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日蓮大聖人・池田大作

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憂愁  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  日ごとに秋の気配が深まっていくにつれて、戸田城聖の健康は、次第に回復しつつあるように見えた。
 戸田自身、あの耐えがたかった暑熱の夏に比べると、食欲も増し、体調も整ってきているように感じられたが、体の芯にまとわりついているような疲労感が抜けることはなかった。しかし、たぎり立つ気迫が彼を支えていたのである。
 九月下旬のある日、戸田は学会本部にあって、各方面の未来の構想を考えていた。
 ″夕張支部の結成によって、五支部の体制となった北海道は、ひとまず広宣流布の布陣は整ったとみてよい。次は、南の九州をどうするかだ。今、先手を打っておけば、九州の大発展の基盤をつくることができる″
 当時、九州は、北部に福岡と八女の二支部があり、両支部の陣容は、既に約四万世帯に達していた。
 このほか東海岸の大分、別府、延岡、宮崎などの主要都市には、関西の船場、松島、梅田の各支部が、それぞれ、千世帯から二千世帯の支部員を有していたのである。
 さらに、熊本、鹿児島にも、足立支部など、八千世帯の学会員がおり、九州は、総勢五万五千九百世帯になっていた。
 九州も、関西や北海道のように総支部を結成し、同志が結束を図っていけば、さらに大きな飛躍を遂げるであろうことは間違いなかった。
 戸田城聖は、春の総会のころから、そのことに気づいていたが、誰を、この総支部の責任者にするかとなると、いささか思案に暮れざるを得なかった。地元の九州からは、全九州を任せるに足りると思える人材は見いだせなかった。
 すると東京から、誰かを派遣しなくてはならないことになる。しかし、彼の側近は、皆、一人で幾つもの役職を兼任し、フル回転している。誰を派遣するにしても、大きな支障をしたすことになる。だが、事態は、もはや一刻の猶予も許されぬ段階にきていた。
 ″誰かを選ばねばならない″
 戸田は、まず山本伸一を思い浮かべた。しかし、伸一は青年部の室長として、学会全体を担う屋台骨の存在であり、既に学会は、事実上、彼を中心にして動いていた。
 ″伸一なら、盤石な組織をつくりあげ、九州を大阪以上に大発展させるであろうが、伸一は、学会の未来を託すために、私の側に置いて、訓練の総仕上げをしなくてはならない″
 そう考えると、伸一だけは、どうしても動かすわけにはいかなかった。
 ″では、誰がいるか。九州に頻繁に通うとなると、年輩者ではなく、青年の方がよい。それに、九州となんらかの関係がある幹部の方が、地元にもなじみやすい″
 戸田城聖は、九州に縁のある若手幹部を思い起こして、九州総支部長の候補として考えてみた。
 しかし、いずれも、力量、人格、見識などを考え合わぜると、首をひねらざるを得なかった。″この人物ならば″と思える候補がいないのである。
 彼は、しばらくは現状のままで、いかざるを得ないかとも思ったが、九州の発展のためには、今、どうしても手を打たなければならないことを痛感していた。
 九州は、初代会長・牧口常三郎も、弘教に足を運んだ縁の地である。その大地に、今、五万数千の同志が育ち、飛翔の時を待っていることを思うと、総支部の結成は、なんとしても行わないわけにはいかなかった。
 戸田は、候補として考えてみた幹部の顔を、再び思い浮かべながら、思案を重ねるのであった。
 ″あえて選ぶとすれば、石川ということになるかな″
 小岩支部長に就任した石川幸男は、九州の出身ではないが、夏季地方指導では、これまで九州の八女や福岡などに派遣されてきた。また、教学の講義の担当講師として、福岡を中心に九州の指導にあたってきていた。
 彼は、一九五〇年(昭和二十五年)十一月の入会であったが、戸田は、翌年四月に聖教新聞が創刊された時には、編集スタッフに任命し、程なく編集長とした。実際に大きな責任をもたせて、人を訓練するというのが、戸田の人材育成の方法でもあった。五一年(同二十六年)七月の男子部結成式の折には、彼は、第一部隊長に抜擢され、一年半後には、青年部出身の初の支部長として、小岩支部長に就任したのである。
 まさに琴星のように、短日月のうちに登場してきた幹部といってよい。
 しかし、それだけに、戸田には、気にかかることも少なくなかった。
 学者肌の石川は、教学に力を入れ、編集者としての力も着実に増していったが、実践力に欠け、人への配慮に之しいのである。出会った同志があいさつをしても、まともに返事もしないといった声や、支部員に対する態度が、横柄で冷たいといった声も出ていた。
 戸田は、彼の自己中心的な性格と、次第に兆し始めた慢心を見て取り、憂慮していたのである。
 また、酒を飲んで乱れることも、戸田の心配の種であった。酒を口にすると、別人のようになって、周囲の人に絡み、時には、自分の支部員に際限のない酒まかせの指導をすることもあった。戸田は、そうした振る舞いに対し、「君の酒の飲み方は下臈の酒だ。下臈の酒は飲むな」と注意を重ねてきた。
 戸田は、石川に厳しい指導もしてはきたが、本当に激しく叱ることは少なかった。むしろ、身近に置いて、擁護し、讃えるように努めてきたといってよい。内向的な性格の男であるだけに、厳しい火を吐くような指導は、受け止め切れないことを、よく知っていたからである。
 学会の首脳幹部の采配に問題があった場合、常に戸田から叱責されるのは、山本伸一であった。理事長の小西武雄たちは、自分たちに戸田の叱責が及ばぬことに胸をなで下ろし、「防波堤」と呼んでいた。
 石川は、自分が叱責されないのは、立派な弟子であるからだと思っていたようだ。彼には、自分を見つめ直す自省の心が薄かった。それが、慢心にもつながっていたのである。戸田は、そのことにも気づいていた。
 ″九州人は、情が熱い。彼は理屈屋だが、九州にもっていけば、「情」と「知」がうまくかみ合って、九州に新しい力が湧くかも知れぬ。九州の総支部長として、戦わせてみるか……。
 また、九州の地で、組織の第一線を汗まみれになって駆け巡り、同志を励ましていくなかで、彼も、本当の信心、本当の学会を肌身で知ることができるだろう。その戦いを通して、机上の信仰と、兆し始めた慢心を打ち破ることもできよう″
 人間の完成は、荒れ狂う人間の海のなかで激しく波にもまれ、自らの信念の航路を切り開いていくことによって、なされるものだ。
 自分が机上で組み立てた観念の世界に、こもりがちな石川は、自己の観念の尺度で、人も、現実も、裁断していくきらいがあった。そうした在り方は、仏法を偏狭な自分の考えでとらえ、それを絶対視するところから、恐るべき教条主義に陥りかねない。また、現実が自分の思うに任せぬとなれば、最後は、すべてを周囲のせいにすることになろう。そこに、自分の観念の殻にともる人間の落とし穴もある。
 広宣流布のリーダーとして、人格をつくるために不可欠なものは、自分の殻を砕くことである。それには、全精魂を傾け、一切をかなぐり捨て、必死になって戦う、真剣勝負の戦場が必要となる。
 一抹の不安はあったが、戸田城聖は、あえて石川の可能性にかけ、彼を九州総支部長に任命しようと決めたのである。
 九州総支部の人事は、九月三十日の、九月度本部幹部会の席上、発表された。
 総支部長を補佐する総支部幹事には、八女支部長の鬼山勝春が就任した。そして、小岩支部長は、江東総支部長の泉田弘が兼任することになった。
2  戸田城聖にとっては、慌ただしい日々が続いていたが、十月に入ると、思いがけないニュースが世界を駆け巡った。
 十月四日、ソ連が、世界最初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したというのである。ラジオや新聞は、世紀の大事件として大々的にこれを取り上げ、世界の耳目はこのニュースに注がれた。
 人工衛星は、直径わずか五十八センチメートル、重量八十三・六キログラムの球体で、地上に電波を送りながら、楕円軌道を描いて一時間三十五分ほどで地球を一周するという。秒速は約八千メートルである。
 人工衛星の打ち上げ成功のニュースに、人びとは沸き返り、誰もが宇宙時代の到来を感じた。戸田城聖の周囲にいる人びとも、戸田の人工衛星に対する発言を促すように、驚嘆した感想を語った。
 「先生、これは宇宙の神秘に対する、人間の知恵による挑戦ではないでしょうか。この分ですと、宇宙生命の神秘の扉が開かれる日も近いですね」
 「さあ、どうかな。そう簡単にいくものでもないだろう」
 戸田は、極めて冷静であった。一個の人間を、そして大宇宙を貫く生命の大法を思えば、人知の限りを尽くした人工衛星の打ち上げも、無限の宇宙空間に蛍火を投じただけにすぎないと、彼には感じられた。
 「でも、やはり、これは人類の壮挙であり、勝利とはいえないでしょうか」
 「壮挙にはちがいないが、勝利とは必ずしも言えないぞ。人工衛星が軍事的に利用されれば、むしろ、人類の悲劇を増幅させることになるからな」
 「先生、新聞などでは、宇宙旅行も、もう夢ではなくなったと言っていますが、そうなると、広宣流布も宇宙的に考えなくてはいけませんね」
 戸田は、それを聞くと、笑いだした。
 「おいおい、地球の一角の、小さな国の広宣流布も、まだ始まったばかりなのに、そう宇宙にまで飛躍されては困るな。
 大事なのは足もとだよ。しっかり、足が地に着いていなければ、観念の広宣流布はできても、現実の広宣流布はあり得ない。何があっても浮き足立つのではなく、妙法の旗を掲げて、現実の大地に、しっかりと立つことだよ」
 戸田は、常に壮大な宇宙を仰ぎ、深い思索を重ねながらも、彼が現に立っている足もとを忘れることは、決してなかった。現実の諸問題に、日々、心を砕きながら、懸命に格闘し続けていたのである。
3  十月十三日には、九州総支部結成大会が行われ、戸田城聖は福岡にいた。会場となった福岡市内の大学のラグビー場には、晴天の秋空のもと、九州各地から約三万人の会員が集った。
 午前九時に、結成大会は開会となり、学会歌、経過報告に続いて人事が紹介された。そして、地元九州を代表して、八女支部と福岡支部の幹部が、総支部結成の喜びを語ったあと、総支部長に就任した石川幸男が、抱負を述べた。さらに、理事長の小西武雄らのあいさつがあり、会長・戸田城聖の指導へと移っていった。
 戸田は、はつらつとした三万人余の九州の同志を見て、「火の国」に旭日を仰ぐ思いがした。
 古来、大陸との交流も深い九州に、かくも多くの地涌の戦士が涌出し、総支部が結成されたということは、東洋広布の時代の到来を告げるものであると、彼には思えた。
