Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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寂光  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
2  伸一の脳裏に、「星落秋風五丈原」の歌が浮かんだ。
  ♪成否を誰れかあげつらふ
   一死尽くしし身の誠
   仰げば銀河影冴えて
   無数の星斗光濃し
   照すやいなや英雄の
   苦心孤忠の胸ひとつ
   其壮烈に感じては
   鬼神もかむ秋の風
 そこに歌われた諸葛孔明と、眼前の戸田とが重なり、伸一は胸を突かれた。
 広宣流布に一身を捧げ、休む暇さえなく、走りに走り、壮絶な闘争を展開してきた恩師・戸田城聖……。広宣流布を誓願してきた彼には、安穏の日々などなかったといってよい。その広宣流布は、今、始まったばかりというのに、戸田の命はまさに燃え尽きようとしている。
 伸一は、師の胸中を思うと、目頭が熱くなった。
 ″先生は、弟子に後事を託すも、私をはじめ、皆、まだまだ未熟だ。力をつけねば、強くならねば……。そして、先生にご安心いただくのだ″
 伸一は、心で戸田の長寿を念じながら、自らに言い聞かせるのであった。
 このころから、戸田城聖が布団の上に起き上がる姿を目にすることは、ほとんどなくなっていった。しかし、彼は、伸一を、毎日、枕元に呼んでは、語り合う日が続いた。
 ある朝のことである。伸一が戸田の部屋に行くと、戸田は床の中で、にこやかな表情を浮かべて話しかけてきた。
 「伸一、昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ」
 伸一は枕元に座り、笑顔を返した。
 「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」
 「先生……」
 伸一には、戸田の思いが痛いほどわかった。胸に熱いものが込み上げてきてならなかった。
 「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ。人種も、民族も異なる。自由主義の国も、社会主義の国もある。国によって宗教もさまざまだ。また、布教を認めない国もある。そうした国々に、どうやって妙法を弘めていくか、今からよく考えておくことだ。人類の幸福と平和の実現こそ、仏法の本義なんだからな」
 戸田は、まじまじと伸一の顔を見た。そして、布団のなかから手を出した。伸一は、無言でその手を握った。
 「伸一、生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
 戸田は、後を託す愛弟子が、体が弱いことが心配でならなかったのであろう。
 伸一は、戸田の手を握りしめ、何度も頷きながら、唇をかみしめた。彼は、師匠の温かい情愛と自己の使命の重大さが、痛感されてならなかった。
 三月下旬になると、総登山は三分の二を終えたが、伸一を中心に、運営本部は無事故を期して、連日、フル回転していた。
 伸一は、役員の青年たちが理境坊に集ってくると、決まって、学会歌を合唱しようと言うのであった。
 ある時、彼は一高寮歌「鳴呼玉杯に花うけて」を歌おうと提案し、自ら指揮を執った。
 歌い終わると、伸一は言った。
 「もう一度!」
 皆は、前よりも元気に、力いっぱい歌った。しかし、伸一は、さらに「もう一度!」と言うのである。青年たちは、なぜ、何度も合唱するのかわからなかった。
 みんなの気持ちを察し、伸一は、静かに言った。
 「二階では戸田先生が、お休みです。『広宣流布は私たちがやります』との、力強い歌声をお聞かせできれば、先生にご安心していただける。さあ、弟子としての誓いを込めて歌おうじゃないか!」
 歌は、何度も、何度も、繰り返された。青年たちは、師を思う伸一の心を知り、感激に胸を熱くしながら歌うのであった。
3  三月二十二日、戸田城聖は、緊急に理事室、参謀室を招集し、連合会議を聞いた。
 布団の上に身を起こした戸田を囲むように、幹部が座っていた。皆、戸田が何を言うのか、緊張しながら言葉を待った。彼は、一人ひとりに視線を投げかけながら、鋭い口調で語り始めた。
 「学会の組織は、この戸田の命だ。どこまでも広宣流布のための、清らかな信心の組織でなければならない。不純な心によって、尊い学会が汚されてなるものか!」
 首脳幹部たちは、戸田が何を言おうとしているのか、すぐには理解しかね、次の言葉を聴きもらすまいと耳をそばだてた。
 「君たちも気づいていると思うが、幹部で、その立場を利用して、保険の勧誘や商品の売り込みを行っている者がいる。それを放置して、おけば、学会は完全に、むしばまれてしまうことになるだろう。これは、由々しき問題だ。今のうちに大掃除をしておかなければならん。師子身中の虫を叩き出すのだ!」
 戸田は、組織を自己のために利用した幹部を、解任するように指示したのである。
 「学会も、これだけ大きくなると、見方によっては、いわば一つの大市場に映るだろう。今後も、学会の組織を、私利私欲のために利用しようとする者が現れよう。そのためにも、今のうちに断固たる処分を行い、そうした芽を摘んでおくことが大事なんだ。各支部ともよく実態を調べて、順次、解任に踏み切りなさい」
 「わかりました。そういたします」
 小西理事長が答えると、戸田は重ねて言った。
 「もう一つ、これまで、各役職の待遇制度があったが、これも廃止しよう。内実のともなわぬ役職など、形式であって必要はない。権威主義に陥るだけになってしまう。広宣流布のために戦って、実績をあげるからこそ、幹部であり、また、会員も幹部として遇するのだ。
 戦いなき者を幹部として待遇していれば、組織は動脈硬化を起こして、死んでしまう。待遇という役職を外されたぐらいで戦えないような者は、学会には必要ない。一兵卒、一会員になっても、広宣流布のために戦ってこそ、戸田の弟子ではないか。みんな、異論はないな」
 戸田は、布団の上から一同の顔を見回した。首脳幹部たちは、戸田の断固たる決意を感じ取り、異を唱える者はいなかった。
 この時、戸田のとった措置は、一点の濁りもない、清らかで、躍動した信心の血液を、学会の組織に永遠に流れ通わすための、未来への布石であったというよう。
 この理事室と参謀室の連合会議の決定にしたがい、第一回分の解任人事が三月二十五日に発表され、二十八日付の聖教新聞に掲載された。
 戸田城聖の衰弱は、日に日に激しくなっていった。看護にあたっていた婦人部の幹部は、彼の容体の変化に胸を痛め、医師の診察を仰ぐことにした。
 三月二十四日、東京から木田医師がやってきた。戸田は、医師を呼んだことを知ると、怒りだした。
 しかし、木田の顔を見ると、黙って身を委ねた。
 一通り診察が終わると、戸田は、毅然として言った。
 「では、結論を聞こうか」
 医師は、あまりの平静さに驚いて、戸田を見た。
 「ご病気はすべて治っております。ただ、お体が著しく衰弱しています。重湯でも、スープでも結構ですから、しっかりお召し上がりになってください。力がつきます」
 戸田は、思った。
 ″どこも悪くないということは、病魔は完全に克服したことになる。すると、あとは私自身の使命の問題だ。しかし、私は、念願の七十五万世帯を達成し、大講堂も寄進申し上げた。総登山の盛儀も、あと一週間で終わろうとしている。今、一人の人間として果たすべき使命を、ことごとく果たし終えたといえる……″
 木田医師が帰っていくと、戸田は満ち足りた思いで、枕の上から、窓外に広がる春の空を見た。彼には、太陽の光をいっぱいに吸い取り、青く澄み渡った空が、ことのほか美しく、まばゆく輝いて見えた。
 空を眺めながら、戸田は、大宇宙に吸い込まれていくような思いがした。彼には、今、死というものが極めて身近にあった。永遠に身を委ねつつある自己を感じていた。そして、生死が不二であることを、心から実感することができた。彼は、死を凝視しながら、なんの恐れもなかった。
 しばらくすると、秘書部長の泉田ためがやって来た。
 「先生、何か、お召し上がりいただけませんでしょうか」
 「いや、いらぬ。それより、ここに座りなさい」
 戸田に言われて、泉田は、枕元に正座した。
 「私が死んだらな……」
 戸田が、こう言いかけると、泉田は目を潤ませた。
 「お亡くなりになるなんて……先生、そんなこと、おっしゃらないでください」
 「まぁ、聞きなさい。人間、誰でも、いつか死ぬものだ。私は死んだら、大聖人のところへ帰ってごあいさつをする。そこで、叱られるか褒められるかはわからんが、七日たてば、また戻ってくる。
 もっとも、宇宙には地球のような星がたくさんあるから、大聖人に、どこかの星で広宣流布せよ、と言われれば、そこに生まれることになるだろう。
 ともかく七日間は、私の遺骸は焼かずに、そのままにしておきなさい。みんな、私の死相をよく見ておくのだ。本当の成仏の相とはどういうものか、教えておきたいのだよ」
 泉田ためは、涙で赤らんだ目を、しばたたきながら頷いた。この言葉も、戸田の遺言となった。
 参道の枝垂桜の蕾も、ようやく膨らみ、日に日に春めいてきた。
 戸田は理境坊の二階で床に臥し、うつらうつらしながら時を過ごすことが多くなっていた。それでも目覚めている時には、もたらされる報告に耳を傾け、指示を与えながら、残り少なくなった総登山の日々を、一日、また一日と、過ごしていった。
