ」の関係に該当するといえましょう。
 「外界ことに天然は、真に吾人の啓発者たり、指導者たり、慰藉者たり」とは、何とも思い切った擬人化ではないでしょうか。自信に満ちた「われ―なんじ」関係の表出であります。
 ヘブライズムの精神風土で、ブーバーが慎重に言葉を選びながら自然に呼びかけているのに対し、アニミズムが精神風土の日本に生きる牧口会長は、大胆かつ直載に自然(天然)との「交際」に踏み込んでゆく。そして、ブーバーのようなこだわりや逡巡もなく、“伴侶”としていくのであります。
 慎重、大胆の是非を問うても意味はありません。そこには、真正な自然との出合いがあり、対話があります。全人格的な呼びかけと応答があります。だからこそ、「吾人の天然と諸般の交わりを締することは、この盛衰浮沈極まりなき人生に処するにおいて欠くべからざる要務」なのでありましょう。
 大切な“伴侶”を傷つけることは我が身を損傷するに等しく、牧口会長にとって、現代の地球環境の目を覆うばかりの荒廃など、想像だにも及ばぬことであったにちがいありません。本来、人間は“環境としての人間”以外に、存在様式のとりようがなかったのであります。
16  持続可能な世界を築く挑戦を
 “上げ底”文明という言葉を使いましたが、昨今のグローバリゼーションにしても、地球文明の地平などとはおよそ無縁の経済面のみの肥大化であり、グローバル・キャピタリズムは、今や“富の神・マモン”の宰領するグローバル・マモニズム(拝金主義)と化しているとの指摘も、あながち誇張とはいえません。無残な、「われ―それ」関係の行き着く先といってよい。
 たしかに貨幣は、社会生活を潤滑に営んでいく上で欠かせない知恵の産物です。しかし、同時に貨幣は、人間同士の約束事の上に成り立つ「世界」というシステムのなかでのみ機能するものであって、「自然界」のシステムのもとでは紙切れにすぎない。
 もとより、それは極論ですが、少なくとも、本来そうした性格を有していること、即ち「自然界」のシステムとは最も縁遠いものであるということは、きちんと押さえておいたほうがよいのではないでしょうか。
 その点を錯覚して、マモンの誘惑に鷲掴みにされ、二つのシステムの互換性(=互いに依存し合い、単独では成立しないこと)という鉄則を踏み外すと、「資本の論理」が我が物顔に横行し、「世界」と「自然界」との軋轢(あつれき)は増大の一途をたどり、あげくは、「自然界」からの強烈なしっぺ返しを受けるはめになることは必定でしょう。
 だからこそ、必要なことは、断固たる「決意と行動」、そして先に触れた「持続性」であります。とくに「持続性」は、「サスティナブル」(持続可能な)という言葉が、単なる環境保護とは異なる地球環境問題解決へのキーワードとして位置づけられている時流に照らしても、その重要性は明らかであります。
 このことを念頭に、私は、3年前の「環境開発サミット」に寄せて発表した環境提言の中で、?現状を知り、学ぶこと?生き方を見直すこと?行動に踏み出すこと、の三つの段階を踏まえて「持続可能な開発のための教育の10年」の取り組みを総合的に進める重要性を強調しました。
 SGIとしても、その一環として、地球憲章委員会と共同制作した展示「変革の種子――地球憲章と人間の可能性」を世界10力国以上で開催し、今年からは日本で「地球憲章――新たな地球倫理を求めて」展(仮称)を行う予定であります。
17  続いて、こうした「人間主義」の潮流を、国際的な法制度の面から高めていくための方策について、いくつか提案しておきたい。本年は、国連創設60周年であり、第2次世界大戦の終結と、広島・長崎への原爆投下から60年にあたります。
 そこで私は、とくに次の三つの観点、国連改革とその強化、アジア太坪洋地域における信頼醸成と平和構築?核軍縮と紛争防止のための取り組み、について言及したいと思います。
 まず第一は、国連の改革とその強化です。
 昨年、国連改革の方向性について、アナン事務総長が設置した二つのグ一ループによる報告書が発表されました。
 タイのアナン元首相を委員長とする「ハイレベル諮問委員会」の報告書と、ブラジルのカルドーゾ元大統領を議長とする「国連と市民社会の関係に関する有識者パネル」の報告書です。
 このうち、ハイレベル諮問委員会の報告書では、「安全保障理事会の拡大」や「平和構築委員会の新設」といった具体案に加え、「包括的テロ条約の早期締結」や「国際刑事裁判所の活用」、「武力行使に関する判断基準の厳格化」など、国連が新たな脅威に対応するための環境整備が呼びかけられています。
 とくに、紛争後の平和構築を支援する機関の必要性については、私が昨年の提言で強調した点でもあり、実現が望まれるものです。
