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日蓮大聖人・池田大作

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第28回「SGIの日」記念提言 「時代精神の波 世界精神の光」

2003.1.26 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

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2  緊迫化するイラク・北朝鮮情勢
 人々の顔からは、新たな世紀を迎えた時の心なしか華やいだ表情などは影をひそめ、人間精神が息づいていることの証ともいうべき対話の息の根さえ止めてしまいかねない閉塞感、いらだたしさばかりが目につきます。
 世界中が固唾を呑んで見守る中、大多数の人々の平和的解決への祈るような思いにもかかわらず、なぜか、アメリカによるイラク攻撃は避けられないのではという暗い見通しが支配的ですし、中東問題の焦点であるパレスチナ情勢も、年明け早々から、自爆テロと報復という力対力の悪循環は、エスカレートするばかりです。
 それに加えて、一挙に浮上してきたのが、北朝鮮情勢の緊迫化です。
 数年前、韓国の金大中大統領の“太陽政策”によってデタント(緊張緩和)の兆しをみせていた朝鮮半島をめぐる動きも、北朝鮮のNPT(核拡散防止条約)やIAEA(国際原子力機関)の保障措置協定からの脱退表明、ミサイル再開発のほのめかしなどの“瀬戸際外交”によって、舞台は、あっという間に暗転してしまいました。
 こうした危機的状況を見るにつけ、かのトインビー博士が、30年前、私との対談集『二十一世紀への対話』の中で語っておられた人類への警告、黙示録的な言葉が思い起こされます。
 博士は、科学技術によってもたらされた「力」が未曽有の勢いで増大し、人々の「倫理的行動水準」とのギャップは広がるばかりであり、それを劇的に拡大したのが原子力であるとして、こう語っております。
 「こうした原子力時代にあって、人類はその品行の平均的水準を、かつて仏陀やアッシジの聖フランチェスコが実際に到達した水準まで高める以外に、集団自殺を避ける道を見いだすことはむずかしいでしょう」と。いってみれば、「完徳の勧め」であります。
 核兵器のような技術文明の肥大化がもたらしたモンスターをコントロールしていくには、仏陀や聖フランチェスコが体現していたような「完徳」、すなわち透徹した非暴力の精神の力が不可欠である、と。そして博士は、宗教的巨人のような突出した人格ならともかく、人類全体の「品行の平均的水準」をそこまで引き上げることに関しては、人類史の鏡に照らして悲観的でした。
 わずかに希望を託せるとすれば、「宗教面での革命を通じて、急激かつ広範な心情の変化が人々に生じるのも、ありえないことでなく、あるいはそれが事態を好転させるかもしれません」と。現今のように、核などの大量破壊兵器をめぐる危機的状況がつのるほどに、私どもは、この碩学の留言を、心にとどめておかなければならないと思います。
 私が常々、「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵し続ける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いである」と訴えてきたゆえんであります。
 この「“精神”の戦い」とは、具体的にいえば、どんな状況に置かれても、言葉を手放さないこと、徹して語り続けることに尽きます。これは、言うは易く、行うに至難なことです。
 この“戦い”の前には、常に問答無用、言葉を拒絶する悪が立ち塞がっているのが常であり、言葉や対話というものは、そうした悪と対峙した時、どこまでも粘り強く、言論の戦いを続けていけるかで、その真価が問われるからです
3  アイヒマンの沈黙が問うもの
 その点、山崎正和氏の戯曲『言葉――アイヒマンを捕らえた男』(中央公論新社)は示唆的でした。アドルフ・アイヒマン。いうまでもなく、ナチスのホロコーストを遂行した重要人物の一人であり、戦後、アルゼンチンに逃れ、偽名で暮らしていたが、イスラエルの諜報機関によって捕らえられ、ひそかにエルサレムに送られる。世界中の注目を集めた裁判の結果、絞首刑に処せられるのですが、法廷において彼は、あれほどの巨悪に手を染めておきながら、ナチスという官僚機構の歯車であり、命令に従ったまで、と主張するばかりであった――。
 物語は、アイヒマンを捕らえたピーター・マルキンという実在の人物(イスラエルの諜報機関「モサド」元隊員)とアイヒマンとの対峙を軸に展開されます。
 テーマは一点、アイヒマンに"改俊の言葉"をはかせられるかどうか、にあります。
 あれほどの冷酷非道を行っていながら、法廷では卑小そのものの彼に、ピーターは、個人的に、ある時は規則を犯してレコードを聴かせたり、タバコやワインをふるまったりしながら、諄々と正義を説き、情に訴え、罪を認めさせようとする。時には、哀願せんばかりに「私は言葉が欲しい。言葉をくれ。頼む。お願いだ。......あ」と迫るが、アイヒマンは最後まで"改俊の言葉"を口にせず、沈黙のまま絞首台の露と消えてしまう。
 ピーターは、仲間に言います。
 「正義というのは強いものじゃないんだ。悪は説明なしに人を殺す。悪を理解しない人も滅ぼすことができる。しかし正義ってのは、それを理解しない人にはなんの力も持てない。正義は説明だよ。納得できるものが正義なんだ。だから正義は、世界中の何もかもを納得できるものにしたい。悪人だって悪そのものだって、なぜそんなものがあるのか説明を聞きたがるんだ」
 「説明」と「納得」――まさしく言葉の力であり、正義や善は、その上にのみ成り立ちます。そうした「"精神"の戦い」に徹していくことが、どれほど困難なことかは、アイヒマンの沈黙(言葉、対話の拒絶)の前で途方に暮れるピーターの姿が象徴しています。
 トインビー博士の悲観論のよって来るところでもあるのですが、なおかつ、この精神性を圧殺するかのような重苦しさの中で、大事なことは、意気阻喪しないことです。黙らないことです。
 "善"の沈黙は"悪"の思うつぼです。小状況に対してであれ、大状況に対してであれ、言語人(ホモ・ロクエンス)の面目にかけて、言論のつぶてを放ち続けることです。
 情に流されず、大局を見据え、能う限りの精神力を振り絞って対話を続け、暗黒のとばりに風穴を開けていきたいものです。
 そう、苦心惨憺の末、仕留めた巨大なカジキマグロを横取りしようと襲いかかるサメと格闘する、キューバの老漁夫サンチャゴを鼓舞し続けた勇気をもってー。「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」(「老人と海」、『ヘミングウェイ全集7』所収、福田恒存訳、三笠書房)
