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日蓮大聖人・池田大作

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第29回「SGIの日」記念提言 「内なる精神革命の万波を」

2004.1.26 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

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2  イラク問題が提起した難題
 12年間にわたって、国連の安全保障理事会による数々の決議を誠実に順守してこなかったイラクヘの軍事力行使の是非について、国際社会の意見が分かれる中で、3月、米英両国が最終的に攻撃に踏み切りました。
 圧倒的な軍事力を背景に、21日間の戦闘でフセイン政権の崩壊をみたわけですが、その後、イラクを占領統治するアメリカや関係国、さらには国連を標的にしたテロや襲撃事件が相次いでおり、イラク復興や中東地域の安定に暗い影を落としています。
 同様の混迷は、3年前、テロ組織「アルカイーダ」の掃討のために、軍事力が行使されたアフガニスタンにおいても見られます。今月、ようやく憲法が採択されたものの、依然、旧タリバン勢力によるとみられるテロが続くなど治安の悪化が懸念されています。
 こうした状況は、新しい脅威を看過したり、放置しないためには国際社会の強い意志と行動が必要とされるものの、軍事力に重きを置いたアプローチだけでは問題の根本的解決を図ることが容易ではないことを、物語っているように思われます。このイラクやアフガニスタンの復興問題に加えて、世界で今、大きな焦点となっているのがイスラエルとパレスチナ間の和平問題であり、北朝鮮の核開発問題です。
 いずれも先行き不透明な状況にありますが、こうした戦乱や対立が続く時代の暗雲の厚さとともに、深刻さを帯びているのは、世界の多くの人々が抱き始めている思い――すなわち、次々と問題が起こり、軍事力などの強制的な力によって事態の打開が試みられるものの、平和への確かな光明が一向に見いだせないことに対する不安感であり、焦燥感、そして何よりも閉塞感ではないでしょうか。
3  対症療法でなく抜本療法の道を
 たしかに、軍事力に象徴されるハード・パワーの行使によって、一時的に事態の打開を図ることはできるかもしれない。しかしそれは、対症療法的な性格が強く、かえって"憎しみの種子"を紛争地域に残し、事態を膠着化させかねないことは、多くの識者の憂慮するところであり、事実、そうした状況は、いたるところに顕在化しております。
 私が過去2回の提言で繰り返し、軍事力などのハード・パワーが"憎悪と報復の連鎖"に陥ることなく、何らかの効果を生むためには、それを保持し行使する側に徹底した「自己規律」「自制心」のはたらきが欠かせないと訴え、ソフト・パワーを含めた形で国際社会が足並みを揃えて対処していくことの重要性を呼びかけたのも、そうした強い懸念に基づくものでした。
 つまりそうした行為の裏付けとして、文明を文明たらしめる証としての、「他者への眼差し」に基づいた「自己規律」の精神がなければ、そこに説得性は生まれず、平和と安定に結びつくことは難しいからです。
 イラクヘの軍事力行使の是非をめぐる国際社会の亀裂は今なお尾を引いていますが、そこでの教訓を各国が真摯に踏まえながら、対症療法の域を超えて、抜本療法のために何が要請されるのかをともに模索し、建設的な対話を重ねていくことが、何にもまして求められているのではないでしょうか。
 すなわち、テロとの戦いという極めて今日的な"非対称戦"の泥沼化を防ぎ、なにがしかの実効を期するためには、テロリストの側からの自制が望み得べくもない以上、それと対峙する側に、ハード・パワーの行使にもまして、相手の立場をおもんばかる自制心を堅持しつつ、貧困や差別などテロリズムの温床に思い切ってメスを入れていく勇気ある度量が欠かせないからです。
 それが、文明の証ではないでしょうか。
 そうでなくて、いくら「自由」や「民主主義」を、文明の果実である普遍的理念として言挙げしてみても、"人のふり見て、わがふり直す"自制心に発する呼びかけ、メッセージに裏打ちされていなければ、そして、「無理やり従わせるのではなく、味方にする力」(ハーバード大学ケネディスクールのジョセフ・ナイ院長)であるソフト・パワーの「かたち」として民衆の心に届いていなければ、内実を伴わない空しいスローガンに終わってしまう――そうした懸念を、どうしても払拭することはできないのであります。
 そこで今回、私はそうした事態への政治的、軍事的対応(その基本的スタンスについては、昨年、一昨年の提言で述べました)とは次元を異にして、迂遠なようでも、テロと武力報復の果てしなき応酬に象徴される荒涼たる時代の閉塞状況、時代精神の腐蝕せる根の部分に、私なりにメスを入れてみたい。
4  "他者への眼差し"に基づく《自己規律》
 今までも若干触れてはきましたが、ひょっとすると、人間が人間であることの深部に、表層部分ではなく深層部分に、ある種の根腐れ現象が進行しつつあるのではないか。そしてその部分を切開しない限り、閉塞状況に本当の風穴を開けていくことはできない容易ならぬ事態に直面しているのではないか。
 これは、晩年の釈尊が「自帰依」(自らを拠り所にすること)と強調し、ソクラテスが「汝自身を知れ」と留言したように、人類が「他者」の鏡に照らして「自己」を意識し、自覚しだして以来の、いわば人類の精神史的課題ですが、本稿は、そのような大上段のテーマに論及する場ではありません。
 そこで、視線をグローバルな地平から足元へ移し、現代日本の差し迫った課題である教育問題に引き寄せて論じてみたいと思います。
5  『自由と規律』が訴えかけたもの
 教育ということに関連して、青春時代の読書の思い出を一つ、回顧的に振り返ってみたい。
 私の青春といえば、いうまでもなく、終戦をはさんで時代が急激に変化し、価値観が一朝にして百八十度転換した混乱期でした。戦争中の暗い時代、苛酷な圧政、戦火からの解放感もあって、占領軍によってもたらされた「自由」や「民主主義」という言葉は、今とは比較にならぬほど新鮮で、光り輝いていました。
 そうした風潮の中で手にした一冊に、当時、慶應大学の教授をされていた池田潔氏が著した、岩波新書の『自由と規律』があります。
 第2次世界大戦が始まる前、氏が、イギリスのパブリック・スクールとケンブリッジ大学に8年間、ドイツのハイデルベルグ大学に3年間学んだ経験をベースに、民主主義を支えるに足る自由というものは、青年期とくにパブリック・スクールの年代(12・13歳〜18・19歳)における厳しい人格の陶冶、鍛えなくしてありえないこと、もしそれを欠けば、自由は勝手気ままな放縦に堕してしまうであろうことを生き生きと描き出したものです。
 もとより、そこには、この民主主義の母国の政体を支えていた暗部――民族的、階級的差別あるいは植民地からの収奪といった"負"の側面は語られていません。とはいえ、反軍国主義、反ファシズムの圧倒的な潮流にあって、「自由」や「民主主義」という言葉は、日々の糧さえ事欠くなか、明るい未来を約束する希望の星のような輝きを帯びていました。
 それだけに『自由と規律』には、アングロ・サクソン流民主主義のエッセンスが凝縮されているような新鮮さを覚えたことを記憶しています。
 書中、こんな印象深いエピソードが紹介されております。
 「ドイツのフランクフルト市の警察犬を訓練する専門技師の話をきいたことがある。気分が秀れなかったり何か気懸りなことのあるような日には、自分は訓練を休むことにしている。そのような時には、何かのはずみで訓練中、こちらがほんとうに怒ってしまうことがある。訓練過程にあっては、犬を叱ることは必要だし、鞭を使ったり、時によっては足で蹴らねばならない場合さえある。しかしただの一度でもこちらがほんとうに怒ってしまったら、もうその犬の訓練はおしまいである。犬がこちらを軽蔑するからである。
