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日蓮大聖人・池田大作

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新・黎明  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
2  広宣流布の大指導者・戸田城聖を亡くした、同志の悲しみは癒えなかった。
 しかも、それを嘲笑うかのように、一部のマスコミは、創価学会への猛攻撃を開始したのである。
 新聞紙上には、「ポックリ生き仏昇天 ゆらぐ創価学会の屋台骨 恨みの他宗派は大喜び」「壊滅寸前の創価学会 哀れな邪教の末路」「″魔星″堕ちて神通力失う」といった見出しが躍った。
 紙面に登場する評論家の多くは、学会の「空中分解」を予測していた。さらに、戸田の学会葬さえも嘲笑い、「教祖成仏 アベックの敵となる 日曜の外苑に″仏滅″騒ぎ――芝生奪って土下座 30万信徒が念仏の大合唱」との見出しを掲げた新聞もあった。
 また、この機に乗じて、学会を切り崩そうとする他宗の動きも活発化し始めた。
 学会は、戸田亡き後、理事長の小西武雄を中心に運営していくことになったが、会内には、戸田を失った空虚感が漂い、あの弾けるような活気は失われつつあった。会員たちは、不安と感傷の雲を払い、未来を照らす希望の光を、いまだ見いだしかねていたのである。
 山本伸一は、この事態を深刻に受け止め、今こそ、同志の一人ひとりの胸に、新たな希望の灯をともさなければならないことを痛感していた。希望は勇気を生み、活力をもたらすからだ。
 彼は、間近に迫った、伝統の五月三日の春季総会は、未来への大目標に向かい、新たな出発を期す日にしようと、深く思索していた。
 その間、四月の二十五日から四日間、関西の教学試験のために、大阪に向かった。
 彼は、大講堂落慶の記念の総登山、戸田の逝去、そして葬儀と続いた激闘によって、著しく疲労していた。
 とうとう二十九日朝、伸一は高熱を出し、起き上がることさえできなかった。恩師の偉業を受け継ぎ、広布に走りゆかねばならない自身の体が、思うに任せぬことが、不甲斐なく、悔しくてならなかった。
 伸一は、熱でほてった重い体で、床に臥しながら、″学会の新たな出発のために、何が必要か″を、考え続けていた。彼の脳裏には、戸田の誕生日の前日にあたる今年の二月十日、恩師が語った言葉がまざまざと蘇るのであった。
 「伸一、あと七年で、三百万世帯までやれるか?」
 ″あのお言葉こそ、学会の未来のために示された大目標である。七年……、先生は七年という歳月を、次の目標の達成までの期間とされた。その意味は、限りなく深いはずだ″
 伸一は、戸田が生前、「学会は七年ごとに大き歩みを刻んでいくのだ」と、しばしば語っていたことを知っていた。また、「七年を一つの区切りとして広宣流布の鐘を打ち、『七つの鐘』を打ち鳴らそう!」と語っていたことが思い出された。
 伸一は、七年ごとの学会の歩みを振り返ってみた。
 牧口常三郎と戸田城聖の手によって、創価教育学会が創立されたのは、一九三〇年(昭和五年)十一月十八日である。そして、七年後にあたる三七年(同十二年)には、会員に約百人が名を連ね、創価教育学会が本格的に発足するにいたっている。さらに、七年後の四四年(同十九年)十一月十八日には、牧口が獄死。それから七年後の五一年(同二十六年)五月三日には、戸田が第二代会長に就任している。
 以来、七年を経て、戸田は願業をことごとく成就し、逝去した。不思議な時の一致といってよい。
 伸一は、深い感慨を覚えながら、思索を重ねていった。
 ″昭和五年に、第一の広宣流布の鐘が打ち鳴らされたとすれば、既に、第四の鐘が鳴り終わったことになる。すると、今年の五月三日の春季総会は、第五の鐘を、高らかに打ち鳴らす日としなければならない。
 この第五の鐘にあたる七年のうちに、先生が示してくださった三百万世帯を、断固、達成するのだ。第六の鐘となる次の七年の目標は、六百万世帯の達成になろう。
 そして、第七の鐘が鳴る昭和四十七年(一九七二年)には、大御本尊を御安置申し上げる大殿堂たる、正本堂の建立も成し遂げなければならない。
 さらに、今から二十一年後の昭和五十四年(一九七九年)には、「七つの鐘」が鳴り終わることになる。それまでに、日本の広宣流布の、確かな基盤をつくりあげることだ。
 それは同時に、本格的な世界広宣流布の幕開けとなるだろう。その時、私は、五十一歳……。もし、健康でさえあれば、新しき世紀への大舞台が待っている″
 伸一の広宣流布の展望は、限りなく広がっていった。彼は、燦然たる未来に思いを馳せながら、総会では、戸田が折々に語ってきた、「七つの鐘」の構想を発表しようと思った。
 そして、その構想の実現こそ、ほかならぬ伸一自身の生涯の使命であることを、悟らざるを得なかった。先輩幹部は数多くいた。しかし、未来の広宣流布の柱として頼むに足る同志を見いだすことは、できなかったからである。
 伸一は、この日、高鳴る胸の鼓動を感じながら、日記にこう記した。
 「意義深き五月三日、目前に迫る。実質的――学会の指揮を執る日となるか。
  胸苦し、荷重し。『第五の鐘』の乱打。
  戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
3  春季総会は、一九五八年(昭和三十三年)五月三日、後に日大講堂となった両国の東京スタジアム(旧両国国技館)で行われた。
 ロイヤルボックスの上には、亡き戸田城聖の遺影と、「団結」の文字が掲げられ、その両側には、二首の戸田の和歌が、堂々たる毛筆体で垂れ幕に記されていた。
  「獅子吼して 貧しき民を 救いける 七歳の命 晴れがましくぞある」
  「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」
 総会では、「開会の辞」に続いて人事が発表され、森川ヒデ代に代わり、谷時枝が女子部長に就任した。また、新たに男子部に十個部隊、女子部に十二個部隊の結成をみたのである。
 それは、戸田の膝下で、山本伸一を中心に切瑳琢磨してきた後継の青年たちの、新しき飛翔を物語っていた。一抹の寂しさを宿していた参加者の心に、青年の若々しい息吹が、希望の薫風となってそよいた。