 また、最大の焦点となった安保理改革の提案も、理事国の枠を地域間のバランスや国連への貢献度などを加味して拡大するもので、責任の幅広い共有と、よりグローバルな視点に立った合議体への発展を図るプランとして評価できます。
 かつてアナン事務総長は、国連の目指すべきゴールとして、「脅威が生じにくい世界の創造」という予防的な役割と、「それでもなお起こる脅威に立ち向かいうる、より大きな能力の構築」という問題解決能力の強化の2点を挙げました(「新世紀における新たな国連」富田麻理訳、「国際問題」2004年9月号)。
 報告書が提示する安保理の拡大や平和構築委員会の新設案等は、アナン事務総長の言葉に照らせば、後者の事後的な対処に関する改革にあたるといえましょう。
18  ガバナンス調整委員会の創設を
 そこで私は、もう一つの目標である「脅威が生じにくい世界の創造」に重点を置いた、地球的問題群に予防的に対処する“21世紀型の国連”への機構改革のための提案を行っておきたい。
 なぜなら、国連の本質は、対話や国際協力といったソフトパワーにこそあり、ソフトパワーが最も発揮されるのは、地球的問題群に取り組むための規範づくりと、予防のための協力体制づくりにあるからです。
 そこでまず私が提案したいのが、経済社会理事会の機能強化です。
 経済社会理事会は、国際的な経済・社会問題に関する討議と政策勧告を通して、開発分野における協力を進めるとともに、近年は貧困との闘いや、グローバル化の影響などの問題にも力を入れるなど、国連が取り組むべき優先的な行動課題を設定する上でカギを握る存在となっています。
 私は、これまで経済社会理事会が積み重ねてきた経験や教訓を踏まえながら、21世紀の国連に求められるソフトパワーの次の四つの役割、?国際社会が優先して取り組むべき課題を警告する?国際協力のための規範と目標を設定する?国連の諸活動を調整し、より効果的なものへと高める?各機関がもつ情報や経験を集約させ、共有させる――を拡充させる機構改革を目指すべきではないかと訴えたい。
 ともすればこれまで、環境や貧困といった地球的問題群は、深刻化してから対応に乗り出すケースが少なくなかったといえましょう。その事後的なアプローチから脱し、国連が「脅威が生じにくい世界の創造」へ向けて予防的な機関に生まれ変わるためには、こうしたソフトパワー面での機能強化を図ることが必要になってきます。
 国連では97年に機構改革の一環として、国連の諸機関を「平和と安全保障」「経済社会問題」「人道問題」「開発問題」の分野ごとにグループ分けし、四つの執行委員会を設けました。
 その上で、事務総長を中心に各執行委員会の議長などが参加しての「上級管理グループ」による会議が定期的に行われています。
 私は、地球的問題群の相互関連性や複合的な性格に鑑み、こうした情報共有や活動調整機能を更に拡充する形で、「グローバル・ガバナンス調整委員会」を創設し、経済社会埋事会における審議や意思決定と連動させながら、先に挙げた四つの役割を国連が効果的に発揮していく道を開くべきであると提案したい。
 また、この委員会の活動をサポートするために、諮問的機能をもったNGO(非政府組織)による「作業部会」を発足させ、そこでの成果を活用しながら、問題意識や危機感を広く共有するための仕組みを模索すべきだと思います。
 私は、こうした機構改革を通し、まずは、2015年までの実現が危ぶまれている「ミレニアム開発目標」=注4=を達成するための課題の克服に優先的に取り組むべきだと考えるものです。
 達成にはさまざまな困難が伴うとしても、決して不可能な目標ではありません。世界銀行の調査によれば、1ドル未満で暮らす人の割合が1981年から2001年までに世界総人口の40%から21%にほぼ半減し、人口増加にもかかわらず、極貧状態に置かれる人々は4億人も減ったとの報告もあります。
 こうした例が示すように、必要なのは国際社会の力強い意志です。
 9月に、「ミレニアム宣言」と「ミレニアム開発目標」に関する国連総会ハイレベル協議が予定されていますが、地球上から悲惨の二字をなくすための取り組みが大きく前進することを、切に念願するものです。
19  総会や安保理に民衆の声を反映
 このソフトパワー面からの機構改革と併せて提案しておきたいのは、国連と市民社会とのパートナーシップの強化を図るための改革案です。
 この分野に関しては、先に触れた、カルドーゾ元大統領らによる有識者パネルの報告書「われら人民――市民社会、国連、グローバル・ガバナンス」で、示唆深い提案がされています。
 報告書では目指すべき改革の方向性として、「国連のみで問題に取り組むにとどまらず、外部の協力を招集・調整し、国連を『外を向いた』組織にする」「問題に関係する多くの異なったアクター(行為主体)と連携を図る」などの原則が打ち出されています。