4  9・11以降も続く「テロの脅威」
 イラクや北朝鮮をめぐる一連の不穏な動きが、一昨年の9月11日、アメリカでの同時多発テロを機に開始された「テロとの戦い」に、直接、間接に結びついていることはいうまでもありません。
 タリバン政権の壊滅によって、アフガニスタンを根城にしていたテロ組織は、一応かの地から駆逐されたかに見えますが、根絶にはほど遠く、真偽のほどは定かではありませんが、インドネシアやロシア、ケニアなどで起こったテロ事件との関わりさえ取りざたされております。テロ組織という国境を超えた、なおかつ主権国家のような明確な主体を持たぬ相手との戦いは、下手をすると終わりなき戦争を余儀なくされるということも、決して杞憂ではない。
 一触即発、"累卵の危うさ"にある世界の舵取りをどうするか――何といっても、最第一に焦点となってくるのが、唯一の超大国であり、今や史上かつてないほどの力(経済力、軍事力)を手にしたとされるアメリカの動向であります。
 もとより、日本にしても、ただアメリカの意向に追随していればよいというのではなく、同盟国としての主体的な関わりが要請されることは当然です。
 イラク、北朝鮮、はたまた中国を含む北東アジアの平和と安定の問題といい、どのようなスタンスで臨むのか、冷戦後の日本外交の主体性が問われる正念場を迎えつつあるように思います。とまれ、目下の緊急事態を打開していくためのイニシアチブを握っているのは、善くも悪くもアメリカであります。
 そうであるだけに、テロとの戦いを"新しい戦争"と位置づけて以来、テロ防止のためには先制攻撃も辞さないとする、いわゆる"先制攻撃ドクトリン"(注1)に象徴されるアメリカの強硬な姿勢については、世の多くの識者と同じく、私も憂慮の念を表明せざるをえません。
 たしかに、同時多発テロの衝撃はあまりに大きく、世界中の同情はアメリカの一身に集まりました。
 NATO(北大西洋条約機構)諸国が、冷戦時代でさえ発動されたことのない「集団的自衛権行使」を決定し、アメリカとの共同歩調をとろうとしたことは、その証左であります。しかし、周知のようにアメリカは、その国際協調へのエールを無視するかたちで、イギリス軍のみを味方に、アフガニスタン攻撃へと走りました。
 そこでの「成果」(カッコ付きの)は、アメリカをして国際協調主義から踵をめぐらし、単独行動主義(ユニラテラリズム)へと、一層傾斜させていってしまったらしい。地球温暖化防止のための「京都議定書」からの離脱、ABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約の一方的破棄、CTBT(包括的核実験禁止条約)や国際刑事裁判所への不参加等々、ここ数年、アメリカの単独行動主義は目立っていましたが、最近では、その偏向に対し、アメリカ内外からの批判が強まっているようです。
5  21世紀の「国力」
 こうした傾向に警鐘を鳴らしている識者の一人に、私も旧知のハーバード大学ケネディスクール院長で、国防次官補を務めたことのあるジョセフ・S・ナイ氏がいます。氏は、国力には経済力や軍事力などのハード・パワーと、価値観や文化など「自国が望むものを他国も望むようにする力」「無理やり従わせるのではなく、味方にする力」としてのソフト・パワーの二つがあり、両者が相補的に働き合っていくことが肝要であるとして、こう述べています。
 「軍事力はテロリズムに対する応えの一部である。テロリズムを制圧するためには、諸外国の市民との密接な協力など、長期にわたる忍耐を強いる地味な努力を必要とするだろう」(「外交フォーラム」昨年1月号)
 「二十一世紀には、国力はハード・パワーとソフト・パワーの組み合わせになる。(中略)最悪の誤りは、一面的な分析を行い、軍事力だけを増強していけばアメリカの力を維持できると信じることである」(『アメリカヘの警告』山岡洋一訳、日本経済新聞社)
 全くの正論であり、悪いとわかっていながら残虐なテロ事件が、世界の各地でなぜ跡を絶たないのかに、少しでも思いを巡らしてみれば、誰もが首肯せざるをえない道理ではないでしょうか。
 たしかに、テロ行為は絶対に是認されるべきものではない。それと戦うために、ある場合には武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。また、そうした毅然たる姿勢がテロヘの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはありません。ナイ氏が一時、ペンタゴンの要職に就いていたように、軍事力を全否定するということは、一個の人間の「心情倫理」(マックス・ウェーバー)としてならまだしも、政治の場でのオプション=「責任倫理」(同)(注2)としては、必ずしも現実的とはいえないでしょう。
 しかし、ハード・パワー、とくに軍事力が、憎悪と報復の連鎖に陥ることなく、何らかの効果を生むとすれば、それを保持する側に、あるいはやむを得ず行使せざるをえない場合でも、そごに徹底した自制心、それ自体、ソフト・パワーの淵源でもある自制心、節度が働いているかどうかにかかっていると思います。
 オルテガ・イ・ガセットは、「文明とは、力をウルティマ・ラチオ(最後の手段)たらしめる試みに他ならない」(『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房)との名言を残していますが、いうところの「文明」とは、内なる自制心が、さまざまな姿、かたちをとって現れた外面的結実なのであります。
 こうした観点から見れば、アメリカの一連の単独行動主義は、自由や人権、民主主義等のアメリカの掲げる普遍的理念(ナイ氏は、それらを、情報化時代の進展につれ、アメリカをますます魅力あらしめる可能性を秘めた、ソフト・パワーの機軸としております)と、どう整合性をもつのか、疑問を呈されても仕方ないのではないか。超大国の自制を切に望むのは、決して私一人ではないと思います。
 目睫の間に迫っているイラク危機にしても、たしかに、独裁政権が大量破壊兵器を支配した時の恐怖、おぞましさは、よく理解できます。
 同時に、それを防止しようとする試みが、世界の国々に本当の説得力を持つには、その大量破壊兵器の最大の所有者は自分たちであるという自覚が不可欠であり、その脅威を封じ込めるための国際的な管理システム、あるいは削減から廃棄を目指しての手立てや道筋といった「自制心のかたち」が示される必要があります。そうでなければ、道義的説得力を欠くといわれても反論できないでしょう。
6  手段と目的が転倒する病理
 ハード・パワーが突出してくる背景には、アメリカの"一人勝ち"といわれるグローバリゼーションの影響が大きいと思われます。自由化や規制緩和のスローガンのもとに進められたこの流れが、著しくマネー資本主義、金融主導型国家へと傾斜していったことは、周知の事実です。