 軽蔑する人間の訓練など、犬でさえ受けつけるものではない」と。
 専門技師にとっては、訓練する相手は、ある意味で自分を映す鏡であり、かけがえのないパートナーといえます。
 氏は、これを人格同士の陶冶、訓育の場である教育になぞらえ、「三年近いドイツの留学で鈍才の学び得たことといえばこの一事しかない」とまで言い切っております。
 味わい深い言葉であります。なぜこのエピソードを鮮明に記憶しているかというと、この専門技師にとって警察犬とは、自分の意のままにならない、自由(好き勝手)にコントロールすることのできない、したたかな抵抗感を示す「他者」として、まがうかたのない実在感を有しているからであります。
 「他者」があるから「自己」があり、「他者」や外部の抵抗、壁を意識するからこそ、自制心がはたらく。したがってセルフ・コントロールの危うい時には、訓練を差し控えざるをえない。
 周囲を見回してみれば、身につまされる話ではないでしょうか。
 自らの精神の張り、緊張感、己を律する心なくしては、「他者」と付き合っていくことはできない。その緊張感なかりせば、たちまち、その軽蔑をかい、警察犬は専門技師にとって、「他者」であることを止める。「他者」が視界から消え失せ、それに連なって「自己」の存立さえ怪しくなってしまい、当然の帰結として訓練の実は上がるはずはありません。
 こうした事情は、人間同士の場合、幾層倍もデリケートな問題として立ち現れてくるでしょう。著者は、「二十年近く教壇に立っていて、未だにこのような判り切った理窟が身につかない」と嘆いていますが、優れた教育者ならではの正直かつ率直な告白であると思います。
6  教育力の低下と「家のなか主義」
 この本が上梓されてから半世紀余り経ちますが、翻って今日、青少年をめぐる状況――学校教育に限らず家庭教育、社会教育を含む広い意味での教育の世界に、果たして、名物教授・池田潔氏が提示したような健全かつ健康な緊張感、"張ったもの"が保たれているでしょうか。
 従来の常識を逸脱した一部の若者たちの行状が世のひんしゅくを買い始めて久しくなりますが、そうした現象は、社会全般の教育力が衰弱し、「自己」と「他者」との対峙が生む精神の"張り"とはおよそ無縁の"弛緩したもの"が瀰漫していることを告げる、(危険性を予知、警告する)"坑道のカナリア"ではないでしょうか。
 一頃、「戦後日本の二大名物は子どもの猫可愛がりと観光地の紙クズ」と揶揄されました。人間や自然と厳しく向き合うことを素通りしてきた、戦後の民主主義の下での弛緩状況を言い当てています。
 人格というものは、『自由と規律』が語っているように、「自己」と「(自然環境を含む)他者」との触れ合い、撃ち合いが生む緊張感のなかでのみ鍛え上げられるという自明の理は、時とともに、豊かさが増すほどに蔑ろにされてきたように思えてなりません。
 「自己」と「他者」、「私的なもの」と「公的なもの」の区別ができず、私的空間に閉じこもるか、本来、公的空間であるはずの場でも平気で私的流儀を押し通す昨今の若者たちの姿を、正高信男氏(京都大学教授)は「家のなか主義」と名付けています。
 どこにいても「家のなか」にいるのと何ら変わらない甘えに甘んじていては、「他者」を意識することによってのみ形成される「自己規律」のかたちである公徳心や最低限のマナー、緊張感など身に付くはずがない。それらは、努めてそうするよう意志し続けることによってのみ、手にすることができるからであります。
 しかし、抵抗感のない、本当の「他者」の手応えを欠いたのっぺらぼうでフラットな社会が、自由なようであってそうではなく、どこか息のつまるような生きにくい社会であること、作詞家の阿久悠氏が、いみじくも「何でもありの、何でもなし」と評したような、何不自由ないようで常時何かの欲求不満に取り付かれている閉塞状況以外の何ものでもないことに、人々は、うすうす気付き始めているように思います。
7  受け継がれなくなった社会習慣
 ある知人のジャーナリストが、こんな話をしていました。
 ――本年の『イミダス』(集英社)の別冊付録の一つが「こんなときどうする?最新マナー55」という小冊子で、文字通り、箸の上げ下げから始まり、冠婚葬祭の際のエチケットまで、様々な礼儀作法のノウハウがコンパクトに収録されている。この種の「年鑑」の付録の多くは、本体の中身を補完するような性格のものが常なのに、異例であり、時代が何を求めているかの一つの象徴ではないか、と。
 確かにそれらのノウハウの多くは、一昔前までは、家庭や地域社会のなかで自然に身に付いていったものであり、それがこと改めて取り上げられるということも一つの社会現象でしょう。
 さて、私がなぜ教育荒廃のような身近な問題に論及してきたかといえば、そうした状況が露わにする矛盾、病理は、暴力の連鎖が終息の気配さえ見せない現代文明という大状況の病根と深く通底していると信ずるからであります。
 小状況であると大状況であるとを問わず、「他者」を見失ってしまえば、人情不感症というか、周囲の人々、物事への徹底した無関心やシニシズム(冷笑主義)に象徴される生命感覚の鈍磨、麻痺にまで到りついてしまう。
 そうした病理は、青少年の心の闇から、私が一昨年のこの提言で、「味方の人的損失が限りなくゼロに近いのに、相手には甚大な被害を与え、しかもその規模さえ定かでないというような状況が、人間の生き死にという根本事への不感症を亢進させる」と警告した、現代ハイテク戦争の病理へと、確かに地続きを成しているはずです。
 イラクに自由と民主主義をもたらそうとするアメリカの試みは、試行錯誤というよりも苦戦続きを強いられているようです。果たして西欧社会とは異なる宗教的理念に基づく倫理観、価値観をもつイスラム社会の人々にとって、それらの普遍的理念がいかなる意味、魅力を持つのかという類いの問い返しは、慎重になされたでしょうか。「他者」感覚は十二分にはたらいたでしょうか。
 すべて、小状況から通底している大ーマなはずです。
 ゆえに、衣ず身近な、できることから"一歩"を踏み出していきたいと思います。先に「迂遠」と申しましたが、それが文明の軌道修正という大事業への実践的直道かもしれないのです。
8  家庭から始まる「平和の文化」
 私どもは、昨年3月、国連のチョウドリ事務次長を創価大学と創価女子短大の卒業式にお迎えし、学窓からの旅立ちを世界平和への旅立ちと重ね合わせて、心のこもる祝辞をいただきました。
 その事務次長が、本年初頭、私あてに新年のメッセージを寄せてくださったのですが、注目すべきはその中で、世界平和に取り組む上での「家庭」や「家族」の役割が、ことのほか強調されていることです。
 いわく、「社会と積極的にかかわる家庭からは、自立し創造力のある、困難に立ち向かうことのできる人間が育ちます。『平和の文化』のメッセージと、寛容・相互理解・多様性の尊重の価値が、家庭で幼少期から教えられるなら、数十年先の世界においては、対立と暴力の蔓延する今日の社会は、大きく変化するはずです」と。
 国連というグローバルな立場から平和のために汗を流している人の言だけに、千鈞の重みをもっております。
 世界情勢が混迷を深めれば深めるほど、ハード・パワーによる応急措置とともに、魂の次元にまで届くソフト・パワーによる精神土壌の開拓がなされなければ、恒久平和に一歩も近づけるものではない。その開拓作業の不可欠の場が、家庭や家族という小さな、原初の共同体である、との認識に達しておられるのだと思います。
 たしかに、口惜しくも殉職された外務省の奥克彦大使が「イラク便り」の中で、事態の深刻さを嘆きながらも、「でも救いはあります。それは子供連の輝く目です」「イラクの子供連のきらきらした目を見ていると、この国の将来はきっとうまく行く、と思えてきます」と述べているのは、まさに正鵠を射ていると思います。
 イラクをはじめ紛争地域で、不信と憎悪の焔を燃え上がらせている大人たちの目を見ていると絶望的な気持ちにさえ襲われるのですが、一転して子どもたちの輝く目に接すると、この人類史のアポリア(難問)にも、一条の光が差し込む、の感を深くします。そのためにも、彼らが成育し、魂を活性化させゆく場である教育現場には、いやましてスポットを当てていかなければならないと訴えたい。