 そのためには、国連と市民社会、なかんずくNGOとのパートナーシップの強化が不可欠の前提となってくるはずです。
 国連が創設された1945年と現在とを比較して、最大の変化として挙げられるのは、山積する地球的問題群の存在であり、その解決に向けて多くのNGOが重要な役割を果たしている事実だと思います。そこに目を向けずして、国連内部だけの改革に終わってしまえば、画竜点睛を欠き、実りある成果を得ることは難しいでしょう。
 その意味で、経済社会理事会で認められているNGOの協議資格のような参加形態を、国連の他の機関にも何らかの形で広げ、民衆の声を反映させていく改革が求められます。
 総会においてNGOは、会議の傍聴と文書の入手は認められてきましたが、オブザーバーとして意見表明を行うことができない中、90年代に相次いで開催された国連の特別総会において、NGOの代表が各国の政府代表とともに演説を行い、閣僚級の政府間協議に参加するなどの試みがなされてきました。
 また安保理でも93年以来、議長国とNGOの約30団体が非公式に意見交換を行う「アリア方式」と呼ばれる慣行が続けられ、双方が関心をもつテーマについて語り合う場がもたれています。
 こうした実績を踏まえながら、経済社会理事会で認められている、討議へのオブザーバー参加や仮議題案の提出などを、総会や安保理でも保障する制度を、今一度、前向きに検討していくべきではないでしょうか。
 かつて、アメリカのケネディ大統領は、国連総会の場で、「この地球にともに住む諸君よ。この各国の集会場を、われわれの足場としようではないか。そしてわれわれの時代に、この世界を正しい永続的な平和に向かって動かせるかどうかやってみようではないか」と呼びかけました(『絶叫するケネディ』高村暢児編、学習研究社)。
 創設60周年を迎えた今こそ、「われら人民は」で始まる国連憲章の精神を深くかみしめ、地球益と人類益に立脚した、国連強化の道を開くべき時であります。
 この絶好の機会を逃すことなく、世界の首脳が英知と信念をもって国連改革に取り組むことを、強く願うものです。
20  沖縄か済州島を本部の候補地に
 第二に、アジア太平洋地域における信頼醸成と平和構築のための提案を行っておきたい。
 一点目は、国連の新たな地域拠点として「国連アジア太平洋本部」を設置するプランです。
 現在、国連には、ニューヨークの国連本部のほかに、ジュネーブとウィーンに事務局が、ナイロビに事務所が置かれています。これらの3都市には、事務局や事務所に加えて、国連諸機関の本部があり、ジュネーブでは主に人権や軍縮、ウィーンは犯罪防止や国際貿易、ナイロビでは環境や居住問題といったように、各分野での国連活動の中心拠点としての役割も担ってきました。
 私は、アジア太平洋本部の新設を通じて、同地域における「人間の安全保障」に関する活動を充実させながら、国連の目指す「脅威が生じにくい世界の構築」のモデル地域建設への挑戦を開始すべきであると訴えたい。
 また、その設置場所としては、現在、「アジア太平洋経済社会委員会」の本部があるタイのバンコクか、日本の沖縄や韓国の済州島など、「戦争と暴力の20世紀」において筆舌に尽くせぬ悲劇を味わったがゆえに時代の転換を強く希求してきた“平和の島”を、候補地として検討してはどうでしょうか。
 私は以前の提言(94年)で、アジアにこうした地域拠点を設ける必要性を訴えたことがありました。今回新たに、太平洋地域もカバーした案を提唱したのは、太平洋地域にはカナダやオーストラリアをはじめ国連の活動に積極的な国々があり、そこに国連の活動を必要としている国々の多いアジア地域を結びつけることによる相乗効果を考えてのものです。
 加えて、この二つの地域を結ぶ場所にある日本には、国連のシンクタンク機能を担う国連大学の本部があり、近年は「平和とガバナンス」と「環境と持続可能な開発」の二つのテーマに集約した研究と研修活動が行われています。
 新設する国連アジア太平洋本部が、この国連大学をはじめとする域内の諸機関を有機的に連動させる中核となり、とくに「人間の安全保障」に関する活動に力を注ぐ中で、皆が平和と幸福を享受する「グローバル・ガバナンス(地球社会の運営)」を、国連中心に確立する先鞭となっていってはどうか。
 また、経済社会理事会が、ニューヨークとジュネーブで交互に開催してきた主要会期を、「国連アジア太平洋本部」で行うことも検討していくべきでしょう。
 「人間の安全保障」と「グローバル・ガバナンス」は、私が創立した戸田記念国際平和研究所が長年、主要プロジェクトとして研究を進めてきたものでもあります。