 自由化=不確実性が増す中、ハイ・リスク、ハイ・リターンの競争が激化してゆけば、必然的に少数の「勝者」と多数の「敗者」を生まざるをえない。しかも「勝者」といえども、不安定ゆえに、いつまでも「勝者」であり続けようとするなら、休むことなく、論理上、最後の一人になるまで走り続けねばならない。いわゆる"セーフティー・ネット(安全網)"を欠いた金融主導型のグローバリゼーションが、構造的に"一人勝ち""マネーゲーム化"を内蔵しているとされる理由も、ここにあります。
 上位一%の人々が、国の宮の半分近くを所有するという極端な所得の格差、不公平が許容されている社会では、国の内外を問わず、「敗者」や「弱者」への視線も弱々しいものになっていかざるをえない。そうした「他者」への視線の衰弱は、自制心、道義心の衰弱の異名にほかなりません。
 2001年のノーベル経済学賞の受賞者で、世界銀行副総裁在任中、グローバリズムのしわ寄せを受けている国々、地域に足を運び、その問題点を探求してきたジョセフ・E・スティグリッツ氏は、近著『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(鈴木主税訳、徳間書店)の中で、次のように証言しています。
 「現代のハイテク戦争は、肉体の接触をともなわないようにできている。上空一万五〇〇〇メートルから爆弾を落とせば、本人は自分が何をやっているのか『感じ』ようがない。現代の経済管理も同じようなものだ。高級ホテルの部屋からならば、どんな政策でも平気で他人に押しつけられる。相手をよく知って、その生活を自分が破壊することになると知っていたなら、きっと再考するような政策でも」と。
 本来、マネーというものは、人間生活に必要な財やサービスを生み出し、再投資、再生産を円滑ならしめる手段なはずです。経済活動の活性化に欠かせないものであるにせよ、あくまで手段であり脇役にすぎない。その手段が目的に、脇役が主役にとって代わってしまっている。
 仏典には「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と。
 今のような状況では、当然の帰結として、主役のそのまた主役であるはずの人間は端役に追いやられ、生き死にする者の痛みや苦しみへの感受性、つまり「心の財」も鈍磨していってしまう。アメリカに限ったことではありませんが、グローバリズムの大波に洗われている現代世界は、勝敗の如何によらず、否むしろ勝者の方こそ、生命感覚の奥深いところで、一種の病理が巣くっているといっては、言葉がすぎるでしょうか。少なくとも、私は、ネットバブルに警鐘を鳴らし続けてきた、尊敬すべき知己であり先達であるガルブレイス博士(ハーバード大学名誉教授)の次のような価値観の転換の勧めを真摯に受け止めるべきだと思います。
 「経済のみが道しるべではないし、成功の尺度でもない。これからその役割を担うのは、生活におけるさまざまな楽しみであり、それがもたらす真の幸福であるはずだ」と(「日本経済新聞」1月3日付)。
 アメリカは懐の深い国ですが、同時多発テロのショックがあまりにも大きすぎたためか、対話による説明や納得、合意に代わって、力ずくで事を進めようとするハード・パワーの席巻を許してしまっているのではないかと憂うる声は数多いのであります。重ねて無差別テロの非道性、残虐性は、どこまでも糾弾されてしかるべきです。
 しかし、それに対抗するにハード・パワー一辺倒というのでは、あまりに策がないというか、悲しすぎます。「僧悪と報復の連鎖」を繰り返していては、つまるところ、テロリズムと同じ次元にまで身を落とすことになりかねず、オルテガ流にいうならば、「文明」から「野蛮」へと歴史を逆戻りさせることであり、"文明の衝突"という最悪のシナリオさえ、現実のものになってしまうことを、私は恐れるのであります。
 イデオロギーという悪夢に散々悩まされ続けてきた20世紀に決別した私どもは、姿を変えた悪夢にとりつかれることだけは、願い下げにしたいものです。
7  パスカルが提起した「人間観」
 ここで私は、時代精神の喫緊の要請として、〃等身大"のパラダイム(物の見方、枠組み)、"等身大"の発想の重要性について、少々論及してみたい。"等身大"とは、文字通り自らの"身の丈"、寸法に合った思惟のあり方であり、感受性のはたらき方です。人間らしさを逸脱しない生命感覚、生活感覚といってもよい。
 肉体面だけみるならば、自然界における人間などちっぽけな、とるにたらない存在であり、自らの悪業で人類が滅亡したところで、地球全体の悠久の営みからみれば、かすり傷程度でしかないでしょう。"身の丈"など、パスカル流にいえば、「最も弱い一茎の葦」にすぎない。
 しかし、「それは考える葦である」「いかに多くの土地を領有したとしても私は私以上に大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む」(「パンセ」、『世界文学大系13』所収、松浪信三郎訳、筑摩書房)。この「包む(Comprendre)」という言葉は、「理解する」「納得する」という意味も有しており、したがって、いうところの「思考」とは、デカルトのように全てを量的に等質化させていこうとする狭義の知的営みだけでなく、人間の感性が全的につかみとる質的側面を併せ持った、言葉を換えれば、「幾何学の精神」と「繊細の精神」を兼ねそなえた、生命全体の営み、はたらきと捉えることができるでしょう。そのベクトルに沿って、パスカルは"等身大"の人間らしさ、人間の尊厳性を探し求めた。
8  「我身一人の日記文書」の視座
 それは、「六根」のバランスを重視する仏教の初門と通底しております。六根とは、いうまでもなく、眼根(視覚能力)、耳根(聴覚能力)、鼻根(嗅覚能力)、舌根(味覚能力)、身根(触覚能力)、意根(思惟能力)を指します。
 大乗仏教では、意根のさらに奥に無意識の重層構造を探し当てていますが、それはさておき、重要なことは、六根が偏頗なく、過不足なくバランスがとれてこそ、生命活動の十全な発現であるとされている点にあります。
 そのベクトルの赴くところ、パスカルが、人間の尊厳性の確認が得られるとした「思考によって、私は宇宙を包む」といった地平に、仏典では「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書」という金言が刻印されている。壮大なる"等身大"のパラダイムであります。
 それは、どのような構想と広がりをもっているのか。そこから、いかなる実践規範、トインビー博士のいう「倫理的行動基準」「品行の水準」が導き出されてくるのか――。