 三月も末に迫った日のことであった。総登山の整理役員として登山していた青年が、早朝、六壺の廊下を通りかかると、一人の僧侶が、所化小僧たちを怒鳴り散らす光景に出くわした。彼らの多くは、小・中学生であり、見るからにあどけない少年もいた。
 「勤行のやり方がなってねえんだよ。いいか、だいたい、お前らはな……」
 青年は、いたいけな少年たちを怒鳴りつける僧侶を見て、あっけにとられて立ち止まった。
 この僧侶は、所化頭であった。酒を飲んでいると見え、顔は異様に赤かった。彼は仁王立ちになって、所化小僧を睨みすえている。少年たちは、怯えた表情で、哀願するような目をしながら、体を硬くして正座していた。
 所化頭は、さんざん罵声を浴びせると、一抱えほどもある大きな鈴を手にし、一人の所化小僧の頭に被せた。そして、その上から、鈴棒を力まかせに振り下ろし、打ちすえたのである。
 目を覆いたくなるような、凄惨な光景であった。所化頭は、口もとに笑いさえ浮かべていた。整理役員の青年は、呆然として立ち尽くしていた。
 やがて、所化頭は青年の姿に気づくと、戸を荒らげて言った。
 「お前は、なんだ!」
 「学会の青年部です」
 「なにっ、学会の青年部は生意気だ。さっさと行け!」
 青年は、驚いて立ち去り、理境坊の運営本部に行くと、山本伸一に、その模様を伝えた。
 伸一は報告を聞くと、顔を曇らせて言った。
 「また、そんなことがあったのか……」
 実は、その前にも、清掃作業などのために、総本山に雇われていた特別作業班の青年部員から、同じような報告が寄せられていたのである。
 作業班の青年たちは、大坊に宿泊していたが、この所化頭が酒を飲み、すごい剣幕で所化小僧たちを罵倒する現場を目にした。
 「お前たちなど、身延の山に行ってしまえ!」
 日興上人が離山した身延へ行けなどという言葉を、日蓮正宗の僧侶が口にするなど、およそ考えられないことであった。それは得度した所化小僧たちにとっても、最大の侮辱にほかならない。青年たちは、自分の耳を疑った。そして、その時も、鈴を頭に被せて、鈴棒で打つという狂態を演じたのである。
 作業班の青年は、憤りに燃えて、その様子を、伸一に報告した。それから、まだ、数日しかたっていない。
 大講堂落慶の記念行事の期間中は、警備に万全を期すために、飲酒などすることのないよう、宗門とも話し合いが行われていた。それだけに、毎日、酒を飲み、所化小僧を虐待する、この僧侶に対し、青年たちの誰もが義憤を感じた。
 役員の青年の一人が、山本伸一に言った。
 「室長、それだけじゃありません。あの所化頭は、登山者がお小僧さんのために持ってきた各地の銘菓や果物に対して、『こんな余り物を』と吐き捨てるように言っているんです。十六日に、戸田先生を車駕にお乗せしたことについても、『総本山では乗り物は禁止されているのに、いい気になって、なんだ』と声高に罵っていました。もう、黙っているわけにはいきません」
 青年たちにしてみれば、この所化頭の振る舞いは、とても許すことのできない所業であった。
 伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。
 内事部にいた宗門の理事は、事情を聞くと、「それでは、彼を呼んで反省を促し、謝罪させましょう」と約束してくれた。
 しかし、所化頭は、自分の言動が問題にされていることを知ると、姿を隠してしまった。だが、近くの旅館の押し入れに隠れているところを、探しに行った僧侶に見つけられ、やむなく六壷にやって来た。そこには、学会の青年部の幹部も、二、三十人ほど出向いていた。
 所化頭は、酒の臭いをぷんぷんさせながら、ふてくされた表情をしていた。学会の青年たちは、日ごろの所化頭の言動をあげて、その真意を尋ねるとともに、反省を求めようとした。
 「あなたは、お小僧さんに、『身延の山へ行ってしまえ』と言ったり、暴力を振るったりしていますが、なぜ、あんなに酷いことを言ったり、したりするんですか」
 所化頭は、押し黙って青年たちを睨みつけるばかりで、全く反省している様子はなかった。同席していた僧侶も、困惑していた。
 間もなく、法主の日淳が、ここを通る時間であった。立ち会っていた僧侶は、心配をかけてはならないとの思いから、近くの河原に、場所を移して話し合おうと提案した。
 立ち会いの二人の僧侶と所化頭と共に、青年たちは、潤井川へ向かった。河原に下りると、青年たちは、また、さっきと同じ質問を発したが、所化頭は傲然として脱みつけ、そして、そっぽを向いた。その態度に腹を立て、厳しい口調で問う者もいた。
 「あなたは僧侶として、大事な記念行事のさなかに、毎日、酒など飲んで恥ずかしいとは思わないんですか。……ちゃんと、質問に答えなさい」
 伸一は、青年たちが怒りのあまり、口調が詰問調になるたびに、「まあ、待ちなさい」と、制止した。
 所化頭は、よほど酒を飲んでいたとみえ、青年部員の言うことさえ、理解できないでいるようだった。伸一は、僧侶の醜態を前にして、憤りを通り越して、むしろ、悲しさを覚えていた。
 戸田が宗門の興隆のために、外護の赤誠を貫いてきたことを嘲笑うかのように、僧侶の腐敗、堕落は、限りなく進行していたのである。
 青年の一人が言った。
 「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」
 立ち会いの二人の僧侶は、所化頭を川まで連れて行き、顔を洗わせた。所化頭が戻って来るのを待って、伸一は、諄々と諭すように語り始めた。
 「いいですか、このたびの大講堂の落成は、日蓮正宗の七百年の歴史に輝く、晴れの壮挙なのです。その慶祝登山のさなかに、僧侶が、朝から酒を飲んでいるようなことがあって、いいんですか。
 しかも、あなたはお小僧さんを不当にいじめている。鈴を被せて打つなどということは、修行でも、訓練でも、決してないはずです。暴力、暴言は、私どもとしても、見過ごすわけにはいきません。ぜひ、おやめください。
 学会員は、僧侶の皆さんを尊敬しようとしているし、お小僧さんも心から大切にしています。それだから、登山のたびに、お小僧さんたちに、ひもじい思いをさせてはならないと、苦しい生活費のなかから菓子や果物を買い、お届けしてきたんです。
 しかし、あなたは、それを『余り物』と言い、学会員を悪く言う。それでは、あまりにも、学会員を愚弄しているではありませんか。みんなの真心を踏みにじらないでいただきたいんです。
 また、あなたは日ごろから、戸田先生や学会の青年部員に反感をいだき、悪口を言っていると聞きましたが、そういうことも、おやめいただきたい。もし、ご意見や批判があるならば、お伺いしますので、私に言ってください……」
 伸一は忍耐強く、かんで含めるように所化頭の非をただした。真心を尽くしての説得であった。
 所化頭は、意固地になっていると見え、ふてくされた態度を取り続けていたが、次第にうなだれていった。
 最後に伸一は、「あなたのことは宗門に、お任せしますが、私たちの思いをわかってください」と言って、立ち上がった。その時、それまで押し黙っていた所化頭の、「すいません……」という声が、かすかに聞こえた。
 伸一をはじめ、青年たちは引き揚げていった。
4  総登山も、間もなく終わろうとしていた。
 三月二十九日の朝、山本伸一は、登山会の進行状況を報告するために、戸田城聖が寝ている、理境坊の二階に上がっていった。戸田は、布団の中で静かに目を開け、天井を見ながら、もの思いにふけっているようであった。
 「先生、ご気分はいかがでしょうか」
 伸一が枕元に正座すると、戸田は、顔だけ伸一の方に向けた。もはや、自分では寝返りも打てぬほど、彼は衰弱していたのである。
 「……大丈夫だ。どうだ……総登山の様子は」
 かすれた声で、とぎれと、ぎれに戸田が言った。
 「はい、すべて順調に進んでおります。総登山も、あと二日となりましたが、何も事故はございません。ご安心なさってください。首脳幹部も、だんだん登山して来ております」
 首脳幹部が集まって来ているのは、翌三十日の夕刻、日淳の招待による、総登山の慰労会に出席するためであった。
 「そうか……、何も問題はないか。青年たちは、皆、元気か……」
 戸田は、いとおしそうな目で尋ねた。
 「はい、皆、元気で頑張っております。問題といえば、あまりにも非道な僧侶がおりましたので、私どもで反省を促す意味から、抗議をいたしました」
 伸一は、あの所化頭の一件を戸田に伝えた。
 戸田は、軽く目を閉じて伸一の報告を聞いていたが、聞き終わると、さも残念そうな表情で語り始めた。
 「情けないことだな……。これは、小さな事のようだが、……宗門の腐敗、堕落という、実に大きな問題をはらんでいるのだ。なぜ、堕落が始まり、腐敗していくのか……。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを、忘れているからだ。この一点が狂えば、すべてが狂ってしまう。
 残念なことだが……令法久住を口にしながらも、多くの僧侶が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。……つまり、欲望の虜となり、畜生の心に堕してしまっている。
 だから……自分より弱い立場の所化小僧などは、鬱憤ばらしのオモチャとしか考えない……。また、学会員のことも、供養を運んでくる奴隷ぐらいにしか思わず、威張り散らす者もいる……」
 話すことが苦しいと見え、途中で、「ハァ、ハア」と、何度も喘いだ。
 「……戦時中も、宗門は、保身のために法を曲げ、大聖人の御遺命を破り、軍部政府に迎合した。そして、牧口先生と私が逮捕されるや、かかわりを恐れて、学会員の登山を停止したのだ。……私は、憤怒に血の涙をのむ思いだった」