 戸田は、満面に笑みをたたえながら語り始めた。
 「本日は、晴天に恵まれ、九州男児、九州婦人の健康なる姿と心を見て、私は、まことに嬉しく思いました。
 思うに、今、世界は原子爆弾の脅威に怯えきっている。また、日本の国内を見れば、自界叛逆の難の恐ろしさにあえいでいる。たとえば政界にせよ、経済界にせよ、絶えず対立を繰り返している。どこに調和があるだろうか。まさに、民衆救済の大責務は、創価学会の肩にかかっていると、私は信ずるものであります。
 願わくは、今日の意気と覇気とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたいと思う。これをもって私の講演に代える」
 話は、極めて短かった。しかし、万感の思いを託しての指導であった。
 会場では、このあと、九州総支部の結成を祝賀する大運動会が行われた。和やかに競技が展開され、午後三時に終了し、散会となった。
 戸田は、翌十四日には大阪に向かった。御書講義のためである。
 彼が大阪に着くと、法主を務めた水谷日昇が逝去したとの知らせが届いていた。
 ――十月十四日午前二時二十分、日昇は息を引き取った。十月七日に病床に臥し、七日間の加療が行われたが、高齢のためか快癒はかなわず、総本山内の蓮葉庵で最期を迎えた。七十九歳であった。戸田城聖は、大阪から、直ちに総本山へと向かった。
 彼が、十月十日に、蓮葉庵を訪れ、日昇を見舞った時には、病床で来訪を待っていた。
 日昇は、一九四七年(昭和二十二年)、総本山第六十四世の法主となった。折から農地改革で総本山は経営の基盤を失い、厳しい困苦のなか、宗門の再興に力を注いだ。そして、学会の赤誠の外護のもと、五重塔の修復、奉安殿の建立をはじめ、各地に寺院が建立され、五六年(同三十一年)三月に退座するまで、宗門は大きく発展した。
 戦後の創価学会は、日昇の登座と時を同じくして草創の歩みを始めた。そして、五一年(同二十六年)に戸田が会長に就任すると、学会は飛躍的な発展を遂げ、総本山の興隆に尽くしてきた。
 十五日の通夜の席で、戸田城聖は、ひとしお尽きぬ感慨に駆られて、苦難の過ぎし日を思い返した。
 ――敗戦直後から数年間の、あの疲弊した総本山の姿。参道の石畳を踏む人も、まことに少なく、宝蔵で御本尊を拝する人影は、いたって少なかった。
 農地法施行による宗門の収入の途絶から、僧侶は鋤鍬を振るって荒れ地を畑に変え、食糧の自給自足に励まなければならなかった。
 戦時中、壊滅の危機に瀕した学会は、焼け野原に一人立った戸田城聖の孤軍奮闘から、再建の歩みが始まった。しかし、しばらくは、はかばかしい発展もなく、困窮の総本山を目にしながらも、思うに任せなかった。
 日昇の辛労を知りつつ、戸田は、さらに辛かった。彼は、″いつの日か……″と、人知れず心に繰り返し、総本山の再興を誓った。そして、供養の限りを尽くし抜いていったのである。
 日昇は、五一年(同二十六年)に、創価学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊を、さらに、五五年(同三十年)には、関西本部の「大法興隆所願成就」の御本尊を認めている。
 この関西本部の入仏式の折り、日昇は、「先年は、本部の御本尊といい、ここにまた関西本部の御本尊をお認めすることは、私は実に何たる幸福で、人生の幸福、大満足に感謝にたえません。涙をもって三宝にお礼を申し上げるとともに、皆さまにも感激の涙をもってお礼申し上げる」と述べている。それは、広宣流布に邁進する学会への、深い賛嘆の心から発せられた言葉であったにちがいない。
 戸田城聖は、通夜の唱題のなかにあって、日昇を偲んでいた。戦後十二年、今、総本山は、大講堂建設の槌音がこだましている。外壁は、ほとんど完成し、巨大な杉木立のなかに、富士を背にした威容を現す日も近くなった。その完成を間近にした今、日昇が逝去したことが、戸田は残念でならなかった。
 彼は、日昇の枢の前で思った。
 ″せめて来春の大講堂落慶までは、ご健勝でいていただきたかった……″
 十月十六日には、日昇の密葬が、しめやかに行われた。本葬は、十月二十五日と決まった。
 本葬の日は、朝方に秋雨が降っていたが、間もなく雨も上がり、昼近くになると薄曇りのなかを、秋風が颯々と吹いていた。
 午後零時三十分、学会の音楽隊が葬送の調べを奏でるなか、客殿から、行列が、竹矢来に囲まれた経蔵前の式場へ向かった。戸田城聖も、この行列のなかにあった。学会旗、支部旗、男女部隊旗と、百十八本の旗を翻し、学会幹部千五百人が、粛々として進んでいった。
 午後一時二十分、開式となった。
 戸田は、出獄以来十二年にして、かくも多くの会員によって、日昇を見送ることができ、悲しみのなかにも、いささか気持ちが慰められた。まだ、戸田の念願とする広宣流布は緒についたばかりだが、葬送の光景は、広宣流布の一つの事実相を表していると彼には思えた。
 日昇の本葬を終えて東京に帰ると、戸田は、常にない疲労を覚えた。
 彼の気力は、変わることなく、旺盛に見えたが、このころから、ごろりと横になって休息を取ることが、日増しに多くなっていった。しかし、体の変調を誰に訴えるわけでもなかった。時間が来れば、悠然として起き上がるのである。
 山本伸一は、戸田の様子から、師の体調の変化と、ただならぬ覚悟を感じていた。
 十月二十八日には、十月度の本部幹部会を前にして、人事の決定のために理事会が開かれた。戸田は、この席で、思いがけない発言をした。
 「これからは、人事の決定は、理事長を中心に、みんなでよく相談して決めなさい」
 「…………」
 理事たちは、この突然の発言の意味がのみ込めず、戸田の顔を見た。
 彼の表情は、平生と変わらず、何事のないかのように見えた。
 「このところ、みんなも育ってきたからな。私に代わって、人事を決定してもよいことにしよう。今後は、君たちに任せるよ」
 理事たちは、この言葉で、戸田が、人事の決定権を譲ろうとしていることに気づいた。
 これまで戸田は、人事の決定については、極めて厳格であった。地区部長、地区担当員以上の役職者の任命は、会長の権限であり、戸田は、その一人ひとりに対して、全神経を集中させるかのように熟慮し、慎重に慎重を期した末に、決定の断を下してきた。
 組織の拡大につれて、月々の新任幹部の任命は、かなりの数に上っていたことは事実であったが、戸田はこれまで、人事だけは、決して人には任せなかった。
 理事長の小西武雄をはじめ、理事たちの間には、健康状態のあまりよくない戸田を目にするにつけ、日常の組織運営の問題では、なるべく戸田を煩わせることのないようにしようという、暗黙の了解のよう、なものができつつあった。
 だが、人事だけは別であると、誰もが考えていた。しかし、戸田は、その人事を任せるというのである。
 「わかりました。私どもでやってみます」
 小西は、半は戸惑いながらも、こう答えた。
 戸田が、人事を小西たちに委ねたのは、人事の決定が煩わしくなったからではなかった。長い将来のために、あえて大切な人事を任せ、その決定のいかんで、組織は生きもすれば、死にもするという機微を、彼らに悟らせる訓練をしたかったのである。
4  十月三十一日の夜、東京・池袋の豊島公会堂で、十月度本部幹部会が行われた。
 十月度の折伏の成果は、二万三千二百五十六世帯であった。この月の学会の世帯数は、七十二万五千世帯となっている。一九五七年(昭和三十一年)の学会世帯数の達成目標は、八十万世帯である。
 小西理事長は、参加者に語った。
 「したがって、あと七万五千世帯の折伏が、本年の戦いとして残っていることになります。しかし、十一月、十二月と、それぞれ四万世帯ずつ折伏をやるというのは、かなり大変なことです。
 そこで、無理な折伏をするのではなく、今年は七十五万世帯までもっていき、それで打ち切ることにしたいと思います」
 七十五万世帯の達成――それは、五一年(同二十六年)五月三日、戸田城聖が会長に就任した折、いまだ、実質三千人ほどの会員にすぎなかった時代に、彼の生涯の願業として掲げた目標であった。
 折伏がいかに難行であるかを実感していた会員たちにとっては、七十五万世帯は、途方もない数字であるように思われた。それが七年足らずの短日月で、いよいよ年内には、実現が疑いない事実となったのである。
 あの会長就任式に参加した古くからの会員たちは、今さらのように、深い感慨を覚えるのであった。
 幹部会は、会長・戸田城聖の指導へと移っていった。
 この戸田の指導は、その日の最後の話であっただけでなく、彼の本部幹部会での最後のあいさつとなったのである。以来、戸田は、毎月の本部幹部会に姿を見せることはなく、翌五八年(同三十三年)四月の逝去を迎えるのである。
 この夜、戸田の相貌には、既に、やつれが見えていた。しかし、彼は、それを感じさせないほどの気迫に満ちていた。
 彼は、冒頭から憤激した様子で語り始めた。
 「半年以上前から、面白いことを聞いている。公安庁から出たのか、警視庁かわからんが、『マル秘』というかたちで、『学会の動きを、全部、報告せよ』という指令が出ているのだそうです。
 『マル秘』というのは、秘密に調査せよという意味らしいが、いったい、われわれは、何か悪いことをしたことがあるのか。君ら、何か悪いことをしているのか。私は、していないぞ。
 われわれは、民衆救済のために、東洋の救済のために活動している。その学会に対して、政府が、そんな指令を出したとするなら、政府が間違っている」
 その動きは、春ごろから始まっていたらしい。今となってみれば、戸田には、四月の大阪の参議院補欠選挙で端を発した、理事長や室長の逮捕事件も、大きな一つの脈絡のなかで、起こったことのように感じられるのであった。
 どこで、誰が操っているのかは測りかねたが、国家権力が、学会を虎視耽々と狙っていることは間違いなかった。
 大阪事件も、初公判が行われたばかりである。この先、国家権力と対峙しながら、広宣流布の歩みを進めていくことは、想像を絶する労作業になるであろうことを、戸田は予測せざるを得なかった。
 「そういう問題がありまして、非常に険悪な空気です。しかし、それに驚いて、″折伏をやめる″などというわけには絶対にいかん。世界の民衆を救うのは、南無妙法蓮華経以外にないのです。
 こんなことで怖がってはならん。恐ろしかったら、明日から信心をやめなさい。あなた方が信心をやめても、いっこうに私は困りません。
 今日の講演は、短いようであるけれども、日本政府に対する私の一つの抗議だ。『マル秘』で、何をどうしようといいけれど、『ふざけるな! こっちは何も悪いことはしていないぞ!』という抗議です。
 君らも、その精神があってこそ弟子です。この精神があればこそ、東洋の民衆を救えるんです。この精神がなかったら、世界の民衆は救えません」
