Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

宣言  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
11  山本伸一が、葛飾の同志と語り合うなかで実感したことは、戸田城聖や本部を身近に感じている人が、極めて少ないということであった。何かあれば本部へ、という雰囲気が之しいのである。
 葛飾は、東京二十三区のなかでは、地理的にも学会本部から遠いことは確かである。しかし、問題は決してそれだけではなかった。同志の多くは、自分たちの上には、支部長や地区部長など、幾重にも幹部がいるのだから、直接、本部を訪ねたりするのは、恐れ多いことであり、控えるべきであるとの思いをいだいてきた。
 つまり、会員と本部とを隔てる、心の壁ができているのである。支部中心のタテ線の活動が定着していくにつれて、いつの間にか、一人ひとりが本部に直結していくという意識が、薄らいでいってしまったのであろうか。
 もし、幹部が会員の上に君臨して組織を私物化し、会員が、師を求めて、本部に行くことも樺るような組織であれば、戸田の精神とは、全くかけ離れた、硬直化した官僚組織であり、広宣流布を阻害するものとなってしまう。
 学会の広宣流布への原動力は、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、戸田城聖が第二代会長に就任した日の、あの七十五万世帯への大師子吼にほかならない。「七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします」と、一人立った戸田の決意と確信に触れ、全同志がそれに相呼応することによって、広宣流布の未曾有の伸展があったのである。
 つまり、戸田城聖の広宣流布への一念こそが、学会の戦いの電源であり、それにつながることによって、戦いの歯車は、勢いよく回転してきたといってよい。
 伸一は、同志の心に立ちはだかる壁を、まず、取り除かなければならないと思った。
 彼は、懇談のたびごとに訴えていった。
 「組織を図に表す時には、便宜上、ピラミッド型にしますが、それは精神の在り方を示すものではありません。学会の組織の本義からいえば、戸田先生を中心にした円形組織といえます。皆さんと戸田先生との間には、なんの隔たりもありません。皆さん方一人ひとりが、その精神においては、本来、先生と直結しているんです。
 戸田先生は、『会員は会長のためにいるのではない。会長が会員のためにいるのだ。幹部もまた同じである』とよく言われますが、皆さんのために先生はいらっしゃる。
 ですから、ブロック長の皆さんであれば、月々のブロックの活動を、お手紙で報告してもよいでしょうし、自分自身のことや、家庭のことを報告することもかまいません。誰にも遠慮などする必要はないんです。皆さんは、戸田先生の弟子ではありませんか。
 また、私も、なるべく本部に行っているようにしますから、私を訪ねて、どんどん本部に来てください。幹部のための本部ではなく、会員のための、皆さんのための本部なんですから」
 伸一は、それから、幹部の在り方について、語っていった。
 「皆さん方一人ひとりを、直接、指導してさしあげたいというのが、戸田先生のお気持ちです。しかし、時間的にも、それは不可能なので、先生のパイプ役として、私が葛飾に来ているんです。
 ですから、皆さんのことは、逐一、戸田先生にご報告し、一つ一つ私が指導を受けております。幹部は、どこまでも、先生と会員をつなぐパイプなんです。
 したがって、幹部は、同志を自分に付けようとするのではなく、先生にどうすれば近づけられるかを、常に考えていくことです」
 伸一自身、そのために、戸田の了解を得て、学会本部で葛飾の大ブロック長会を開くなど、ありとあらゆる努力を払っていったのである。
 学会の強さは、戸田城聖と一人ひとりの同志との精神の結合にこそあった。広宣流布の大願に生きる、戸田との共戦の気概が脈打っていない組織であれば、それは、もはや、烏合の衆に等しいといえよう。