 彼は、肩で大きく息をしながら、話を続けた。
 「……戦時中、大聖人の仏法は、外敵によってではなく、臆病で、姑息な、僧侶の保身によって滅ぼされようとした。……日亨上人も、日昇上人も、また、日淳猊下も、そのことで、本当に苦慮されてきた。……そのなかで、厳然と、大聖人の仏法の命脈を保ったのが、牧口先生であり、創価学会なのだ。……だから、大聖人の御精神は、本当の信仰は、学会にしかない。……宗門は、死身弘法を貫いた学会と、戦後、僧俗和合してきたからこそ、大聖人の仏法を継承できたのだ……。もし、学会から離れるならば……大聖人の正義を踏みにじった、謗法の宗でしかなくなってしまう。
 しかも……学会は、宗門が財政的基盤を失い、壊減の危機に瀕していたのを、信心の赤誠をもって、お助けしてきた。心ある僧侶は、それを感謝している。しかし……なかには、学会の大発展に嫉妬し、私に対して、反感をいだいている者もいる。……私が、信心の在り方を厳しく言うものだから、目の上のタンコブのように思っているんだ。
 でも、……私が生きているうちは、正面切って、とやかく言う者はおるまい。命がけで仏法を守ってきたのは、私しか、いないんだから……。だが、私がいなくなり、日淳猊下もお亡くなりになれば……あとは、何をするか、わかったものではないぞ」
 その言葉は、しばしば途絶えたが、ただならぬ気迫にあふれでいた。
 「……衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的な基盤が整い、金を持つようになれば、学会を切り捨てようとするにちがいない……。戦時中と同じように、宗門は、正法を滅亡させる元凶となり、天魔の住処にならないとも、限らないのだ……。しかし……、日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない」
 そして、戸田は、最後の力を振り絞るように叫んだ。
 「そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」
 それは、炎のような言葉であった。瞬間、戸田の目が燃え輝いた。これが、彼の最後の指導であり、愛弟子への遺言となったのである。伸一は、その言々句々を生命に焼き付けた。
 「先生のお言葉、決して、忘れはいたしません」
 伸一の言葉を聞くと、戸田は力尽きたかのように、静かに目を閉じた。しばらくすると、戸田の安かな寝息が聞こえてきた。
 伸一は、物音をたてぬように、そっと座を立った。
5  それからの戸田城聖は、ほとんど口をきくことはなかった。寝息をたてていることもあれば、夢と現の狭間に遊ぶように、薄く目を開けていることもあった。
 誰の目にも、戸田の容体の悪化は、明らかであった。
 間もなく、総登山も終わろうとしている。この先、いつまでも、戸田をこのままにしておくわけにはいかなかった。
 しかし、東京へ帰るといっても、この病状で、それが可能かどうかは疑問だった。首脳幹部は、どうしたものかと、思案に暮れていた。
 山本伸一は、「東京に行って医師に相談し、こちらに来て診察してもらったうえで、診断をもとに対応を決めるようにしては、どうでしょうか」と提案した。
 協議の末に、伸一の意見にしたがい、伸一と理事の泉田弘が東京に行き、医師に診察を依頼するとともに、戸田の家族とも相談してみようということになった。
 この伸一と泉田は、三月三十日の午前中に総本山を発ち、東京に向かった。年度末の日曜日とあって、列車は混雑しており、品川まで立ち通しでいなければならなかった。
 伸一は、総登山の運営の激務で疲労がたまり、疲れきっていた。うららかな陽気ではあったが、彼は胸苦しさを覚えた。だが、それは、決して疲労のためばかりではなかった。戸田城聖の悪化した容体が、彼の心を、いたく、さいなんでいたのである。
 伸一と泉田が、戸田の自宅に着いたのは、午後二時過ぎであった。
 二人は、戸田の妻の幾枝と、子息の喬一に会い、戸田の容体を伝え、帰京した場合、どこで療養するのかについて話し合った。
 幾枝は、既に覚倍していたのか、容体を聞いて、表情を曇らせはしたものの、狼狽することはなかった。戦時中、二年間にわたって、戸田の獄中生活に耐えてきた強さといえよう。
 幾枝は、きっぱりと言った。
 「家に帰らせてください。主人も、それがいちばん、落ち着けるはずです」
 前年の十一月から、この二月まで、戸田が自宅療養していたことからも、幾枝はそう考えたのであろう。
 しかし、喬一は異を唱え、入院を主張した。
 「いや、ぼくは入院させるべきだと思うな。家では十分な治療はできないんだから」
 伸一も、治療のことを思うと、入院に賛同せざるを得なかった。意見を求められた伸一は言った。
 「奥様のお気持ちもよくわかりますが、私も、この際、先生には入院していただいた方がよいと思います。病院でなければ、いざという時に、万全な手当てはできません。また、先生のご容体は、楽観を許しません。ひとまず入院ということにされてはいかがでしょうか」
 結局、幾枝も、喬一の意見にしたがい、入院させるということになった。
 伸一は、戸田を入院させるように、妻の幾枝に勧めはしたが、彼には、自責の念があった。戸田は何度も、「総登山が終わったら本部へ帰る」と語っていたからである。戸田に聞けば、「本部へ帰る」と言うにちがいなかった。
 広宣流布という大事業に、一身をなげうってきた戸田城聖にとって、その大事業の中枢である学会本部こそ、彼が魂魄をとどめるにふさわしい最後の場所であることは言うまでもない。
 伸一は、その戸田の意志を無視して、入院を決めたことが心苦しかった。師の意志のままに事を進めるのが、弟子の責務ではないかと思うと、途方もなく大きな過ちを犯してしまったようにも、感じられるのであった。
 伸一は、戸田の自宅からN大学病院に電話し、木田医師に事情を話した。
 木田は、直ちに入院の手配をするとともに、明日、総本山に行くことを快諾してくれた。伸一は、戸田が、ゆっくり療養できるように、よい病室を確保してほしいと伝えた。
 伸一が、久しぶりに自宅に戻ったのは、午後八時過ぎであった。彼は、心身ともに疲れ果てていた。しかし、床に就いても眠れ、なかった。戸田の病状が、心に焼き付いて離れないのである。伸一が、ようやく眠りについたのは、明け方近かった。
 この三十日、総本山では、総登山の終了を記念して、午後五時から大講堂五階の大会議室で、日淳の招待による学会の幹部への慰労会が行われた。宗門からは、日淳と共に宗務役員の僧侶たちが、学会からは、小西武雄理事長をはじめ、各理事や各部部長などが出席し、和やかな歓談のひとときとなった。
 席上、旦揮は、大講堂の落慶は、仏教史上、空前の壮挙であると語り、建立寄進した学会に対して、深く感謝の意を表した。そして、戸田に一首の和歌を贈った。
  わくら葉の かげに若芽の みゆるかな
    はるのひざしの めぐみにぞこそ
 日淳は、戸田の容体を、いたく心配していた。
 自己の掲げた大願のととごとくを果たし終えた戸田は、今は病床に臥す、いわば「わくら葉」であった。しかし、その戸田によって育まれた、山本伸一をはじめとする若き後継の青年たちが、見事にたくましく育ったことを、日淳は、この一カ月にわたる総登山を通して、強く実感していたにちがいない。それは、まさに、春来り、「わくら葉」の陰に顔をのぞかせる、みずみずしい「若芽」といえた。
 その歌には、はつらつと広宣流布の未来の大空に伸びゆく創価の青年たちへの、限りない期待と戸田への励ましが込められていた。
6  翌三十一日の朝、山本伸一は、再び戸田の家を訪ね、夫人と共に駿河台のN大学病院に向かった。
 木田医師は、病室を用意していてくれたが、それは、思いのほか古びて、いささか粗末な部屋であった。伸一の顔は曇った。
 「もう少し、よい病室はありませんでしょうか」
 木田医師は、申し訳なさそうに答えた。
 「それが、あいにく、すべてふさがっておりまして、ようやく、ここを確保したような次第なんです。別の病室が空いたら、すぐに移すようにしますから、応急的な措置としてご了承ください」
 「わかりました。治療の方は、どうか全力をあげて、最高、最善を尽くしてください」
 こう言うと、伸一は深々と頭を下げた。
 彼は、戸田を、この病室に迎えるのかと思うと情けなかった。やむなく女子部の幹部に電話で連絡を取り、病室をきれいに清掃し、花なども飾るように頼んだ。せめて、少しでも居心地をよくして、戸田を迎えたいと思ったからである。
 それから伸一は、総本山に向かった。
 夕刻、総本山に着くと、戸田の容体は、さらに悪化していた。看護にあたっていた幹部の話では、昨日から玄米茶しか口にせず、意識もはっきりしていない様子だというのである。
 木田医師は、すぐに戸田を診察した。戸田は、薄く目を開けて、医師のなすがままに任せていた。
 木田は、慎重に診察していった。さまざまな検査もしてみた。戸田の衰弱は極限に達しているといってよかった。木田は、東京へ移送すべきかどうか迷った。
 移送すれば、容体からいって、かなりの危険がともなうことを覚悟しなければならなかった。さりとて、このまま、ここにいて、極度な体の衰弱が回復するとは思えなかった。
 それに、容体がさらに悪化した場合、病院ならば対処の方法もあるが、ここでは、とうてい十分な手当てができないことは明らかである。
 木田医師は、一度おさめた聴診器を再び取り出し、また診察をした。心臓の鼓動は、まだしっかりしている。尿や、その他の検査の結果も、著しく悪くは出ていない。要は体力の問題である。
 その体力が、ことに急速に衰えてきたのは、この数日であることを思うと、今のうちに、一刻も早く移送すべきではないかと、彼は思った。