 戸田平和研究所では明年2月にも、創立10周年を記念して「国連強化とグローバル・ガバナンス」をテーマにした国際会議を行う予定となっています。「国連アジア太平洋本部」の構想を実現するための共同研究を、他の研究機関と協力しながら、一段と進めていきたいと思います。
21  サミット開催へ進む地域間対話
 二点目は、EU(欧州連合)やNAFTA(北米自由貿易協定)のような地域統合を、東アジアにおいても推進するための基盤づくりに関するものです。
 97年に東アジア諸国を襲った「通貨危機」以来、ASEAN(東南アジア諸国連合)を中心に地域協力の強化を求める声が高まり、ASEAN加盟国に日本・中国・韓国の3カ国を加えた「ASEAN+3」と呼ばれる地域間対話の枠組みが形成されてきました。
 こうした中、昨年11月に行われたASEAN首脳会議において、初の「東アジアサミット」を本年秋にマレーシアで開催することが決定し、将来の「東アジア共同体」の創設をも見据えた討議が期待されています。
 私もこれまで、さまざまな機会を通じて、同地域における統合の促進を呼びかけてきただけに、今回の合意を歓迎するとともに、サミット等の場で議論を深め合う中で、世界の平和と安定と繁栄に寄与する“開かれた地域共同体”の建設が目指されることを切に願うものです。
 そこで私は、この流れを確実なものとするために、「環境問題」「人間開発」「災害対策」の3分野での地域協力にとくに力を入れながら、共同体形成へ向けての信頼醸成を図っていってはどうかと提案したい。
 環境分野では、「東アジア酸性雨モニタリングネットワーク」や「アジア森林パートナーシップ」の枠組みが既に稼働していますが、こうした協力体制を環境問題の各分野で強化する努力が求められましょう。
 人間開発については、とくに保健衛生分野を軸に、今年から2015年までが「『命のための水』国際の10年」にあたることを踏まえ、「アジア水環境パートナーシップ」等を通じて安全な水資源確保の体制づくりを進めるべきではないかと思います。また、東アジアで感染者が急増しているHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の対策に力を注ぐことも重要な課題となるでしょう。
 もう一つの柱として災害対策を挙げたのは、一昨年12月のイラン南東部大地震、昨年10月の新潟県中越地震に続き、先月にはインドネシア・スマトラ島沖で大地震が起こり、津波による被害等で20万人以上の犠牲者が出るなど、復興体制の国際的な整備が急務となっているからです。
 阪神・淡路大震災から10年となる今月、神戸で「国連防災世界会議」が行われました。
 会議では、今後10年間の国際的な防災戦略の指針となる「兵庫行動枠組み」を採択し、防災に関する法制度の整備など5項目にわたる優先行動が打ち出されました。
 加えて、会議の成果として、自然災害の被災国に対して中長期にわたる復興を支える国連の「国際復興支援機構」の創設も合意されました。
 自然災害そのものをなくすことは困難だとしても、早期警報の体制を整えたり、防災対策などを強化することによって、被害を最小限に食い止める「減災」の取り組みの重要性については、神戸での会議でも強調されたように喫緊の課題となっています。
 私は、新設される「国際復興支援機構」の活動が一日も早く軌道に乗るよう望むとともに、スマトラ島沖地震で課題として浮かび上がった「津波早期警戒システム」の整備をはじめ、アジアにおける防災と復興支援の協力体制の確立を、あらゆる角度から進めるべきだと訴えたい。
22  ソフトパワーがEU統合の源泉
 昨年、EUは拡大を果たし、25カ国体制で新たなスタートを切るとともに、「EU憲法」=注5=を採択し、主権国家の枠を超えた政治共同体への大きな一歩を踏み出しました。
 この動きを、ジョセフ・ナイ氏(ハーバード大学ケネディスクール教授)は、「新加盟10力国のうち8力国は、半世紀に及んだ冷戦時代、鉄のカーテンに閉じ込められていた共産圏国家である。これらの国々がEU加盟に魅せられたのは、まさに『欧州統合』という理念のソフトパワーであった」と評価しております(「朝日新聞」昨年7月7日付)。
 つまり、これまでの人類史の主流をなしてきた、軍事力などのハードパワーのような外圧的・強制的な力とは180度異なる、対話や地域協力といったソフトパワーこそがEU統合の推進力となってきたのであり、漸進主義に立った粘り強い合意形成の賜物にほかならないといえましょう。
 EUにおいて、2度の世界大戦で反目し合ったフランスとドイツが信頼関係を築き、統合の推進力となったように、東アジアで不戦の共同体への道を開くためには、日本と中国と韓国が友好を深めることが重要なカギとなると思います。