 理事たちのあいさつや、体験発表のあと、山本伸一が立った。彼は、集った地涌の勇者をつつみ込むように、視線を場内に注ぐと、力強く語り始めた。
 「釈尊の予言は、日蓮大聖人の御出現によって、虚妄ではなくなりました。その大聖人の御遺命は、戸田先生の出現、すなわち、創価学会によって現実となったといっても、過言ではありません。
 戸田先生は、広宣流布の実現に生涯をかけ、戦い、叫び抜かれ、一切の願業を成就されて、寂光の宝刹に還られました。この広宣流布の実現こそが、戸田先生の心であり、それが創価学会の永遠の精神であります。
 今、後に残された私たち弟子一同の進むべき道は、理事長を中心に団結し、さらに広宣流布に邁進していく以外にありません。御本尊を信受し、末法の弘法の大指導者である戸田先生の薫陶を受けた私たちが、力を合わせて前進していくならば、広宣流布、すなわち宗教革命は、絶対に断行できると信ずるものでございます。
 御聖訓に、『此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし』とございますが、正法を流布する私たちもまた、師子王のごとく雄々しく、前進してまいろうではありませんか!」
 彼は、胸にたぎる広宣流布への大確信と大情熱をほとばしらせ、数万の同志に向かって呼びかけた。
 それから、戸田が折に触れて述べてきた「七つの鐘」の構想に触れ、学会が三〇年(同五年)の創立以来、七年を節として大きな飛躍を遂げてきた歴史をたどっていった。
 参加者は、伸一の話に、じっと耳を澄ましていた。
 「そして、昭和二十六年(一九五一年)、戸田先生は、第二代会長に就任され、以来七年、一切の広宣流布の原理を示され、広布の基盤をつくってくださいました。いよいよ、本日から、第五の鐘となる、新たな七年の幕が開くのであります。
 そして、次の七年が第六の鐘、その次の七年が第七の鐘となり、その終了は、二十一年後の昭和五十四年(一九七九年)となります。
 この『七つの鐘』が鳴り終わる時までに、広宣流布の永遠の基盤をつくりあげることを目標に、前進してまいりたいと思うのでございます。『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』との御聖訓がございますが、本日を力強い前進の第一歩として、希望と勇気と確信をたぎらせて、広宣流布に邁進していこうではありませんか!」
 それは、亡き師子王に代わって、後継の若師子が放った新生の大師子吼であった。雷鳴のような拍手が、堂内を揺るがした。どの顔も紅潮していた。その叫びは、人びとの心を覆っていた雲を払い、燦たる希望の陽光となって、同志の胸深く降り注いだ。
 悲哀と感傷に閉ざされた暗夜に、新しき黎明が訪れようとしていた。人びとは、新しき広宣流布の道が豁然と開かれ、朝日に照り映える、未来の金の峰を仰ぐ思いで、伸一の話を聞いた。
 この日、日淳は、戸田の偉業を讃えて語った。
 「会長先生は、七十五万を目標に折伏・弘教に励まれましたが、私は、この七十五万と言われましたのには、深い意味があるものと考えておりました。
 それはあらためて申すまでもなく、七十五万は南無妙法蓮華経の五字七字であると、私は常に察しておったのでございます。南無妙法蓮華経の五字七字を目標として、これを確立する時には、すでに広宣流布の基礎が出来上がるということを考えておられたと、察しておるのでございます。
 御承知の通り、法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通いたしますという誓いをされたのでございます。その方々を、会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。すなわち、妙法蓮華経の五字七字を、七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います。
 この全国におられます七十五万の方々が、皆ことごとく南無妙法蓮華経の弘法に精進されまするならば、釈尊もかつて予言いたしましたように、末法に広宣流布することは、断固として間違いないところでございまする」
 そして、日淳は、強い確信を込めて訴えた。
 「皆様方が相応じて心も一つにし、明日への誓いを新たにされましたことは、全く霊山一会厳然未散と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば、真の霊山で浄土、仏の一大集まりであると私は深く敬意を表する次第であります」
 総会は、まさに霊山を今世に移しての、広宣流布への誓いの集いとなった。今、使命の仏子たちは、後継の若き闘将の雄叫びに奮い立ち、新たな行進を開始したのであった。
4  時代は、新しきリーダーを渇望していた。広宣流布という未踏の原野を進む創価の大車輪には、指導者という堅固な車軸が不可欠であった。
 会長・戸田城聖のもとにあって、理事長を務めてきた小西武雄は、戸田亡き後、同志の団結の要として必死に指揮を執った。
 しかし、彼は、自身の限界を感じざるを得なかった。草創期と違い、会員数が八十万世帯を超えた学会は、社会的な責任の比重も増し、それにともない、中心者に求められる資質も、要件も、大きく異なってきていた。
 広宣流布の新展開のためには、信心への絶対の確信はもとより、時代に即応した近代的センス、壮大な未来を展望しながら、緻密な計画を練り上げる構想力、皆を心から納得させることのできる指導力、若々しい果敢な行動力――などが、不可欠な要請となってきていたのである。
 だが、小西は、自分には、そんな感覚も、力もないことを、身に染みて知っていた。
 戸田は、常々、「牧口門下生のなかには、次の会長はいない。次期会長は戸田門下生から出る」と語っていたが、事実、小西は、会長になるための訓練を受けることもなかった。戸田が手塩にかけ、全精魂を傾けて育んできたのは、山本伸一にほかならなかった。
 戸田は、伸一にだけは、人一倍厳しかった。伸一が、どんなに見事な功績をあげようと、戸田が伸一を褒め讃えるのを見ることは、ほとんどなかった。
 伸一に対しては、どんな難題も、成功して当たり前という態度を、戸田は取り続けてきたといってよい。
 小西は、戸田から、毎日のように厳しく叱られる伸一を目の当たりにして、かわいそうに思ったことさえあった。しかし、それは、伸一に学会の未来の一切を託すための、戸田の厳愛の指導であることは、彼にもよくわかった。