 青年をこよなく愛した、恩師・戸田城聖第2代会長の若人への熱い呼びかけが想起されます。
 「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」と。
 衆生を愛するという仏教の極致であり、人類愛の精髄たる慈悲といっても、親を愛するという身近な"一歩"を欠いては絵空事になってしまう。
 「足下を掘れ、そこに泉あり」といわれるように、一日一日の地道な営みの中の"一歩"は、些細なようで、実はそこにすべてが含まれている。
 単なる肉親の情愛を超え、親が子を、子が親を、一個の人格、すなわち「他者」と位置づけ、触れ合い、撃ち合い、互いに陶冶し合う鍛えの持続こそ、地についた"一歩"であり、それは「家のなか」から踵をめぐらし、地域社会での公徳心の発露に始まり、健全な愛国心、そして普遍的な人類愛へと、まっすぐに歩みを向けていくはずであります。
9  戸田第2代会長の原水爆禁止宣言
 液状化現象といっても決して言い過ぎではない昨今の時代精神の惨状、衰退を目にしていると、平和という大問題も、そうした身近なところから捉え、再考三考していく以外にない。少なくとも、それを欠いては抜本的な手立てとはいえないのではないか、と感じられてなりません。ゆえに、私どもは、その次元から確たる"一歩"を踏み出していきたいと思います。
 ここで、恩師の不滅の留言であり、メッセージである「原水爆禁止宣言」に、今一度、スポットを当ててみたい。
 1957年9月、逝去の約7ヵ月前に、病の小康状態の中で師が全生命を振り絞って発したこの宣言は、全人類の生存権を脅かす核兵器を"絶対悪"と指弾し、その廃絶に取り組む使命を「遺訓すべき第一のもの」として青年たちに託したものです。
 その核心部分は、次の一文にあります。
 「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」当時は、東西冷戦対立の激化に伴い、米ソをはじめ各国が核実験を繰り返し、性能向上に躍起になっていた時代でした。
 そうした中で、師が「死刑」という表現まで用いて、青年たちに徹底した精神闘争を呼びかけたのは、"黙示録的兵器"とも呼ばれる核兵器の悪魔性を踏まえてのものでした。
 ただしここでいう「死刑」とは字義通りの意味ではなく、真意はあくまで、多くの人々の生命や生活を一瞬にして灰燼に化しても痛みを感じず、すべてを自分の意のままにしようと欲する――仏法で説く「他化自在天」=注1=という生命にひそむ魔性を、根源的に断ち切る重要性を訴えることにありました。
 核兵器を"力による均衡"の観点から必要悪と是認する核抑止論の幻想を打ち破り、その根にある生命軽視の思想に強い警鐘を鳴らした宣言の意義は、いささかも衰えてはいないと確信しています。
10  "奥に隠された爪をもぎ取る"
 なかでも私が今日の問題に通ずる大切な視座だと考えるのは、政治や軍事的な思考の枠組みを突き抜けて、生命という根源的な次元から「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」とした透徹した視線、眼力であり、眼識です。
 本論の文脈に引き寄せていえば、「爪をもぎ取る」とは、自らの心の中に「他者」を復活させ、その確かな手応えを感じながら(手応えを感じず、あるいは無視して、相手を意のままにしようとするのが「他化自在天」で、「他化」の「他」とは、したがって私の申し上げている「他者」とは、全く異なるものです)、己をコントロールしゆく「自己規律の心」であり「欲望の統御」、つまり"内面の制覇"であるといってよい。含意するところはそこにあります。であるならば、「爪をもぎ取る」という難作業は、決して他人事ではなく、我々の身近な"一歩"に始まり、原水爆禁止という人類史的課題にまで通底する、地続きのテーマとなってくるはずなのであります。
 産業革命以降、西欧合理主義に基づく近代文明は、欲望のおもむくままに、自我の際限なき、表層的拡大を第1の原理として、突き進んできました。
 地球上の全民衆の「生存の権利」を担保にしてまで特定の国の優位と安全保障を図ろうとする核兵器は、その最たる存在であり、科学技術が軍事目的と結びついて誕生した「欲望に奉仕する文明」特有の産物ともいうことができましょう。
 こうした動きに歯止めをかけるブレーキとなるものは何か。私は、それを「他者への眼差し」だと考えます。あるいは「公徳心」「公的意識」と言い換えてもかまいません。
 今から100年前、帝国主義や植民地主義が世界を席巻していた時代にあって、牧口常三郎初代会長は、『人生地理学』の中でこうした政治風潮を「国民的利己主義」と位置づけ、「国家は個人を離れて存在するものにあらず、国家の目的はすなわち個人の心中を実現する欲望」と指摘した上で、一人の人間の人生も、国家も等しく、その最終目的を「人道」に置かねばならないと訴えました。
 そして、その「人道」は、自分だけでなく他者の幸福をも求めて行動する中でこそ果たされると主張しました。
11  その点、牧口初代会長がその教育思想に強い共感を抱いていた、アメリカの思想家デューイの民主主義論の根底にある"公衆"のアイデンティティー(自分であることの根拠)は示唆的です。
 デューイは「公衆とその諸問題」という論考の中で、作家のハドソンが描いたウィルトシアのある村の情景を通し、一つの具体的なモチーフを浮かび上がらせています。
 「それぞれの家は人間の生活の中心であり、また鳥やけだものたちの生活の中心でもあって、しかもその中心はお互いに触れあっており、それらはちょうど手をつないだ子どもたちの列のように結びあっている」「村のはずれの小屋に住む人が手に負えない木っ端や木株を切り刻んでいて、たまたま重く鋭いおのを足に落してしまい、大怪我をしたと考えてみよう。もしそんなことがあれば、事故の知らせは口から口へと、一マイルも離れた村のもう一方の端まで飛ぶように伝わることであろう。村人たちはみんなすぐにこの事故のことを知るだけでなく、同時にこの災難にあった瞬間の仲間の村人のこと、鋭く光るおのが足元に落ちてきて、傷からは赤い血がほとばしったことをなまなましく思い浮べるだろう。そしてまた、まるで自分の足が傷ついたように感じ、その身体に衝撃が伝わるのを感じることだろう」(『現代政治の基礎』阿部斎訳、みすず書房)仲間の身を襲った災難を、単に事実として知るだけでなく、その痛みをわが事のように感じ、追体験する――そのみずみずしいまでの感受性、生命感覚こそ、"公衆"のアイデンティティーの核心をなすものです。
 私が強い印象を受けたのは、その圧倒的な実在感、生々しいまでの生のリアリティーです。
 そこでは、人間同士はもとより、鳥や獣などの動物たち、大地や草木にいたるまで、互いが互いに「他者」性の輪郭をくっきりと刻印しながら、かといって無関係では決してなく、運命共同体として緊密に結びついている。そこに参入することによって初めて、人々はアイデンティティーを獲得し、自らの生を生きかつ死んでいくことの意味づけ、共同体という全体のなかでの個の生死の位置づけを確認することが可能となる。連想をはたらかせれば、トルストイの作中、作者の自画像に近いとされる人物――『コサック』のオレーニン、『アンナ・カレーニナ』のレーヴィンなど、都会のインテリゲンチアに、たまさか啓示のようにやってくる万有生命と合一しゆく魂の高揚感にも通じるものです。
 デューイは、「このように親密な状態があれば、国家などはくだらないものである」と言い切っています。
 もとよりそれは、ヴォルテールによって、「あなたの著作を読むと、ひとは四つ足で歩きたくなる」と皮肉られた、ルソー流の"自然に帰れ"を意味しません。ルソーが、そこから人民主権の社会理論を構築していったように、すべて"人為"を排して"自然"に帰ることなど、実際には不可能なことです。
 デューイの「公衆」にしたところで、第1次世界大戦後の、本格的な大衆の政治参加が進む時代の「共同関心」「公的意識」のあり方を考察したものです。