 昨年11月に行われた日中韓の首脳会議では「3国間協力に関する行動戦略」に合意し、環境保護や災害予防・管理などの面での協力強化に加えて、文化・人的交流の推進が打ち出されました。
 そこで私は、具体的な方策として、EUが進めている「エラスムス計画」等を参考にしながら、アジアでも同様の制度の確立を目指し、まず日中韓の3国がその先行例となっていってはどうかと考えるものです。
 EUにおいては「エラスムス計画」の下、加盟国の全学生の1割が他国の高等教育機関で学ぶことを目標に、大学間交流協定等による共同教育プログラムが積み重ねられてきました。
 そうした中で、「学生への助成金の低さ」「他国での勉学への不安」「単位認定・資格取得への不安」などを克服することが課題となっていますが、日中韓3国の教育交流では、これらの点に考慮しながら環境整備に取り組むことが望ましいでしょう。
 すでに、91年に発足した「アジア太平洋大学交流機構」の活動を通じて、高等教育機関の学生・教職員の交流が進められており、その実績も踏まえながら、アジアの平和共存の礎ともなる「アジア青年教育交流計画」のような制度へと、大きく発展させるべきではないでしょうか。
 実際、日本と海外の大学との交流協定の国別締結数ではアメリカに次いで、中国が2位、韓国が3位であり、海外からの大学・専門学校への国別留学生でも、中国が1位で、韓国が2位となっています。こうした実態をベースに、先行的に「日中韓大学間ネットワーク」の構築を目指していってはどうか。
 私自身、次代を担う青年たちの交流こそが崩れざる平和の基盤になるとの思いで、教育交流の推進に努めてきました。
 私の創立した創価大学では、中国から国交正常化後初の国費留学生を受け入れたほか、アジア諸国をはじめ世界41カ国・地域90大学と交流協定を結んできました。このうち、中国は22校、韓国は5校を数えます。
 また、教育交流の更なる伸展等を期し、創価大学の北京事務所を年内に開設する予定ともなっています。
23  創価学会としても、青年部と、中国で3億人以上の青年が所属する「中華全国青年連合会(全青連)」との間で交流を深めてきました。
 20年前、胡錦濤国家主席(当時、全青連主席)を団長とする訪問団が来日した折、交流議定書を調印して以来、定期的な代表団の派遣などを進めており、昨年も新たな10年間の交流を約し合ったところであります。
 加えて本年は、日本と韓国の国交正常化40周年を記念する「日韓友情年」でもあり、文化交流や往来が活発となってきた両国の友好関係を一段と深めるチャンスといえましょう。
 戦後60年である本年が、過去の歴史の教訓を互いに正視しつつ、未来志向で青年の教育交流を力強く推し進めていく、日中韓関係の新たなスタートの年となっていくことを願うものです。
24  北朝鮮の核問題膠着化の打開を
 私は、この未来志向の取り組み等を通して、3力国が信頼関係を育むとともに、膠着化している北朝鮮の核開発問題を打開する道を一致協力して開いていくべきであると思います。
 すでに東南アジアには非核兵器地帯条約(バンコク条約)があり、97年に発効しています。
 同様の非核兵器地帯を北東アジアにも設置すべきであり、そのためには、アメリカ、ロシア、日本、中国、韓国、北朝鮮による「6力国協議」を成功させ、北朝鮮の核開発問題の解決を図ることが前提となります。
 2003年8月の第1回協議に続き、昨年は2度にわたり、6力国協議が行われました。
 しかし、実質的な成果はいまだ得られず、協議再開の目処がなかなか立たない状況が続く中で、国際社会の憂慮が強まっています。
 こうした状況を打開するための手立てとして、私は、これまで協議が行われてきた中国の北京か、国連本部のあるニューヨークに、北朝鮮の核放棄の具体的手順を協議するための作業部会を常駐化させ、実務的な協議を継続的に行うようにしてはどうかと思います。
 この「作業部会」は昨年2月の協議で設置が決まり、6月の協議で役割が規定されながらも、まだ一度も開催されていないものです。
 また、その環境づくりとして非公式協議の場を設け、そこに、これまで核開発政策を放棄した国々の代表を招きながら、地域における安全保障の構築のあり方について、幅広く意見交換していくことも有益ではないでしょうか。
 いずれにせよ、中断したままとなっている協議を再開させ、朝鮮半島の非核化への道を開く努力を続ける中で、今後も6力国協議が北東アジアの平和のための“建設的な対話のフォーラム”として機能していくことを目指すべきであります。
25  “ラッセル宣言”発表から50周年
 続いて第三に、核軍縮と紛争防止のための取り組みについて提案をしておきたい。