 戸田の激しい憤怒は、彼の言葉の端々にも、声の抑揚にも現れていた。彼は、いかなる権力にも、一歩も退かぬ勇気こそが、広宣流布の力であることを教えておきたかったのである。
 臆病者は去れ。わが弟子にあらず――戸田は、心にそう叫びつつ、話を結んだ。
5  戸田城聖は、このころから、自身の死について語ることが多くなっていった。
 しかし、それは、いつものユーモアにつつまれ、本当の話のようにも、冗談のようにも思えるのである。
 戸田は、彼の家のお手伝いさんに、こう言うのだった。
 「来年の四月、桜の花の咲くころに、私は世を去るだろうな」
 また、側近の幹部たちをつかまえては、こう語った。
 「君たちも、よく成長したものだ。間もなく、君たちともお別れだな。今のうちに聞きたいことがあれば、なんでも聞いておきなさい。あとで後悔しても、私は知らんぞ。ハッハッハッ……」
 笑い声は明るかった。人なつっこい目が、優しく微笑んでいる。話しかけられでも、とっさのことで、誰も、どう答えてよいのかわからなかった。
 婦人部の幹部が、「先生は、使命がおありですから、まだまだ、お亡くなりになんかなりません」と、目を潤ませて答えると、彼は笑って言うのである。
 「これだけは、どうしょうもないんだよ……」
6  風は強いが、抜けるような青空が広がっていた。
 十一月八日、東京・文京区の後楽園競輪場で、この日、第十七回秋季総会が開催された。
 五月三日の春季総会以来、半年ぶりに、北は北海道から、南は九州までの、全国の代表六万人が集っての総会であった。
 総会は、正午に開会となった。経過報告、体験発表、青年部の決意発表などのあと、法主・日淳の講演に移った。
 旦淳は、祝福の微笑を満面にたたえ、話し始めた。
 「本日は、第十七回総会に出席できまして、皆様のご信心に励まれておりまする、そのいろいろなる様子をうけたまわることができまして、まことに、感銘、感激をいたしておる次第でございまする。この機会において、まず申し上げたいのは、創価学会の力によりまして、本山に大講堂が建設をされました。今や完成を見るにたち至っております。この学会の力に対しまして、深く御礼の心を申する次第でございまする」
 そして、末法の広宣流布は、釈尊の予言であり、それを真実ならしめたのは日蓮大聖人であることを述べ、さらに、次のように語った。
 「一閣浮提広宣流布を着々と実践されておりまする創価学会のこの活動は、また、釈尊の経典を真実ならしめるものであると、私は思うのです」
 期せずして、大拍手が湧き起こった。同志の瞳に、歓喜の光が走った。
 日淳は、さらに、原水爆の問題に言及し、それが投下されるかどうかは、人間の心のいかんにかかっており、その心を決定しゆくものが宗教であると語り、広宣流布への、一層の精進を呼びかけた。学会への大いなる期待を託しての講演であった。
 この総会には、ニュース映画社や新聞社など、二十数社の記者やカメラマンが取材に来ていた。あの炭労問題以来、創価学会は社会の注目を浴び、ジャーナリズムの格好の的となっていたといってよい。
 学会に対する正しい認識に欠け、偏見のうえに誤解を重ねたような報道が少なくなかった。
 戸田城聖は、式次第が進むうちに、当初、考えていた講演の主題を変えて、この機会に、学会の目的がなんであり、また、何ゆえに発展しつつあるのかを、ジャーナリストたちに表明しておこうと、心に決めたのである。
 「会長講演、戸田城聖先!」
 壇上に立った戸田は、ゆっくりと会場を見渡してから口を開いた。
 「会長講演といっても、面倒な話は別にない。ただ御本尊様を信じて拝め! それ以上、教えることはありません。
 ところで、最近は、新聞は飽きてしまったのか、学会のことは、あまり書かんようだが、雑誌が学会のことをいろいろ書いている。こうしたマスコミというのは、学会について書けば、必ず売れると思っているらしい。
 さて、その書き方というのが、面白いというか、どうも偏ってしまっている。ある学者は、学会は、共産主義に通じるものであり、危険であると見ているし、ある評論家は、学会は、民衆の不満のハケ口になっており、それで会員が増えているという見方をしている。さらに、組織があるから学会は発展したという人もいた。
 しかし、いずれも、極めて皮相的な偏った見方にすぎない。そんな視点で、学会をとらえようとしても、本当のことはわかるわけがありません。また、仏法という観点から学会を論じている人もいますが、釈尊の仏法と日蓮大聖人の仏法を一緒にして考えている」
 彼は、このあと、釈尊の仏法と大聖人の仏法に、歴然とした違いがあることに触れ、その違いを知らなければ、大聖人の仏法がわかるはずはないと訴えた。
 「書く人が、学会のことを本当に知りもせず、誤った認識に基づいて書いているのだから、それを読んで本気にしたら、とんでもないことになる。
 まぁ、こうした類いのものは買わない方がよい。そうすれば書かなくなる。君らが買うから書くんですから。学会のことが書いであっても、知らん顔していればよい。
 私には、妙な甥っ子が一人おります。まだ二つぐらいですが、私の顔を見ると、『おじちゃま、きらい』と、こう言うのです。私のことを。何も知らんのに生意気です。しかし、そう言われでも、私は嬉しいとは思うが、腹など立てません。
 今のジャーナリズムに対しても、皆さん方は、そういう気持ちで、笑って見ていればよい」
 爆笑が秋空に舞った。戸田城聖の声に、力がこもっていった。
 「ここで、私が言っておきたいことは、学会の発展の力とは何かということです。それは明快です。学会には信心がある! 御本尊がある! すべては、この信心の功徳から出たものです。率直に物事を見ていけば、すぐにわかることです。しかし、学者も、評論家も、ジャーナリストも、なぜか、それに気づかない」
 戸田は、大きく息を吸うと、会場に視線を注いだ。レンズを彼に向け、盛んにシャッターを切るカメラマンの姿が目に入った。
 「学会は信心が中心です。信仰の団体です。政治をすることが目的ではないし、経済をどうこうしようというために、つくられた団体でもありません。
 政界に同志を送り出したのも、信心をした者として、社会をよくしよう、民衆が本当に喜べる政治を実現しようとの、人間としての真情の発露からです。信心を根本にして、日本の民衆を、世界の人びとを幸せにしようというのが、創価学会の心です。
 このことを、皆さんが腹に収めていれば、どんな的外れな批判を書かれたとしても、何も動ずることなどないはずです。雑誌に、とやかく書かれたぐらいで、ビックリ、シャツクリするようなら、信心をやめなさい。これが講演です」
 戸田の話は、痛快でさえあった。
 取材に来た多くの記者たちは、驚き、戸惑いの表情を浮かべていた。葬式仏教と化してしまった伝統宗教の在り方に慣らされ、そういうものが宗教であると思っているジャーナリストにとっては、学会は、彼らの宗教観を大きく超えた存在であったにちがいない。
 「よしの髄から天井のぞく」という言葉があるが、自分の見識に収まりきらぬものを、狭量な自己の尺度に当てはめようとすれば、実体とは、かけ離れた、誤った認識に陥らざるを得ない。
 戸田が訴えようとしたことの眼目も、そこにあった。しかし、それによって、いったい何人のジャーナリストが、己の非を省みたかとなると、はなはだ疑問であった。彼は、むしろ未来のために、総会という公式の場で、渾身の叫びをもって、創価学会の真実を伝えようとしたのである。
 また、戸田は、常々、「信なき言論は煙のごとし」と語っていたが、その取るに足りない煙のような言論に巻かれ、信心の軌道を踏み外してしまうことのないように、同志に警鐘を鳴らしておきたかったのであろう。
 戸田は、意気軒昂として席に戻ったが、その歩行は、心なしか乱れていた。疲労というよりも、彼の体は、既に病んでいたのである。
 この時、これが、戸田城聖にとって最後の総会になることを知る人は、誰もいなかった。
7  行事は、戸田城聖に休む暇も与えず、追い立てていった。総会の翌日には、登山会のため、総本山に向かった。同行した山本伸一は、戸田の顔に光沢がなく、青みを帯びていることに気づき、ひそかに胸を痛めた。
 しかし、戸田は実に快活であった。
 車中、通路を挟んだ隣の座席に、道路建設の権威と言われる人がいることに、伸一は気づいた。年齢は六十代後半のはずだが、精力的で若々しい人であった。戸田にそれを伝えると、彼は興味深そうに、「紹介しなさい」と言うのである。
 紹介が終わり、二言、三言、言葉を交わし合ううちに、″道路博士″と戸田は、すぐに意気投合していった。
 ″道路博士″は、戸田に、青森から大阪に至る道路を計画中であると語った。
 その話を聞くと、戸田は笑いながら言った。
 「ほう、いまだかつてない、日本一の道路というわけですな。しかし、日本だけが世界ではありませんよ。どうせなら、もう一歩広く構想し、朝鮮半島から、中園、インドまで行く道路を考えてみたらどうですか」
 「世界につながる道ですか。私は、日本一の道路をつくることを最大の誇りに思っていましたが、そこまでは考えなかった。いやあ、あなたの方がはるかにスケールが大きい」
 ″道路博士″は盛んに感心しながら、愉快そうに声をあげて笑った。
 戸田は言った。
 「私は、仏法というものを、東洋、そして、世界へと弘め、人間の心の道を開いていこうと思っておるのです」
 それから、対話は哲学に及んだ。″道路博士″は、大きく頷きながら、戸田の話に聞き入っていた。
 「なるほど。あなたは絶対に崩れない心の道路を、全世界につくろうとしているんですな。形而上のことは、あなたにお任せしましょう。そして、形而下のことは、私がやりましょう」
 初対面ながら、打ち解けた和やかな語らいであった。やがて、″道路博士″は下車した。
 それを見送ると、戸田はポツリと言った。
 「すぐに理解し合えたよ」
 伸一は、戸田の偉大さを、即座にわかる人物がいたことが嬉しかった。
 「伸一、大切なのは対話だよ。これからは対話の時代になる。広宣流布のためには、君もこれから、一流の人間と、どんどん会っていくことだ。人と語るということは、戦うということであり、また、結び合うということだよ」
 「先生、そのために必要な力とはなんでしょうか」
 伸一が尋ねた。
 「そうだな、教養、見識は当然だが、確固とした哲学をもつことだ。そして、最大の決め手は人格だよ」
 伸一にとっては、こうして戸田に教えを請う時が、いちばん楽しく、充実したひと時であった。
 この日、戸田城聖は、総本山に着いてからも、伸一との語らいの時間を、努めてもつようにした。
 理境坊にあっても、伸一に、永遠の生命について、深遠なる法理を語り説いた。まるで、自身の体のことなど、気にもかけていない様子であったが、常になく優しさが目立った。