 戸田は、小西と二人きりになると、言うのであった。
 「小西君、伸一は、すごい男だぞ。学会の将来のことは、何も心配ないよ」
 小西も、伸一の力を実感してきた。一九五二年(昭和二十七年)二月、自分が支部長をしていた蒲田支部で、伸一が支部幹事として戦いの指揮を執るや、支部内の空気は一変し、当時としては未曾有の、二百一世帯という折伏を成し遂げたのである。
 それが、戸田城聖の願業であった七十五万世帯達成への、起爆剤となったことは間違いなかった。
 また、文京支部では、支部長代理に就任するや、たちまちのうちに、最下位のクラスにあった支部を、第一級の支部に仕上げた。
 さらに、五六年(同三十一年)には、大阪にあって、一カ月で一支部で一万一千百十一世帯の弘教を達成するという未聞の金字塔を打ち立て、参議院議員選挙では、東京が敗北を喫するなか、春木征一郎の当選を勝ち取っている。
 さらに山口をはじめ、山本伸一の行くところ、必ず勝利の旗が翻り、新しい広宣流布の波が起こった。それでいて、伸一には、強引さは全くなかった。昨日まで意気消沈していた同志が、まるで別人のように生き生きとし、歓喜と自信と誇りにあふれて、一騎当千の勇者となって、怒濤のような戦いが始まるのである。小西には、それが、不思議でならなかった。
 彼は、伸一が、広宣流布の歴史に印してきた、黄金の足跡を目の当たりにして、伸一の、計り知れない指導者としての力量を感じていた。それだけに、一日も早く、伸一が会長として、学会の全責任を担って立ってくれることを願い、待ち望んでいた。しかし、伸一は、いまだ三十歳の若さであることを思うと、やむなく、「時」を待たざるを得なかった。
 だが、広宣流布の前進のためには、何よりも学会は、伸一の力を必要としていた。小西は、それを誰よりも痛感していた。理事長として自分が表に立つにせよ、広宣流布の伸展を考えるなら、実質的には、伸一に全学会の指揮を委ねる以外に道はないと思った。
 そこで彼は、学会の運営を、事実上、統括する「総務」という役職を設け、伸一を総務に迎えることを、理事たちと協議した。
 六月三十日に、六月度の本部幹部会が豊島公会堂で行われた。山本伸一は、この時、青年部の室長兼任のまま、ただ一人、総務となった。伸一の双肩には、諸行事の企画・運営をはじめ、学会の活動のすべての責任がのしかかることになった。
 との人事の発表を聞いた同志は、未来に曙光を見いだす思いであった。
5  このころ、学会には、墓地問題が起こり、多くの会員たちを悩ませていた。
 当時、正宗寺院の墓地は、いたって少なく、大半の学会員は、入会前の他宗が管理する墓地を使用せざるを得ない状況にあった。しかし、他宗派の寺院は、学会員の墓地の使用を拒否し、既に埋葬されていた遺骨も、改葬を強要するという事件が、各地で発生していたのである。なかには、学会員が使用していた墓を、無断で他人に転売してしまった寺院まであった。
 法律のうえからも、改宗したからといって、それまでの墳墓の使用権が損なわれるということはあり得ない。明らかに違法行為であり、学会の折伏を恐れての、離檀防止のための嫌がらせといってよかった。
 先祖や他界した肉親を弔おうとする人びとの心に付け込み、故人の埋葬の場である墓地を、学会切り崩しの道具としてきたのである。それは、宗教の権威を利用し、保身を目論む似非宗教者が行う、卑劣な常套手段にほかならない。
 伸一は、この不当な仕打ちを粉砕するために、断固として立ち上がった。
 墓地を管理する他宗派が、学会員に対して埋葬拒否するという事件は、数年前から起こってはいたが、戸田城聖の逝去を機に、それが全国各地に頻発したのである。
 その背景には、学会の前進を阻もうとする他宗はの策略があった。学会の折伏攻勢で檀家を失い、恐れをなしていた他宗派は、学会が戸田会長を失った今こそ、反撃のチャンスであると判断したようだ。
 そして、各県の仏教会が中心となって、改宗者は墓地を移転しなければならないことなどをうたった、墓地規約の原案を作成していった。それをもとに、各寺院が墓地の使用規定などを定め、学会員になれば墓地を変えねばならないと脅しをかけたのである。離檀を防ぎ、学会の切り崩しを謀る苦肉の策であった。
 伸一は、この理不尽な仕打ちに対して、阿修羅のごとく果敢に戦った。一歩も引かなかった。法律家と相談し、対策を講じる一方、自ら全国各地を奔走した。戸田に代わって、尊き仏子である同志を守り抜くことを、彼は、自らの最大の使命としていたのである。
 広宣流布の原動力となっていくのは、学会員である。したがって、さまざまな面で、会員を大切にし、いかにして守るかに、今後の発展の重要なカギがあった。
 しかし、幹部のなかには、次第に慢心や怠惰にむしばまれ、会員を軽んじるような態度をとる者も出始めていた。自らの権威づけのために、戸田と自分の絆を盛んに吹聴しはするが、戸田の精神を伝えることも、その指導を実践することもなく、わがまま放題になっていく幹部を見ると、伸一の胸は痛んだ。
 ″このままでは、戸田先生の精神は死に絶えてしまう。先生から、直接、訓練を受けることのできた者は、その精神と指導を後輩に伝えていく義務があるのだ″
 彼は、そのために生前の戸田の指導を整理し、まとめ始めるとともに、戸田の精神が刻印された数々の遺品を収集し、学会の重宝として残すことを思い立った。また、講義や質問会を収録したレコードの制作を推進していった。
 そして、何よりも、自分が戸田の精神を体現し、身をもって示そうと、不惜身命の戦いを敢行していった。行動を通し、同志を触発していく以外に、まことの精神の継承はないからである。
 この伸一の敢闘は、新たな前進の原動力となった。また、立正安国の実現をめざしての、選挙の支援活動にも、それは、大きな力となっていった。
 一九五九年(昭和三十四年)四月の全国統一地方選挙には、三百十人の学会推薦の候補者を立て、二百七十五人が当選をみた。さらに、六月の第五回参議院議員選挙では、東京地方区に清原かつ、全国区に原山幸一、山際洋らの五人が立候補し、全員当選を果たした。
 ことに東京地方区は、五六年(同三十一年)の参院選で惨敗を喫しただけに、同志の勝利の姿喜びは大きかった。
 伸一は、あの日、東京の惨敗に深い憂いに沈んでいた戸田の姿を偲びつつ、今、その恩師に、晴れて勝利の報告ができたことで、弟子としての一つの務めを果たせたと思った。