 「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭のまどかなるは天にかたどり足の方なるは地にかたどると知り・身の内の空種うつろなるは即ち是れ虚空なり腹のあたたかなるは春夏にのっとり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法とり大節の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり脈は江河に法とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり地に在つては五岳に法とり」云々と。
 「法とり」とは、範としてそれにならうことの謂ですから、意味するところは、人間と宇宙、自然とは不離一体であり、互いに依存し含いながら、同じ理法、現代流にいえば、エコシステム(生態系)に則って営みを続けているということの、一見ラフに見えて、じつに含意性の深い構想といってよい。
 その含意性からは、人間が「一茎の葦」である限り、森羅万象くまなく張り巡らされた、この依存性、関係性のネットワークの枠外に出ることはできず、システムを壊したり、プルトニウムなどの異物をその中に持ち込むと、早晩手痛いしっぺ返しを受けざるをえない一そうした警告まで読みとれそうです。
 オルテガが、「環境を救わないなら、私をも救えない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝共訳、現代思潮社)と喝破したように、D・H・ロレンスが死の床で「まづ日輪と共に始めよ」(『現代人は愛しうるか』福田恒存訳、筑摩書房)と書き綴っているように、まさに「他者」なくして「自己」はなく、「環境」なくして「人倫」なし。ここに、私どもが目指すべき第一格律があります。
 ゆえに牧口初代会長は、主著『人生地理学』で、「慈愛、好意、友誼、親切、真摯、質朴等の高尚なる心情の涵養は、郷里を外にして容易にうべからざることや」との先見の言葉を残しているのであります。
 そこから帰結してくるであろう倫理規範を、私は、「共生のエートス(道徳的気風)」(かつて中国社会科学院の講演でキーワードとして使ったものです)という言葉に集約しておきたい。
 いうなれば、対立よりも調和、分裂よりも結合、"われ"よりも"われわれ"を基調に、人間同士が、また人間と自然とが、共に生き、支え合いながら、共々に繁栄していこうという精神のことです。
 この「共生のエートス」が、時代精神として共有されてくるところに、トインビー博士の期待した「力と倫理的行動水準とのギャップ」を埋めゆく王道が開けてくると、私は信じております。
 先にも触れたように、この観点からすれば、現状は、まことに寒心に堪えません。スポットが当たっているのは、核や生物兵器など「力」の次元のやりとりばかりで、工ートスや倫理など全くあずかり知らぬ態です。大量破壊兵器といっても、いったん出来てしまったものは、それを脅威ならしめる人間の心性をも含む社会的要因にまで踏み込んで対応していかなければ、削減も、まして廃絶など不可能なことは、誰の目にも明らかであるにもかかわらず――。
9  「繁栄する時代」における空洞化
 スティグリッツ氏が言うように、「グローバリゼーションの潜在的利益を現実のものとするためには、環境に配慮すること、貧しい人びとが自分たちに影響をおよぼす決定に発言権をもてるようにすること、そして民主主義と公正な取引を堅持することが必要」(前掲書)なのであり、それは、即テロの温床の排除を意味します。それらのどれ一つとして「共生のエートス」の裏打ちなくして可能とは思えません。
 居丈高な怒号と腕力ざたが幅をきかす時代に「共生のエートス」など絵空事にみえるかもしれない。しかし、たとえば、政府の要職にありながら、仕事に忙殺されるなか、父親の不在を寂しがる電話を通しての息子の声にショックを受けて職を辞し、話題になったロバート・B・ライシュ氏の次のような指摘は、決して絵空事ではないはずです。
 「この繁栄する時代の最も深い憂いは、家族の崩壊、コミュニティの分解、自分自身の誠実性を守ることの難しさである。これらの憂いは新興経済のもたらす莫大な恩恵、すなわち富、技術革新、新しいチャンスや選択肢と比べても小さなものではない」(『勝者の代償』清家篤訳、東洋経済新報社)と。
 申すまでもなくライシュ氏は、新興経済、つまりニューエコノミーがもたらすネット社会化の時流に背を向けるのではなく、人間がその道異や奴隷に身を落とすことなく、どうバランスのとれた生活を実現していけるかに腐心している人であります。目指すところは、スティグリッツ氏の「人間の顔をしたグローバリゼーション」になぞらえれば、「人間の顔をしたネット社会」といえるでしょう。
 ニューエコノミーは、たしかに個人の自由や選択の幅を広げ、努力次第では巨万の富を築くチャンスを拡大した。急速に広がる電子の波は、主権国家の枠組みなど易々と超えていくし、その赴くところ、会社や学校などの組織、さまざまな地域コミュニティ、あるいは家庭でさえも、変質あるいは崩壊を余儀なくされつつある。個人のウエートが増大するにつれて進む、その依って立つ"場"の解体、増進するアイデンティティー・クライシス(自分が自分であることの心もとなさ)――。
 問題は、それが幸福の実像なのか、ということであります。そうしたトレンドに身を任せておいて、幸福感のリアリティーを手にすることができるのか、ということです。氏も憂いているように、とうてい楽観視できる状況ではありません。
10  「民主主義時代には、あらゆるものの動きのうちでも、めだって動いているものが、人間の心である」(『アメリカの民主政治』井伊玄太郎訳、講談社)とのトクヴィル以来の難問は全く手つかずですし、何にもまして切迫する地球環境問題が、厳しく「ノー」を突きつけているからです。
 人間といえども、エコシステムに組み込まれた「最も弱い一茎の葦」であるという"身の丈"を忘れるな、と。それを忘失すると、かつてのマンモスのように、ある時期、急速に滅亡への道を転がり落ちていくであろう、と。
 もし地球上のすべての人々が、先進国並みとはいわずとも、その半分のエネルギーを使用したならば、有限の球体のエネルギー貯蔵庫は底をついてしまうのではないかとの予測があります。また、世界の最富裕層1%の人々が受け取る所得は、最貧困層57%の人々の所得に等しいとのデータもあります。
 そうした富の偏在、不公正に鋭敏な危機意識をもつことが、「共生のエートス」の本分であります。その考えに立つならば、地球温暖化防止のための「京都議定書」をすげなくすることなど考えられないし、あってはならないことです。
 また、どんな大義名分があろうと一日ードルか2ドルの赤貧生活を強いられている民衆の頭上に、一発100万ドル以上もするミサイルが飛来するといった奇怪な戦争の構図に無関心でいられるはずがない。否、耐えられるはずがないのであります。そうした構図が、いかに甚だしく、グロテスクなまでに"等身大"のパラダイムを逸脱しているか――この自覚こそ、人間の尊厳の証であります。