 夜は、戸田を囲んで質問会が行われたが、彼は、珍しく短時間で切り上げた。
 翌十日、伸一は東京へ戻り、戸田は熱海で下車した。
 戸田が熱海で降りたのは、翌日が本部職員らの秋季旅行の日で、伊豆の網代に行くことになっていたからである。彼は、この夜は熱海に一泊して体を休め、一行とは網代で合流することにした。
 十一日午後一時、伸一は、皆とバスで本部を出発した。一行は、夕刻には網代の海辺の旅館にくつろぎ、楽しそうな歓談の声が随所に弾んでいた。
 夕食は、戸田を囲んでの、和やかな交歓のひと時となった。歌や踊りも飛び出し、皆は日ごろの激務を忘れて、大いに英気を養った。
 最後に、戸田も舞った。しかし、いつもの戸田の舞とは、どこか違っていた。ふらつき、息遣いが激しかった。伸一は、ひとり暗い予感を覚えた。
 翌朝、一行は、網代の旅館を発ち、ミカン狩りを楽しんだ。
 伸一は、旅行の記念に、楽しげな皆の様子を、初めて買い求めたカメラに収めていた。戸田にレンズを向けると、痩せ細った姿が痛々しく、胸を突かれた。
 ″先生、どうか、お元気でいてください!″
 伸一は、思わず心に叫びつつ、シャッターを切った。
8  それからの戸田は、本部にいる時は、二階の和室の会長室を避け、一階の応接室のソファに横になっていることが多くなった。
 職員旅行から、数日後のことであった。伸一は、大講堂の最終工事の状況を伝えに、戸田のいる応接室に行き、ドアを開けた。
 「伸一か、入りなさい」
 戸田は、ソファに横たわり、何事かを考えているようであった。
 「先生、お体の具合はいかがでしょうか」
 「大丈夫だよ。ちょっと疲れているだけさ。しなければならんことが、たくさんあるうちは、人間、そうやすやすと死ねるものではない」
 戸田は、伸一の心を察して、安心させるように言ったが、その頬には寂しい影が浮かんでいた。
 伸一は、大講堂の最終工事が順調に進んでいることを、手短に報告した。戸田は、目を閉じて、それを聞いていたが、聞き終わるとソファに身を起こし、伸一にも座るように勧めた。
 そして、穏やかな口調で、自分の半生を回顧するかのように語り始めた。
 「私は、広宣流布という尊い仕事に、自分の命をかけさせていただいた。どんな人間でも、崇高なる目的に生きることによって、強く、大きな力を得ることができるものだ。
 私にとって、最も厳しい人生の試練は、戦時中の獄中生活だった。軍部政府は、私の最愛の恩師の命を奪い、学会を壊滅状態に追い込み、私の体も、事業も、ボロボロにした。
 しかし、私は、この二年間の獄中生活に勝った。己を捨てたからだよ。広宣流布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時から、なんの迷いも、恐れもなかった。
 この決意をもって唱えた独房での二百万遍の唱題のなかで、御本仏と共にある久遠の自分を知り、地涌の菩薩としての使命を自覚するにいたった。独房という地獄のなかで、最高の歓喜に、法悦につつまれ、不可思議な境地を会得したのだ。
 金色の光を一身に浴びるような、無量の随喜に打ち震えながら、私は、妻の両親に手紙を書き送った。
 私がいる限り富める者なれば落胆しないでくれ――と。
 平凡な取るに足りぬ男が、偉大なる使命を知り、不動なる大確信を得たんだよ。
 やがて、会長に就任した時、私は、七十五万世帯の折伏を誓った。最初は、誰も本気にさえしなかった。しかし、そんなことは、私の眼中にはなかった。自分一人でも、やろうと思っていたことだからだよ。それは、私が、この世で果たさなければならぬ、私の使命だからな。
 人を頼む心があれば、本当の戦いはできない。人を頼み、数を頼る――その心にこそ、敗北の要因があるものだよ。私は、この世でやるべきことは、すべてやったと思う。人間として、なんの悔いがあるものか」
 戸田は、さも満足そうに、伸一に笑いかけた。それから、彼方を仰ぐように目を細めて言った。
 「人間一人ひとり、皆、生涯になすべき仕事をもっている。私は、広宣流布の未来のために幕を開いたと思っているが、今になってみると、それが、私の仕事であったことがよくわかる。
 伸一君、君は、生涯をかけて果たすべき自分の未来の仕事について、考えたことはあるかな。……私が開いた舞台で活躍するのは、ほかならぬ君たちなんだ。しっかり頼むよ。ひとたび広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。戦いを起こしておいて負けるのは、人間として最大の恥だ」
 伸一は、戸田の話を、心に刻み込む思いで聴いていた。深い感動に言葉もなく、ただ、めっきりやつれた戸田の顔を、見つめるばかりであった。
9  十一月十八日、東京・池袋の常在寺で、午後六時半から、初代会長・牧口常三郎の十四回忌の法要が行われた。
 この日の法要には、牧口の遺族、戸田城聖をはじめとする牧口門下生、そして、地区部長、地区担当員など、五百人が出席した。前年、牧口の妻・クマが亡くなり、その姿が見えないだけに、一抹の寂しさが漂っていた。
 法要の最後に、和服姿の戸田が、懐かしそうに追憶を語った。
 体は、いたく重かったが、ほかならぬ思師の法要とあれば、彼にとって、そんなことは問題ではなかった。戸田は、微笑をたたえ、イスに座って話し始めた。声が、いささか、かすれていたが、いつもと変わらぬ気さくな話し方であった。
 「牧口先生のことを、普通、世間に言う時には、『初代会長』と申しておりますが、心で呼ぶときには、『おやじ』と呼んでおります。私は、自分は先生の一番弟子という気持ちでおります。こう言うと、さぞや褒められたと思うでありましょうが、それが、先生は一遍も褒めてくれない。文句は限りないほど言われました。
 ある日のことですが、目黒の駅で、お別れする時、先生に何か報告をしたことがあった。先生は返事をしない。こっちは、それでよいものと思って、その通りにやったら、それを怒るのです。
 私は、『でも、先生、報告したではありませんか』と言いました。すると、『聞いたけれども、いいとも、悪いとも、私は言わなかった。ただ、報告を聞いただけだ。それをおまえは、勝手にそんなへマをやってダメではないか』と、頭ごなしに怒られてしまった。
 きちんと報告したのだから、なんとか言ってくれたらいいのに。ペテンにかかったような気分で、悔しい思いをしたことを覚えています。先生は、そのぐらい厳しい、やかましい方でした。
 今の理事長の小西君も、理事の泉田君、原山君も、みんな褒められた口に入っているけれども、私は文句を言われるばかりで、褒められたことがないのだから、やはり、いちばん悪い弟子のなかに入っているのかもしれません。でも、おやじというのは、こういうものでしょう。
 先生は、厳格な、そして、真面目な、恩情のある人でした。その先生に、私は怒られてばかりいた。そういう弟子もいるのだから、私に少しばかり文句を言われでも、これは、初代からの伝統だと思ってください。
 以上、追憶談は、これで終わります」
 戸田の、牧口への懐かしきは、そのまま彼の、弟子へのいとおしさを表していた。
 彼のあいさつに、人びとは微笑を浮かべながら、在りし日の牧口を偲んだ。
 牧口の法要がすむと、戸田は、かつてない激しい疲れを感じた。彼が、いたく疲弊していることは、誰の目にも明らかだった。
10  山本伸一は、戸田城聖の体調が、来る日も、来る日も、気がかりでならなかった。
 戸田は、広島の寺院の落慶入仏式に出席するため、十一月二十日に広島へ出発することになっていた。しかし、伸一は、牧口常三郎の法要のあと、戸田が疲労困憊していた姿を思うと、広島行きは、一命にもかかわりかねないと感じた。
 十九日の昼近く、伸一は大東商工から本部に電話を入れ、職員に戸田の様子を詳細に尋ねた。
 「先生は、応接室でお休みですが、極度に衰弱されておられるようです」
 電話の声は、そう告げた。
 伸一は、午後になると、急いで本部にやって来た。
 ″明日の広島行きは、お止めしなければならない″
 応接室のドアを開けると、戸田はソファに横になり、何事かを考えているようであった。めっきりやつれ、弱っている戸田を間近に見て、伸一の心は激しく痛んだ。
 伸一は、床に座り、深々と頭を下げた。
 「先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください」
 必死であった。″なんとしても止めねばならない″という気迫が、伸一の全身から、ほとばしっていた。
 戸田は、身を起こし、じっと伸一を見た。
 「……それはできぬ。行く。行かなければならんのだ」
 「先生、ご無理をなされば、お体にさわり、命にもかかわります。おやめください」
 「そんなことができるか!」
 戸田は、声を張り上げて立ち上がり、伸一を睨みすえた。
 「そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ。伸一、それが、まことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ!」
 「…………」
 伸一は、目が涙で曇るのを、どうしょうもなかった。
 「四千人の同志が待っている。……伸一、死んでも俺を、広島に行かせてくれ。死んだら、後はみんなで仲よくやっていけ。死なずに帰ったなら、新たな決意で新たな組織を創ろう。後は、すべて御仏意あるのみではないか」
 戸田は、生命をかけていたのである。そうわかった時、伸一は号泣したい思いに駆られた。
 だが、その時、ドアをノックする音がした。秘書部長の泉田ためが、ドアを開けて顔を出した。師と弟子の、電撃のような語らいは、これで途絶えた。
 「なんの用だ……。早く言いなさい」
 戸田は、険しい声で言った。
 泉田は、大阪の裁判のことで、間もなく弁護士たちがやって来ることを伝えた。
11  一夜明けて、いよいよ広島行きの二十日になった。朝、泉田ためが、戸田城聖の自宅に迎えに来た。
 戸田は、「さぁ、行くか」と言って立ち上がろうとして、ガクッと、膝から崩れるように倒れた。彼は、もう一度立とうとした。しかし、足に力が入らないのである。二度、三度、足を踏ん張り、柱を握り締めながら、ようやく立ち上がったが、今度は、足を前に踏み出そうとすると、体がグラリと揺れ、また床の上に倒れた。
 妻の幾枝は顔色を変えた。戸田は、何度も起き上がろうとした。幾枝は、彼の腕を取ったが、それでも立ち上がることができなかった。全身の極度な衰弱が、彼の歩行を困難にしていたのである。
 戸田は、床の上に横になって、荒い息をしていた。
 「だめか……」
 彼は眉間に雛を寄せ、無念そうにとうつぶやくと、観念したように目を閉じた。