 この年の十一月には、日淳が逝去し、日達が第六十六世の新法主となったのである。
 波浪を砕き、嵐を越えて、会長不在のまま、学会は弘法の大海原を突き進んでいった。
 一九五九年(昭和三十四年)十二月には、学会の総世帯は百三十万を超えるにいたった。しかし、理事長の小西武雄の憂慮は深かった。彼は、戸田亡き後の、この一年有半の歩みのなかで、会長という指導者不在での前進の限界を、いたく感じていたのである。
 年の瀬のある日、小西は、学会本部の応接室で、指導部長の原山幸一に、自分の深刻な胸の内を語った。
 「原山君、皆の団結で、ようやく学会もここまできたが、正直なところ、ぼくの気持ちは、お先真っ暗なんだ……」
 「わかっているよ。ぼくも同じだ」
 原山も、小西と共に戦うなかで、会長不在の学会の未来に、絶望にも似た思いをいだいていたのである。
 小西は、原山の言葉を聞くと、安心したように頷き、話し始めた。
 「組織には、しっかりとした中心者が必要だ。ことに広宣流布の団体である学会には、死身弘法の指導者が、団結の軸として不可欠だ。戸田会長の時代、学会が、なぜあれだけの飛躍を遂げたのか――。その理由は、ただ一つ、戸田先生の広宣流布への強靭な一念にあった。
 先生は、お一人になっても、七十五万世帯の折伏を成し遂げようと決意され、広宣流布に一切をなげうたれた。われわれは、その先生の一念に触れ、先生の指導を活力の源泉として戦い、あの七十五万世帯達成の大前進を遂げることができた。
 すべては、リーダーにかかっている。誰かを中心者にすえておけば、広宣流布が進むというものでは決してない。ぼくは、今のままでは、会員は本当の力を出せないのではないかと思うんだよ」
 「正直なところ、ぼくも、そのことを考えていたんだ。会長のいない学会は、機関車のない列車のようなものだ」
 「そうなんだよ。戸田先生が亡くなってからは、山本総務が、学会という列車を、後ろから一人で押していてくれたようなもんだ。私は、山本総務の言う通りにやってきただけだ。それと、戸田先生の時代の勢いの余力で、ここまで来たともいえるだろうな。
 しかし、これからは、学会を引っ張っていける、新しい機関車の存在がなければだめだ。戸田先生は、そのために山本総務を後継の指導者として、十年余にわたって訓練されてきた。どうすれば、広宣流布ができるのかを知っているのは、山本総務だけだ。そろそろ、会長をお願いする時が来ているように思うんだがね」
 「ぼくも、そう思っていた。もう時は来ているよ。みんなで頼もうじゃないか。会員は、皆、新しい会長を心から待ち望んでいる。いや、会長というよりも、戸田先生に代わる信心の師匠を求めているんだ」
 「問題は、いつお願いするかだよ。ぼくはね、来年には、山本総務に、会長に就任してもらわなければならないと思っているんだよ。しかし、原山君、これは慎重に事を運ばなければならない。軽々しく口にすべき問題ではないからな」
 原山は、小西の顔を見ながら深く頷いた。彼も、小西が自分と同じ考えでいたことが嬉しかった。
 一九六〇年(昭和三十五年)、「前進の年」が明けた。
 全会員の心には、新会長誕生への願いが、潮の満ちるように高まっていった。
 新しき時代の指導者を、最も待望していたのは、青年たちであった。彼らは、戸田の遺志である広宣流布を、断じて、虚妄にしてはならないと決意していた。その戸田から、青年たちは、「広宣流布とは、人間のための社会の建設」であることを教えられてきた。
 しかし、世帯数は増加しているものの、文化や教育をはじめ、人間主義に根差した新しい時代を、いかに創造していくかとなると、なんの展望も開けなかった。また、東洋、そして、世界の広宣流布を、いかに進めていけばよいのかもわからなかった。
 彼らは、しばしば理事長の小西に、広宣流布の未来展望について尋ねたが、小西の答えは、いつも決まっていた。
 「そういうことは、山本総務でなけりゃわからんよ」
 それは、小西の正直な答えであったが、青年たちには不満であった。彼らは、生前の戸田城聖がそうであったように、自分たちの発する問いに明快に答え、進むべき航路を照らし出してくれる学会の最高責任者を、己の人生の師匠として切望していたのである。
 青年部の間に、伸一の会長就任を望む声が、次第に高まっていった。学会の全責任を担う会長の人事を口にすることは憚られたが、それでも、親しい青年部の幹部が集まれば、伸一の会長推戴が話題に上るようになった。青年たちと同様、原山幸一や関久男らの理事たちも、この問題を真剣に考え始めていた。
6  間もなく、戸田城聖の三回忌にあたる四月二日が迫りつつあった。
 小西武雄は、この三回忌が終わった段階で、伸一の会長推戴を理事会で正式決定し、五月三日の総会を、新会長の就任式にしたいと考えていたのである。そして、そのためには、三回忌の前に、伸一に会長就任の内諾を得なくてはならないと思った。
 三月三十日午後、小西と伸一は、本部の応接室で向かい合っていた。
 小西は、常になく緊張した表情で、意を決したように切り出した。
 「今日は、山本先生に、率直に、私の要望を申し上げたいと思います。いや、これは多くの同志が、思っていることでもあります……。三日後には、戸田先生の三回忌を迎えますが、いよいよ機は熟したと思います。ここで山本先生に、会長として、本格的に広宣流布の指揮を執っていただきたいんです」
 伸一は、黙って小西を見つめた。
 小西は、伸一の反応をうかがいながら、言葉をついだ。
 「学会は、いつまでも、会長不在のままというわけにはいきません。理事長という立場上、三回忌までは、やむを得ないと思い、私が運営の中心になってまいりました。しかし、それも、もう限界です。今のままでは、学会の新しい発展はありません。会内には、山本先生の会長就任を待ち望む声が高まっています。どうか、今年の春季総会で、新会長に就任していただきたいんです」
 伸一には、小西の気持ちはよくわかった。会内に会長を待望する声が、日ごとに大きくなりつつあることも知っていた。しかし、彼は、時期尚早であると思った。
 「申し訳ありませんが、私はまだ、会長をお引き受けするわけにはいきません。私は三十二歳です。会長としては、あまりにも若輩です。戸田先生も、牧口先生の七回忌を終えられてから、会長に就任されている。せめて、戸田先生の七回忌を終えるまでは、現在のままで、お願いしたいと思います」