11  近代科学文明の歪みと環境問題
 かつて、ウィリアム・ジェームズは、反軍国主義の旗を掲げながらも、「忍耐と訓練という軍事的理想が人民の成長する性格の中に織り込まれ」る必要を認め、社会奉仕や貢献のための苦役などの「戦争の道徳的等価物」を構想しました(『世界大思想全集第15巻』今田恵訳、河出書房)。
 いわゆる"等身大"の発想、パラダイムを、ジェームズは言っているのであります。
 戦争は、いつの時代でもよくないことには違いないが、現代のハイテク戦争に、こうした"等身大"の発想の介在する余地があるでしょうか。
 こうした、ある種の悲しみを伴った自覚が、ある種の覚醒をうながすはずです。そうした自覚と覚醒の不断の確認作業が重ねられていくところ、必ず何らかの「自制心のかたち」となって結実し、「強者」「勝者」の道義的なリーダーシップが担保されてくるのではないでしょうか。超大国アメリカに、切に望むところであります。
 さて、この"等身大"というパラダイムから、近代科学技術文明総体の凹凸を検証してみると、その歪みは、「六根」のうちの「意根」(知性)の"非等身大"の肥大化と、他の「五根」(総じて感性)の"非等身大"の矯小化、縮小化に帰因すると思います。
 そして、今までみてきたように、その歪みは、民衆の素朴な生命感覚、生活実感からの乖離というかたちをとって現れてくるのが常でした。
 それは、古今東西の宗教史、精神史を渉猟した歴史家ジュール・ミシュレが、「人間はあらゆる時に同じように考え、感じ、愛したということが分かった」(『人類の聖書』大野一道訳、藤原書店)と叫んだ人類の普遍的心性と同根のものです。
 そうであるなら、歪みの是正も、生命感覚、生活実感の回帰を志向せねばならず、それはとりも直さず、女性が最も得意、本領とする分野ではないでしょうか。男性が、ともすれば、知性や観念の肥大化のとりこになりがちなのに対し、女性は、いつの世にあっても、大自然のエコシステムにしっかり根を張り、孜々として営みを続けているからです。
 近代文明の暴走を、「一人の英雄が槍のように、輝やかしい目標に向かって激しく真直ぐに突進」する姿に擬したオルテガは、その行きつく果てに、地球環境問題というアポリア(難問)が待ち受けていることを看破していました。
12  「環境! Circum-stantia! われわれの周囲にある、これら寡黙なものたち!」と語りかける彼は、寡黙で控えめではあるが、環境は、人為的な小細工などものともしない巨大な力、キャパシティー(許容量)、奥行きをもつこと、その呼びかけに積極的に耳を傾けない限り、新たな文明の地平は開けないことを見抜いていた先見の人でした(前掲書)。
 そうした洞察が、彼をして、環境のもつ力、キャパシティー、奥行きを「乙女」のイメージに擬せさせたのは、極めて自然なことであろうと、私は思います。ファウストの魂を滅亡から救ったのが、「女性的なるもの」であったように、「輝やかしい目標」なるものが、すっかり色あせてしまった現代、環境との共生という方向にしか突破口は見いだせないのではないでしょうか。
 21世紀が"女性の時代"であると、私が訴え続けている所以であります。
13  世界人権宣言さいたく採択から55周年
 本年は「世界人権宣言」採択から55周年の佳節ですが、起草の中心者であったE・ルーズベルトは、「普遍的な人権とは、どこからはじまるのでしょう。じつは、家の周囲など、小さな場所からなのです」(デイビッド・ウィナー『エリノア・ルーズベルト』箕浦万里子訳、偕成社)との印象深い言葉を残しております。
 人間関係の一切の基礎となる家庭の場や、一対一で顔を向き合わせる普段の日常生活の中でこそ、「生のリアリティー」に裏付けられた皮膚感覚としての人権意識が豊かに育まれていく。
 そして、その日常生活の中で大きな役割を果たすのが女性といえましょう。
 こうした女性の役割について、私は未来学者のヘイゼル・ヘンダーソン博士と、先月上梓した対談集『地球対談輝く女性の世紀へ』の中で語り合いました。
 博士は環境問題に取り組むきっかけを、こう述べています。
 「ニューヨークで始めた、大気汚染防止のための運動の仲間のほとんどは、私と同じ母親たちでした。母親というのは、子どもを育てることがいかに大変かを知っています。それゆえに、『子どもたちの未来を良きものにしたい』という強い願望があるのです」
 子どもたちの未来のため――この"等身大"の発想に根ざしていたからこそ、運動は共感を広げ、現実の重い壁を突き動かすことができたと博士は述懐されました。
 そうした地道な一対一の対話の主役こそ女性であります。
 なぜなら、「革命」のような急激な変化と異なり、女性が主役を演ずる「生活」の特質は"継続性"にあり、あたかも太陽のリズムのように、一人そしてまた一人と、地道にして平凡な対話の繰り返しの中からこそ、真の価値創造はなされるからであります。
14  子どもの笑顔を社会の「指標」に
 この点、世界銀行のジェームズ・D・ウォルフェンソン総裁も、開発援助などのプロジェクトの成否は、数字やデータなどよりも、「子供の笑顔でわかる」と述べていますが、その目線はヘンダーソン博士と相通じていると思います。
 また博士が、経済成長一辺倒のGNP(国民総生産)ではなく、人間の幸福の度合いを測る指数への移行を訴え、「愛情の経済」という新しい経済学を打ち立てたのも、「理論の上で正しいとされていることが、現実の社会で正しい結果を生んでいないという事実」を肌身で感じたからだといいます。
 こうした女性がもつ生活実感に裏打ちされた"等身大"の発想の重要性は、経済分野に限らず、近年、平和と安全保障の分野でも着目されるようになっています。
 2000年には国連の安全保障理事会で、紛争の予防・管理・解決のすべての局面における意思決定に女性の代表を増加させるよう保証することを加盟国に要請する、画期的な決議が採択されました。
 こうした方向性は、同年に行われた国連特別総会「女性2000年会議」(注3)の成果文書でも確認されましたが、紛争で多大な被害を被っているのが女性であることを考えても当然の措置であると思います。
 国連のコフィ・アナン事務総長も、「最善の紛争予防における戦略が平和創造者としての女性の役割拡大にある」と述べています。
 今後、こうした流れが国際社会のコンセンサス(合意)として確立していくならば、単に紛争抑止や緊張緩和といった次元を超えて、「戦争の文化」から「平和の文化」への転換に必ずつながっていくと、私は信ずるものです。
 続いて、具体的に「人間本位」「民衆本位」の地球社会を21世紀に建設するための方策について、論じておきたい。
 その多くは、いうまでもなく国連の場で、あるいは国連を媒介にしての展開が期待されますが、その前に、アメリカの単独行動主義が目立つのと反比例して、唯一のグローバルな国際協調の場としての国連システムの地盤沈下が指摘されているのは、憂慮すべき事態です。