 一つ目は、核保有国による速やかな軍縮の遂行と、拡散防止のための制度強化です。広島・長崎への原爆投下から60年を迎える本年は、核廃絶を求めた国際アピール「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表されて50周年の佳節でもあります。
 私は現在、宣言に署名した唯一の現存者であり、ノーベル平和賞受賞者のジョセフ・ロートブラット博士(パグウォッシュ会議名誉会長)との連載対談の準備を進めています。
 その中で博士は、2000年のNPT(核拡散防止条約)再検討会議の最終文書で「核兵器の全廃を達成するという核兵器国による明確な約束」が明記されたにもかかわらず、さしたる前進が見られないばかりか、保有国の中に新たな核開発を進めようとする動きがあることに、深い憂慮を示されました。
 また昨年のパグウォッシュ会議の年次会合でも、「核保有国が核廃絶に向けた交渉を拒否している間は、核拡散は止められない」との警鐘を鳴らしています。
 私もまったく同感です。最終文書での約束には法的拘束力がないとしても、加盟国の合意に基づくものである以上、それに反する行為はNPT体制の土台を揺さぶり、核拡散の流れをエスカレートさせる危険性をもつといわざるを得ません。
 本年5月にはNPTの再検討会議が行われますが、10年前にNPTが無期限延長された経緯を今一度踏まえた上で、国連安保理の常任理事国である核保有5カ国が、速やかに軍縮の枠組みづくりに着手することを強く求めるものです。
 近年、サミットの重点課題として継続して不拡散の問題が取り上げられ、昨年も、核物質及び技術の不法な転用の防止を目指す「不拡散に関するG8行動計画」が採択されました。
 この行動計画や、アメリカが主導する「拡散に対する安全保障構想」などの取り組みが、国際社会に真に説得力をもって受け入れられ、より広範な協力を得て効果をあげていく上でも、保有国自らの誠実な軍縮努力が欠かせないのではないでしょうか。
 長らく核軍縮については、アメリカとソ連(現在はロシア)の2国間交渉によって主に進められてきました。しかし近年、その取り組みが停滞する中、従来の方法から一歩踏み込んで、多国間の枠組みによる交渉を開始していく必要があると考えます。
 核軍縮、そして核廃絶への展望が長らく見いだせないままでいることは、結果的に核兵器だけでなく他の大量破壊兵器の拡散や、新たな軍事的緊張を招きかねない恐れがあります。「不拡散」と「核軍縮」の両輪が相まってこそ、世界は平和と安定の方向へと大きく向かうはずです。
 そこで、核拡散防止のために監視を行うIAEA(国際原子力機関)と対になるような形で、「核兵器の全廃を達成するという核兵器国による明確な約束」を具体的に推進する専門機関――たとえば「国際核軍縮機関」のような機関の設置を、真剣に検討すべきではないでしょうか。
 また、ジュネーブ軍縮会議において長年、交渉の手前で止まったままとなっている「カットオフ条約(兵器用核分裂性物質の生産禁止条約)」=注6=の成立を目指し、NPTの枠外で核兵器を保有するにいたったインドやパキスタンに加え、イスラエルにも同条約への加盟を呼びかけ、国際的な核管理体制への参加を働きかけていくべきでしょう。
26  通常兵器の犠牲は毎年50万人に
 二つ目は、「武器取引制限条約」の早期締結です。
 私は6年前の提言で、「不戦の制度化」の一環として、紛争地域や対立・緊張が高まっている地域への武器の流出を防ぐために、武器取引規制の枠組みづくりが急務であることを訴えました。
 近年、こうした声が国際社会でも高まり、2003年10月から、世界の武器貿易の規制を求める国際キャンペーンがスタートしています。
 これは、アムネスティ・インターナショナル、オックスファム、IANSA(小火器に関する国際行動ネットワーク)の三つのNGOが共同で進めている運動で、明年までに小火器の移転に関する条約を締結するよう、各国政府に呼びかけています。
 現在、世界には6億以上もの小火器が存在し、これらの通常兵器によって命を奪われた人の数は毎年平均で50万人以上にのぼるといいます。
 国連では、2001年に「国連小型武器会議」を行い、非合法取引の防止・除去・撲滅に向けた「行動計画」を採択しました。この非合法取引に関する取り組みに加えて、年間210億ドルにも及ぶ莫大な規模とその影響に鑑みて、合法とされる取引に関しても何らかの規制の枠組みを早急に設ける必要がありましょう。
 緊張が高まっている地域に武器輸出を行うことは合法・非合法にかかわらず、紛争予防の流れに逆行するものです。また、軍備増強への後押しとなることで、本来、教育や保健衛生など、貧困に苦しむ人々が必要としているサービスに向けるべき予算を軍事費へと向けてしまう結果を招き、「人間の安全保障」の面でも多大なマイナス効果を及ぼすからです。