 小西は身を乗り出し、力を込めて言った。
 「山本先生、学会も、なんとか、ここまで発展してまいりましたが、今の状態は画竜点晴を欠いています。本当の意味での、全会員の依恰依託がありません。多くの同志は、皆、内心は不安を感じながら、山本先生が会長になっていただけることを信じて、奮闘しているというのが実情です」
 小西は、真剣であった。
 「お話は、よくわかります。しかし、理事長もそうですが、私も大阪の事件で被告の身です。弁護士の話では、理事長の無罪は、ほぼ間違いないが、私の場合は有罪になる可能性が高いとのことです。
 もし、会長になって、有罪判決が下されれば、学会は反社会的な宗教団体ということになり、広宣流布に大きな支障をきたすことになります。わがままを言うようで申し訳ありませんが、せめて無罪の判決が出るまで、猶予をお願いしたいんです」
 また、伸一には、いつ倒れてもおかしくない病弱な自分が、会長として指揮を執れば、かえって同志に迷惑をかけかねないという憂慮もあった。
 彼は、丁重に、きっぱりと辞退した。小西の顔が曇った。苦渋の色が漂っていた。応接室の壁に掲げられた、牧口常三郎と戸田城聖の写真が、二人のやりとりを、じっと見ているように、伸一には思えた。
7  一九六〇年(昭和三十五年)四月二日、桜花の咲く総本山で、戸田城聖の三回忌法要が営まれた。との時、会員世帯はすでに百四十万に迫ろうとしていた。
 遺弟たちは、戸田への報恩と感謝の祈りを捧げながら、戸田の亡き後、理事長の小西武雄を中心に、ここまでやってとられたことに、感慨を深くするのであった。
 一同は、さらに七回忌をめざして、広宣流布の伸展を誓い合ったが、会長という車軸なき前進に、一様に不安を覚えていたことも事実であった。
 戸田の三回忌の法要を終えた四月七日の夜、理事の関久男と原山幸一が、小西の自宅にやって来た。二人は、学会の将来を考えた末に、この春季総会で山本伸一を会長に推戴することを提案しに来たのである。
 「そうか、君たちも、やはりそう思うか。実は、私は三回忌法要の前に、そのことを山本総務に話したんだよ。ところが、山本先生は、『七回忌まで待ってほしい』とおっしゃるのだ。私も困っていたところでね。君らがそう言ってくれると、私としても大変に心強い。みんなで今後の対策を検討しようじゃないか」
 小西はこう言うと、嬉しそうに相好を崩した。すかさず、関が言った
 「理事は全員、山本総務の会長推戴については、基本的には同意している。問題は具体的にどう進めていくかだと思う。それには、理事長が中心になって、理事の一人ひとりと話し合い、首脳幹部の考えを、まず、一つにまとめておくことではないだろうか」
 「そうだな。さっそく、明日、行動を開始しよう。そして、明後日には、理事に集まってもらい、会長推戴を決定する。そのうえで正式に理事会を開き、山本総務に出席していただき、理事会として会長就任をお願いする――この手筈でどうかね」
 小西は、こう言って、原山と関の顔を見た。
 「それがいい。とにかく、急がなければならないからな。しかし、山本総務を差し置いて、理事室が事を進めるというのは、なにか、ぼくらが悪いことをしているような気がするね」
 原山が言うと、小西は笑いながら制した。
 「悪いことだなんて、とんでもない。これほど良いことがあるものか。私にとっては、一世一代の大善だよ」
 三人の笑いが広がった。
 小西は、翌日、理事室のメンバーと会って、伸一を会長に推戴することを話していった。誰からも、待ってましたとばかりに、賛同の声がはね返ってきた。なかには、小躍りせんばかりに喜び、目を潤ませる人もいた。また、「本当ですか。ありがとうございます」と、頬を紅潮させながら、礼を言う幹部もあった。伸一の会長就任を、誰もが願い、待っていたのである。
 四月九日、理事たちが集合した。そして、深夜まで、伸一の第三代会長の推戴について話し合いがもたれ、五月三日の春季総会を、会長就任式とすることで合意を得た。
 小西武雄は、伸一の自宅に電話を入れ、全理事の意向として伸一の会長推戴を考えているので、十一日の理事会に出席するよう要請した。
 伸一は、戸田の子息・喬一の結婚披露宴に出席したあと、自宅に戻っていた。彼は、発熱に苦しんでいたのである。小西からの電話を取った伸一は、会長就任は辞退させていただきたいと伝えた。
 しかし、小西は、「ご意見があれば、理事会でお聞きしますので、ともかく理事会に出席してください」と言って電話を切った。
 伸一は、会長・戸田城聖に仕えるなかで、学会の会長職が、いかに峻厳なものであり、また、使命が、いかに重大で深いものであるかを、身に染みて感じていた。創価学会の会長には、同志はもとより、全人類を、幸福と平和の彼岸に導かねばならぬ使命がある。そして、一切の矢面に立って、一身に集中砲火を浴び、会員を守らねばならぬ責任がある。
 すなわち、その双肩には、御本仏の御遺命である、広宣流布のすべてがかかっている。まさに、凡智をもってしては計り得ぬ、仏意仏勅の聖職といってよい。それだけに、会長就任については、慎重にならざるを得なかった。
 伸一は、広宣流布にわが身をなげうつ覚悟はできていた。事実、これまでも、そうしてきた。やがては、自分が学会の全責任を担って、広宣流布の指揮を執らねばならないことも自覚していた。また、それが恩師の遺志であることも、よくわかっていた。
 しかし、三十二歳という若さで、会長に就任することには、ためらいがあった。
 彼は、思った。
 ″社会的にみても、私は、会長としてはあまりにも若い。七回忌を終えても、まだ三十六歳であり、それから会長を務めても、決して、遅くはないはずだ。
 また、無実の罪ではあるが、大阪の事件で、裁判中の身だ。もし、有罪となれば、宗教法人・創価学会の代表役員である会長は辞めなければならない。そうなれば、大事な学会に、取り返しのつかない傷をつけることになってしまう。
 そのうえ、ここまで生きてこられたのが不思議なほど病弱である。しかも、その体を酷使し抜いてきた。そんな体の自分が、大任を全うできるのだろうか……″
 伸一は、そう考えると、どうしても躊躇が先に立つのであった。
 ″できることなら、せめて七回忌までは、余裕ある人生の闘争をしたい。誰か、疲れ果てた私に代わり、指揮を執る人はいないのか……″