 安全保障理事会における常任理事国の拒否権行使によって、機能不全と極論されることもあった国連に、冷戦後、スポットライトが当てられ、活気を帯びだして長くはありません。
 しかし、早くもアメリカを中心とするパワー・ゲームに翻弄され、恒久平和と人類益を志向する"カント的なもの"が姿を消し、主権国家同士の権益がせめぎ合う"ホッブズ的なもの"ばかりが横行しており、このままでは歴史の歯車は逆回転してしまう。
 当面、他に代わるべき組織はないのですから、そうした事態だけは避けてほしいと思います。少数意見の尊重、「弱者」の声にも耳を傾けることが民主主義の鉄則であるとすれば、それは、アメリカが標傍する普遍的理念に沿った選択なのではないでしょうか。
15  21世紀の平和は「弱者」に焦点を
 さて、ここで私は、ここ十年来、さまざまに論議されてきた「人間の安全保障」という観点を、改めて強調しておきたいと思います。
 2001年6月、「人間の安全保障委員会」が発足しました。
 同委員会では、「人間の安全保障」への理解を広げ、これを国際社会の共通の政策方針に据えていくための報告書の作成に取り組んでおり、本年6月に発表される予定になっています。
 この作業に対し、「人間の安全保障」に関する研究に取り組んできた研究者のグループが、共同で問題提起を行っています。「『人間の安全保障』についての公開書簡」と題し、36人の研究者による討議の成果をまとめたものです。
 そこでは、
 (1)日常の不安を中心に置くこと
 (2)最も弱いものを中心に置くこと
 (3)多様性を大切にすること
 (4)相互性を大切にすること、
 の四つの視座に留意し、人間の不安や脅威の源泉としての軍事化やグローバル化に伴う問題に目を向けるべきであると訴えています。
 これらの主張は、私の年来の主張とも重なるものであり、強く共鳴するものです。
16  こうした観点から、私がまず第一に取り上げたいのが、現在、イラクや北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の問題で焦点となっている大量破壊兵器の問題です。
 ここではとくに、危機の様相を深めている核兵器の拡散防止と軍縮・廃絶のための方策について論じておきたい。
 アメリカの科学誌「原子力科学者会報」が発表している「核の時計」の針が、昨年は"7分前"にまで進められました。
 その理由として、これまで米ロ間で核軍縮の土台となってきたABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約の崩壊、核兵器を保有するインド・パキスタンの対立、核物質管理に対する懸念の増大、核兵器取得を狙うテロリストの存在などが、挙げられています。
 加えて最近では、北朝鮮が核施設の再稼働を宣言したのに続き、NPT(核拡散防止条約)脱退を表明しました。
 このままの状態が続けば、NPTを軸とした核拡散防止の枠組みが根幹から揺るがされるだけでなく、軍備競争のとめどもないエスカレートを招きかねず、化学兵器や生物兵器といった他の大量破壊兵器の軍縮の進展にも深刻な影響を与えかねません。
 昨年4月に行われたNPT再検討会議の第1回準備委員会では、
 (1)CTBT(包括的核実験禁止条約)の発効促進
 (2)イスラエル、インド、パキスタン、キューバのNPT参加
 (3)北朝鮮のIAEA(国際原子力機関)の保障措置遵守、
 などを促す議長総括が発表されました。
 このうちキューバは昨年10月、NPTへの批准とともに、トラテロルコ条約(ラテンアメリカ・カリブ海地域非核化条約)への批准を果たしました。
 他の3国の早期加盟と、北朝鮮のNPT加盟継続が強く望まれます。そのために国際社会も、各地域における信頼醸成を促進させる環境づくりに協力していくことが重要といえましょう。
 とくに、北朝鮮の核開発問題についていうならば、キューバが選んだ道と同じ道を――つまり、地域における非核化の枠組赤への参加を通じて地域安全保障を確保しながら、NPT体制への加盟継続を図る道を進むことが望ましいと思います。
17  「非核地帯」を北半球に拡大
 私は、かねてより北東アジア地域における非核地帯の設置を呼びかけてきました。
 この地域にはすでに、1992年の「朝鮮半島非核化共同宣言」と、モンゴルの「非核兵器国の地位宣言」があり、日本も「非核三原則」を掲げています。
 こうした宣言などを踏まえながら、北朝鮮を交えた形での国連主催の「北東アジア平和会議」を開催して、同地域における信頼醸成とともに、将来的には非核地帯の設置を視野に入れた討議を行ってはどうか。
 現在、北朝鮮が参加している地域安全保障の枠組みは、ARF(アセアン地域フォーラム)のみですが、とくに北東アジアに焦点を当てた討議を、国連関係者とともに行うことの意義は大きいのではないかと思います。
 20世紀を通じて、地球の南半球側はほとんど非核化されました。
 この事実は、核兵器を持つことよりも、持たないことによって、自国の平和と安全を確保することが、自国の国益にも、そして、地域全体の安全保障にも資するのであり、それが現実的な政治選択でもあることの、重みをもった一つの証左ではないでしょうか。
 だからこそ、21世紀に国際社会が取り組むべき挑戦は、地球の北半球側の非核化にあると、私は強く訴えたい。
 このうち、すでに中央アジアと中東地域における非核地帯の設置については構想段階に入っています。北東アジアにおいても、いよいよ本格的に検討すべき時期を迎えているのではないでしょうか。
 かりに、非核地帯の設置に時間を要する場合でも、北朝鮮がモンゴルと同様に「非核兵器国の地位宣言」をする道があります。
 モンゴルの宣言に対しては、国連総会がこれを歓迎する決議を採択したほか、五つの核保有国が95年に表明したNPT加盟の非核兵器国に対する消極的安全保障(非核兵器国への核攻撃をしない保証)をモンゴルについて再確認する旨の声明を発表しております。
 北朝鮮についても、同様の対応が確立されるならば、いずれは非核地帯への道も見えてくるのではないでしょうか。このNPTとともに、核拡散防止体制の要となるのがCTBTであります。しかしCTBTについても、残念なことに、条約採択後6年間も未発効のままの状態が続いております。
 そこで現在、批准国が一定数に達した段階で条約を暫定的に発効させ、核実験を国際監視するためのシステムを先行スタートさせるという案も出されています。核軍縮への機運をこれ以上後退させないためにも、前向きに検討すべきではないでしょうか。
18  国連に核軍縮の専門機関を設置
 また20015年のNPT再検討会議に向けて、核拡散防止の上で不可欠となる弾道ミサイルの軍備管理を図るために、昨年11月に採択された「ICOC(弾道ミサイルの拡散に立ち向かうための国際行動規範)」を、法的拘束力のある条約にすることを目指すべきであると訴えたい。