 葛飾の同志は、次第に戸田を、そして、本部を身近に感じ始めるようになった。彼らは自らの心のなかに、戸田城聖の息づかいを感じ、戸田の指導を、自分に対する指導であると、思えるようになっていった。そして、一人、また一人と、己心の戸田に誓い、その誓いを果たすべく、自発的に戦いを開始したのである。
 伸一の戦いは、時間との戦いでもあった
 限られたブロック活動の日を使って、一人でも多くの会員と会い、信心の覚醒を促すことは容易ではなかった。
 しかも、そのうえ伸一は、そのころ、『大白蓮華』誌上に七回にわたって「男子青年部の歩み」を執筆していた。画板を携えて歩き、活動のなかで、わずかな時間を見つけては、画板を机代わりに原稿を書いた。そして、さらに夜更けに、自宅で原稿用紙に向かう日が続いていた。
 青年部の室長としての激務のうえに加わった葛飾での戦いは、彼の疲労をいたく募らせ、微熱にさいなまれた。
 しかし、伸一は、ますます闘志を燃やし、祈りには一段と力がこもった。
 活動から拠点に戻ると、彼は真っ先に仏壇の前に座り、唱題に励んだ。同志のトラックに乗せてもらい、会場から会場に移動する間さえも、心のなかで題目を唱え続けたのである。一分一秒の時間を惜しんでの唱題であった。
 葛飾の総ブロック長としての伸一の戦いは、戸田城聖が逝去し、伸一が会長に就任する前年の五九年(同三十四年)七月まで続けられた。
 伸一によって、一人ひとりの同志に植えられた信心の苗は、幹を伸ばし、大きく枝を茂らせ、葛飾は六〇年(同三十五年)の十二月、三総ブロックに発展している。
 山本伸一が、葛飾総ブロック長として活動を開始し始めて間もないある日、戸田城聖は伸一に言った。
 「伸一、また、君の朝の授業を始めよう。将来のために、私は、もっと多くのことを教えておかなければならないと思っている。君を、世界一流の大指導者に育て上げるのが、私の責任だからな」
 戸田は、彼の事業が不振に陥り、その再建のために、伸一が夜学に通うことを断念せざるを得なかった五〇年(同二十五年)ごろから、ほぼ毎朝、伸一のために、さまざまな分野の学問の講義を続けてきた。しかし、ここしばらく、朝の授業は中断されていた。広宣流布の伸展にともない、会長として、戸田のなすべきことが激増し、伸一への講義の時間が取れなくなったためである。
 今も、戸田の忙しさは、決して変わってはいなかった。しかも、彼の肉体は、間違いなく衰弱しつつあった。その戸田が、また再び、朝の講義を行おうというのである。
 「しかし、それでは先生のお体が……」
 伸一が言うと、戸田は答えた。
 「そんなことは、君の心配することではない」
 驚くほど厳しい口調であった。
 それから戸田は静かに、胸の思いを吐露するように言うのだった。
 「伸一、私は人間をつくらなければならないのだよ。広宣流布を成し遂げる本当の後継者を。命をかけても、私は、それをしなければならぬ。伸一、学べ。すべてを学んでいくんだよ」
 烈々たる気迫のこもる言葉であった。
 伸一は、「はい!」と言うと、深く頭を垂れた。
 戸田の限りなく大きな慈愛に胸が締めつけられる思いがし、目頭が熱くなった。
 真剣勝負の朝の授業が再び始まった。
 戸田は、死力を振り絞るようにして、講義を続けていった。彼の授業は、歴史の話から政治、経済、文学へと広がり、哲学にいたり、さらに、仏法の眼から、それらの事象をいかにとらえるかに及んだ。縦横無尽な広がりをもち、それでいて深遠な講義であった。
 日ごと、戸田は伸一の顔を見ると、「昨日は何の本を読んだか」と、厳しく尋ねた。
 窓から差し込む朝の光のなかで、師は一人の愛弟子に、自らの知識と、智慧と、思想と、魂とを注いでいった。
 伸一は、師の白熱の慈愛を浴びる思いで、感動に打ち震えながら、一心不乱に学びに学んだ。戸田は、彼の後継の、分身ともいうべき山本伸一の大成の総仕上げのために、命を削るようにして、最後の薫陶を開始したのである。

1
11