 幾枝は、主治医の矢部健也に電話し、往診を頼んだ。
 広島には、急遽、理事長の小西武雄が、戸田の代理として行くことになった。
 しばらくすると、矢部医師がやって来た。診察をしてみると、腹水が認められ、黄疸を併発し、全身の衰弱が著しかった。矢部は、肝硬変症の疑いがあり、しかも、かなり重篤な状態にあることを知った。
 彼は徹底治療の必要から、恩師であり、消化器内科の権威であるN大医学部助教授の木田利治医師に来診を依頼した。
 夜になって、矢部医師も立ち会い、木田医師の診察が行われた。矢部医師は、戸田は食欲もほとんどなく、強い倦怠感を訴えていることなど、病状を説明した。
 木田医師は、丹念に診察していった。
 確かに腹水がたまり、腹部は著しく膨隆している。上腹部を触診すると、肝臓が腫大し、硬くなっていた。また、眼球結膜には黄疸が現れている。肝硬変症であることは疑いなかったが、尿や血液など、詳細に検査することにした。
 戸田の諸検査事項の主な結果は、次のように出た。
 ――「尿ウロピリン体―強陽性」「尿ビリルビン―陽性」「尿蛋白―陽性」「尿糖―陽性」「血清黄疸指数―四八」「高田反応―四本」「便潜血反応―強陽性」「腹水試験的穿刺液―陽性」
 まさに満身創痩の病状といってよい。血清黄疸指数の正常値は七以下である。それが四八もある。
 しかも、便潜血反応が強陽性ということは、消化管に出血があることを示している。確かに、相当、重篤な症状である。
 当時、肝硬変症で腹水が出ると、通常、予後は極めて不良で、腹水がなくなる可能性は、いたって低いとされていた。
 木田医師は入院を勧めたが、戸田は、それを固く拒んだ。入院すれば、広宣流布の指揮は執れないと考えたからである。
12  戸田城聖の病の知らせに、本部は憂愁につつまれた。
 山本伸一は、ひたすら戸田の健康の回復と長寿を祈った。
 彼は、戸田の病魔の先に、時に死魔の影さえ感じながら唱題を重ねた。
 戸田は、これまで、わが身を顧みるととなく、広宣流布に挺身してきた。戦時中の獄中生活で、ボロボロになった体を十分に癒す暇さえなく、学会の再建に着手し、無理に無理を重ねて、激動の時代を一気に駆け抜けてきたといってよい。
 思えば、彼が最初に発作を起こしたのは、一九五四年(昭和二十九年)の二月のことであった。その時点では、まだ大きな疾患を発見することはできなかったが、過度の疲労が恒常化しており、静養が必要とされていた。
 彼は、気分が思わしくない時などに、主治医の矢部医師や、学会員であった医師の二見浩に診断してもらっていたが、それとても、目下の体調を確認するための参考としていたにすぎなかった。そして、体調が少しでも回復すると、不快であった日のことを、けろりと忘れたかのように、東奔西走するのであった。
 しかし、五六年(同三十一年)の春から秋にかけて、参議院議員選挙の支援のために全国各地を駆け巡るなかで、戸田は著しく健康を害した。このころから、尿量の増加とともに、夜間の頻尿、口渇といった症状が現れていた。
 矢部医師は、検査の結果、正常値が一デシリットル当たり一〇〇ミリグラム以下である血糖値が一八〇と出たことから、糖尿病と診断を下し、治療にあたった。
 戸田は、静養らしい静養をすることもなかったが、数カ月のうちに健康を回復し、同年の十二月には、尿糖も「+一」(擬陽性)となり、血糖値も一一〇となって、ほぼ正常に近い状態にまで戻ったのである。しかし、彼の体の抵抗力は低下したのか、風邪ぎみの日が多くなり、年末には、数日間、自宅で寝込まねばならなかった。
 こうして、五七年(同三十二年)を迎え、彼は、しばらく小康状態にあったが、大阪の参議院議員の補欠選挙を終えた直後の四月三十日、再び発作を起こして倒れたのである。この時、既に肝障害の徴候が現れていた。
 そこに、あの夕張の炭労の問題と、理事長の小西武雄や室長の山本伸一が不当逮捕された大阪事件が起こったのである。
 この二つの事件の辛労は、戸田をいたく苛み、疲弊させた。それは、彼の健康を損なわずにはおかなかった。戸田は、我慢に我慢を重ねていたにちがいない。このころから、彼は、ひどく痩せ始めた。夏の軽井沢での静養など、健康にも気を配り始めたが、体は刻一刻と病にむしばまれていたのである。
 しかし、人びとの多くは、彼が病に侵されていることに気づかなかった。
 そして、三たび、彼は倒れたのである。
 さしもの戸田城聖も、ここに至って、医師の治療に身を任せざるを得なかった。
 絶対安静とされ、厳密な食事療法、それに新陳代謝の改善、肝臓庇護、解毒、肝細胞の再生修復のための薬物投与が行われた。
 戸田が倒れて三日後の十一月二十三日のことであった。元法主の堀日亨が、この日の午後零時二十分、伊豆・畑毛の雪山荘で、逝去したとの知らせが入った。
 九十一歳であった。
 日亨は、高齢のため、久しく前から肝臓などが弱っていたが、最近は、ことに衰弱の様子であった。しかし、すべて自分でするという気性から、診療を嫌い、医師たちは、思うような治療ができかねていた。
 そうしたなかで、十月十二日には、周囲の人びとが止めるのも聞かず、押して総本山に行き、病床の日昇を見舞った。
 この総本山への往復は、相当、体に負担を強いたにちがいない。十三日の午後、畑毛の雪山荘に帰った時には、しばらく車から降りようとし、なかった。
 しかし、付き人が手を差し伸べると、それを厳然と払い、急勾配の坂を自力で登って雪山荘に入った。この夜から容体は悪化し、日に日に衰弱の度は加わっていった。そのなかでも、手伝いの僧侶に、さまざまな指示を与えながら、なお宗史についての研究を続けた。
 また、死期の間近いことを悟ってか、十一月十八日には、新しく帯を取りかえ、手を清めてから、仏前にて、御本尊に最後のあいさつをした。
 以後、食事を勧められでも、一滴の水さえも口にせず、あたかも重荷を下ろしたかのように、従容として五日間を過ごした。この間、急を聞き、十九日には、宗務総監の細井精道や、その他の役員僧侶が、学会からは理事の関久男らの幹部が見舞った。
 二十日には、注射によって、一時、小康を得たかに思われたが、その後、危篤状態が続いて、二十三日、安らかに永眠したのである。
 二十六日には通夜が、翌二十七日には密葬の儀が、畑毛の、思い出多い雪山荘で営まれ、学会からは、会長代理として小西武雄理事長のほか、全理事など幹部十数人が参列した。
 日亨の本葬は、十二月十三日の午後一時から、総本山で執り行われることに決まった。
 戸田城聖は、日亨の逝去についての一切の報告を、ひとり病床で聞かねばならなかった。十月には、日昇を、そして、今、日亨を亡くし、彼は秋風索莫さくばくとした思いに駆られ、深い悲しみとやるせなさを、かみしめていた。
 しかも、今は自分も病床にあって、駆けつけることも叶わないことを思うと、無念と、焦慮と、悲哀に、胸がうずくのであった。
 日亨と戸田との関係は、ことのほか深かった。かって総本山の庭で、日亨と親しく歓談した日のことが、まざまざと彼の脳裏に蘇った。
 「戸田さん。あなたが戦国時代に生まれていたら、既に正法もぐっと広まっていて、今、こんなに大騒ぎしなくても、よかったはずじゃ、遅すぎた」
 「猊下、私は生まれたくても、猊下が、その時、お生まれにならなかったから、いけないのです。私は、猊下より三十年遅れて生まれる約束になっております。猊下が、今、ご出現だから、私も、ちゃんと三十年遅れて生まれてまいりました。猊下のご出現と、ご研鑽を待っていて、私は生まれてきたわけです」
 二人は、声をあげて笑い合った。
 日亨は、希代の大学匠ながら、実に気さくな人柄であった。少欲知足に徹し、生活は、いたって質素で、学会の総会にも、よく握り飯を持参して出席した。
 また、権威を嫌い、「猊下」とか、「御前様」と呼ばれることを好まず、若い僧侶たちに、「おじいさん」と呼ぶように言うのである。
 日亨は、生涯を通じて、宗史と古文書の研究に力を注ぎ、『富士宗学全集』百三十四巻を完成させている。また『富士宗学要集』十二巻を発刊したほか、『富士日興上人詳伝』の執筆など著作も数多い。
 さらに、立宗七百年慶祝事業として、学会が御書全集を発刊した際には、多大な尽力をした。また、四六年(同二十一年)十一月、初代会長・牧口常三郎の三回忌法要の折には、″『富士宗学要集』の再刊にあたっては、法難編のなかに、戦時中における創価学会の法難を収め、後世の鑑にしたい″と述べ、その約束を果たした。
 再刊なった同書には、「学会の復興も忽ちに成り意気中天に達し全国到る処に新真なる会員が道場に充満し幸福平和の新天地を拓ければ(中略)各宗教界の羨望甚だしく、本末の仏法隆盛を極め法益倍増、法滅の末法忽ちに変じて正法広布の浄界と成り広宣流布の大願成就近きに在り、悦ぶべし喜ぶべし、編者申す」と記している。
 創価学会の発展を心から喜び、賞讃し、力添えしてくれた日亨を偲ぶと、戸田の目頭は熱くなった。
 ″せめて一言、‘お別れを申し上げたかった……″
 晩秋の病床にあって、憂愁は、ひしひしと戸田の身に染み入るのであった。
13  十一月二十三日には、女子青年部の第五回総会が、神奈川県の川崎市民会館で開催された。関東、東北など、東日本の代表が集つての総会であった。
 彼女たちは、この総会で、戸田会長と会えることを最大の楽しみとしていた。しかし、壇上には、あの、いつもの笑みをたたえた戸田の姿はなかった。一抹の寂しさが場内に漂った。
 だが、集った女子部員は、九月の三ツ沢の陸上競技場で発表された、戸田の原水爆禁止宣言に応えようと、「原子力問題と私達」や、「生命の本質」と題する研究発表を行い、創価学会女子青年部の使命を確認し合った。
 そのあと、幹部の指導に移った。青年部の室長の山本伸一は、彼女たちの心を察し、力の限り、励まし、元気づけねばならないと思った。
 「本日は、戸田先生が、お見えになりませんので、非常に寂しいことでしょう。しかし、本日、ここに集った女子部の信心の結晶と、希望に燃えた息吹は、必ずや戸田先生に通じるものと確信いたします。本日の模様は、女子部長、青年部長から、先生に報告されると思いますが、戸田先生は、きっとお喜びくださるにちがいありません」
 そして、戸田という最高の師に巡り会えたことが、いかに幸せであるかを語った。
 「私たちが信ずるのは、永遠不滅の御本尊様です。その御本尊の偉大さを、人生に即し、生活に即して、教えてくださっているのが、人生の師匠である会長・戸田先生なのであります。他の人びとは、正しい仏法を教えてくださる人を知りません。しかし、私たちは、先生に巡り会えた……」
 伸一は、今、その戸田が病の床にあることを思うと、偉大なる師と共に生きてきた青春の喜びと誇りを、声を大にして叫ばないわけにはいかなかったのである。