 こうした核拡散防止の体制を確立させる一方で、先に触れた「自制心のかたち」として、具体的に核兵器を削減し、廃絶への道を開く努力が核保有国に強く求められます。
 そこで私は、NPT再検討会議が行われる2005年が、広島と長崎に原爆が投下されて60年にあたることを踏まえ、各国首脳が参加しての「核廃絶のための特別総会」を開催してはどうかと提案したい。
 国連で15年前に、第3回軍縮特別総会が開かれて以来、核廃絶の問題を全地球的な規模で討議する機会は長らくありませんでした。
 今一度、人類の命運を決するこのテーマに真正面から向き合い、「核兵器のない世界」を21世紀に実現させる方途を真剣に模索すべきではないでしょうか。
 現在、核軍縮のための国際的な枠組みは、ABM制限条約に代わる「モスクワ条約(戦略攻撃兵器削減条約)」が昨年5月に米ロ2国間で合意されているだけであり、核兵器を具体的に削減させるための多国間条約は、いまだ存在しておりません。
 私はかねてより、「核兵器全面禁止条約」の制定を呼びかけてきましたが、特別総会では、その第一歩となる全核保有国の間での軍縮条約の制定を進めるべきと訴えたい。
 それは、3年前のNPT再検討会議の最終文書に盛り込まれた「保有核兵器の完全な廃棄を達成するという明確な約束」を現実化させる取り組みでもあります。
 加えて特別総会の場において、NPT第6条が定める核軍縮の誠実な履行を確保するための専門機関を、国連に新たに設置することを討議すべきであると、私は訴えたい。
 核兵器を地球上のすべての人々の生存権を脅かす"絶対悪"と指弾した、戸田第2代会長の平和思想を原点とする「戸田記念国際平和研究所」でも、2005年に向けて、世界の研究機関と協力し合いながら、核軍縮と廃絶のための研究プロジェクトに取り組んでいきたいと思います。
19  ミレニアム開発目標の達成を
 第二は、貧困や飢餓など「人間の尊厳」を脅かす問題の克服です。
 UNDP(国連開発計画)の報告書によると、「1日2ドル未満で生活している人は世界で28億人にも達し、そのうちの12億人が1ドル未満の生活を余儀なくされています。また、世界で栄養不良に苦しむ人々の数は、8億人を超えると推定されています。
 こうした状況を改善するために、国際社会が強い決意をもって取り組むことが急務となっています。3年前に採択された国連ミレニアム宣言における、「世界のすべての人々を屈辱的で非人間的な極貧状況から解放するためにあらゆる努力を惜しまない」との誓約を果たすことが求められているのです。
 国連では具体的な目標として、2015年を一つの期限として、
 (1)1日1ドル未満で生活する人口の割合を半減させる
 (2)飢餓に苦しむ人口の割合を半減させる、
 など8分野18項目にわたる目標を掲げています。これらは、90年代に開催された主要な国際会議やサミット、また国連ミレニアム宣言で合意をみた目標を統合したもので、「ミレニアム開発目標」と総称されています。
 しかし、このままのぺースでいけば、世界人口の4分の1以上を占める33カ国では目標の半分も達成できないとの見通しがなされており、UNDPの報告書でも「劇的な転換がなければ、一世代後に世界の指導者は再び同じ目標を設定せざるを得なくなるに違いない」との、強い警告を発しております。
 私は3年前の提言の中で、地球社会の歪みともいうべき貧困問題の解決を図るための「グローバル・マーシャルプラン」の実施を呼びかけました。
 その原型ともいうべき、マーシャルプランは、第2次世界大戦後の国際社会における、勝者の「自制心のかたち」のよき成功例でした。
 21世紀において、こうした「自制心のかたち」をグローバルな形で実現させる挑戦が、今、強く求められています。
 その意味で昨年、南アフリカでの環境開発サミットで採択された実施計画で、開発途上国における貧困を撲滅し、社会開発と人間開発を促進するための「世界連帯基金」の設立が合意をみたことを、私は大いに歓迎するものであります。
 この基金は、先月の国連総会で正式に承認されましたが、貧困撲滅に焦点をあてた基金の設立は初めてのことであり、92年の地球サミットを経て設置された「地球環境ファシリティー」に次いで、サミットで合意されたグローバルな規模の基金としての意義をもつものです。
 「ミレニアム開発目標」の達成のためにも、国際社会の力強い連帯の証として、各国の協力が求められましょう。
 また国連では、「ミレニアム開発目標」の実施状況に関する事務総長報告を、毎年発表することになっています。
 そこで、その内容を世界各国の首脳が厳粛に受け止めながら、さらなる国際協力の深化と拡大を図っていくための「世界サミット」を、2015年まで定期的に行ってはどうでしょうか。
 2年ごとの隔年でもよい。国連総会の会期が始まる前に、世界の首脳が一堂に会して、ともに21世紀の人類の平和と幸福を考える場にしていくという、夢多き展望です。
 会場は、ニューヨークの国連本部に限らず、貧困や飢餓で最も苦しんでいる地域で開催していくことが望ましいと、私は思います。
 こうした国際協力の枠組みを強化するには、広範な民衆の支持と協力が欠かせません。
 国連では、世界中のすべての人々が「ミレニアム開発指標」に対する理解を深め、その達成に向けてさまざまな組織や団体が連携していくための環境づくりを目的とした、「ミレニアム・キャンペーン」をスタートさせました。
 私どもSGIも、同キャンペーンの趣旨に賛同するものであり、展示や各種セミナーなどをはじめ、民衆レベルでの"草の根の意識啓発"に積極的に取り組んでいきたい。
 また、公正な地球社会のあり方を展望した『貪りの克服』を昨年発刊したボストン21世紀センターの活動を通じて、学術面や研究面での世界的なネットワークづくりに貢献していきたいと念じています。
20  「国際淡水年」と途上地域の課題
 貧困や飢餓に加えて、今、大きな焦点となっているのが、水資源の問題です。
 現在、世界人口の4割が水不足に直面し、11億人が安全な飲み水を利用できず、25億人が適切な衛生設備を利用できない状況に置かれています。また、水関連の病気で死亡する人々は毎年500万人を超えると推計され、この数は、年間平均の戦死者数の10倍にのぼるといわれています。
 国連のアナン事務総長が、「開発途上地域で病気を減らし、人命を救う最善の策は、すべての人々に安全な水と十分な衛生設備を届けることをおいて他にない」と強調している通り、安全な飲料水の確保と衛生環境の整備が急務となっているのです。
 本年は国連が定めた「国際淡水年」であり、3月には日本で第3回「世界水フォーラム」が開催されます。
 私は、ホスト国である日本が、この分野において、技術支援や人的派遣などを通して積極的な役割を果たすべきだと訴えたい。
