Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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憂愁  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
18  厳たる七十五万世帯の願業を成就した戸田城聖は、年の瀬の病床にあって、静かに、深い思いをめぐらしていた。
 戸田は、広宣流布の未来を眺望する時、彼が、この七年間にわたって築き上げた基盤が、揺るがざる堅固さをもっていることを強く確信できた。
 一人の男が、この地球上に生を受けて、広宣流布の戦を起こし、かくも多くの民衆の救済を、実際に可能にしたのである。戸田は、誰人もなし得なかった大業を、成就するにいたった自分を振り返ると、不可思議な思いに駆られるのであった。
 ″今、私は、ここに、こうしている。病みながら、広宣流布の行き末を考えている。この世にあって、戸田城聖と名乗るこの俺は、いったい何者なのだろうか。いずこから来て、いっずこへ行こうとしているのか″
 彼は、五十七年間の人生の来し方をたどっていた。その一つ一つが、決して偶然ではなく、すべては、この大業の成就に結びついているように思われた。
 石川県の漁港に生まれ、幼時、北海道の厚田村に移住する。すべて、彼の意志ではない。何か大きな力に導かれてのことであったのかもしれない。
 厚田の厳しい自然のなかで自立の心を培い、雪に閉ざされた海辺の村から、都会への飛翔を考えた少年時代……。
 彼は、憧れの都会であった札幌の商店に、いわゆる丁稚奉公に入り、働きながら、暇を盗むようにして独学を重ね、尋常小学校の准教員の資格を取得する。資格は職を与え、夕張炭鉱の真谷地の尋常小学校に奉職したが、向学の思いやみがたく、臥竜がりょうは、突如、東京に飛び立った。
 東京で同郷の人びとをたどっていくうちに、西町尋常小学校の校長をしていた牧口常三郎に出会った。程なく戸田は、この西町尋常小学校に奉職し、牧口と、生涯にわたる師弟の絆を結ぶことになる。
 ここに、創価の光源をともした牧口と戸田という、二人の巨人の二人三脚が始まるのである。
 戸田城聖は、牧口が西町尋常小学校から左遷されたことに義憤を感じ、牧口と行動を共にした。やがて、戸田は教職を去って、時習学館という私塾を経営し、傍ら出版業を始める。そして、教育者としての牧口の思想の集大成となる、教育学体系の完成のため、援助を決意する。
 一九二八年(昭和三年)、牧口と戸田は、日蓮正宗に入信した。牧口の教育学の根幹をなす価値論は、日蓮大聖人の仏法の光彩を浴びて結実し、『創価教育学体系』の発刊となり、三〇年(同五年)、創価教育学会という団体を生んだ。
 創価教育学会の、教育を基盤とした社会の革新運動は、必然的に、根本義たる宗教にいたり、いつか斬新な宗教運動となっていった。そのため、軍部政府の過酷な弾圧にさらされなければならなかったが、二人の師弟の絆は牢獄にまで及んだ。
 四三年(同十八年)七月六日、二人は官憲に連行、投獄され、翌四四年(同十九年)十一月十八日、牧口常三郎は獄死する――戸田は、独房で呻吟のなかに唱題に唱題を重ね、法華経への眼を聞き、不可思議な境地を会得し、地涌の菩薩の使命を自覚するにいたったのである。
 出獄、そして、敗戦。戸田城聖は、″時は来れり″と、広宣流布に一人立った。敗戦後の激動のなかで、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲げて、不幸に苦しむ同胞の救済に挺身していった。
 かつての創価教育学会が壊滅したのは、教学という柱がなかったからであることを痛感していた彼は、牢獄で唱題のなかに会得した法華経の講義を開始した。
 さらに、戦後の荒廃のなかで、苦悩にあえぐ民衆の蘇生のために、一人、また一人と折伏を重ねていった。それが、やっと軌道に乗るかと恩われた時、彼の事業は大挫折をきたした。すべては水泡に帰したかに見えたが、彼は大いなる信力を奮い起こして大難を脱した。