 それから彼は、原水爆禁止宣言と学会青年部の使命について触れたあと、「偉くなるということよりも、福運を積んでいける信心、また一生涯、仏意仏勅の学会から離れることのない信心を」と呼びかけて話を結んだ。
 十一月三十日には、品川公会堂で十一月度の本部幹部会が行われたが、ここにも、戸田城聖の姿はなかった。戸田のいない本部幹部会は、どこか沈んでいた。
 理事長の小西武雄は、冒頭、「今日は、戸田先生は体調が優れないため出席されませんが、ご心配はいりません。先生から、皆さんによろしくとのことでございました」と語ったが、参加者の表情は、寂しげで浮かなかった。
 この日、小西は、学会が目標としてきた七十五万世帯も、残りわずかに千五百世帯となったことを伝えた。
 十一月の折伏成果が、二万八千五百世帯である。十二月中には、戸田の願業である七十五万世帯を達成するであろうことは、もはや、誰の目にも明らかであった。
 広宣流布の凱歌の旭日は、今、昇ろうとしていた。戸田の願業である七十五万世帯の達成は、眼前にあった。
 しかし、彼は、その大願成就の頂を前に、いたく病んでいた。苦痛といったものはなかったが、全身は、どうしようもない倦怠感につつまれ、足腰も弱り、歩行もままならなかった。食欲も失せ、ただ、床に臥すより仕方がなかった。
 戸田は、医師の忠告に従い、好きだった酒も、タバコも、口にしなくなった。明年三月の大講堂の落慶には、なんとしても元気な姿で臨まねばならぬという一念が、欲求を制したのである。
 医師の深刻な憂慮と、真剣な治療が続いたが、十一月下旬は、はかばかしい回復の兆しもないままに過ぎた。
 戸田は、彼の広宣流布の行路を閉ざす病魔と戦っていた。
 このころ、学会員の医師の二見浩が、見舞いかたがた、病状を見にやって来た。二見は、これまで、しばしば戸田を診察していた。
 戸田は、二見の顔を見ると、自らを鼓舞するように語り始めた。
 「二見君、今は七十五万世帯が達成されようという時だ。魔が競い起こるのは当然のことなんだよ。しかし、魔のなかでも、今度の病魔は小邪鬼の部類だ。これぐらいの魔に負けていたのでは、広宣流布はとてもできんよ」
 戸田の病状をよく知る医師の二見は、戸田の言葉を制して言った。
 「先生、あまりお話しになりますと、お体に障ります。お見舞いの方との面会も、極力、差し控えていただきたいと思います。ご病気を克服するうえで、今が、いちばん大切な時でございますから」
 二見は、懸命に訴えた。
 「そう深刻な顔をするな。私は、命を延ばす方法を知っているから大丈夫だよ。一月の総本山への初登山には、行くつもりでいるんだからな」
 医師の診断では、短くても四カ月から半年の、徹底的な治療と静養が必要だとされていた。それも、これ以上の悪化を招かないことが前提であるだけに、一月には登山するという戸田の言葉は、あまりにも性急であるといえた。
 しかし、二見は、戸田の確信にあふれた言い方に、言葉を失った。
 十二月上旬になると、戸田の病状には、かすかに変化が現れ、好転の兆しが見え始めた。強い倦怠感は抜けはしなかったが、次第に食欲も出始め、あの腹水が徐々に吸収され始めていたのである。
 肝硬変症で腹水が出た場合は、自然消滅の可能性は極めて低い。それが、ほとんど自然消滅していった。驚異的な好転であった。
 この意外な変化に、木田医師も驚きを隠せなかった。彼は、内心、奇跡であるとさえ思った。医師たちは、ようやく愁眉を開き、胸をなで下ろした。以来、自信をもって治療にあたったのである。
 十一月の本部幹部会で、小西武雄理事長は、戸田会長は体調が優れずに欠席していると発表したが、それから二、三日もすると、戸田の病は、かなり重いようだとの噂が、組織のあちこちに伝わった。
 そして、戸田の病状を案じて、彼の自宅に見舞いに訪れる幹部の姿が、目立つようになった。多くは、玄関先で妻の幾枝にあいさつをするだけで帰って行ったが、戸田の気分のよい時には、彼の方から枕元に招くこともあった。
 また、最高幹部たちは、戸田の病が重篤なことは十分に承知していたが、自分たちでは判断できかねる問題になると、短時間ならば差し支えあるまいと、戸田の決裁を求めに訪れるのであった。
 七十五万世帯になんなんとする、躍動する学会の組織である。常に、さまざまな新たな課題が生じており、会長の戸田に報告すべき事柄も少なくなかった。病んでいたとはいえ、創価学会の会長の責任は、彼の双肩に、重くのしかかっていたのである。
 戸田が病床に臥して、二、三週間もするころには、彼を訪れる幹部は、日に十人を下らなくなっていた。
 戸田の体は、まだ自由には動かなかったが、彼の頭脳は冴え、極めて明断であった。指示の的確さは、なんの衰えも感じさせなかった。それだけに、戸田の病は、日ならずして回復し、末永く、会長として指揮を執るものとの楽観が、多くの幹部たちにあった。
14  十二月十三日には、総本山で日亭の本葬が営まれた。戸田は病の床にあったが、葬儀の時刻が近づくと、妻の幾枝に羽織と袴を持ってくるように言った。
 彼は、身支度を整えるために起き上がろうとしたが、まだ足もとは、どこかおぼつかなかった。幾枝の肩に手をかけながら、ようやく袴を着け、羽織を着せてもらうと、仏壇の前に座った。
 戸田の読経の声が、静寂な室内に響いた。彼は、日亨の冥福を祈りながら、懐かしき来し方を思い起こしていった。
 振り返ってみれば、日亨なくば、学会の御書の発刊もなかったといってよい。この御書の完成によって、創価学会は、大聖人の正しき御指南を、後世永遠に残し得たのである。
 日蓮正宗の歩みを振り返る時、しばしば大聖人の御精神から逸脱し、混乱の事態を招いてきたが、それは、拠り所となる御聖訓を離れ、己義に流されていったことに、大きな原因があったといえよう。
 宗史の研究に生涯を費やした日亨が、御書編纂の労をとったのも、未来に再び混乱を来させぬためであったにちがいない。
 ″猊下、学会は、どこまでもこの御書を根本として、正しき信仰を貫き、広宣流布を成就してまいります″
 戸田は、報恩感謝の祈りを捧げつつ、誓うのであった。
15  戸田城聖が倒れてからというもの、山本伸一は、戸田の健康の回復を必死に祈りながら、一段と力を入れて、広宣流布の活動の指揮を執っていた。
 伸一は、ひとり悲壮な決意を固めていたのである。戸田が、命を削りに削って、戦い抜いてきたことを、よく知っているだけに、深い憂いが彼の脳裏を去ることはなかった。
 彼には、戸田が倒れれば、ただ、おろおろし、少し快方に向かえば、すぐによくなるものと楽観的にとらえ、来年の展望さえも真剣に練ろうとしない理事たちが、歯がゆくもあった。
 ″今、立ち上がらなくてどうする! 今こそ、先生のともされた松明を掲げて、雄々しく進むのだ!″
 伸一は、悲しみに沈みがちな自らを叱咤し、渾身の戦いを開始したのである。これまで戸田から受けた数々の薫陶を思い起こしつつ、日々、胸中の戸田と対話しながらの前進であった。
 時には、どうしょうもない行き詰まりを覚え、自らの非力を痛感することもあった。そんな時には、戸田から厳しく叱られた日のことが、懐かしく思い返されるのである。
 伸一にとっては、たまに戸田の自宅を報告のために訪れ、身近に指示を仰ぐことが、唯一の喜びであり、希望であり、活力源であった。
 十二月十六日、第六回男子青年部総会が、東京・千駄ヶ谷の東京体育館で開催された。
 伸一も、この総会の準備に全力であたってきた。戸田が病床に臥しているだけに、後継のたくましい青年の、熱気あふれる出発の集いとしたかったのである。
 総会は、午後六時に開会となった。席上、秋月英介男子部長は、明年は、戸田会長の「青年よ国士たれ」(国士訓)に示された青年部十万の結集をめざして、部員の育成を図っていきたいと発表した。青年たちは意気軒昂であった。
 この目、山本伸一は、戸田の期待に応えようとする青年たちの心意気を讃えながら、力の限り語った。
 「本日は、若々しい、希望に満ちた、かくも多くの戸田門下生が集い、晴れやかな総会を行うことができました。まことにおめでとうございます。諸君の、この広宣流布への雄叫びは、戸田先生にも必ずや響いているものと、強く確信いたします。毎年、男子部の総会は、各部の最後に行っておりますが、それは、取りも直さず、広宣流布の最後の総仕上げは、男子部によってなされるということの証明であると思うのでございます」
 彼は、このあと、民族の独立のために戦い抜いたインドの、ネルー首相の生き方を通し、偉大なる目的に向かって生き抜くなかに、人生の真実の光彩があることを述べ、広宣流布への、一層の前進を呼びかけた。
 総会は、午後八時半に終了した。盛会であった。一切の後片付けが終わったのは、十時近かった。
 伸一は、直ちに戸田の自宅に報告に行きたかったが、夜も遅いので、報告は、明朝にしようと思った。
 翌日、午前八時に、伸一は、戸田の自宅を訪ねた。はつらつとした気力に満ちあふれた伸一の姿を目にして、戸田は、総会の大成功を感じた。
 「ご苦労……」
 彼は、布団から体を起こして、いつにない上機嫌で言った。
 伸一は、戸田が思いのほか元気なことを知って、嬉しさが込み上げ、総会の模様を臨場感を込めて報告し始めた。そして、男子部員十万人の結集を誓い合い、意気盛んに、希望の旅立ちを期したことを伝えた。
 「これで、男子部としては、新しい展望をもって、明年へのスタートを切ることができました。今、いちばん肝心なことは、七十五万世帯を達成してからの、学会全体の次の目標ではないかと思います。先生、今後、学会は折伏の大目標を、どう定めて前進していくべきでしょうか」
 戸田は、伸一が早くも次の目標に焦点を合わせようとしていることを知って、口もとに笑みを浮かべた。それから、遠くを見るように目を細めて、胸の思いを吐露した。
 「伸一、次の七年で、二百万世帯まで戦いたいだ。二百万、やりたいな……。伸一、できるか!」
 その言葉を聞くと、伸一は、電撃に打たれたような思いがした。
 彼は、即座に答えた。
 「やります。必ず、必ず、成し遂げます。勇気百倍です。先生、私は、断固、戦います!」
 戸田は、微笑みながら頷いた。しかし、その顔に一抹の寂しさが潜んでいるのを、伸一は見逃さなかった。
 ″先生には、二百万世帯達成の揺るがぬ確信がおありだ。生きておられさえすれば、必ず成就されよう。しかし、あと七年……、肉体が極度に衰えた先生に、それまで指揮を執っていただくことが、できるであろうか″
 戸田は、確かに自身の寿命の限界を自覚していた。二百万世帯の達成を見ることは、今の戸田にとっては、一つの夢でしかないことも知っていた。その思いが、彼の顔に寂しさとなって漂い出ていたのである。
 伸一は、瞬時のうちに戸田の心を悟った。その無念さを思いやると、伸一は耐えがたい悲しさに襲われた。