 キャンペーンによれば、国連安保理の五つの常任理事国が通常兵器の世界貿易の88%を占めており、とくに過去4年間で米英仏の3国が、アジア・アフリカ・中東・中南米の国々から、援助資金よりも多くの収入を武器輸出から得ているともいわれます。
 21世紀の人類が目指すべき「不戦の制度化」は、他国の戦争や内戦を利用して自国の影響力強化や利潤追求を図る行為から脱却することが第一歩となるはずです。
27  世界で重み増す中国とインド
 私は先に、本年のサミットで予定されている温暖化防止に関するG8の討議に、中国やインドも加えるべきであると訴えましたが、それと同じくG10の枠組みで、小火器規制強化のガイドラインについても討議するよう訴えたい。
 昨年、インドのナラヤナン元大統領と会見した折も話題になったことですが、21世紀の世界で中国とインドがもつ重みはますます増してきております。今や、その存在を抜きにしてグローバルな諸課題を解決する道筋をつけることはできないでしょう。
 両国の重要性については、4年前の提言でも強調した点であり、ここでは詳述しませんが、中国とインドの両文明が歴史の地下水脈で育んできた精神伝統を、現代の世界においてソフトパワーとして開花させていくことは、アジアと世界の平和に大きく貢献するものと、私は確信しております。
 かつて、現行のG8によるサミットに、中国とインドを加えた形で、「責任国首脳会議」へと発展的に改編すべきであると提唱したのも、そうした時代認識に基づいてのものでした。
 G10への拡大は将来的な課題であるとしても、本年のサミットにおいて小火器問題を討議の対象に取り上げ、明年の第2回「国連小型武器会議」へ向けて、主要国が参加しての条約交渉を速やかに開始すべきであると訴えたい。
28  次代担う世代に軍縮教育を推進
 三つ目は、軍縮・不拡散教育の推進です。
 近年、核拡散の動きが広がる一方で、核軍縮への取り組みが遅々として進まない状況を打開するためには、市民レベルの意識啓発、とくに若い世代の教育に力を注ぐ必要があるとの問題意識が高まってきました。
 こうした中、2001年にアナン事務総長から任命を受けた10カ国の専門家からなるグループが結成され、その研究成果をまとめた報告書「軍縮・不拡散教育に関する国連の研究」が、翌2002年の国連総会で採択されました。
 そもそも軍縮教育の重要性が初めて強調されたのは、1978年に行われた「第1回国連軍縮特別総会」の場においてであります。私もこの特別総会に寄せた提言で、「戦争の残虐性、核兵器の恐ろしさを、より広範な民衆に啓蒙し、その実態を知らしめていく」活動の重要性を訴え、民衆レベルでの軍縮教育の推進を呼びかけました。
 以来、国連では82年から10年間にわたり、「世界軍縮キャンペーン」が進められましたが、SGIではその開始に先駆ける形で、国連広報局、広島、長崎両市と協力し、同年6月にニューヨークの国連本部で「核兵器――現代世界の脅威」展を開催しました。
 同展はその後、核保有国をはじめイデオロギーや社会体制の異なる国々を巡回し、訪れた市民はのべ120万人を数えました。冷戦後も、「戦争と平和」展や、内容を刷新した「核兵器――人類への脅威」展等の巡回を行い、平和を求める民衆の心を一つに結びながら、世界不戦への潮流を高めてきたのです。
 また、98年からは平和と人道に貢献したポーリング博士の思想と生涯を紹介する「ライナス・ポーリングと20世紀」展を、アメリカや日本や欧州各地で開催し、100万人以上が訪れました。
 この展示についても、「国連総会が2000年に決議した『軍縮教育』の理念に一致した素晴らしい催し」(ダナパラ国連事務次長、当時)など関係者からも高い評価が寄せられ、昨年、国連総会に提出された軍縮・不拡散教育に関する事務総長報告の中で同展への言及がされています。
 21世紀に入り、テロをはじめ新たな脅威が台頭し、不安定さを増している今こそ、国際社会が一丸となって軍縮・不拡散教育を推進し、時代を平和の方向へと向けていく挑戦が求められます。
 アナン事務総長も先述の報告書の序文で、「核兵器による破滅的状況という常に存在する恐怖を知らないまま、全く新しい世代の人間が成人に達しつつあることを考えるのは、私の世代の人間にとっては衝撃的である」と警告しています。
 若い世代の間で軍縮問題への無知や無関心がこのまま広がってしまえば、いくら法制度を整えたところで、平和への流れを確たるものにすることはできません。その意味でも私は、とくに学校教育の中で、軍縮・不拡散教育を積極的に取り入れていく努力が必要ではないかと思います。