 この問題が、主要テーマの一つになった昨年の環境開発サミットで、日本はアメリカと協力して「きれいな水を人々へ」と題するイニシアチブを推進することを表明しました。
 日本には、ごれまで世界4000万人以上の人々に対し、安全な飲料水の確保と衛生環境の整備に努めてきた実績があります。こうした経験を生かしながら、日本が水資源の分野で世界をリードしていくことを期待するものであります。
 第三は、人間が真に人間らしく生きるための源泉であり、「平和の文化」の礎となる教育を、地球上のすべての人々が受けることのできる社会づくりです。
 パレスチナ問題のように、誰もが途方に暮れてしまうような泥沼化した紛争も、解決への糸口が見いだせるとすれば、息の長い青少年教育以外にないとする人は、少なくないのです。
 90年にタイで行われた「万人のための教育」世界会議で、基礎教育の完全普及が国際社会の目標に掲げられて以来、世界全体での初等教育就学率は、一定の上昇をみました。しかし依然として、1億人以上の未就学児童と、8億8000万人の非識字者がおり、そのうち3分の2を女性が占めるという深刻な状況が続いています。
 こうした事態を受け、昨年5月の「国連子ども特別総会」や、翌6月のG8サミットで、この問題が取り上げられ、基礎教育の完全普及と、女性が平等に教育を受ける環境づくりを目指すことなどが、改めて強調されました。
 現在、その促進のため、ユネスコ(国連教育科学文化機関)を中心に「万人のための教育」キヤンペーンが展開されています。
 加えて、本年からは、「国連識字の10年」がスタートしました。
21  生涯学習を進めた牧口初代会長
 この「万人のための教育」という指標は、創価教育学の父である牧口初代会長の理念にも通ずるものであり、牧口会長はその実現のために生涯を捧げました。
 これまで何度もこの提言で触れてきたように、牧口会長は、『人生地理学』で、「世界市民意識」の涵養と"自他ともの幸福"を目指す「人道的競争」の時代を開くことを訴えました。
 と同時に、その実現のために自ら、日本における女性教育の充実と生涯学習の確立という「人間教育」の裾野を広げる挑戦に、先駆的に取り組んだのであります。
 日露戦争の最中に女性のための通信教育を推進したほか、半日学び半日働く「半日学校制度」の導入を再三にわたって提唱し、生涯学習社会の必要性を強調しました。
 同じく教育者であった戸田第2代会長も、通信教育に取り組んでおり、私は、こうした両会長の精神を受け継ぎ、創価大学の設立構想時から「通信教育部」を設けることを考え、76年から開設しています。以来、現在では、日本でトップクラスの在籍数と、日本一の卒業率を誇るまでに発展しております。
 SGIでも、牧口初代会長以来の伝統を踏まえ、基礎教育の普及のための取り組みに積極的に取り組んできました。
 日本では青年部を中心に、ユネスコによる各国での識字率向上のための活動などを支援してきました。
 またブラジルでも、87年から教育部が、幅広い年齢層を対象にした識字教育をボランティアで進めており、ブラジル教育省の認定を受けるまでになっています。
22  持続可能な開発と「教育の10年」
 近年は、こうした"読み書き"などの基礎的能力の習得を主体とした識字教育に加え、「平和の文化」を育み、自然環境との共生を図る"新しい人間教育"の必要性が叫ばれています。
 私どもSGIでは、その観点から、環境開発サミットに向けて、「持続可能な開発のための教育の10年」の制定を提案しました。
 持続可能な地球社会を築くための教育の推進を目指したこの提案は、サミットの実施計画に盛り込まれました。そして先月には、国連総会で決議され、2005年からのスタートが正式に決定しております。
 環境教育は、平和教育、人権教育と並び、新しい人間教育の柱をなすものであり、すべての人々が自らの力で幸福を勝ち取り、未来を切り開く力を養う教育の普及こそ、「希望の21世紀」の基盤となるものです。
 これまでSGIでは、92年の地球サミットの関連行事として開催した「環境と開発展」を各地で巡回するなど、環境問題への意識啓発のための活動に力を注いできました。今後とも、各国で環境教育をさまざまな形で推進していきたい。
 識字と環境教育――この二つの"教育の10年"の成功を目指し、国連諸機関や他のNGO(非政府組織)と協力しながら、最大に支援していきたいと思います。
 この環境教育の柱となるのは、NGOの地球評議会が制定を進め、私どもがその運動を支援してきた「地球憲章」だと思います。
 そこには、こう謳われています。
 「私たちは歴史上はじめて、共通の運命によって新たな行動を始めることが求められている。こうした再出発こそ、地球憲章の原則に込められた誓いである」
 「そのためには、心と思考を変えなければならない。また、地球規模の相互依存感と責任感という新しい感覚が必要となる」
 環境問題に限らず、世界が直面するさまざまな課題に取り組むには、こうした責任感と主体性を一人ひとりが持つことが欠かせません。
23  一人の人間に世界変える力が
 またSGIでは、地球評議会による映画「静かなる革命」の制作に協力しました。
 インド・二ーミ村の水資源問題、スロバキアのゼンプリンスカ・シラバ湖の環境汚染、ケニアの砂漠化など、環境問題の解決のために立ち上がった人々のドラマを追ったこの映画のテーマは、「一人の人間が世界を変えていく」であります。
 人類の歴史を振り返れば、動かしがたいと思われた現実を突き動かし、時代変革の波を起こしてきたのは、不屈の信念と勇気と情熱を燃やした人々の存在でした。
 しかし現代の社会では、「自分一人がどうしたところで......」といったぬぐいがたい無力感や、「何をやっても状況は変わりはしない」といったあきらめが、人々の心を大きく蝕みつつあります。
 そうした状況の中で、心ある人でさえも現実を前に希望を失い、自分の世界に小さく閉じこもってしまう――私は、ここに現代の"一凶"がある気がしてなりません。
 核時代平和財団のデイビッド・クリーガー所長との対談集『希望の選択』でも、このことが焦点となりました。
 所長は、アインシュタイン博士が発見したエネルギーと質量に関する方程式を敷衍させて、「一人の人間の一念には、世界を変革する力がある」との平和の方程式を確立させていくことが重要ではないかと訴えていました。
 私どもSGIが取り組んでいる「人間革命」運動の眼目は、まさにその一点にあります。
 現実が厳しいからといって、手をこまねいてはならない。目覚めた民衆が連帯し、行動していけば、どれほどの力が生まれ、変化の波が起こるか――その証明にこそ、21世紀の人類が果たすべき使命があるのではないでしょうか。

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