 木田医師は、熟慮の末に移送の決断を下した。そして、戸田を寝かせたままの状態で、東京まで移送することができるように準備を整えてほしいと、山本伸一に告げた。
 伸一は、直ちに手配を開始した。戸田を寝かせたまま運べるように、大型の乗用車の確保に手を尽くした。それから、東京までの寝台車の切符を手配した。
 三月三十一日から四月一日に至る年度替わりの日の夜行列車とあって、どれも満席で、なかなか切符は入手できなかった。しかし、八方、手を尽くした末に、ようやく急行「出雲」の寝台車の切符を手に入れることができた。
 この列車は、午前十一時十分に始発駅を発っており、大阪を経て、総本山にいちばん近い停車駅の沼津には、翌日の午前四時十五分に到着する。出発は、五分後の四時二十分である。
 伸一は、関西の青年に、その寝台車に乗って沼津まで来るように頼んだ。列車内への円滑な移送と、万が一にも寝台が確保されていないような事態を避けるための、周到な配慮であった。
 総本山は、久方ぶりに静寂な夜を迎えていた。この日の昼には、総登山の最後の支部も下山し、参道を歩く人影は途絶えていた。
 理境坊の運営本部に残った首脳幹部の表情は、皆、憂いを帯び、言葉を交わす人は少なかった。伸一は、一切の手配を終えると、出発まで階下で待機していた。
 東京との聞を往復し、休息を取る暇さえなかった彼の顔には、さすがに深い疲労の色がにじんでいた。青年部の幹部が、伸一の体を気遣い、少しでも横になるように勧めたが、彼は微笑を浮かべて言うのだった。
 「ありがとう。ぼくのことなら大丈夫だ。ここで、先生をお守りしようと思う」
 夜は、人びとの憂色をつつんで、静かに、ゆっくりと更けていった。
 伸一は、戸田と共に歩んできた日々の、懐かしい黄金の思い出をたどりながら、あの「星落秋風五丈原」の歌を思い起こした。
  ♪………… …………
   今落葉の雨の音
   大樹ひとたび倒れなば
   漢室の運はたいかに
   丞相病あつかりき
 ″今、先生の病は篤く、広宣流布の大樹は倒れようとしている。先生を失ってしまったら、学会は、これからどうなるのか……″
 そう思うと、伸一の胸は、張り裂けんばかりに痛んだ。彼は、苦衷のなかに自己の使命の重大さを感じながら、頑張らねばと、自らに言い聞かすのであった。
 伸一は、戸田を無事に東京に移すことができるように、心で祈りながら、まんじりともしないで、階下で出発の時間が来るのを待った。二階からは、物音ひとつ聞こえてこない。看護している人たちの話では、戸田は、医師の診察のあとは、ずっと寝入っているという。時のたつのが、もどかしいほど長く感じられた。
7  四月一日――。
 時刻は午前一時になった。客殿に明々と灯がともり、丑寅勤行が始まった。車は、いつでも出発できるように、理境坊の裏に待機していた。客殿から流れる丑寅勤行の声を聞きながら、伸一は移送の支度に入った。
 午前二時、伸一は、二階に上がった。戸田城聖は、布団の中で静かに目を開けていたが、意識は朦朧としているようであった。
 「先生、出発いたします。私が、お供いたします」
 声をかけると、戸田は、静かに頷いた。
 伸一は、布団に戸田を横たえたまま、津田良一らの青年部の幹部と四人がかりで布団を持ち上げた。
 「…………メガネ、メガネ」
 戸田が、つぶやいた。伸一は、すぐにメガネを渡したいと思ったが、両手がふさがっているので、メガネを取ることができなかった。彼には、それが心残りだった。
 戸田を理境坊の二階から降ろしたところで、担架に乗せて、外に待機していた車に運んだ。戸田を乗せた車には、医師らが同乗した。伸一は、小西武雄理事長と共に二台目の車に乗った。その後ろの車には、幾人かの幹部が乗り込んだ。午前二時二十分、車は発車した。
 ヘッドライトを連ねて杉の林を抜け、静寂な夜道をゆっくりと走っていった。開き始めた桜の花が、夜の春霞のなかに浮かんでいた
 この日、日淳は、丑寅勤行早めに終え、戸田を送ろうとしたが、勤行が終わった時には、既に、戸田は出発していた。
 うっすらと、月が夜空にかかり、ほのかに富士の山影を照らし出していた。
 戸田の車は、静かに進んでいったが、しばらく行くと停車した。後ろの車に乗っていた伸一は、降りて駆け寄っていった。
 「どうしましたか?」
 中をのぞくと、戸田は、ぐったりとしていた。医師は聴診器を当て、それから注射を打った。
 程なく、車は走りだしたが、しばらく行くと、また止まった。戸田の容体は思わしくないと見え、医師は、険しい表情で手当てをしていた。
 伸一は、戸田の車が停車するたびに、駆け降りて、祈るような思いで戸田の様子を見守っていた。彼には、沼津駅までの道のりが、限りなく遠く、長く感じられた。
 戸田の一行が沼津駅に到着したのは、午前三時四十五分であった。三十分ほど、待ち時間があった。やがて、闇のなかに光が走り、列車がやって来た。同行の青年部の幹部が、懐中電灯をかざして、車中の青年に合図を送った。
 青年たちが担架で、戸田を車内に運び終わると、列車は、すぐに発車した。伸一は、これでひとまず安心だと思った。
 戸田を寝台に寝かせると、伸一は言った。
 「先生、これで安心です」
 「そうか……」
 戸田は、こう言って微笑を浮かべた。その微笑が、伸一の心に焼き付いた
 列車は午前七時前、東京駅に着いた。駅には、十条潔をはじめ、数人の青年が迎えに来ていた。伸一たちは、駅側に交渉して、特別にエレベーターを使用させてもらい、担架で、待機していた寝台自動車に戸田を運んだ。
 伸一は、別の車で駿河台の大学病院へ向かった。心配していた病室は、女子部長の森川ヒデ代たちの手で、きれいに清掃され、ソファには、レースがかけられ、カーテンも新しくなり、花も生けられていた。
 木田医師をはじめとする医師団が、直ちに診療に取りかかった。戸田は、面会謝絶となった。あとは医師に任せるしかなかった。
 伸一は、病院を出て、会社の大東商工に向かった。身も心も疲れきっているはずなのに、頭は妙に冴えていた。
 彼は、久しく手をつけずにいた担当業務の書類に目を通したが、戸田の病状が頭から離れず、何をしても身が入らなかった。
 晴れた、暖かな日であったが、彼の心は、暗雲に覆われていた。仕事をしていても、さまざまな思いが去来し、胸のなかは、荒れ狂う大海のようであった。今の伸一にできることといえば、ただ、師の全快を祈ることしかなかった。
 二日の朝、彼は、青年部の緊急幹部会議を招集した。伸一は、戸田の回復を願って、毎朝、代表の幹部が、学会本部で勤行することを提案した。粛然として、異議を唱える人は誰もいなかった。
 この日の午後、伸一は本部で、病院に出かけていた秘書部長の泉田ために会った。その後の戸田の容体を尋ねると、意外にも明るい答えが返ってきた。
 「今朝、病院へ伺うと、先生は、上半身をベッドの上に起こしてもらっておられました。思いのほか、お元気そうでしたので、私も、ほっといたしました」
 伸一は嬉しかった。病状は好転し始めたのだと思った。これまでの暗く、重い予感が消えていくのを感じた。
 この日、夕刻五時から、理事室と青年部首脳との連合会議が、学会本部で開かれた。皆、泉田秘書部長の報告を耳にしていただけに、戸田の回復を信じ切っていた。議題である、翌日の本部幹部会の式次第の検討や、四日後に迫った教学部の住用試験の確認事項の検討などが終わったころであった。
 管理人がドアを開けた。
 「山本室長、病院からお電話です。先生のご子息の喬一さんからです」
 皆、はっとした表情で伸一を見た。彼は席を立つと、管理人室に向かった。
 受話器を取ると、喬一の声が響いた。落ち着いた語調ではあったが、懸命に感情を抑えているのがわかった。
 「ただ今、父が亡くなりました……」
 その瞬間、伸一の息が止まった。筆舌に尽くせぬ衝撃が五体に走った。体から血の気が引き、頭のなかが白く霞んでいくのを覚えた。
 戸田城聖は、四月二日午後六時三十分、医師の診察を終えた直後、妻に見守られて、眠るように息を引き取ったのである。急性心衰弱によるものであった。不世出の広宣流布の大指導者・戸田城聖は、ここに五十八年の生涯を閉じたのだ。
 伸一が、電話を切って戻ると、一同は緊張した顔で、彼に視線を注いだ。伸一の悲痛な表情から、誰もが、最悪の事態にいたったことを直感したようであった。
 彼は、静かに告げた。
 「先生は、先ほど、六時三十分に亡くなられました」
 皆、一瞬にして顔色を失った。言葉を発する人はいなかった。ただ沈黙のなかに、誰もが深い悲哀をかみしめていた。その場は、直ちに重大会議となった。
 それから伸一は、首脳幹部と共に病院に向かった。
 車中、四ツ谷から飯田橋にかけて、土手の上の五分咲きの桜が、ほのかな光を放つように咲いているのが、夜目にも見えた。
 戸田は、自ら予言していたように、桜の花の咲くころ、世を去ったのだ。念願の七十五万世帯を超える妙法の苗木を植え、幸の花を咲かせて、あたかも桜が、ぱっと散りゆくように。
 病院を訪れた首脳幹部たちは、戸田の臨終の相貌を目にして、あふれる涙を、どうすることもできなかった。そして、師との別離の時がやって来たことを、いやでも悟らなければならなかった。
 戸田の相貌は、どこまでも穏やかであった。多くの人を慈しんだ目は、薄く聞かれ、崇高な涅槃の光を放っている。百数十万人もの人びとに、法を説き、励ましの言葉をかけ続けてきた口は、かすかに開かれ、今にも語りかけんばかりに微笑をたたえていた。そして頬には、ほんのりと赤みがさし、肌の色は、白く艶やかであった。まさに、輝かしいばかりの成仏の相を示していた。