 すなわち、村落などの「小共同体」が解体していく中で形成された「国家」という枠組みを、「大社会」から、いかにして「(公衆を構成員とする)大共同社会」へとメタモルフォーゼ(変容)させていくかというテーマヘの取り組みであります。
 そして、デューイが明示的に、時に暗示的に述べているように、村落共同体の住人が共有していた「公徳心」「公的関心」の母体であるアイデンティティーの原基のようなものを、どこかに継承、保持していかない限り、「大共同社会」の形成はおぼつかないのであります。
 デューイは、「大共同社会」を形成するカギを握っているのが、マスコミュニケーションであるとしています。しかるにその後、現代にいたるまで、一マスコミが健全な「公徳心」「公的関心」を培う上で、十全な役割を果たしてきたか否かは問うてみるまでもないでしょう。マスコミだけの問題ではないが、「他者」への無関心、シニシズム(冷笑主義)の蔓延は、とうてい往時の比ではないはずです。デューイの提起した課題は未解決で、むしろ増幅されながら現代へと受け継がれてきているといってよい。
 その趨勢に拍車をかけているのが、現代の二大思潮ともいうべきグローバリゼーションとバーチャリゼーション(仮想化)です。
 二つは、コインの表と裏のように両々相まって、ポスト産業社会という文明史の新たな局面を拓きつつあります。
 最近は、アメリカの"一人勝ち"という状況もあって、グローバリズムヘの風当たりが強くなっていますが、情報化そのものは抗しがたい一つのトレンド(流れ)であって、その功罪、光と影を速断することは禁物です。しかし、一つだけ確かにいえることは、情報化社会が帯びている本質的なバーチャル(仮想)性ということです。
12  バーチャル化がもたらす危険性
 近代化を受け継いだ情報化の奔流は、利便性と効率性の有無をいわせぬ力で人間の欲望を刺激しながら、従来、社会を構成していた家庭、地域、一職場、学校、国家などの枠組みを解体もしくは弱体化させ、人々を隔てていた距離、空間の壁をとりはらうことによって、みるみるうちにグローバールなネットワーク社会を現出させました。
 コミュニケーションは飛躍的に広がり、テレビやパソコンによって、地球の反対側の情報も瞬時に茶の間に入ってきます。その結果、モノやサービス、趣味や娯楽、職種、居住地、国籍、家族構成にいたるまで、人々の選択の自由、行動の自由も大幅に拡大されてきました。それは大きなメリットなのですが、そこには大きな落とし穴があることも忘れてはならない。それがバーチャル性ということです。
 ネット社会を表徴する二つのツール(手段)である「貨幣」と「情報」は、ともに、バーチャルリアリティト(仮想現実)であって、リアリティー(現実)そのものではありません。
 「情報」はもとより「貨幣」にしても、実体経済と互換性をもっている段階はまだしも、そこから切り離され、投機性を露わにしたマネーゲームの世界になると、欲望は際限がなくなり、リアリティー特有の手応え、安定感とは異質の次元に入り込んでしまう。帰結は、自己増殖を求めて飽くことを知らぬ拝金主義の招来です。貨幣というものの魔力であります。
 ゆえに必要不可欠なのは、「貨幣」や「情報」などのバーチャルリアリアィーは、リアリティトを補完し、補強することはできても、それにとって代わることは不可能である、との観点ではないでしょうか。
 どんなに情報機器に上るコミュニケーションが発達しても、人間同士がじかに触れ合う場――身近な対話、会議や授業がなくなるとは思えませんし、カネが、モノやサービスの代わりになりえないことは、無人島のロビンソン・クルーソー=注2=が証左しています。
 すなわち、バーチャルな世界は、「他者」と向き合うことによって「自己」に向き合うという、人間が生きることのリアリティーそのものであるしんどい、根気のいる、ある意味では苦痛さえ伴う内的な葛藤、戦い――仏教では愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎んでいる者と会う苦しみ)等と説きます――とは、本来的になじみにくい性格をもっています。
 むしろ、そうした葛藤や戦いを無しに済まそう、できるだけ避けて通ろうとするのが、利便性、効率性に内蔵されているベクトル(力の方向性)だからです。したがって、「自己」と「他者」との対峙によって生まれる自制心、自己規律の心、公徳心や公的関心も生まれにくいのであります。
 とはいえ、情報ネットワーク社会を支え、構成しているのが人間であることに変わりはない。彼の肩書は、既存のあらゆるしがらみ、紐帯から解き放たれた「自由な個人」であります。その「自由な個人」は、同時、に、氾濫する情報に惑わされることのない自己決定ができる、地に足をつけた「自立・自律した個人」でなければならない。しかし、前述したように、バーチャル性をベースにした情報化社会は、そうした「個人」を鍛え上げる場としては機能しにくい。情報化の行く末を展望する時の最大のジレンマはここにあります。はたして、時流の延長線上に突破口が見いだせるのかどうか……。
 ゆえに、私は発想を転じて、身近な"一歩"を大切にしたいと、重ねて訴えたい。
 ウィルトシアの村民のように、「他者」の怪我を耳にして「自分の足が傷ついたように感じ、その身体に衝撃が伝わる」ような淋漓たる、生々しいまでのリアリティー、痛覚や生命感覚こそ、バーチャルな世界の閉塞性に風穴を開け、ひいては戦争への最大の抑止力となるからであります。
 おびただしい戦死者を前に、かのアショーカ王=注3=に、戦争から平和への回生の内なるドラマを演じさせたものと、それは同根であるはずです。そして、そのような突破口、回路は、我々の身近な所に必ず発見できるはずなのであります。
13  「無痛文明」という発想に着目
 その点、森岡正博氏(大阪府立大学教授)の近著『無痛文明論』(トランスビュー)は、現代文明の病理を鋭くえぐり出していて興味深い。氏は、「聖教新聞」紙上(本年元旦号)で、その着想を、「『無痛文明』とは、苦しみを避け、快楽を追い求めるための仕組みが、社会の津々浦々にまで張りめぐらされた社会」のことであり、「無痛文明は『苦しみ』を徹底的に避けようとするがゆえに、『生命のよろこび』を経験する可能性を人間から奪ってしまい、その結果、人間は、深いよろこびのない空虚な生を、モノと金に囲まれて生きるしかなくなる」としています。
 「かなしみ」がないから「よろこび」もない。
 「苦しみ」がないから「楽しみ」もない。そうしたひっかかりのない、ぬるま湯のような社会にあって、致命的に衰弱し欠落していくのが「他者」であり、「他者への眼差し」であるといってよい。
 氏は同書の中で、こう指摘しています。
 「みずからの苦しみを徹底して無痛化していった者こそが、もっとも他人の苦しみを感じとらず、もっとも他人の訴えかけを聞こうとせず、他人を一方的に押しつぶしておいてそのことにもっとも気づかない」「他者と衝突しても、自分のほうの『枠組み』を変えようとしないから、真の対話はおとずれず、『他人を押しのけてまでも』自分を拡張していくことになる」と。
 まさに「他化自在天」という魔性のはたらきそのものであります。こうした袋小路から脱出する力は、どこにあるのか。氏はそれを、人間を内側から変える「生命」の力に求め、その復権が急務であることを訴えています。
14  釈尊の四門遊観
 こうした氏の問題提起は、私どもが信奉する仏法と、きわめて近しい志向性をもったものでもあります。
 その思想は、釈尊の出家の動機となったと伝えられる「生老病死」をめぐる「四門遊観」のエピソードに象徴的に表れています。
 古代インドで釈迦族の王子として生まれた釈尊は、何不自由のない、ある意味で現代の「無痛文明」にも似た生活を送る中で、ある時、大きな疑問が胸に巻き起こった。経文では、その消息をこう記しています。