 だが、自分のほかに、頼むべき人物がいないことは、彼自身が痛感してきたことであった。伸一の苦悩は深かった。もはや、彼には、悩みを語るべき師もいなかった。
 彼は、発熱のなかで、自分と戦うように、悶々と考え続けた。ひとり、苦悩する伸一の姿を、妻の峯子は、胸を痛めながら、静かに見守っていた。
8  四月十一日には、山本伸一も出席して、理事会が開催された。
 理事たちは、こぞって伸一に会長就任を懇請した。皆の熱意はよくわかったが、彼は承諾しかねた。しかし、理事たちも真剣であった。決して引き下がろうとはしなかった。
 「会長は、山本先生以外にあり得ません。このままでは、同志がかわいそうです。先生、お願いします」
 皆、懸命に、彼を説き伏せようとした。話は、どこまでいっても平行線をたどった。伸一は、自分が、わがままを言っているようで、心苦しくもあった。
 彼は、最後に言った。
 「重大なことなので、一晩、よく考えさせてくだい」
 そう言う以外になかった。
 彼は、一晩、熟慮を重ねたが、会長就任を七回忌まで延ばしてほしいという思いは、変わらなかった。
 ″私は、立つべき時には立つ。しかし、会長の大任を果たすために、今しばらく、準備の時間が必要なのだ″
 翌十二日、理事の関久男と原山幸一に回答を伝えた。伸一は、自分の心境を率直に語り、辞退を申し入れたのである。しかし、関と原山は納得しなかった。このままの状態では、広宣流布の伸展は望めないことを、盛んに訴えた。
 それでも、固辞する伸一に関は言った。
 「山本先生のご返事は、小西理事長にお伝えします。しかし、皆は承服しないと思ってください」
 その日も、理事会がもたれた。伸一が、再度、固辞したことが伝えられたが、確かに誰も承服はしなかった。
 「ここであきらめるわけには、絶対にいきません。さらに、勇気を奮い起こして、もっと強く、会長就任をお願いする以外にないのよ」
 清原かつが、勢い込んで理事たちに訴えた。
 それを受けて、原山が、一同を見回しながら言った。
 「私も、そう思う。山本先生が会長を引き受けてくださらないのは、私たちの誠意と熱意が足りないからです。私たちが、必死になってお願いすれば、山本先生は、きっと会長を引き受けてくださるはずです」
 理事たちは、さらに、懇請を重ねることを決議した。
 翌十三日、理事室を代表して、理事長の小西武雄と原山がやって来た。彼らは、必死だった。是が非でも、伸一の承諾を得るつもりであった。
 「先生、今日は、ご了解いただくまで、帰らないつもりでおります」
 小西は、皆がどれほど、伸一の会長就任を望んでいるかを、切々と語った。懇請は、実に四時間半に及んだ。伸一には、理事たちの困惑が手に取るようにわかったが、決断しかねた。しかし、粘り強い懇請と説得に、やむなく言った
 「それでは、もう一晩だけ、考える時間をください」
 彼は、今、避けがたき宿命の嵐が、胸中に吹き荒れるのを感じていた。使命の怒濤が、逆巻き、うねるのを覚えた。あたかも、見えない宿習の太き綱で、わが命が、強く、厳しく、締め上げられていくような思いがした。
 ″幾度、断っても、所詮は、断りきれない定めなのか。戸田先生! 伸一には、もはや、わずかな猶予も、許されないのでしょうか……″
 彼は、問い続けた。御仏意と感じながらも、会長に就任することを思うと、言語に絶する緊張を覚えた。
 ″こんなに弱い体で、本当に戦えるのか。……いや、御本尊の御力は無量無辺だ。ただただ、御本尊に祈り抜き、命ある限り指揮を執るしかないのか″
9  四月十四日の朝が明けた。
 家を出て、本部に向かう伸一の足取りは重たかった。
 本部の応接室で、理事長の小西武雄、理事の原山幸一、関久男、清原かつと話し合った。
 小西は、懇々と、会長就任を願う、皆の一途な思いを訴えた。その言葉には、有無を言わせぬ気迫があった。
 「戸田先生は、会長就任を避けていた間に、誤った宗教がはびこってしまったと、深く反省しておられましたが、山本先生が辞退されている限り、広宣流布は遅れてしまいます。それでよろしいのでしようか!」
 伸一は、答えに窮した。万事休すであった。
 「戸田先生も、あなたを第三代会長にと思い、心に誓って、訓練されてきたことは、あなたも、よくご存じのはずです。私たちも、戸田先生の遺言として知っております。会長推戴は、広宣流布を願っての全幹部の要請です。お引き受けください」
 もはや、承諾せざるを得なかった。
 「それほどの皆さんのお話なら……」
 こう言いかけた瞬間、小西の目が輝いた。
 「よろしいのですね!ありがとうございます。これで学会も、大飛躍を遂げることができます。同志も喜びます」
 小西は、満面に笑みをたたえて、深々と頭を下げた。
 時計の針は、午前十時十分を指していた。
 ″やむを得ぬ。やむを得ざるか! 戸田先生に、直弟子として育てられた私だ。訓練に訓練されてきた私だ。何を恐れるものがあろう。先生のご恩に報いる時が、遂に来たのだ。青年らしく、嵐に向かい、堂々と前進するのみだ!″
 若き獅子は立った。遂に、伸一は、広宣流布の陣頭に躍り出ることになったのである。
 理事の一人が、急いで部屋を出ていった。
 歓声があがった。理事たちも、職員も、小躍りして手を取り合い、喜び合っていた。
 小西は、伸一の手を握り締めた。その目は、涙に潤んでいた。
10  四月十九日の夜、学会本部で緊急の全国代表幹部会が開催された。この席で、伸一の第三代会長推戴が、正式に発表されたのである。雷鳴のような拍手と歓声が、本部の広間に轟いた。歓喜の波に、本部は戦艦のように揺れた。
 師匠・戸田城聖から、直弟子・山本伸一へ、今、広宣流布のバトンは、名実ともに受け継がれようとしていた。
 伸一は思った。
 ″これが、私の久遠の使命なのだ。そのための青春であり、人生であったのだ″
 彼は、一九四七年(昭和二十二年)、十九歳の夏、仏法に巡り合い、戸田城聖の門下となった日からの、懐かしい来し方を思い起こした。
 戸田と共に生涯を広宣流布に捧げようと、四九年(同二十四年)一月、戸田の経営する日本正学館に少年雑誌の編集者として勤務したあの日……。
 しかし、程なく戸田の事業は暗礁に乗り上げ、雑誌も廃刊となり、新しく手がけた事業も難航を極めた。給料も遅配が続いた。夜学に通うことも、断念せざるを得なかった。
 社員であった同志も、一人、また一人と、恨み言を残して戸田のもとを去り、怒濤に身をさらすがごとき、伸一の苦闘が始まったのである。