 ――広宣流布に一身を捧げた戸田城聖は、永久の眠りについた。しかし、戸田という一個の人間の偉大なる人間革命の歩みによって、全人類の宿命の転換をも可能にする原理が示されたのだ。それこそが、彼が、人類に残した最大にして最高の遺産であった。
 やがて、いつか、戸田城聖こそ、日蓮大聖人の仏法を現代に蘇らせ、人類の宿命の転換の方途を開いた救世者として、永遠に讃嘆される日が、必ず訪れよう。
 その夜、戸田城聖の亡骸は、彼の自宅に移された。いつの間にか、外には小雨がパラついていた。それは、戸田の死を悼む、諸天の涙であったにちがいない。
 戸田は、艶やかな、眠るがごとき相をしていたが、もの言わぬ人となっての帰宅であった。自宅に着くと、妻の幾枝は、戸田の亡骸に語りかけた。
 「あなた、ご苦労さまでした……。家ですよ。ゆっくり、お休みになってくださいね」
 それは、すべてを広宣流布になげうってきた夫を、陰で支えてきた妻の、精いっぱいのいたわりの言葉であったろう。
 戸田の亡骸は、二階の仏間の布団の上に寝かされた。さっそく宗務総監の細井精道が訪れ、家族、首脳幹部らと共に、読経・唱題した。皆、深い悲しみにつつまれていたが、翌日には本部幹部会が控えており、今後の葬儀の大綱を決定する必要に迫られていた。
 首脳幹部たちは、読経・唱題を終えると、すぐに協議に入った。感傷に浸る暇さえない差し迫った状況が、彼らの悲哀を和らげた。
 戸田の亡骸は、彼の遺言にしたがい、一週間、自宅に安置されることになった。そのため、戸田家の告別式は、四月八日となった。
 また、四月二十日には、全学会員の別離の儀式となる、創価学会葬を営むことが決定された。さらに、本部幹部会の式次第も再検討された。打ち合わせが終わったのは、深夜の十一時を回っていた。
 弟子たちにとって、永遠に忘れ得ぬ日となった四月二日は、間もなく終わろうとしていた。首脳幹部の誰もが、今日のこの日が、あまりにも長く、何日にも、何カ月にも感じられた。
 伸一が、大田区の自宅に着いた時には、はや午前零時を回っていた。彼は、師との永久の別れとなった、この四月二日という日の無量の思いを、どうしても日記に書き残しておきたかった。
 しかし、ノートを聞き、朝からの経過を数行つづると、ペンを持つ手は止まった。戸田との来し方が思い返され、あふれ出る涙が点々とノートを濡らした。自身の憶念は、筆舌に尽くしがたいことを知らねばならなかった。
 「先生……」
 伸一は、心で叫んだ。彼の脳裏に、大講堂落慶法要の日、エレベーターの中で、戸田が語った言葉が、まざまざと蘇った。
 「さあ、これで、私の仕事は終わった。……伸一、あとはお前だ。頼むぞ!」
 彼の悲哀は、限りなく深かった。しかし、弟子ならば、今こそ立たねばならないと思った。
 ″立て、立ち上がれ。強くなるのだ、伸一!″
 彼は、自らを叱時すると、拳で涙をぬぐい、決然と顔を上げた。胸に誓いの火が、赤々と燃え上がろうとしていた。伸一は、唇をかみしめると、ぺンを走らせた。
 「鳴呼、四月二日。四月二日は、学会にとって、私の生涯にとって、弟子一同にとって、永遠の歴史の日になった。……妙法の大英雄、広布の偉人たる先生の人生は、これで幕となる。しかし、先生の残せる、分身の生命は、第二部の、広宣流布の決戦の幕を、いよいよ開くのだ。われは立つ」
 こう記した時、,伸一の胸中に、戸田の徴笑が浮かんだ。
8  二日の夜、戸田城聖の訃報を聞いた堀米日淳は、深夜に総本山を発ち、戸田の家に向かった。
 三日の早朝、夜の明けきらぬ品川駅には、関久男と春木洋次が、日淳を迎えに来ていた。
 日淳は、プラットホームを歩きながら、しみじみと二人に語るのであった。
 「戸田先生は、本当に立派な方です。……仏様なんですよ」
 戸田への哀惜と万感を込めた言葉であった。それは、御本仏・日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を、現実のものとした戸田城聖に対する、日淳の実感であり、確信であったにちがいない。
 日淳は、戸田の亡骸と対面したあと、懇ろに読経・唱題して辞去した。
 三日の午後二時からは、首脳幹部が参列し、細井総監の導師で、納棺の式が執り行われた。戸田の亡骸は、家族と弟子たちの手で棺に納められ、簡素な祭壇に安置された。
 通夜は、この日から営まれ、翌四日からは、首脳幹部が、毎日、交代で列席することになった。
 戸田の逝去の報は、二日夜から三日にかけて、全国に伝えられた。
 各方面の会員のなかには、三日の本部幹部会に向かう車中で、途中の駅から乗車してきた同志に、戸田の計報を知らされた人もいた。また、会場で、初めて逝去の報を耳にした人もあった。
 三月度本部幹部会は、四月三日夜、池袋の豊島公会堂で予定通り開催された。
 冒頭、理事長の小西武雄から、会長・戸田城聖の逝去が発表された。
 「まことに悲しいことでございますが、われらが会長・戸田城聖先生が、昨日、午後六時三十分、ご逝去されました。謹んで、全会員の皆様に発表いたします」
 多くの同志は、戸田の逝去を聞いてはいたが、理事長の発表を聞くと、場内は、静寂につつまれた。そして、会場のあちこちから、すすり泣きが漏れた。
 顔を伏せて、じっと唇をかみしめる人もいる。声をあげて泣きじゃくる人もいた。拳を握り、鳴咽をこらえる人もいた。誰もが、どうしょうもない悲しみに沈んでいた。
 続いて理事たちから、戸田の逝去にいたる経過や、願業の成就の事蹟が語られた。
 この日、山本伸一は、青年部を代表してあいさつに立った。
 「私たちは、先生のご逝去に際して、ただ慨嘆し、悲しんでいるだけであってはならないと思います。戸田先生の生命は、わが創価学会とともに、われら弟子の心のなかに、永遠に生きていらっしゃると信じるものでございます。
 かつて、ある新聞や雑誌が、『戸田会長が死んだ後は、必ず学会は崩壊するであろう。学会が発展しているのは、戸田会長の存命中だけである』との趣旨の記事を掲載したことがあります。先生亡き後は、さまざまな圧力が学会にかかり、あらゆる魔が競い起こってくることでありましょう。
 しかし、後に残った私たちが、小西理事長を中心に、強く団結していくならば、いかなる魔をも粉砕できないわけはありません。なかでも、長年にわたって先生から、直接、薫陶を受け、訓練していただいた青年部が立ち上がるならば、決して、何ものにも負けはしないと断言するものでございます」
 伸一の言葉は、参加者の胸を打った。彼の五体には、師匠・戸田城聖の遺志である広宣流布への闘魂が燃え盛っていた。伸一の、後継の弟子としての使命の自覚が、彼の深い悲哀を突き破ったといってよい。
 「日蓮大聖人は、『仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや』と仰せですが、私たちは、師匠・戸田先生のおかげで、仏法に巡り合うことができました。そして、先生のご慈悲に育まれ、人間の真実の道を知りました。このご恩に、弟子として、どのように報いていくか――それが、今、私たちに問われている問題ではないかと、思うのであります。
 戸田先生の師思に報いる道は、ただ一つ、先生が命をかけてこられた広宣流布に邁進し、『先生、このように広宣流布を進めました』と報告できる、見事な闘争を展開する以外には、断じてありません。
 そして、一人ひとりが、人間革命を成し遂げ、崩れざる幸せを築いていく時、先生は、最もお喜びくださると思うのでございます。
 戸田先生が、最後のご指導をしてくださったのは、三月二十九日、総本山でのことでありました。総本山に、お小僧さんをいじめ、また、学会を軽蔑し、暴言を吐く僧侶がおりました。青年部は、その僧侶を戒め、抗議し、それを私が、先生にご報告いたしました。その時、先生は、『一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!』と言われました。思えば戸田先生は、この一歩も退くな。広宣流布とは間断なき闘争である――ということを、遺言として、私たちに、お教えくださったのであります。この先生のご指導を、広宣流布の日まで、わが青年部の厳訓としていくことを誓うものでございます。
 戸田先生は、広宣流布の大指導者であられました。それならば、その弟子であり、子どもである私たち青年部もまた、広宣流布の大闘士でなければなりません。戸田門下生であるならば、感傷を捨て、悲哀を乗り越えて、今こそ、立ち上がろうではありませんか!」
 参加者の顔に光が走った。身を乗り出して、拍手を送る人もいた。彼の言葉をかみしめるように、深く頷く人もあった。人びとは、深い悲しみのなかにも、弟子が立つ時が来たことを知るのであった。
 勇気は、波動となって広がっていく。炎のごとき勇者の叫びは、暗澹たる思いに沈む同志の心に、前進への一条の光を投げかけたのである。
 理事長の小西武雄は、最後に弟子たちの代表として、あいさつに立った。
 「戸田先生に比べれば、私は月とスッポンのようなものでございます。しかし、後に残された弟子の代表といたしまして、腹だけは決めております。この命を、広宣流布に捧げ尽くす覚悟であります」
 小西理事長は、自らの決意を披瀝したあと、「戸田先生は亡くなられでも、仏法の力は、決して変わるものではないことを確信して、同志の指導にあたっていただきたい」と呼びかけ、話を結んだ。
 戸田城聖の逝去は、組織を通して伝えられたほか、新聞やラジオでも報道された。
 全国の同志は驚き、やるせない思いに沈んだ。そして、誰もが、戸田が自分たちにとって、いかに必要不可欠な偉大な存在であったかを、かみしめるのであった。