 「わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった、――愚かな凡夫は、自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して」「愚かな凡夫は自分が病むものであって、また病いを免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して」「愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して」(中村元『ゴータマ・ブッダー』、春秋社)釈尊の出家の動機は「生老病死」という、人間存在の根本に存在する「苦」を直視したことであると言われてきました。
 しかし、それ以上に、「苦」が生・老・病・死の悲劇にさいなまれている人だけの問題ではなく、「自分のことを看過して」と繰り返し戒めているように、それらを忌むべきものとして差別する生命の驕りにその元凶があることを、釈尊は鋭く見据えていた。
15  死を忘れた文明まねが招いた悲劇
 いうなれば仏法の出発点は、他者の痛みや苦しみから目を背けるのではなく、それらを自身の問題として真正面から向き合う中で、自己の生命を鍛え上げ、「自他ともの幸福」を目指す生き方を促すことにあり、その労作業の中にしか真実の「生のよろこび」は息づかないことを訴えた点にありました。
 先ほどの無痛文明論ではありませんが、「死を忘れた文明」とも呼ばれる現代は、生老病死という根本課題から目をそらしたり、それをバイオテクノロジー(生命工学)や先端医療によって表面的に管理下に置こうとする試みばかりが先走って、それらの苦しみを乗り越えながら、生を真に豊かにしていくための人間と社会のあり方を模索する努力が、なおざりにされてきた面は否めません。
 また、その「死を忘れた文明」は、死をできるだけ他人の問題として外部化し、それに対する痛みや苦しみを麻痺させることによって、2度にわたる世界大戦や各地における大量虐殺などの惨劇を止める社会のブレーキを弱めさせ、「メガ・デス(大量死)の世紀」を招いてきました。
 その意味でも、先に触れた「原水爆禁止宣言」で、戸田第2代会長が「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と訴えたのは、「死を忘れた文明」の象徴的産物ともいえる核兵器への指弾を通して現代文明の暗部を剔抉し、その転換を図ることに最大の眼目があったのであります。
 「他人だけの不幸」がありえないのと同様に、「自分だけの幸福」もありえない――小さなエゴを打ち破り、他者の中に自分を感じ、自分の中に他者を感じながら、互いの生命の輝きで照らし合い、最高に人生を輝かせていく生き方こそ、仏法が説く世界観・生命観の必然的な帰結であるからです。
16  続いて、さまざまな意味で節目となる明2005年を前に、「平和と共生の地球社会」を建設するための具体策について論じたい。
 明年は、第2次世界大戦が終結してから60年であり、国連創設60周年、また広島と長崎に原爆が投下されてから60年にあたります。
 こうした歴史的な節目を踏まえて私は、(1)国連の強化と改革、(2)核軍縮の推進と核廃絶への方途、(3)「人間の安全保障(ヒューマン・セキュリティー)」の拡充、の3点から、それぞれ言及したいと思います。
17  国連改革の諮問委員会が発足
 まず第1は、国連強化とその改革についてであります。
 イラク問題で、軍事力行使の是非とともに大きな焦点となったのが、安全保障理事会での深刻な対立に伴う国連の機能不全でした。
 こうした事態への危惧が広がる中、国連のアナン事務総長の呼びかけで、有識者による国連改革に関する諮問委員会が発足し、先月に初会合が行われました。
 同委員会では、
 (1)平和と安全保障を脅かす現在の課題について詳しく検討すること、
 (2)こうした課題に対処する上で集団的行動がなしうる貢献について考察するこ
 と、
 (3)国連の主要機関の機能、およびそれらの関係について見直すこと、
 (4)国連の組織とプロセスの改革を通して、国連を強化する方法を提言すること、
 などを主眼に討議を進め、今秋までに事務総長に報告することが目指されています。
 私はかつて(2000年10月)、同委員会の委員長に就任したタイのアナン元首相と、21世紀の国連をめぐって語り合ったことがあります。アナン元首相は、「各国が、どれくらい国連を効率の良いものにしていきたいと願っているのか、それがそのまま国連の現実に反映している」と、国家の集合体であるがゆえの限界を指摘されながらも、次のように国連の意義を強調しておられました。
 「しかし、少なくとも国連の存在自体は歓迎すべきものです。『希望』はあります。『もし国連がなかったら』と考えると、『国連があることで世界が、より良くなっている』ということは言えると思います」と。
 私も、まったく同感であります。
 確かに、国連無力論や不要論は一部で根強く叫ばれており、今の国連には、時代の変化にそぐわない面が少なからずあるかもしれません。しかし私どもは、それに代わる存在が現実にない以上、グローバルな草の根の民衆の力を結集し、国連を強化していくことが一番の道であると考え、行動を続けてきました。
 大切なのは、イラク問題での教訓を十分に念頭に置いた上で、"今後、同様の難しい判断が迫られる事態が生じた場合に、どう対処すべきか"についてのルールと体制づくりについて、前向きに検討していくことではないでしょうか。
 そして、その連帯の基軸は、あくまで国連であるべきだと考えます。
 世界191カ国が加盟する最も普遍的な機関である国連こそが、国際協力の礎となり、その活動に正統性を与えることができる存在にほかならないからです。
 こうした前提に立って、私は、国連の強化と改革について、二つの提案を行いたい。
18  緊急特別総会による意見集約を
 一つ目は、総会の権限強化です。
 国連憲章が定めるように、平和と安全の維持に関する主要な任務が委ねられ、法的拘束力のある決定を行う権限を持つのは安保理だけです。しかし、実際の審議においては、五つの常任理事国のみに認められる拒否権制度の存在によって、合意を導き出すことができずに、機能不全に陥る場合が見受けられます。
 こうした事態を打開するため、私は、すべての加盟国による"グローバルな対話の場"であり、最も代表性の高い総会の権限を、制度面や運用面で強化することが重要ではないかと考えます。
 平和と安全の維持に関する総会の権限は、安保理に対して副次的なものであることが憲章で規定されていますが、安保理が拒否権などによって機能できない場合に、緊急特別総会を招集し、一定の勧告ができる仕組みが運用面で積み重ねられてきました。
 いわゆる「平和のための結集」と呼ばれるもので、1950年に国連総会が採択した決議に基づき、安保理の9カ国の賛成を得るか、国連加盟国の過半数が賛成すれば、開くことができるというものです。
 21世紀に入り、平和に対する新しいタイプの脅威が台頭し、今後も難しい決断が迫られる場合が少なくないことを踏まえ、とくに軍事力行使を含む強制措置の是非をめぐって安保理が紛糾した場合には、緊急特別総会を開催することを定着化させ、そこでの討議を安保理にフィードバック(還元)させていく仕組みを確立するべきではないかと思います。
 国連の力と信頼の源泉は、国際社会におけるコンセンサス(合意)づくりにあります。平和と安全への脅威に対する措置には「実効性」も重要ですが、それにもましてソフト・パワーの源泉である「正統性」の確保が欠かせません。
 問題解決のためにどう対応するのが望ましいのか、その方策を見いだすために国際社会の意見を集約・反映させる制度こそ、21世紀の国連に求められる存立基盤ではないでしょうか。
 先月には国連総会でも、総会の活性化と権威の向上に向けた諸措置を講じる決議が全会一致で採択されましたが、普遍的な対話のフォーラムである総会は国連強化の要といえましょう。
19  紛争地域に「切れめ目のない支援」を