 具体的には、報告書で推奨しているような、実際の問題に沿った形でシミュレーションを行い、批判力や考察力を高める「参加学習」を中学や高校で実施したり、大学で「平和学」をカリキュラムに積極的に導入するなどの取り組みを広げていくべきでしょう。
 また学校教育とあわせて、社会のあらゆる分野で意識啓発を進めていくことが肝要であり、核廃絶を遺訓の第一とした戸田城聖第2代会長の「原水爆禁止宣言」を胸に、平和運動を進めてきたSGIとしても、今後とも軍縮・不拡散教育の推進であります。
29  「SGl憲章」を一人一人が体現
 最後に、発足30周年を迎えたSGIの基本精神について再確認しておきたい。
 1975年1月に51カ国・地域で発足して以来、SGIの「人間主義」の連帯は、今や190力国・地域へと大きく広がりました。それは、メンバー一人ひとりが信仰を根本に、各国でよき市民として行動し、社会に「希望」と「信頼」の輪を広げる中で、一歩一歩築き上げてきたものにほかなりません。
 その根本精神は、10年前に制定した「SGI憲章」の以下の内容を含めた10項目にも結実しています。
 「SGIは生命尊厳の仏法を基調に、全人類の平和・文化・教育に貢献する」
 「SGIは真理の探求と学問の発展のため、またあらゆる人々が人格を陶冶し、豊かで幸福な人生を享受するための教育の興隆に貢献する」
 「SGIはそれぞれの文化の多様性を尊重し、文化交流を推進し、相互理解と協調の国際社会の構築を目指す」
 今後も、この「SGI憲章」を一人ひとりが体現し、今いる場所で対話の波を広げながら、平和と共生の地球社会の建設へ歩んでいきたい。
 SGIの発足30周年である本年は、創価学会創立75周年の佳節でもあります。
 「創価教育学会」を母体とし、牧口初代会長と戸田第2代会長が教育者であったことが象徴するように、学会は創立以来、「教育」を通じた平和な社会の構築に取り組んできました。
 その精神は、今年からスタートする国連の「人権教育」と「持続可能な開発のための教育」の二つの国際的枠組みの設置を呼びかけるとともに、「軍縮・不拡散教育」の活動を積極的に推進してきたSGIにも、厳然と脈打っております。
 明確なる目的観に立って、人間教育の善の結合を世界に広げよ!そこに、人類の永遠の勝利の道がある――これが牧口、戸田両会長の遺訓でありました。
 私どもSGIは、この先師の深き精神を胸に刻みつつ、目覚めた民衆による「平和」と「人間主義」の連帯を、どこまでも広げていきたいと思います。
30  語句の解説
 注1 維摩詰
 釈尊在世の時代、中インドの毘耶離びやり城に住んでいたとされる在家仏教者の代表的人物。大乗仏教の奥義に通じ、雄弁で巧みな方便を用いて、仏教流布に貢献したといわれる。「維摩経」には、病気見舞いのために維摩詰のもとを訪れた文殊師利菩薩との対話の場面などが描かれている。
 注2 順縁と逆縁
 順縁とは、教えを聞いて従順に信じ、仏道に入ること。また逆縁は、謗法などの仏法に敵対する悪事がかえって仏道への縁となること。仏法では「毒鼓の縁」といって、逆縁であっても、やがては煩悩を断じて得道することができるとして、その縁をプラスの関係へと転じていくことができると説く。
 注3 カッサンドラ
 ギリシャ神話に出てくるトロイの王女。太陽神アポロンから未来を予言する力を授けられながらも、その求愛を拒んだために、「誰もその予言を信じない」という呪いをかけられた。その結果、ギリシャ軍による侵攻を警告しても誰も耳を貸さず、トロイは陥落。自らも捕虜にされ、ギリシャで殺された。
 注4 ミレニアム開発目標
 2000年に採択された「国連ミレニアム宣言」と1990年代に開催された諸会議で採択された開発目標を統合し、共通の枠組みとしてまとめたもの。2015年までに「l日1ドル未満で暮らす人口の割合を半減させる」「飢餓に苦しむ人口の割合を半減させる」「初等教育を完全普及する」などの項目が掲げられている。
 注5 EU憲法
 経済から外交・安全保障、防衛、司法政策まで各国の連携と協調の強化を謳ったもので、昨年6月のEU首脳会議で採択された。常任の欧州理事会議長とEU外相の新設なども盛り込まれている。発効のためには、加盟国すべての批准が必要で、これまでリトアニアとハンガリーが批准をすませている。
 注6 カットオフ条約
 核保有国とNPT非締約国の核能力の凍結を目的とし、核爆発装置の研究・製造・使用のための高濃縮ウラン及びプルトニウム等の生産禁止等を義務とする条約。l995年、ジュネーブ軍縮会議で特別委員会の設置が決定されたものの、議論が紛糾。各国の対立のために、いまだ実質的な交渉開始にいたっていない。

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