 ″先生。さぞ、お悔しいことでございましょう。お苦しいでありましょう。残念でならぬことでございましょう。私は、よく知っております……″
 伸一は、感涙にむせびながら、心のなかで語りかけた。
 戸田は、何も言わずに、初冬の朝の静けさのなかで、伸一を見つめていた。
 伸一は、戸田の枕元に端座しながら、戸田の言った二百万世帯達成の意味に気がつき、ハッとした。
 ″先生の言われた次の七年間の目標は、先生の遺言ではないのか。私たち弟子に、その使命を先生は託されようとされているのだ″
 伸一は、厳粛な思いで、戸田の横顔を見ながら、胸のなかでつぶやいていた。
 ″先生、見ていてください。伸一は、誓って成し遂げてみせます″
 伸一は、そう覚悟を決めると、戸田が寝込んでからの言々句々が、ことごとく遺言の響きをもって、まざまざと脳裏に蘇るのであった。
 その時、襖が開いて、妻の幾枝が、冬には珍しいイチゴを二つの皿に盛った盆を手にして入ってきた。
 戸田は、布団の上に起き上がると、さっそく、イチゴに手を出した。ひところに比べると、大分、食欲も出てきているようだつた。
 「伸一、君も食べなさい」
 伸一は頷きながら、イチゴを頬張る戸田を見て微笑を浮かべた。
 しばらくすると、医師の木田利治助教授が往診にやって来た。戸田は、診察が終わると、待っていたように木田医師に尋ねた。
 「食欲がないのは、なぜですか。また、お腹が張るのは、どうしてですか」
 「食欲がなかったのは、肝臓の機能が十分に働いていないために、臓器にさまざまな影響を与え、消化器系全体の機能障害が起こっているからです。腹水が溜まるのが肝硬変の症状の一つですが、その圧迫によってお腹が張り、さらに、食欲も低下します。
 でも、あなたの場合、腹水がめっきり減ってきたので、お腹が張ることも、だんだんなくなりますし、食欲も出てきますよ」
 戸田は、さらに、重ねて尋ねた。
 「肝硬変症を治す、絶対確実な治療法というのはあるんですか」
16  「絶対確実といえる治療法は、現在のところありません。今は、安静にし、食事療法をしておりますが、この病気は、患者自身の自然治癒力をどう助けるかが、大事なポイントといえます」
 「そうすると、患者の生命力が決め手ということになりますな」
 「生命力?……そう言ってもよいと思います」
 「生命力の問題となれば、私には絶対の確信がある。まあ、命を少し延ばすぐらいのことは、私にとっては造作のないことですよ」
 木田医師は、怪訝な顔をしながら、メガネ越しに、戸田をまじまじと見つめた。
 戸田は、そんな木田医師の表情を見て、愉快そうに笑いを浮かべた。
 「『更賜寿命』(法華経四八五ページ)といってね、既に定まっている人間の寿命をも延ばすことができるのが、仏法の力なんです」
 木田医師は、戸田の言葉を理解しかねているようだった。
 戸田は笑いながら、重ねて尋ねた。
 「寿命を延ばすということを、医学的には、どう考えますかね」
 「老化という観点から見ますと、動脈硬化などが死を早めることにつながりますから、それらを子防することが、寿命を延ばす道ではないかと思います」
 「確かに医学的には、予防ということが大事になるでしょうが、普段から、かなり健康に気をつかってきた人が、予期せぬ病気や事故で、突然、早死にしてしまうこともある。いわば宿命ですな。それをも転換していく方途を教えているのが仏法です。人間の一念の転換によって、自分の宿命のみならず、環境をも変えていく力が、まことの信仰なんですよ」
 戸田はそれから、来年三月に、総本山大石寺に大講堂が落成し、そこで記念の式典を行うことを述べた。そして、自分は、それまでに病気を治して、元気な姿で出席し、一カ月にわたって総本山に滞在すると言いだした。
 「はあ、三月ですか……」
 木田医師は、三月までに、戸田の体がそこまで回復するとは、とても思えなかった。このところ驚異的な回復ぶりを示しているとはいえ、重篤な肝硬変症である。木田は、医師としての経験から、まだまだ長い静養が必要であると考えていた。
 しかし、戸田は、確信に満ちた口調で言った。
 「あなたは信じないかもしれないが、人間の一念によって、病だって克服することができるんです。まぁ、見ていなさい。
 世の中には、不思議と思えることは、いくらでもある。あの総本山の一帯は、溶岩層のために、湧き水はいたって少なかった。地質学者たちに頼んで、何度も調査をしてもらったが、いつも、溶岩層の下には水脈はない、という結論だった。
 しかし、今後の登山者の増加を考えると、飲料水を確保するうえでも、水が出ないと困ることになる。そこで、私は祈りに祈りました。すると、どうですか。ボーリングをしたところ、わずか二十六メートルで水が湧き出してきた。不思議といえば不思議だが、それが仏法なんです。
 人間の体についても同じですよ。三月の総本山の記念式典は、必ず、私が指揮を執る。それが、私の最後の使命なんです。あなたには、この戸田が、身をもって仏法の不可思議なことを教えましょう」
 戸田城聖は、若い前途有望な、人柄のよい木田が好きだった。彼は、取り立てて病状の変化がない時も、しばしば、木田の自宅に電話をさせ、往診を頼んでいた。
 そして、病状が好転するにつれて、「診察はいいから」と言って、現代医学の問題点などについて、矢継ぎ早に質問することが多くなっていた。木田医師の医学の知識を借りながら、生命について、思索をめぐらしていたのである。
 戸田は、木田医師に言うのだった。
 「あまり診察もさせないのに、忙しいあなたを、たびたび呼んで悪いな。それも、君と話をしていると面白くて、愉快になるからなんだよ」
 戸田は、病との苦しい戦いの治療期間をも、いつか楽しいものに変えていた。
 この日、木田医師が診察と語らいを終えて、階下に降りてみると、応接間には、既に数人の幹部が、戸田への報告と指示を仰ぐために待機していた。木田医師は、″会長も、なかなか大変なんだな。これでは静養にならないではないか″と案じながら、戸田の自宅を後にした。
 戸田城聖の病状は、日を追って回復に向かっていった。
 十二月も下旬に入ったころには、食欲は、ほとんど以前と変わらなくなり、四八もあった血清黄疸指数も二〇に減じ、腹水も、ほとんどなくなっていた。肝臓機能は蘇りつつあったといってよい。
 この短日月での回復は、医師たちの予測を、はるかに超えるものであり、奇跡的な回復ぶりといってよかった。木田医師も、矢部医師も、ほっと安堵の息をつくとともに、戸田の生命力の強さに驚嘆せざるを得なかった。
 そのころ、戸田のもとに、統監部長の原山幸一から、集計の結果、学会の世帯数は、遂に七十五万世帯を達成し、七十六万五千世帯になったことが報告されてきた。
 戸田は、まだ病の床に臥してはいたが、願業成就の満足に、法悦ともいうべき喜びが、心の底から込み上げてくるのを覚えた。
 思えば、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、第二代会長就任の席で、戸田が、彼の生涯の願業として、七十五万世帯の達成を宣言した時には、会員は、いまだ、実質三千余にすぎなかった。それから、わずか六年と七カ月で、見事に彼の大願は成就したのである。
 あの日、戸田城聖は、こう宣言した。
 「私の自覚にまかせて言うならば、私は、広宣流布のために、この身を捨てます! 私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします。……もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい! よろしいか!」
 この宣言のように、まさに彼は、七十五万世帯達成という、広宣流布の第一歩の確実な基盤を築くために、わが身を捨ててきた。すべては、彼の一念の発心から始まったことであったが、戸田は、彼と苦楽を共にし、戦ってくれた同志のことが、頭から離れなかった。大願を成就した喜びのなかで、感謝の唱題をしながら、愛する同志の永遠の幸せを祈った。しかし、その同志とも、間もなく別れなくてはならぬ時が迫っていることを、戸田は予感していたのである。
 冬の夜は、なかなか明けなかった。
 戸田は、早朝、目覚めると、布団に体を横たえたまま、闇のなかの凍てた静寂のなかで、ひとり思索していた。
 昨日、七十五万世帯の達成の報告を受けて以来、彼は、同志を幸せの彼岸へと導くために、今、何を打ち込んでおくべきかを考えていた。
 ″彼らの大部分は、ここ数年の入会である。十年、二十年と、揺るぎない信心を全うしてきた同志であれば、間違いなく、このまま人生の勝利者となるであろう。
 しかし、多くの同志は、いまだ絶対の確信はなく、苦悩のなかにあって、御本尊を抱きしめ、世間の嘲笑に歯をくいしばって耐えながら、懸命に信心に励んでいる。人生の勝負は、彼らが、このまま、どこまでも健気に、信心を励み通せるかどうかにかかっていよう。
 そのためには、何を訴えておかなくてはならないのか。組織としての折伏の目標は、これから新たに打ち出すにしても、一人ひとりの、めざすべき信心の在り方を、なんのための信心かを、今、指標として述べておくことが肝要ではないか……″
 ここまで考えてきた時、彼の脳裏には、今、全同志に与えるべき指針が浮かんできた。
 学会員のなかには、一家のなかで自分だけが信心し、家族の目を気遣いつつ、その幸せを念じて、活動に励んでいる人も少なくない。社会の基盤は、家庭にある。そして、盤石な家庭を建設していく源泉は、一家和楽の信心である。それこそが、一家の幸せのためにも、社会の繁栄のためにも、不可欠な要件といってよい
 戸田は、ふと窓を見た。外は、いつの間にか、しらじらと明け始めていた。彼方で、電車の走る音が聞こえた。
 ″そして、家族そろって信心をしていく目的は、一人ひとりが幸福をつかむためだ。また、それが私の願いである。仏の使いとして、利他の行に励むということは、人のために尽くしているように見えるが、自己の崩れざる幸せを築く要諦なのだ。
 一家和楽の信心は、家族のそれぞれの幸せを、約束していくであろう。しかし、それには、幾つもの難という試練に勝たねばならない。一生成仏という大空に、悠々と舞い上がっていくには、難という烈風に向かって飛び立たねばならぬ。その難に負けない信心こそが、永遠の幸福の城を築きゆく力なのだ。
 信心で越えられぬ難など、断じてない。七十五万世帯の同志が、誰一人として、負けずに信心を全うしてもらいたいものだ″
 戸田は、枕元に置かれたメモ用紙を取ると、鉛筆で書きつけていった。
  「一、一家和楽の信心
   二、各人が幸福をつかむ信心
   三、難を乗り越える信心」
 彼は、この指針を読み返すと、満足そうに頷いた。
17  一九五七年(昭和三十二年)の悼尾を飾る本部幹部会は、十二月二十五日夜、東京・池袋の豊島公会堂で開催されることになっていた。その日の昼過ぎ、理事長の小西武雄が、戸田の自宅にやって来た。