 二つ目は、紛争時から平和構築までのプロセスに関わる国連諸機関の活動を調整し、一貫性をもたせる環境整備です。近年、紛争地域において支援が断続的に行われるために生じる"空白状態"が、深刻な課題として指摘されています。その解消の必要性については、昨年5月に「人間の安全保障委員会」が発表した報告書でも強調されています(邦訳は『安全保障の今日的課題』、朝日新聞社)。
 報告書では、紛争中と紛争直後に人々を効果的に保護する仕組みが未整備であることを踏まえ、「それぞれに規定されている任務分担に拘泥せず、人々を保護するには何をなすべきかを第一に考えることにより、無数の支援関係者がそれぞれの縦割り構造にしたがって無秩序に活動している現状を打開する必要がある」と訴えています。
 また、「とくに国際的な軍事介入の後では、紛争下における『保護する責任』は、『再建する責任』があってはじめて果たされる。つまり、重要なのは紛争が停止したかどうかではなく、そのあとの平和の質なのである」とし、すべての活動の出発点を、紛争による被害や傷跡に苦しむ人々や社会のニーズに置き、単一のリーダーシップの下でそれらを進めるべきと主張しています。
 私は、近年、紛争が複雑化する中で、さまざまな支援を総合的に進めることの緊急性が高まっていることに鑑み、その取り組みを国際的に強くリードするための機関を国連に設けることが必要ではないかと考えます。
 たとえば、国連でその任務が事実上終了している信託統治理事会=注4=を、「平和復興理事会」のような名称で発展的に改組し、その役割を担うようにしていってはどうか。
 かつて私は、信託統治理事会を衣替えし、難民高等弁務官や人権高等弁務官と密接な連携を持ちつつ、紛争に苦しむ地域での文化的、民族的多様性を保障していく役割をもたせてはどうかと提案したことがあります。
 そうした要素も加味しながら、「平和復興理事会」が、人道支援から平和構築にいたる諸活動の推進と調整の第一義的な責任を担っていくべきではないでしょうか。
 また活動の推進にあたっては、当事国や周辺国との協議の場を継続的に持つとともに、活動の進捗状況を定期的に関係国に報告する制度を設け、透明性や信頼性を高める努力も必要でしょう。
20  広範な民衆の支援が不可欠
 いずれにせよ、国連の強化を実現させるには、加盟国だけでなく、民衆レベルでの力強い後押しが欠かせません。とくに国連は、資金難という難題も長らく抱えており、できるだけ幅広い支援が求められています。
 昨年2月には、ブラジルのカルドーゾ前大統領を議長とする「国連と市民社会の関係に関する賢人パネル」が発足し、市民社会からの声などを踏まえた報告書のとりまとめが進められており、国連強化への機運は高まっています。
 そこで私は、そうした潮流を更に高めながら、2000年に行われた「ミレニアム・フォーラム」と同様の形で、明年の国連創設60周年にあわせて、NGO(非政府組織)をはじめとする市民社会の代表が参加しての「国連民衆フォーラム」を開催し、平和の21世紀のための国連強化の道筋をつけていってはどうかと提案したい。
 私の創立した平和研究機関「ボストン21世紀センター」でも、これまで国連の創設50周年の際に『民衆からの提言』を提出するなど国連支援の活動を続けてきましたが、今後も研究協力やシンポジウムの開催などを積極的に進め、民衆による国連支援のグローバルな連帯を広げていきたいと考えています。
21  国際刑事裁判所の活動を軌道に
 この国連改革に関する提案と合わせて付言しておきたいのは、続発するテロヘの対応策として「法による解決」の環境づくりを推進することの重要性です。
 2001年9月に採択された安保理決議に基づき、国連に「テロ対策委員会」が設置されたのに続いて、昨年6月に行われたエビアンでのG8サミット(主要国首脳会議)で、同委員会の活動を支援することなどを目的とした「テロ対策行動グループ」が設置されました。
 テロを未然に防いだり、その再発を防止するためには、各国における法制度の整備や拡充とともに、粘り強い国際協力が欠かせません。私は、こうした国際的な枠組みを通して、予防的な措置に力を注ぎながら、テロを起こさせない環境づくりを進めていくことが肝要であると訴えたい。
 そして、この取り組みとともに重要なのが、国際刑事裁判所の締約国を増やし、活動を軌道に乗せることです。
 戦争犯罪や大量虐殺、人道に対する罪などを犯した個人を裁くための常設法廷である国際刑事裁判所は、昨年3月に発足式典を行い、活動を本格的にスタートしました。
 これは、世界各地で続発する紛争やテロなどの"憎しみや暴力の連鎖"を断ち切っていくとともに、「力による解決」ではなく「法による解決」のアプローチを国際社会に定着化させていく上で核となる制度です。
 ようやく設立をみた裁判所が真に有効性を発揮するには、より多くの国が参加し、普遍性と信頼性を確保していくことが欠かせません。
 とくにテロに関しては、昨年8月に国連安保理で、紛争地域で活動する国連要員や人道援助要員らを対象にしたテロは「戦争犯罪」にあたると非難する決議が採択されました。
 これは、国際社会に大きな衝撃を与えたイラク・バグダッドの国連現地本部への爆弾テロを踏まえてのものですが、こうした非道なテロを制度的に防止するためにも、それを国際刑事裁判所のような司法制度の下で裁く原則を確立していくべきでありましょう。
 私どもSGI(創価学会インタナショナル)としても、国連NGOとして意識啓発などの活動に取り組みながら、国際刑事裁判所を支援していく世界的な潮流を高めていきたいと思います。
 またこれに関連して、これまで主として国家間の戦闘や国内紛争について整備されてきた「国際人道法」を強化し、テロに対する措置や、越境化する内戦をはじめとする新しい事態においても、国際人道法の精神が順守されるよう求めていくべきであります。
22  CTBTの一日も早い発効を
 第2に、核兵器の軍縮と廃絶について展望しておきたい。
 先月、イランが国際原子力機関の追加議定書=注5=に署名し、核査察の全面受け入れに合意したのに続き、リビアも核兵器を含む大量破壊兵器の開発・製造計画の全面廃棄と、国際査察団の即時受け入れに合意しました。
 いずれも核不拡散体制の面で大きな前進といえますが、核兵器の脅威を地球上からなくすには、まだまだ道遠しと言わざるを得ません。
 こうした状況を根本的に打開するために、私は、近年、核問題における主要テーマとなっている「不拡散」から、「核軍縮」「核廃絶」へと重点をシフトさせていくことが肝要であると強く訴えたい。
 もちろん、「不拡散」のための制度整備は、核軍縮を進める上での前提条件です。だからこそ私どもも、1996年に採択されたCTBT(包括的核実験禁止条約)の早期発効を繰り返し呼びかけてきました。
 条約に定められた核実験を監視する国際的な観測網の整備は着実に進んでおり、これが軌道に乗れば、核実験を隠し通すことは事実上不可能になると言われています。
 7年間にもわたり、未発効の状態が続く中で、アメリカ政府が昨年、新型の小型核や強力な地中貫通型核爆弾の研究予算を計上するなど、核実験再開へとつながる動きも懸念されています。
 昨年7月には、条約の発効要件国であるアルジェリアが批准しましたが、アメリカをはじめ残りの要件国である12カ国が批准し、CTBTが一日も早く発効するよう、国際世論を高めていく必要があります。
 またCTBTに関連して、核保有国が非保有国に対して核兵器を使用しないという「消極的安全保障」の誓約を、グローバルな規模で制度化させていくべきでしょう。
 こうした措置を一つ一つ真摯に積み上げていくことこそ、先に触れた文明の証としての自制心の「かたち」であります。それがメッセージとして、広く民衆の心に届くことが、戦争やテロヘの最大の抑止力となることは、自明の理であることを重ねて強調しておきたいのであります。
 そして何よりも核保有国による核軍縮の誠実な履行が現実のものとなってこそ、核関連条約の信頼性や実効性を高め、不拡散体制の安定化につながっていくはずです。
23  核軍縮への誓約は"NPTの柱"