 ――宇宙の運行には、片時の停滞もないように、広宣流布の歩みにも、休息はない。
 それは戸田城聖が、自ら身をもって弟子たちに教えてきたことであった。
 四月六日には、全国六十五会場で教学部の任用の筆記試験が、十三日には、二十七会場で昇格筆記試験が実施されることになっていた。
 六日の任用筆記試験は、派遣の試験官を一部変更しただけで、予定通り、午後一時から全国で一斉に行われた。受験者は、戸田の逝去の悲しさ、寂しさのなかで、研鑽を続け、懸命に問題と取り組んだ。
 戸田家の告別式が行われた四月八日、戸田の自宅には、朝から多くの学会員が詰めかけた。
 厳かな読経・唱題のあと、出棺の時を迎えた。戸田の亡骸は、逝去の日から一週間、この二階の部屋に安置されていたが、まことに安らかな成仏の相は、少しも変わらなかった。棺にシキミを捧げる参列者の聞から、鳴咽が漏れた。
 戸田の棺は霊枢車に運ばれた。そして午前十時、伸一の乗った車が先導し、戸田家を出発した。
 戸田の棺を乗せた車の列は、多くの弟子たちの唱題の声に送られ、東京・池袋の常在寺へと向かった。沿道のいたるところに、戸田を見送ろうとする学会員が、人垣をつくっていた。
 その唱題の声に送られて、車は、白金台町、天現寺橋、青山を経て、信濃町の学会本部前、四谷三丁目、三光町、戸塚二丁目と進んでいった。同志の唱題の声は込み上げる哀惜の情に、しばしば鳴咽となって途切れた。
 常在寺に近づくにつれて、人びとの列は、一段と膨れ上がっていった。午前十時四十五分、霊枢車は五千人の男女青年部員に出迎えられ、常在寺に到着した。青年部の幹部が、棺を霊枢車から運び出し、本堂に向かった。
 この時、一陣の風が吹き、庭の桜の花びらが、ひらひらと舞った。花吹雪である。白い棺のうえに、薄紅色の花びらが落ちた。誰もが、「学会の歌」として愛唱していた「花が一夜に」を思い起こしたことであろう。
  ♪花が一夜に 散るごとく
   俺も散りたや 旗風に
   どうせ一度は 捨てる身の
   名こそ惜しめや 男なら
 落花繽紛ひんぷんの光景のなかで、人びとは、戸田への限りない哀惜と慕情を募らせるのであった。
 戸田の棺は、常在寺の本堂に設けられた祭壇に安置され、棺の前に遺影が掲げられた。その目は、広宣流布の未来を仰ぐかのように、彼方を見すえ、慈光をたたえていた。
 本堂の式場には、遺族、学会の代表幹部、友人や縁故の深かった人びとが参列した。そのほかの会葬者は場外に待機していたが、周辺の道はもとより、裏の公園も、長蛇の列で埋まった。
 告別式は、午前十一時四十分から、戸田と深い契りに結ばれた日淳の導師で、しめやかななかにも、厳粛に執り行われた。焼香が始まり、一般焼香者は、門前につくられた十二台の焼香台に向かったが、列は引きも切らなかった。
 読経・唱題のあと、日淳は、歎徳文を読み、宗門の発展に尽くした戸田の功労を讃えた。次いで、遺族を代表して、子息の喬一があいさつに立った。
 「本日は、皆様、多数、ご参列いただきまして、どうもありがとうございました。参列者の皆様のなかには、創価学会に入会されて間もないために、父と親しく接する機会のなかった方も、多数いらっしゃることと存じます。
 しかし、真に父の死を嘆いてくださり、真心から追善供養のお題目をあげてくださる皆様の参列を、私は、他のどのような方の参列よりも、嬉しく、ありがたく思うものでございます。そうした皆様の祈りこそ、父に通じ、父の供養になると信じます。その方々に、心から御礼申し上げます。どうもありがとうございました」
 子息の喬一は、あいさつを終えると深々と頭を下げた。立派なあいさつであった。
 彼は、この春、大学を卒業し、銀行員となっていた。広宣流布に命を捧げ、多忙を極めた戸田は、喬一と接触する機会は、いたって少なかったにちがいない。しかし、喬一は戸田の背から、会員同志に寄せせる父の心を学んできたのであろう。
 山本伸一は、戸田の事業が危機に瀕したあの一九五〇年(昭和二十五年)の夏の夜、戸田の家に泊まり、喬一の布団に入れてもらい、一夜を過ごしたことを思い起こしていた。その時の、まだあどけなかった少年の寝顔と、温かい体温が蘇ってくるのであった。
 彼は、この見事なあいさつを、戸田が聞いたら、なんと言うかと思いながら、祭壇の遺影に目をやった。その顔は、微笑んでいるように見えた。
 伸一は、遺影に語りかけた。
 ″先生、後のことは、何も心配なさらないでください。ご家族は、生涯、伸一がお守り申し上げます″
 続いて、葬儀委員長の小西武雄理事長が、粛然として立った。彼は、戸田城聖の遺影を、じっと見つめ、生前の戸田に語りかけるような口調で、話し始めた。
 「先生! 八十万世帯の全学会員を代表いたしまして、お別れのあいさつをいたします。長い間、本当にかわいがっていただきました。……こうして、みんな、本当に、成長することができました。……先生、辛い、早い、お別れでございます。……先生、さようなら」
 小西は、万感に胸が締めつけられ、言葉は、途切れ途切れになった。参列者の目に涙があふれた。彼は、戸田の遺影に深く頭を垂れた。それから、遺族の方を向いて言った。
 「ご遺族の方、ご親戚の方、まことに、いたらぬ私たちゆえ、先生のご存命中も、不行届きの点が多々あったことと存じます。しかし、私どもは、弟子として、ただ、先生に真心を尽くそうという一念でやってまいりました。なにとぞ、ご了承賜りたいと存じます」
 そして、参列者の会員に呼びかけた。
 「また、参列者の皆様、本日は、ありがとうございました。今後とも、先生の教えのままに、真剣にお互いに立派な弟子となって、先生のご恩、ご高徳に報いようではありませんか」
 十二時二十三分、ひとまず告別式は終わったが、常在寺の周辺は、まだ焼香を待つ長蛇の列が続いていた。特設された焼香台から立ちのぼる香煙は、辺り一面を覆っていた。この日の参列者は、約十二万人となった。
 本堂では、なお人びとの唱題が続き、午後三時には、再び読経が始まり、その後、戸田の棺は、青年たちの手で祭壇から降ろされた。
 堂内の参列者は、棺を囲んで唱題しながら、戸田城聖との、この世での別れを惜しんだ。ある人は鳴咽し、また、ある人は滂沱の涙を流していた。辛い別離であった。
 棺は霊枢車に運ばれ、門前に整列した多数の門下の真心を込めた唱題のなかを、落合の葬祭場へと向かった。葬祭場に向かう沿道にも、会員たちが待機していた。
 午後四時、遺体は荼毘に付された。最後の別れの時、棺の中の戸田の顔は微笑み、輝いているように見えた。その崇高な相に、人びとは感動を覚えるのであった。
 やがて、戸田の遺骨は、遺族の胸に抱かれて帰途に就き、学会本部へと向かった。
 本部周辺の道は、詰めかけた会員たちであふれていた。本部前に待機していた青年部の代表に迎えられ、戸田の遺骨は、本部二階の御本尊の左前に安置された。ここで、支部幹部らが参列して、初七日の法要が営まれた。本部前の路上にいた人びとも、館内の読経・唱題の声に唱和した。
 もう暮れ始めていた。戸田が、広宣流布の指揮を執った学会本部に、彼は、今、帰ったのである。弟子たちは、本部常住の、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊に、涙の唱題を捧げながら、仏法の大指導者・戸田城聖の魂魄は、永遠にこの本部にとどめられるにちがいないと思った。
 遺骨は、それから、戸田の自宅に運ばれた。途中、青山墓地を通ると、夕闇の、なかに、満開の桜が、別れを惜しむかのように散り始めていた。
 戸田の自宅付近には、夜の闇のなか、多くの学会員がたたずんでいた。
 遺骨は二階の仏間に安置され、読経・唱題が行われた。すべてが終わったのは、午後八時近かったが、いつまでも動とうとしない会員もいた。
 山本伸一は、路上の人びとに、一切は滞りなく終了したことをマイクで告げたあと、付近を回り、まだ残っている人に丁重に感謝の意を表した。
 皆、戸田を一心に慕い続けてきた同志である。闇のなかで唇をかみしめ、泣きじゃくる会員の姿に、伸一の胸は痛んだ。
 ″この同志を、父たる先生に代わって、励まし、勇気づけ、断じて幸福にしていかねばならない″
 彼は、そう誓いながら、一人ひとりの肩をいだき、握手を交わした。しかし、誰よりも寂しく、悲しいのは、ほかならぬ伸一であった。
 この夜、自宅に帰った伸一は、自室の机に向かった。そして、妻の峯子に、色紙と筆を持ってくるように言った。
 彼は、筆を執った。
  恩師逝き
    地涌の子等の
      先駆をば
    われは怒濤に
      今日も進まむ
 烈々たる決意を込めて、彼は詠んだのである。
9  広宣流布をめざして、前進の歩みは間断なく続けられていた。
 四月十日には、男子部の幹部会が行われた。そして、十三日には、教学部の助師・講師の昇格の筆記試験が行われ、全国で二千六百人が受験している。また、十七日には、東京、神奈川、千葉、埼玉の、教学部任用試験の第二次面接試験が実施された。
 いよいよ、四月二十日の学会葬の日は、近づきつつあった。
 その前日の十九日夜、学会本部で、最後の通夜が営まれることになっていた。
 この日の東京は、午前十一時半過ぎから、次第に空が薄暗くなっていった。日食である。太陽は、その姿のほとんどを、月の向こうに隠した。東京・八丈島では、金環食となった。それは、あたかも戸田の逝去を象徴するかのようでもあった。
 学会本部での通夜は、十九日の午後七時から青年部の代表幹部が参列して行われた。導師は、宗務総監の細井である。細井は、読経に入る前、法主・日淳の辞令を発表した。
 「創価学会会長戸田城聖
  日蓮正宗法華講総講頭に任ずる
  昭和三十三年三月三十日」