 戸田は、自分の事業の失敗によって、学会に迷惑をかけてはならぬとの思いから、理事長辞任を発表した。それは、ちょうど伸一の入会満三年の記念日であった。
 そのなかで、伸一は誓った。
 「未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、この師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」と。
 伸一は、必死に、戸田を守り、支え、仕えた。胸を病む彼は、熱にさいなまれ、時に血さえ吐きながらも、走り抜いた。
 彼は、死を覚悟していたのである。戸田に一身を棒げ、師と共に、偉大なる広宣流布の法戦を進め、戸田が生きているうちに、広宣流布に散りゆこうと、心に決めていた。そうしなければ、後世に、まことの弟子の模範を残すことも、現代における真実の大聖人門下の鑑をつくることも、できないと考えていたのである。
 伸一の悲壮なまでの心を見抜いて、戸田は言った。
 「おまえは、死のうとしている。俺に、命をくれようとしている。それは困る。おまえは、生き抜け。断じて生き抜け! 俺の命と交換するんだ」
 伸一は、三十二歳の今日まで生き長らえ、これから、会長として広宣流布の指揮を執っていく使命を思うと、恩師が自分に命を授け与えてくれたことが、実感されてならなかった。
 ″私を、鍛え、磨き抜いてくださった先生! 信心という最高の宝を与えてくださった先生! 広宣流布という最大の使命を教えてくださった先生! そして、命さえも分け与えてくださった先生!″
 彼は、師のありがたさを思うと、込み上げる感涙を抑えることができなかった。
 ″私の人生は決まった。戸田先生の大恩に報い、先生のご遺志である広宣流布に一身をなげうとう。先生の子どもである同志を、寸りに守っていこう。わが命の燃え尽きる日まで!″
 伸一は、深く心に誓うのであった。
 彼は、戸田の弟子として生きた喜びと誇りをかみしめていた。
 師弟の道――それこそが、彼の歩んだ青春の栄光の大道であった。
 師弟という言葉に、何か時代錯誤的な、封建時代の遺物のような印象をいだく人も少なくない。しかし、いかなる道を極めるにも、師が必要である。ましてや、仏法という生命の大法を会得していくためには、それを感得し、自らを触発してくれる師の存在が不可欠となる。人間を育むものは、人間以外にない。
 古来、仏法は、師弟の道とともにあった。覚者である釈尊を自ら師と定め、随順し、己心の法を聴聞するところから、仏道修行は始まったといえよう。
 いわば、仏法の師弟とは、社会的な制度や契約とは異なり、どこまでも一個の人間の自発的な意志に基づく、求道の発露といってよい。
 利害でも打算でもなく、人間の真実の道を探求しようとする、最も純粋な魂の結合であるがゆえに、この師弟の鮮は、金剛不壊の強さをもつのである。
 伸一が、戸田を師と仰ぎ、随順したのも、戸田に請われてのことでもなければ、人に言われたからでもない。自ら誓願してのことであった。彼が、戸田の弟子となることを心に誓ったのは、戸田城聖以外には、日蓮大聖人の仏法を体現した、真実の広宣流布の指導者はいないとの大確信からであった。
 創価学会の原点は、初代会長・牧口常三郎の殉教と、その弟子である戸田の獄中の悟達にこそある。
 牧口は、総本山が戦時中、軍部政府の弾圧を恐れて、謗法厳誠の御遺誠をも破って神札を祭るにいたった時、正法正義を守り抜かんと、決然と立ち上がった。
 そして、御本仏・日蓮大聖人の仰せのままに、国家への諌暁を叫び、戦い、捕らえられ、獄中に逝いた。まさに、牧口は、法華経を身で読み、如来の行を行じたのである。
 この殉教こそ、死身弘法の証であり、日蓮大聖人の御精神の継承にほかならない。五濁の闇夜に滅せんとした正法の命脈は、ここに保たれ、学会は、大聖人に直結し、信心の血脈を受け継いだのである。
 その牧口を師と定め、随順した戸田は、共に牢獄につながれた。彼の胸には、凡愚の身にして法に命を賭し、法華経を身で読める歓喜が脈打っていた。
 戸田は、この獄中で、唱題の末に、「仏」とは「生命」であることを悟った。この時、難解な仏法の法理は、万人に人間革命の方途を開く生命の哲理として、現代に蘇ったのである。
 さらに、彼は、唱題のなかで不可思議な境地を会得していく。大聖人が地涌千界の上首として口決相承を受けられた、法華経の虚空会に連なり、金色燦然たる御本尊に向かって合掌している自分を感得したのであった。
 戸田は、込み上げる歓喜と法悦のなかで、自分は、師匠・牧口常三郎と共に、日蓮大聖人の末弟として、末法弘通の付嘱を受けた、地涌の菩薩であることを覚知した。
 地涌の菩薩の使命は、広宣流布にある。彼は、この時、この世に生を受けた自らの久遠の使命を、深く自覚することができた。
 ″これで俺の一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、俺は生涯を終わるのだ!″
 これこそが、戸田の獄中の悟達の結論であり、彼の大業の原動力であった。
 さらに、この時、「御義口伝」の「霊山一会儼然未散(霊山の一会は厳然として未だ散らず)」の御文を、生命の実感として拝することができた。彼は、師に随順することによって、大難に遭い、獄中にあって悟達を得たことを思うと、不思議な感慨を覚えた。
 そして、牧口との師弟の絆もまた、法華経化城喩品の「在在諸仏土常与師倶生(在在の諸仏の土に常に師と倶に生ず)」(法華経三一七ページ)の文のままに、久遠の昔より、永遠であることを感得したのである。
 しかし、ちょうどそのころ、師の牧口は、秋霜の獄舎で息を引き取ったのであった。
 戸田は、恩師の三回忌法要で、牧口の遺影に向かい、感涙のなかで、鳴咽をこらえながら語っている。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れて言ってくださいました。そのおかげで『在在諸仏常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」
 師の牧口は、獄中に散り、死身弘法の大精神をとどめた。その精神を受け継いだ弟子の戸田は、生きて獄門を出て、広宣流布に一人立った。