 そもそもNPT(核拡散防止条約)の主要な目的は核兵器の不拡散にありますが、一方で、核軍縮措置についての誠実な交渉が条文に明記されたからこそ、核関連条約の中で最大規模を誇る国々が参加するにいたった側面を見過ごしてはなりません。
 1995年に条約の無期限延長が決定された際に、これと合わせて「条約の再検討プロセスの強化」と「核不拡散と核軍縮の原則と目標」と題する文書が採択され、核軍縮への枠組みが整備されたのも、そうした国際社会の強い意志の表れだったといえます。
 私は昨年の提言で、NPT再検討会議が行われる明年が、広島と長崎に原爆が投下されて60年にあたることを踏まえ、各国首脳が参加しての「核廃絶のための特別総会」の開催を提案するとともに、国連に核軍縮の専門機関を新たに設置することを討議すべきであると訴えました。
 2000年の再検討会議で採択された最終文書において、「核兵器の全廃を達成するという核兵器国による明確な約束」が盛り込まれ、「核兵器の全廃へと導くプロセスヘのすべての核兵器国の適切な早い時期の参加」が合意されたことを重く受け止め、これを現実化させる努力が求められます。
 そのためにはまず、国連安保理の常任理事国でもある核保有5カ国が、NPT全加盟国に対する共通の責任感を持って交渉を開始し、核軍縮の誠実な履行を果たしていくことが、何よりも重要ではないでしょうか。
 私は、2005年の再検討会議か、もしくは特別総会に向けて、保有5カ国が交渉開始に合意することが、出口の見えない核兵器の問題に打開の糸口を与えるものだと確信するものです。その上で、「核廃絶へのタイムテーブルづくり」に着手していくことを強く求めたいと思います。
24  北東アジアの恒久的平和を
 この核兵器の問題に関連して、今、大きな焦点となっている北朝鮮の核兵器開発問題についても言及しておきたいと思います。
 2002年12月の核施設の再稼働宣言以来、北朝鮮の核開発への懸念が国際社会で高まる中、昨年8月、アメリカ、ロシア、中国、韓国、北朝鮮、日本の6力国による協議が中国の北京で行われました。
 具体的な進展は得られなかったものの、議長総括にみられるように、「対話を通じて核問題を平和的に解決し、朝鮮半島の平和と安定を維持し、恒久的な平和を切り開くこと」、「平和的解決のプロセスの中で、状況を悪化させる行動をとらないこと」などの点で合意するなど、協議の枠組みを維持し、対話を継続していくことで一致しました。
 しかしその後の協議再開は難航し、今月、北朝鮮がアメリカの非公式代表団を受け入れ、核関連施設への視察を認めるなどの動きはあったものの、状況はさほど前進していません。
 日本として、拉致問題は絶対に先送りしたり、まして避けて通ることはできませんが、同時に各国が議長総括における精神を堅持しつつ、ようやく端緒についた"多国間対話"の枠組みを前向きに育んでいくことが重要です。
 私は、2回目の協議の早期開催を願うとともに、この6カ国協議を制度化させることによって、朝鮮半島や北東アジアにおける信頼醸成を粘り強く推し進め、やがては、「北東アジア共同体」のような多国間フォーラムや、「北東アジア非核地帯」の設置を目指していくことが望ましいと考えるものです。
25  守られる側から貢献する側へ
 第3に挙げたいのは、「人間の安全保障」の拡充です。
 「人間の安全保障」は、近年、従来の安全保障観の見直しなどを通して形成されてきたもので、国家の安全から人間の安全へと中心軸を移した新しい安全保障の枠組みです。
 それは、戦争やテロ、犯罪などの直接的暴力だけでなく、貧困や環境汚染、人種抑圧や差別、教育や衛生分野での遅れなど、人間の安全と尊厳を脅かす問題を対象とする、きわめて包括的な概念といえます。
 国連のアナン事務総長は年頭のメッセージで、"イラク戦争によって、貧困、飢え、不清潔な飲料水、環境悪化、感染症など、100万単位の人々の命を奪う脅威への対処努力が疎かになった"として、世界の指導者に対し、今年はその潮流を変えて対策を図るよう訴えましたが、「人間の安全保障」が主に対象としているのはこうした社会的問題であります。
 国連開発計画が、その基礎的な概念を提唱して以来、重要性が次第に認識されるようになり、2001年には「人間の安全保障委員会」が設立され、昨年5月に、先に触れた報告書が発表されました。
 そこでは、これまでの国際社会における議論なども踏まえ、人間の安全保障を、「人が生きていく上でなくてはならない基本的自由を擁護し、広範かつ深刻な脅威や状況から人間を守ること」と定義しています。
 私がとくに着目しているのは、それを実現する2本柱として、人間の「保護」とともに、「能力強化」を掲げている点です。
 つまり、人々が単に"守られる"だけでなく、人間に備わっている強さや力を引き出す環境づくりを進めることによって、自ら幸福を勝ち取りながら、社会に"貢献する"生き方を促していることです。
 この点につき、報告書では、次のように強調しております。
 「『人間の安全保障』実現のために不可欠なもう一つの要素は、人々が自らのために、また自分以外の人間のために行動する能力である」「この能力を伸ばすという点が、『人間の安全保障』と国家の安全保障、人道活動、あるいは多くの開発事業との相違であり、その重要性は、能力が強化されることにより人々が個人としてのみならず、社会としての潜在能力までも開花させうる点にある」他の人々のために行動することを通して、社会に新しい価値を創造していく挑戦こそ、崩れざる平和の基盤となるものといえましょう。
26  女性教育の普及が社会安定の要
 その意味で、私が「人間の安全保障」を拡充させるために、最も力を入れるべきだと考えるのは、本稿の前段でも強調しておいたように、何といっても「教育」です。
 世界には現在、読み書きのできない8億6000万人の成人と、学校に通えない1億2100万人の子どもたちがいると言われています。
 そこで、ユネスコ(国連教育科学文化機関)を中心に「万人のための教育」キャンペーンが展開され、基礎教育の完全普及が目指されています。また昨年には、「国連識字の10年」がスタートしました。
 人々に学びの光を与え、本来備わっている力を引き出し、可能性を開花させる上で欠かせないものが識字ですが、とくに非識字者の3分の2を占める女性の識字率を高め、初等教育を普及させることは、女性自身だけでなく、家庭や社会をよりよい方向へ導く大きな原動力となるはずです。
 先月発刊されたユニセフ(国連児童基金)の世界子供白書』でも、世界の開発目標の達成はいずれも女子教育の進展なくしては不可能であるとし、国際開発努力における改革を早急に求めております。
 しかし資金などの面で、初等教育の普及が立ち遅れている国は多く、その障壁を国際協力によって解消していかねばなりません。
 国連や世界銀行の試算によれば、世界で費やされる年間軍事支出の4日分を毎年、教育分野に振り当てれば、2015年までには全世界での初等教育の普及に必要な資金がまかなえると見積もっています。
 この初等教育の完全普及は、国連の「ミレニアム開発目標」=注6=の8大目標の一つをなすものであり、私はこれを後押しするために、たとえば「グローバル初等教育基金」のような形で、国際的な資金協力の枠組みを強化させるべきではないかと訴えたい。
 この基礎教育を普及させる取り組みとともに、戦争のない世界を築くための礎となるのが、「人権教育」です。紛争をなくすには、それを生み出し、エスカレートさせる敵対意識や差別感情を克服し、平和共存していくための土壌づくりが欠かせません。また、紛争にまでいたらない場合でも、世界的な経済不況と相まって、失業問題をはじめ、さまざまな形で摩擦が起こり、社会の緊張を高めている事例は多くみられます。
 友人(共著者)であったアメリカのジャーナリストの故ノーマン・カズンズ氏は、「人間の傷や痛みに無頓着な態度は、教育失敗のこの上なく明白なしるしである」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)と警告しましたが、こうした状況を放置しておけば、社会に憎しみや怒りの感情が沈殿し、さらなる紛争を招く危険性は大きいといえましょう。