 当時、宗内には大講頭が数人おり、戸田も大講頭であったが、生前の三月三十日付で、その上に位置する、信徒の代表となる総講頭に任命されたのである。
 さらに、日淳から、大居士号が贈られ、戸田の戒名は、逝去直後の「大宣院法護日城居士」から大居士となった。
 生前、戸田は戒名について、会員の質問に答え、こう語っている。
 「本来、戒名は、授戒を受けて、坊さんになる時の名前です。死んだ時につけるものではない。死んでから戒名で呼ばれても、他人が呼ばれているようで困るじゃないか。今は、戒名をつけるのは、坊さんの金儲けのためになっている。戒名をつけたければ自分でつければよい。なにも戒名をつけてはいかんと言っているのではない。ただ、ぼくは戒名なんていらん主義です。戸田城聖で結構だ」
 権威や名誉、形式を、戸田は最も嫌っていたが、総講頭の任命も、大居士号も、日淳の戸田に対する真心からの賞讃である。遺弟たちは、その気持ちが嬉しかった。日淳の真心を、戸田に代わって理事長の小西武雄が謹んで受けた。
 本部での通夜を終えた青年部の幹部は、そのまま明日の創価学会葬の準備に入った。主だった幹部たちは、皆、徹夜を覚悟していた。
 今や全国には、戸田を慕ってやまぬ八十万世帯の会員がいる。時間や経済的な事情を考慮し、会葬者の大多数は関東一円の会員になると考えても、数は約二十万人と予測された。
 これだけの人が、数時間のうちに焼香をするとなると、よほど円滑な運営が行われなければ、会場は大混乱をきたすことになろう。
 青年たちは、夜を徹して、最終の準備に入っていった。
10  四月二十日――。
 夜の明けやらぬ午前五時ごろから、創価学会葬の会場である青山葬儀所には、役員の青年が集まって来ていた。六時過ぎには、各部門ごとに打ち合わせを終え、配置場所に向かった。どの顔にも、今日のこの大葬儀を無事故で終わらせようとする決意がみなぎっていた。
 日が昇るにつれて会葬者は増え、葬儀所から青山墓地、そして、明治神宮外苑に至る道などで、長い行列ができた。その列は、やがて四キロメートルを超えた。
 山本伸一は、指揮本部の置かれたテントのなかで、刻々と、もたらされる報告に耳を傾けていたが、会葬者の状況を正確に把握するために、会場周辺を見て回った。
 空は美しく晴れ渡り、既に葉桜となった葬儀所周辺の桜並木のみずみずしい青葉が目にしみた。
 伸一は青葉を見ると、″大楠公″の歌として知られる「青葉茂れる桜井の」の歌が脳裏に浮かんだ。
 戸田が、こよなく愛したこの歌は、建武三年(一三三六年)、朝敵・足利尊氏の上洛を防ぐために、湊川の戦いに赴く、武将・楠木正成と、その子正行の父子の別れを歌ったものである。
 敗北が必歪である湊川の戦いに臨む正成は、青葉の茂る桜井の宿で正行を呼び、自ら討ち死にする覚悟であることを告げ、わが子には、故郷に引き返すように命じた。正行は、いまだ十一歳であったが、彼は、自分も父と共に戦い、死んでいくと言って、帰ろうとはしなかった。
 しかし、正成は、ともに討ち死にしたならば、世は尊氏の天下となってしまうことを説き、生きて、早く立派に成長し、国のために仕えよと、わが子を帰す――。
 戸田は、この歌に広宣流布への師弟の精神を託して、伸一たち青年に歌わせてきた。ここに、正行の決意を表した「父上いかにのたもうも……」の箇所は、一人ひとりに何度も繰り返し歌わせた。そして、睨みすえるように青年の目を見て、言うのだった。
 「正行の精神は、そんなものではない。そんな目では、広宣流布の戦いはできんぞ。俺の目を見ろ!」
 伸一は、その鋭い戸田の眼光と、厳愛の指導を思い返しながら、今、父との最後の別れの日が来たことを思った。そして、広宣流布への父子の誓いを新たにしながら、光に映える青葉の道を急いだ。
 正午過ぎ、信濃町の学会本部前に、音楽隊、鼓笛隊の奏でる「星落秋風五丈原」の調べが響き渡った。葬儀所に向かう葬列の出発である。
 音楽隊、鼓笛隊を先頭に、青年部の各部旗、支部旗が翻る葬列の中央には、遺族と小西理事長の乗ったオープンカーがあった。小西が戸田の遺影を抱え、遺骨は子息の喬一が、位牌は妻の幾枝が手にしていた。
 本部から、神宮外苑、そして、青山葬儀所に至る沿道には、会員たちがひしめくように立ち並んでいた。新緑の若葉につつまれた街路を、学会旗が四月の風になびきながら、″五丈原″の歌の調べととも、威風堂々と進む姿は壮観であった。
 葬列が近づくにつれて、題目の声が、ひときわ高く響いた。同志は、感極まり、「戸田先生!」と叫びたい衝動をこらえ、師の葬列を見送った。
 戸田と身近に接する機会のなかった同志も、聖教新聞に掲載された彼の講義や指導を糧とし、勇躍、人生の苦悩を克服してきた人びとである。それぞれの心のなかに、戸田は鮮烈な像を刻みながら、生きていたといってよい。
 葬列は、粛々と進み、青山葬儀所の式場に入った。午後一時、開式となった。司会を務めたのは、山本伸一である。
 堀米旦淳の導師で、読経が始まった。方便品、寿量品を読誦したあと、弔辞が奉読された。
 初めに、法華講の講頭の代表が立った。
 彼は、戸田の逝去は、「日蓮正宗、および創価学会の一大損失であるばかりか、日本社会、乃至、東洋の民衆の一大悲痛事」であると述べた。そして、広宣流布と宗門の興隆に尽くした戸田を、信徒の「亀鑑」であると讃え、こう結んだ。
 「大聖人の御遺命たる広宣流布の大業も、先生の遺志を継ぐ創価学会を中心とする正宗信徒の異体同心のご奉公によって、必ずや達成されることを信ずるものであります」
 あの戦時中の大弾圧に、敢然と抗して正法正義を守り抜き、広宣流布を現実のものとした戸田への讃嘆は、偽らざる心であったにちがいない。御聖訓に照らして、信心の眼をもって見るならば、戸田の偉業に、誰人も最大の賞讃を送らざるを得まい。
 さらに、友人を代表して、小説『日蓮大聖人』の作者である、作家の湊邦三が弔辞を読んだ。
 続いて、女子部を代表して谷時枝が進み出た。谷は、戸田の膝下で、久しく薫陶を受けた一人として、恩愛と思慕の情が堰を切ったようにあふれできたが、それを必死にこらえた。
 「先生より、私たち女子部に頂いたご指導は、枚挙にいとまがありません。なかでも、ご遺訓の第一とされた、昨秋の原水爆禁止の声明は、決して忘れることはできません。
 また先生は、常に、『女子部は一人ひとりが必ず幸せになるように』と、強く励ましてくださいました。そして、『広宣流布という最高の人間道に厳然と進みゆけ。それが真実の、そして最高の幸福につながる道である』と、幾度となく指導してくださいました。
 私たちは、先生との誓いを絶対に裏切らず、一生涯、広宣流布のために進み抜いてまいります。どうか、私たち女子部の今後の成長を、寂光の宝土より、ご照覧くださいませ」
 次いで、男子部長の秋月英介が立った。彼は、戸田の写真を見つめて一札し、感慨をかみしめるように語っていった。
 「今、先生から賜った、ご慈愛、ご指導の数々が、次々と蘇ってまいります。
 昭和二十九年(一九五四年)五月の青年部総登山の折、豪雨のなか、傘も差さずに、私たちの行進をじっと見守っていてくださった先生――。
 また、西神田の本部の二階で、『覚えておけよ』と何度も繰り返されながら、広宣流布の原理を、教えてくださった先生――。
 ことに、西神田の本部で行われた水滸会の折の、『八畳一間から始まった松下村塾の松陰門下の手で、明治維新は達成した。これだけの青年がいれば、広宣流布は断じてできる』とのお言葉は、生涯、忘れることができません。今、『青年部には、すべて教えておいたよ』との先生のお声が、聞こえてくるようでございます。
 先生、青年部は本当にかわいがっていただきました。人生の行方を見失い、希望もなく、さまよう青年たちを次々と拾い上げられ、晴れがましくも、門下生としての栄誉を与えてくださり、王子のごとく、伸び伸びと育てていただきました。
 先生から受けたご恩は、言葉では語り尽くせません。今は、ただ、戸田門下と名乗り得る栄光をかみしめ、決してその名を汚すまいと、固く心に誓うのみであります。
 青年部は、どこまでも先生の精神を体して、外にあっては、荒海のしゃちのごとく、広宣流布の追撃の手を緩めることなく、内にあっては、全学会の依枯依託となって、″国士訓″のご遺命通り、必ずや国士十万を結集し、広宣流布を実現してまいります。
 そして、″青年訓″の『心して御本尊の馬前に屍をさらさんことを』の、お言葉のままに戦い、先生のお側に参って、胸を張ってご報告できる日を楽しみに、明日からまた、元気に戦ってまいります」
 戸田の逝去から、まだ、半月余りしかたっていなかったが、既に青年たちの胸には、新たな広宣流布への決意が兆し始めていることを感じさせた。
 山本伸一は、戸田の逝去以来、青年と接するたびに、「師子の子よ立て!」と、全力で叫び、励まし続けてきた。青年たちの心には、もはや、戸田城聖と山本伸一が二重写しに映じ始めていた。その伸一の叫びが、悲哀を希望へ、感傷を決意へ、落胆を歓喜へと転じ、若き命の脈動をもたらしたのである。
 次は、秘書部長の泉田ための弔辞であった。長く戸田の側にいた彼女は、目を潤ませ、尽きぬ思いを語っていった。
 「昭和一八年(一九四三年)、初代会長・牧口先生は、伊豆地方に折伏に赴かれ、そこで逮捕されました。忘れもいたしません。その折り、牧口先生に言れたお言葉は、『戸田君によろしく』との、一言でございました……。
 私は、牧口先生のお言葉を戸田先生に、お伝えしようと、急いで帰ってみると、戸田先生も既に囚われの身となっていたのであります。一瞬、茫然として、何もなすことができないありさまでした。