 「先生、今晩の幹部会で、七十五万世帯を達成したことを発表しますが、あわせて、来年は百万世帯をめざすことを打ち出したいと思いますが、いかがでしょうか」
 「目標を掲げて進むことは大事だが、ここで、しっかりと足もとを固めておく必要があるだろうな」
 「はあ、足もとを固めると申しますと?……」
 「ここらで、なんのための信心なのか、また、一人ひとりが信仰を確立するために、何をめざせばよいかを明らかにして、しっかり確認し合っておくことだよ。数を打ち出すのはよいが、みんなが、組織のために折伏に追い立てられているように思いでもしたら、歓喜もなくなるし、力も入らない。そんなことにでもなれば、みんな、功徳を受けられなくなってしまうからね。
 ぼくは、今夜は欠席するが、元旦には必ず本部へ行く。今夜は、出席できない代わりに、みんなに伝えてほしいことがある」
 戸田は、こう言うと、小西理事長に、あの三つの指針を書いたメモを手渡した。
 十二月度本部幹部会は、午後六時十五分に開会された。
 統監部長の原山幸一が、今月は七十五万世帯を達成し、現在、七十六万五千世帯に及んだことを発表した時、歓喜のどよめきと、怒濡のような大拍手が湧き起こった。
 しかし、この一、二年に登用された新しい幹部たちの多くは、戸田の生涯の願業が成就したという実感には乏しかった。ただ、今月も、壇上に戸田の姿が見られないことが気にかかっていた。
 小西理事長は、多事多難であった慌ただしい五七年(同三十二年)を振り返るとともに、今、いよいよ法華本門大講堂が完成しつつあることを語ってから、戸田の容体について話していった。
 「戸田先生が、しばらく、お見えになられないことから、一抹の寂しさがおありかと思いますが、先生は、大変にお元気になられております。今日も、先生とお会いしてまいりましたが、先生は、七十五万世帯の折伏が達成できたことは、第六天の魔王から見れば、容易ならざることであり、『魔競はずは正法と知るべからず』との御聖訓に照らして、魔が競い起こることは間違いないと仰せでした。そして、先生の今度のご病気も魔の所為であると言われ、『私は、魔になど負けない。正月には必ず行く』とおっしゃっておりましたので、どうか、ご安心ください」
 場内は、安堵の拍手につつまれた。
 小西は、最後に、会長・戸田城聖からの伝言として、あの三指針を発表した。
 「本年はじめ、戸田先生は、『楽しい信心』『楽しい折伏』『楽しい教学』という、信心の三項目を発表してくださいましたが、明年度の新たな出発にあたり、信心の指標として、学会の三指針を決めてくださいました。
  一、一家和楽の信心
  二、各人が幸福をつかむ信心
  三、難を乗り越える信心
 この三つでございます。来年は、この三指針のもとに、しっかり頑張っていこうではありませんか」
 参加者は、一つ一つの指針を胸にとどめたが、これが「永遠の三指針」として、深く人びとの心に刻まれるようになったのは、戸田の逝去後のことである。
18  厳たる七十五万世帯の願業を成就した戸田城聖は、年の瀬の病床にあって、静かに、深い思いをめぐらしていた。
 戸田は、広宣流布の未来を眺望する時、彼が、この七年間にわたって築き上げた基盤が、揺るがざる堅固さをもっていることを強く確信できた。
 一人の男が、この地球上に生を受けて、広宣流布の戦を起こし、かくも多くの民衆の救済を、実際に可能にしたのである。戸田は、誰人もなし得なかった大業を、成就するにいたった自分を振り返ると、不可思議な思いに駆られるのであった。
 ″今、私は、ここに、こうしている。病みながら、広宣流布の行き末を考えている。この世にあって、戸田城聖と名乗るこの俺は、いったい何者なのだろうか。いずこから来て、いっずこへ行こうとしているのか″
 彼は、五十七年間の人生の来し方をたどっていた。その一つ一つが、決して偶然ではなく、すべては、この大業の成就に結びついているように思われた。
 石川県の漁港に生まれ、幼時、北海道の厚田村に移住する。すべて、彼の意志ではない。何か大きな力に導かれてのことであったのかもしれない。
 厚田の厳しい自然のなかで自立の心を培い、雪に閉ざされた海辺の村から、都会への飛翔を考えた少年時代……。
 彼は、憧れの都会であった札幌の商店に、いわゆる丁稚奉公に入り、働きながら、暇を盗むようにして独学を重ね、尋常小学校の准教員の資格を取得する。資格は職を与え、夕張炭鉱の真谷地の尋常小学校に奉職したが、向学の思いやみがたく、臥竜がりょうは、突如、東京に飛び立った。
 東京で同郷の人びとをたどっていくうちに、西町尋常小学校の校長をしていた牧口常三郎に出会った。程なく戸田は、この西町尋常小学校に奉職し、牧口と、生涯にわたる師弟の絆を結ぶことになる。
 ここに、創価の光源をともした牧口と戸田という、二人の巨人の二人三脚が始まるのである。
 戸田城聖は、牧口が西町尋常小学校から左遷されたことに義憤を感じ、牧口と行動を共にした。やがて、戸田は教職を去って、時習学館という私塾を経営し、傍ら出版業を始める。そして、教育者としての牧口の思想の集大成となる、教育学体系の完成のため、援助を決意する。
 一九二八年(昭和三年)、牧口と戸田は、日蓮正宗に入信した。牧口の教育学の根幹をなす価値論は、日蓮大聖人の仏法の光彩を浴びて結実し、『創価教育学体系』の発刊となり、三〇年(同五年)、創価教育学会という団体を生んだ。
 創価教育学会の、教育を基盤とした社会の革新運動は、必然的に、根本義たる宗教にいたり、いつか斬新な宗教運動となっていった。そのため、軍部政府の過酷な弾圧にさらされなければならなかったが、二人の師弟の絆は牢獄にまで及んだ。
 四三年(同十八年)七月六日、二人は官憲に連行、投獄され、翌四四年(同十九年)十一月十八日、牧口常三郎は獄死する――戸田は、独房で呻吟のなかに唱題に唱題を重ね、法華経への眼を聞き、不可思議な境地を会得し、地涌の菩薩の使命を自覚するにいたったのである。
 出獄、そして、敗戦。戸田城聖は、″時は来れり″と、広宣流布に一人立った。敗戦後の激動のなかで、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲げて、不幸に苦しむ同胞の救済に挺身していった。
 かつての創価教育学会が壊滅したのは、教学という柱がなかったからであることを痛感していた彼は、牢獄で唱題のなかに会得した法華経の講義を開始した。
 さらに、戦後の荒廃のなかで、苦悩にあえぐ民衆の蘇生のために、一人、また一人と折伏を重ねていった。それが、やっと軌道に乗るかと恩われた時、彼の事業は大挫折をきたした。すべては水泡に帰したかに見えたが、彼は大いなる信力を奮い起こして大難を脱した。
 わが身にかかる広宣流布の一切の責任を自覚した彼は、五一年(同二十六年)五月三日、三千人余の会員に推されて、会長に就任した。
 以来、六年七カ月の慌ただしい歳月のうちに、七十五万世帯の達成をみたのだ。
 これこそ、日蓮大聖人の仏法の歴史上、類を見ない壮挙であり、これによって広宣流布という大業は、決して虚妄ではないことが証明されたのである。人類は、遂に、崩れざる平和と幸福への確実な方途をつかんだといってよい。
 ″まさに、この俺の人生の一つ一つの出来事は、七十五万世帯の広布の大願を果たすためにあったのだ! 生まれ育った環境も、人との出会いも、精進も、辛労も、挫折さえも、何一つとして無駄なことはなく、すべては連続し、この大業へとつながっていたのだ……″
 戸田城聖は、深い感慨のなかで、自らの人生の不思議さを痛感せざるを得なかった。そして、自分ばかりでなく、彼の周囲の人たち、一人ひとりもまた、自分と同じように、不思議な使命をもっていることに気づいた。
 そして、山本伸一をはじめとする弟子たちも、彼の家族も、一人ひとりが独特な存在であり、実に不思議な絆によって彼と結ばれていることを、あらためて感じた。
 彼は、皆の顔を思い浮かべながら、今、しみじみと、懐かしさのなかに、親近感を覚えるのであった。
 彼の脳裏に、あの獄中で身で拝した、「御義口伝」の「霊山一会儼然未散」の御文が浮かんだ。
 ――そうだ、霊山の一会は厳然として未だ散らぬがゆえに、この世に私たちは集い来たのだ。私は、あの法華経の会座に、確かにいたことを、身をもって知った。私だけでなく、皆、あの座にいた久遠の兄弟、姉妹であり、同志なのだ。生死を超えて、あの久遠の儀式は永遠に続いているのだ……。
 それゆえに、大聖人の御生まれになった日本という地球の一角に、創価学会が生まれ、七十五万世帯を成し遂げることができたのだ。そこに、私の生涯の使命があったことは間違いあるまい。
 私は、学会を組織化し、広宣流布を敢行した。そこに、大きな広がりが生まれ、「地涌の義」を現実のうえに現す、一つの方程式を示すことができたといえる。広宣流布の方程式を確実なものとすることができたからには、あとは臨機応変な応用、展開の時代に入っていこう。そして、この広宣流布の潮は、日本から世界へと広がり、五大陸の岸辺を洗う日も、そう遠くはないはずである。
 日蓮大聖人は、御本尊を御図顕あそばされ、末法の衆生のために、御本仏の大生命をとどめ置かれた。まさに「我常在此裟婆世界、説法教化」(法華経四七九ページ)の経文のごとく、仏が常に此の裟婆世界にあって、説法教化されている御姿である。
 創価学会は、その大法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏の御使いとして出現した。そして、大聖人の御精神のままに、苦悩にあえぐ人びとを救い、菩薩道を行じてきた唯一の団体である。それは、未来永遠に続くであろう。
 すると、学会の存在もまた、「我常在此裟婆世界、説法教化」の姿ではないか。してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう――。
 戸田の胸に、熱い感動が込み上げ、あふれ出る感涙が枕を濡らした。
 彼は、この不思議なる創価学会の存在の意義と大使命を、後事を託す青年たちの生命に刻印し、永遠に伝え残すことが、自分の最後の仕事になろうと思った。
 戸田は、勇み立つ心を抑えながら、ともかく元旦から活動に復帰することを心に深く期した。
 それからの数日間、彼は、昼間は起きて座っているように努め、また、家のなかで歩行練習をして過ごした。病苦は去ったかに見えたが、表弱した体の不安定さに、われながら愕然とする瞬間もあった。しかし、彼の胸には、生涯の総仕上げに向かって、使命の炎が燃え盛っていた。

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