 私は3年前に南アフリカで開催された国連の「人種差別に反対する世界会議」に宛てたメッセージの中で、国連「人権教育のための10年」(1995〜2004年)に続く形で、国連「平和のための人権教育の10年」を設置することを呼びかけました。
 そうした中、昨年8月には国連の人権小委員会で、「第2次人権教育のための10年」の設置を国連総会で宣言するように求めた勧告が出されています。
 私は、この動きを歓迎するとともに、その実施にあたっては、とくに次代を担う子どもたちに焦点を当てて、「平和と共生の地球社会」づくりにつながる人権教育の推進に力を入れていってはどうかと訴えたい。
 本年は、「奴隷制との闘争とその廃止を記念する国際年」でもありますが、こうした過去の重い教訓を踏まえつつ、人種差別や不寛容を乗り越えゆく土壌を育んでいくべきであります。
 SGIとしても、国連機関の活動の支援や、他のNGOとも連携を取りながら、平和教育と人権教育のグローバルな推進のために最大限努力していきたいと思います。
27  情報社会の倫理
 この人権教育に関連して、近年、情報社会化が急速に進む中で、マスメディアが特定の民族や人種に対する差別感情を煽ったりする例や、インターネット上で特定の民族や人種を攻撃するページなども目立つようになっており、紛争やヘイト・クライム(憎悪による犯罪)の温床となることが懸念されています。
 こうした中、先月にスイスで、国連の「世界情報社会サミット」の第1回会合が行われ、情報を"持つもの"と"持たざるもの"の格差が拡大する、いわゆる「デジタルデバイド(情報格差)」の問題が大きな焦点となったのをはじめ、情報社会のあり方をさまざまな角度から問う機会となりました。
 そこでは、報道の自由やメディアの独立性がネット社会でも不可欠であるとする一方で、メディアに情報の責任ある取り扱いを求める旨などを盛り込んだ「サミット宣言」が採択されました。
 私は、明年にチュニジアで行われる第2回会合に向けて、情報社会の倫理についての議論を更に深めていくべきではないかと思います。
28  「人道的競争」を世界的な規模で
 ともあれ、「人間の安全保障」の推進のためには、新しい大胆な発想と、粘り強い努力の積み重ねが欠かせません。すでにタイのように、「社会開発および人間の安全保障省」を設置した国もありますが、こうした例などを参考にしながら、各国が――牧口初代会長が志向した「人道的競争」のような形で切瑳琢磨し――よい意味での競い合いを行っていくことが、重要ではないでしょしうか。
 また、その取り組みによって得られた情報や経験を共有したり、技術交流や人的派遣を進めるなどして、「人間の安全保障」を世界的な規模で実現させていくべきだと強く訴えたい。
 そして何よりも、そうした挑戦は国家レベルにとどまらず、広範な民衆の理解と行動に支えられてこそ結実します。
 "地球上から悲惨の二字をなくしたい"との師の熱願を胸に、私が創立した戸田記念国際平和研究所では、この「人間の安全保障」と「地球社会の運営(グローバル・ガバナンス)」を関連づけた研究プロジェクトに力を入れ、平和研究の世界的なネットワークづくりに努めてきました。
 また、一人の人間が立ち上がり、自らの可能性を無限に開花させながら、社会に貢献していく"民衆の民衆による民衆のためのエンパワーメント(啓発運動)"は、SGIが進める「人間革命」運動の骨格をなす理念でもあります。
 この理念に基づいて、私どもは社会的な活動として、国連の軍縮キャンペーンや人権キャンペーン、また地球サミット(国連環境開発会議)をはじめとする国際会議に協力する形で、核の脅威展や「戦争と平和」展、「現代世界の人権」展、環境と開発展などを世界各地で巡回し、草の根の民衆レベルでの意識啓発を進めてきました。
 昨年は、平和教育の一環として、パリのユネスコ本部やジュネーブの国連欧州本部などで「ライナス・ポーリングと20世紀」展を巡回し、この2月にはSGIが中心となってニューヨークの国連本部で「世界の子どもたちのための平和の文化の建設展」を開催する予定となっています。
 これらの展示はいずれも、時代変革の波を起こすためにはまず、地球を取り巻く問題の一つ一つを、わが身に引き寄せて考えることが欠かせない、との信念から生まれたものです。
29  万年の未来へ「平和の種」を
 私は現在、21世紀の世界が基調とすべき「平和の文化」を提唱してきた、平和学者のエリース・ボールディング博士と対談を進めています。
 その中で博士は、「人間は、現在のこの時点にだけ生きる存在ではありません。もしそうであれば、私たちは、いま起こっている事柄に、たちまち打ちのめされてしまいます」と述べ、希望を失わないためには長期的な観点で未来を見据えながら、建設的な役割を果たすことが重要であると訴えておられました。
 思えば1975年1月、SGIの発足に際し、私は、世界から集まったメンバーを前に、こう呼びかけました。
 ――皆さん方はどうか自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に平和という種をまいて、その尊い一生を終わってください。私もそうします――と。
 この信念は今も、まったく変わるものではありません。平和といっても、決して日常を離れたところにあるものではない。一人ひとりが現実の「生活」の中に、また「生命」と「人生」に、どう平和の種を植え、育てていくか。ここに、永続的な平和への堅実な前進があると、私は確信するものです。
 かつて戸田第2代会長は、万年の未来を展望し、「やがて創価学会は壮大なる『人間』触発の大地となる」と語りました。私どもは、その誇りと使命感を胸に、明年のSGI発足30周年を目指して、「平和の文化」を築く民衆のグローバルな連帯をさらに広げていきたいと思います。
30  語句の解説
 注1 他化自在天
 仏法で説く「四魔」という生命の魔性の一つ。大智度論には、「他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。欲望の世界である欲界に属する六天の最上に住むために、「第六天の魔王」とも呼ばれる。
 注2 ロビンソン・クルーソー
 18世紀に活躍したイギリスの小説家ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』の主人公。実話を題材にした創作で、ロビンソンが何度かの航海の後、無人島に漂着し、28年間にわたる自給自足の生活を経て、イギリスに帰りつくまでの話が描かれている。
 注3 アショーカ王
 インド最初の統一王朝であるマウリア朝の第3代の王。在位は紀元前3世紀頃とされる。即位後にカリンガ地方(現在のオリッサ地方)を征服した際、約10万人を殺害し、約15万人を捕虜にしたが、これを深く悔恨し、「武力による征服」を放棄。仏教徒としての信仰に目覚め、平和主義の政治や福祉政策に力を注いだ。
 注4 信託統治理事会
 国連創設当初、アフリカや太平洋など世界の一部にあった未解放の地域に住む人々の社会的前進を図るために設立された機関。最後の信託統治地域であったパラオが1994年に独立を果たしたため、理事会の任務は事実上終了し、現在は必要が生じた場合にだけ会合を開くことになっている。
 注5 国際原子力機関の追加議定書
 核査察強化のため、国際原子力機関と保障措置協定の締約国が追加的に結ぶ議定書。申告や未申告を問わず、すべての核関連施設に対して、抜き打ち査察を含めた強制力のある査察を認めるもので、現在79カ国が署名。
 批准は日本など38カ国にとどまっている。
 注6 ミレニアム開発目標
 2000年の国連ミレニアムサミットで採択された宣言と、1990年代に開催された諸会議で採択された国際開発目標を一つに統合したもの。2015年までに達成すべきものとして「極度の貧困及び飢餓の撲滅」や「乳幼児死亡率の低減」などの8大目標が掲げられている。

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