 また、昨年の秋のころでした。私と清原さんに、先生は本部の会長室で、『私は、もうすぐ君たちとも、別れなければならんのだよ』と、急にあらたまった様子で、言われたことがございました。しかし、私は、戸田先生のお心もわからず、先生は、ついつまでも、生きていられるものと安心いたしておりました。
 十四年間にわたって、先生のお側で、お仕えすることができましたことは、私にとって最大の幸せでございました。でも、今、先生を亡くしたことは、最大の悲しみでございます。しかし、先生、ご安心ください。今こそ、日ごろ、お側でお教えいただいたご指導のままに、弟子の一人として、先生のお心に沿うよう、広宣流布のために、思い切り働いてまいることをお誓い申し上げ、お別れの言葉といたします」
 彼女の追悼は、居並ぶ人びとの、戸田への思い出をかき立てた。
 最後は、理事の原山幸一であった。彼は、戸田に語りかけるように話し始めた。
 「先生、長い間、大変お世話になりました。いよいよ最後の、お別れです。今日は、北海道の同志も、九州の同志も参っております。また、先生が愛し続けてこられた青年も、先生のもとに、早朝から、馳せ参じております。
 敗戦の日本を救うべく、牧口先生の後を継がれ、立ち上がられて十数年、世間からは悪口ばかり言われてきましたが、先生を心からお慕い申し上げる同志は、二百万人になりました。先生は、『獅子吼して 貧しき民を 救いける 七歳の命 晴れがましくぞある』と詠まれましたが、わずかの間に、宿命に泣く、多くの民が救われました。
 いつも、先生は″五丈原″の歌に涙を流されました。南陽の草蘆を出でて、蜀軍のために命を捧げた、諸葛孔明の心のなかを思いやられてのことでございましょう。民衆の苦悩を救うために、悪鬼乱舞のなかで広宣流布に立たれた先生のお心は、私たちなどには、わかるわけはありませんが、そのご胸中を思うと、胸がいっぱいでございます。
 私たちが初代会長・牧口先生を失い、困り果てていましたところ、先生は出所され、広宣流布の指揮を執ってくださいました。そして、先生に寄りかかったまま、今日に至りました。まことに不肖な弟子どもでございます。
 よく先生は、会長というものは辛いと、おっしゃっていましたが、今さらながら、先生のご苦心のほどが、身に染み渡ります……。私どもは、不肖の弟子ではありますが、先生の血潮の幾分かは、受け継いでいるつもりであります。みんなで、団結して、広宣流布を成し遂げてまいります。
 先生が亡くなられた時は、ただ、愕然とするばかりでした。しかし、今、先生は、その本懐を果たし、一国広宣流布の基盤を完全につくられ、後の仕事を、私たちのために、お残しくださったのだということに気づきました。われら一向、後は勇んで広宣流布に邁進してまいるのみであります。
 どうか、いつまでも、いつまでも、私たちを見守っていてください」
 六人の代表の別れの言葉は、これで終わった。弟子たちの弔辞には、戸田への敬愛の情があふれでいた。また、どこまでも学会を守り抜き、われらの手で広宣流布を断じて成し遂げんとする、戸田の遺訓の実現への気概がみなぎっていた。
 再び読経に入り、自我備が始まった。祭壇前の焼香も、また開始された。
 焼香者のなかには、内閣総理大臣の岸信介をはじめ、文部大臣、前建設大臣、東京都知事らの顔も見えた。
 ことに首相は、あの三月十六日の総本山参詣の約束が果たせず、今、戸田の遺影との対面となっただけに、いささか感慨深いものがあったにちがいない。焼香のあと、首相は、しばし立ち止まって、葬儀委員長の小西武雄、子息の喬一、妻の幾枝に丁重なあいさつをして、式場を去った。
 午後二時三十分、唱題も終わり、日淳は朗々と歎徳文を読み上げ、戸田城聖の広宣流布の偉大な功績を讃えた。
 このあと、遺族を代表して、喬一が謝辞を述べた。それは淡々として、率直な謝辞であったが、同志の心を打たずにはおかなかった。
 「このたびは、父・戸田城聖の創価学会葬にあたり、多数、ご参列いただきまして、心から御礼申し上げます。また、父亡き後、父のまことの大願である広宣流布の成就のために、創価学会の会員の皆様が一致団結して、ご精進してくださっておりますことを、重ねて御礼申し上げるものでございます。
 よく、父は、『私が、お前たちに残しておくのは、金銭ではなく、人間としての信用である』と申しておりました。だが、残念なことに、私には、父の人間としての信用を、全部相続するだけの力量がございません。つくづく申し訳なく思っております。
 しかしながら、父の大願は、創価学会の方々が団結して相続し、一層、立派に果たしていただけるものと、信じております。どうも、本日は、本当にありがとうございました」
 頼もしく、さわやかなあいさつであった。
 ここで、葬儀委員長の小西武雄がマイクの前に立った。
 彼は、創価学会を代表して参列者に御礼を述べたあと、わが心に誓うように語った。
 「師亡き後、われわれの進むべき道は、ただただ、団結あるのみでごおざいます。今後、九十万世帯、百万世帯、さらに何百万世帯にいたっても、私どもは団結をもって、先生のご遺命を守り、先生の大願でございます広宣流布の暁まで、断固、戦い抜くことをお誓いいたします。本日は、まことにありがとうございました」
 葬儀は滞りなく進み、終了の時を迎えようとしていた。
 「最後に、『星落秋風五丈原』の歌を合唱いたします!」
 司会の山本伸一が言うと、案楽隊、鼓笛隊が、荘重な旋律を奏で始めた。
  ♪祁山悲秋の風更けて
   陣雲暗し五丈原
   ………… …………
 歌声は、式場から外に流れて、戸外の人びともこれに和した。
 生前の戸田城聖が最も愛唱し、青年たちに歌わせ、それを聴きながら、感極まった彼が、涙を流した歌である。その戸田は、今はもういない。
  ♪四海の波瀾収まらで
   民は苦み天は泣き
   ………… …………
 遺弟たちは、歌詞の言々句々をかみしめながら、在りし日の師の面影を偲び、涙をこらえて歌うのであった。
  ♪………… …………
   千載の末今も尚
   名はかんばしき諸葛亮
11  式は終わった。しかし、焼香者の列は、まだまだ続いていた。焼香が終了したのは、午後三時を回ったころであった。この日の会葬者は、実に二十五万人に上った。
 葬儀の運営の責任者であった山本伸一は、一つの事故もなく、恩師を送ることができたことに安堵感を覚えた。
 しかし、逝去の日から続いている極度の緊張感は、依然として、彼の体の芯を貫いていた。
 彼は、葬儀所と、その周辺を、最終点検のために見回ると、めまいがするほど激しい疲労を感じた。
 伸一が、一切の後片付けを終えて、学会本部に戻った時には、既に辺りは夜の帳につつまれていた。本部は、閑散としていた。
 伸一は、二階の広間に行き、戸田の遺影の前に座った。
 もう、
 師の、あの慈愛の微笑を見ることも、厳愛の叱責を聞くこともできなかった。彼は、限りない孤独を感じた。無性に寂しさが込み上げてきてならなかった。
 伸一は、身も心も、疲労の極みにあった。しかし、張りつめた弦のような緊張感が、彼の生命を貫いていた。
 思えば、四月二日の夕刻、電話で戸田の逝去の知らせを受けた時から、伸一の内部で何かが変わりつつあった。多くの側近たちが、悲哀に打ちひしがれていた時も、伸一は、感傷に浸ることなく、その悲しみを、前進への決意に転じてきた。
 彼は、後継の師子として、自分が、学会の一切を担い、師弟の不二の大道を進まねばならない、避けがたき宿命を痛感していたのである。
 伸一は、今、深い疲労のなかで、自身の双肩にのしかかる、責任の重圧を感じないわけにはいかなかった。それは、三十歳の青年にとっては、あまりにも過酷な重圧といってよかった。彼は、自分を鼓舞するように、御本尊に向かった。
 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
 静寂な広間に、伸一の唱題の声が朗々と響き渡った。
 唱題し、ながら、御本尊の向かって右に認められた「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の文字と、左の「創価学会常住」の文字が、南無妙法蓮華経の光に照らされ、輝きを放っかのように見えた。彼は、今、しみじみと創価学会の、そして、戸田の弟子としての使命をかみしめるのであった。
 ″戸田先生の大願は、まさに、大法弘通慈折広宣流布であられた。それは御本仏・日蓮大聖人の御遺命であり、学会の大使命にほかならない。御本仏は、その使命を牧口先生、戸田先生を総帥とする、創価学会に託され、召し出されたのだ″
 伸一は、強い決意のなかに、弟子としての自らの進路を悟るのであった。
 ″わが生涯は、広宣流布に捧げよう。先生が、人類の暗夜にともされた幸の灯を、断じて消してはならない。戦おう。前進、前進、また前進だ!″
 この瞬間、彼は胸中に、歓喜と勇気がたぎり立つのを覚えた。そして、悲嘆に暮れている同志を励ますことから、まず始めなければならないと思った。
 彼は、一人ひとりの同志の肩をいだき、手を握りしめ、その頬に流れる涙をぬぐってやりたかった。一人ひとりを背負い、平和の道を開き三世にわたる幸の花園へ運びゆかねばならないと、固く心に誓っていた
 戸田の遺影は、厳として、弟子たちの未来の法戦を見つめているようであった。優しくもあり、厳しくもあった。
 このころから、すべての弟子たちは、山本伸一の姿に、そしてまた、その行動に強い関心を寄せ、深く注目するようになっていった。そこに一条の希望の光と、不安の心を癒す安堵の道を、見いだしていたにちがいない。

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