 わが身にかかる広宣流布の一切の責任を自覚した彼は、五一年(同二十六年)五月三日、三千人余の会員に推されて、会長に就任した。
 以来、六年七カ月の慌ただしい歳月のうちに、七十五万世帯の達成をみたのだ。
 これこそ、日蓮大聖人の仏法の歴史上、類を見ない壮挙であり、これによって広宣流布という大業は、決して虚妄ではないことが証明されたのである。人類は、遂に、崩れざる平和と幸福への確実な方途をつかんだといってよい。
 ″まさに、この俺の人生の一つ一つの出来事は、七十五万世帯の広布の大願を果たすためにあったのだ! 生まれ育った環境も、人との出会いも、精進も、辛労も、挫折さえも、何一つとして無駄なことはなく、すべては連続し、この大業へとつながっていたのだ……″
 戸田城聖は、深い感慨のなかで、自らの人生の不思議さを痛感せざるを得なかった。そして、自分ばかりでなく、彼の周囲の人たち、一人ひとりもまた、自分と同じように、不思議な使命をもっていることに気づいた。
 そして、山本伸一をはじめとする弟子たちも、彼の家族も、一人ひとりが独特な存在であり、実に不思議な絆によって彼と結ばれていることを、あらためて感じた。
 彼は、皆の顔を思い浮かべながら、今、しみじみと、懐かしさのなかに、親近感を覚えるのであった。
 彼の脳裏に、あの獄中で身で拝した、「御義口伝」の「霊山一会儼然未散」の御文が浮かんだ。
 ――そうだ、霊山の一会は厳然として未だ散らぬがゆえに、この世に私たちは集い来たのだ。私は、あの法華経の会座に、確かにいたことを、身をもって知った。私だけでなく、皆、あの座にいた久遠の兄弟、姉妹であり、同志なのだ。生死を超えて、あの久遠の儀式は永遠に続いているのだ……。
 それゆえに、大聖人の御生まれになった日本という地球の一角に、創価学会が生まれ、七十五万世帯を成し遂げることができたのだ。そこに、私の生涯の使命があったことは間違いあるまい。
 私は、学会を組織化し、広宣流布を敢行した。そこに、大きな広がりが生まれ、「地涌の義」を現実のうえに現す、一つの方程式を示すことができたといえる。広宣流布の方程式を確実なものとすることができたからには、あとは臨機応変な応用、展開の時代に入っていこう。そして、この広宣流布の潮は、日本から世界へと広がり、五大陸の岸辺を洗う日も、そう遠くはないはずである。
 日蓮大聖人は、御本尊を御図顕あそばされ、末法の衆生のために、御本仏の大生命をとどめ置かれた。まさに「我常在此裟婆世界、説法教化」(法華経四七九ページ)の経文のごとく、仏が常に此の裟婆世界にあって、説法教化されている御姿である。
 創価学会は、その大法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏の御使いとして出現した。そして、大聖人の御精神のままに、苦悩にあえぐ人びとを救い、菩薩道を行じてきた唯一の団体である。それは、未来永遠に続くであろう。
 すると、学会の存在もまた、「我常在此裟婆世界、説法教化」の姿ではないか。してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう――。
 戸田の胸に、熱い感動が込み上げ、あふれ出る感涙が枕を濡らした。
 彼は、この不思議なる創価学会の存在の意義と大使命を、後事を託す青年たちの生命に刻印し、永遠に伝え残すことが、自分の最後の仕事になろうと思った。
 戸田は、勇み立つ心を抑えながら、ともかく元旦から活動に復帰することを心に深く期した。
 それからの数日間、彼は、昼間は起きて座っているように努め、また、家のなかで歩行練習をして過ごした。病苦は去ったかに見えたが、表弱した体の不安定さに、われながら愕然とする瞬間もあった。しかし、彼の胸には、生涯の総仕上げに向かって、使命の炎が燃え盛っていた。

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