 この生死を貫く師弟の不二の共戦のなかに、創価の精神はある。牧口と戸田とを不二ならしめたもの――それは、根源の師・日蓮大聖人の御遺命である広宣流布に殉じゆく強き信心の一念であった。
 山本伸一は、戸田という師なくしては、広宣流布もなければ、民衆の幸福も、世界の平和の実現もあり得ないことを、命に感じていた。事実、日蓮大聖人の御精神は、ただ一人、牧口の弟子・戸田城聖に受け継がれ、広宣流布の未来図は、彼の一念のなかに収められていた。
 仏といっても、決して架空の存在ではない。衆生を離れては、仏はあり得ない。法を弘める人こそが仏使ぶっしであり、その人を守るなかにこそ、仏法の厳護はある。
 それゆえに伸一は、戸田の手駒となり、徹して師を守り抜いてきた。その億劫の辛労を尽くしての精進のなかで、彼は、自らの使命と力とを開花させていった。そして、戸田の精神を体得し、師の境地に迫っていったのである。
 戸田城聖は、無名の民衆に地涌の使命を自覚せしめ、七十五万世帯の達成をもって、六万恒河沙の地涌の菩薩の出現を、現実のものとしゆく原理を示した。それは、法華経の予言の実現であり、日蓮大聖人の御精神の継承の証明といってよい。
 山本伸一が、今、その師の後を受け、創価学会の会長として、なすべき戦いもまた、この地涌の義を世界に実現することにあった。
 一人ひとりの胸中に打ち立てられた地涌の使命の自覚――それは、自身の存在に最も深く根源的な意味を与え、価値を創造し、悲哀の宿命をも光輝満つ使命へと転じ、わが生命を変えゆく人間革命の回転軸にほかならない。
 そして、その使命を果たしゆく時、一人の人間における偉大な人間革命がなされ、やがて、一国の宿命の転換をも可能にするのである。
 伸一の脳裏に、愛する同志の顔が、次々と浮かんでは消えていった。皆、不思議なる使命をもって、宇宙のいずこからともなく集い来った地涌の仏子であり、人間革命の大ドラマを演じゆくヒーローであり、ヒロインたちだ。
 ″この同志と共に、新しき広宣流布の幕を開こう!″
 彼は、愛する会員たちが、一人ももれなく、広宣流布の使命を果たし、人生の花園に幸の大輪を咲かせゆくことを祈り念じて、新しき門出の日を待った。
11  その日は、夜来の雨も上がり、雲一つない、さわやかな五月晴れであった。
 燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、街路樹の新緑の若葉が、鮮やかに映えていた。
 一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山本伸一の第三代会長就任式となる春季総会が、東京・両国の日大講堂で開催された。
 正午、開会が宣せられた。学会歌の勇壮な調べが響き渡り、入場式が始まった。二百三本の男女青年部の旗、そして、学会本部旗に続いて、新会長の山本伸一が場内に姿を現した。
 会場を埋め尽くした同志の視線が、一斉に伸一に注がれた。彼は、壇上の真上に掲げられた戸田城聖の遺影を仰いだ。遺影の左右には、戸田の和歌が墨痕鮮やかに記されていた。
 伸一の目は、右側に掲げられた、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」の歌をとらえた。戸田が会長に就任した翌年の正月、世界広布への思いを託して詠んだ、懐かしい和歌である。
 彼は、思師の遺影に誓っていた。
 ″先生! 伸一は、今、先生の後を継いで、今世の一生の大法戦を開始いたしました。生死を超えて、月氏の果てまで、世界広布の旅路を征きます。ご照覧ください″
 彼には、恩師の顔が、自分に微笑みかけているように思えた。遺影を見る伸一の目が、心なしか潤んだ。彼は、込み上げる感慨を抑えて、壇上に向かって歩みを運んだ。
 伸一が壇上に着席すると、理事の関久男の、開会の辞が始まった。関が、新会長の推戴に触れると、歓呼と拍手が湧き起こり、大波のようなどよめきが広がった。
 森川一正の経過報告、小西武雄理事長の辞任のあいさつ、原山幸一の推戴の言葉のあと、いよいよ山本伸一が、会長就任のあいさつに立った。
 喜びは爆発し、拍手の嵐が講堂の大鉄傘を揺るがした。人びとは、この日、この時を待ちわびてきた。今、友の眼前には、待望し続けてきた新会長・山本伸一が立っている。
 ″さあ、広宣流布の大前進が始まる!″
 人びとは、高鳴る胸の鼓動を感じながら、伸一の言葉に耳をそばだてた。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
 力強い、堂々たる声の響きであった。今、新しき広布の繋明を告げる、大師子吼が放たれた。共戦を誓う同志の拍手が歓喜の潮騒となって、堂内にこだました。幸と平和の大海原へ、怒濤の前進が開始されたのだ。
 伸一の胸には、死身弘法への決意が、熱い血潮となってほとばしり、五体にうねった。まさに「開目抄」に仰せの、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との御金言を、深く生命に刻んだのだ。
 激闘の幕が切って落とされたのだ。
12  大歓喜のなかに総会は幕を閉じ、引き続き行われた祝賀の集いも終わろうとしていた時のことであった。
 伸一が退場しようとすると、「ワーッ」という大歓声をあげながら、青年たちが雪崩を打ったように、彼をめざして駆け寄っていった。
 皆の手が伸一を担ぎ上げ、彼の体が宙に舞った。胴上げが始まったのである。新会長の誕生を待ちに待った、青年の喜びが炸裂したのだ。
 「会長・山本先生、万歳!」
 胴上げの輪の傍らで、誰かが跳び上がるように両手を振り上げ、声を限りに叫んだ。
 「万歳! 万歳!……」
 唱和する声が、津波のように広がり、豪雨を思わせる拍手が轟き、ドームにこだました。どの顔も紅潮し、感涙に頬を濡らしていた。
 伸一の体は、高窓から差し込む光を浴びて、若人の腕の渦潮のなかで、鯱のように勇壮に躍り跳ねた。それは、栄光と嵐の、世紀の大航海に向かう丈夫の、旅立ちの乱舞であった。
 伸一の胸中は、さわやかに晴れ渡り、一点の雲さえなかった。
 満々たる闘志をたたえた使命の太陽が、黄金の光を放ち、彼の心の大空いっぱいに、まばゆいばかりに燃え輝いていた。
  
  わが恩師戸田城聖先生に捧ぐ
              弟子池田大作

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