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日蓮大聖人・池田大作

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宣言  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  広宣流布の川は流れる。
 山を下り、滝となって断崖を走り、障害の巌があれば、躍動のしぶきを上げて勢いづき、水かさを増しながら、七十五万世帯の達成へと流れていった。
 その流れをとどめることは、もはや誰人にもできなかった。
 ――創価の奔流は、民衆の大地を、緑したたる沃野に変えながら、一筋の銀の帯を広げていった。
2  一九五七年(昭和三十二年)八月三十日、宮崎県日向市の日豊本線富高駅から定善寺に至る街路に、長い行進の列が続き、朝の家並に、学会歌の歌声が響き渡った。
 「この行列は、なんじゃろか」
 小さな町のことである。沿道の人びとは、ただ驚いて行進を見ながら、口々にささやき合った。
 行進する人の顔は、晴れやかで、皆、はつらつと胸を張り、喜々として耳なれぬ歌を歌っている。
 「ようわからんが、定善寺が創価学会の寺になったっちゃげな。その行列じゃそうだ」
 この日、千葉県・保田の妙本寺系の本山であった定善寺をはじめとする日向七カ寺が日蓮正宗に帰一し、その法要が定善寺で営まれ、帰一を祝賀する行進が行われたのである。
 当時、日蓮正宗といっても、社会の人びとの多くは、その名さえも知らなかった。「日蓮」といえば、身延の日蓮宗と思うか、創価学会を想起し、そして、すぐに「折伏」を思い浮かべるのが、人びとの常であった。事実、この定善寺の帰一の推進力となったのも、創価学会の果敢な広宣流布への戦いであった。
 行進は壮観であった。法主の堀米日淳が乗った車を先頭に、学会員約二千人の市中行進である。列は延々と続き、最後尾の人たちが出発したのは、先頭が定善寺に到着してからであった。それは、日向市にとって、記録的な出来事であったにちがいない。
 翌日の各紙の地方版や地元紙にも、日向七カ寺の帰一とともに、この大行進が報じられている。
 定善寺門前には、同寺の住職である小原日悦が出迎えていた。幾多の風雪を越え、この日を迎えた小原の顔は感慨をたたえ、頬は、ほのかに上気していた。
 定善寺の歴史は古く、元弘元年(一三三一年)、日叡にちえいの開基である。日叡は、日興上人の弟子・日郷の教えを受けていたが、日興上人の滅後、建武二年(一三三五年)に、日郷が大石寺を去って安房の保田に妙本寺を建立すると、定善寺も、その系列に入り、日向方面の本山となってきた。
 妙本寺や定善寺は、日興門流であったが、戦時中の軍部政府による宗教統制策によって、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗に統合された。
 しかし、保田の妙本寺は、身延の日蓮宗とは教義的にもなじむわけがなく、戦後、日蓮宗から離脱したのである。そして、この年の三月に、日蓮正宗への帰一が決定し、妙本寺の帰一奉告式は、四月七日に大石寺で営まれ、同月二十八日には、妙本寺での奉告法要が行われていた。
 保田の妙本寺が帰一したことによって、系列の定善寺をはじめとする日向七カ寺も、帰一が決まったのである。
 妙本寺を帰一に導いたものは、学会員の折伏であった。潮の流れが、船を運び、魚の群れをいざなうように、創価学会による広宣流布の潮流は、新しき宗史の流れをも開いていったのである。
 妙本寺のある千葉県の安房郡で、学会の折伏が開始されたのは、一九四八、九年(昭和二十三、四年)ごろのことであった。やがて、勝山に地区が結成され。五三年(同二十八年)には、初の地区総会が開催された。
 この日、東京から来ていた幹部から、「妙本寺は、本来、興門流であり、身延の一門にいるのはおかしいことだ」と聞かされた一人の壮年会員がいた。
 彼は、その言葉が脳裏に焼き付いて離れなかった。
 ″もともと日興上人の流れをくむものなら、一時も早く、身延から離れ、正しい信心に立ち返って、学会と一緒に広宣流布をめざすべきだ。誰かが言わなくてはならん……″
 その思いは、日ごとに強くなり、妙本寺の末寺を訪れ、紹介状をもらい、同志を伴って、妙本寺の貫主に面会を求めたのである。
 彼は、複雑な話は、何ひとつわからなかった。ただ、興門流でありながら、身延の一門にいることは間違いであり、ともかく学会の幹部に会って、話を聞くようにと、熱心に説いていった。
 妙本寺の貫主・富士日照にっしょうは、その真剣さに心を動かされ、学会の幹部との会談が実現した。立場や肩書ではない。一会員の広宣流布への情熱が、新たな流れを開く突破口となったのだ。
 身延一門との合同の後に妙本寺の貫主となった日照は、本尊さえも雑乱した身延の乱脈ぶりに疑問を感じ、合同をよしとはしていなかった。
 多くの日興門流寺院が、軍部政府の権力に屈し、法義をも変えて合同したが、そこには、信仰者としての正義も、良心も、信念もないといえよう。日興上人を否定し、波木井実長の功労を讃える身延派に帰属することなど、道理のうえからも、本来、あり得ないことである
 この会談を通して、日照は、身延と訣別し、帰一することを決意するが、最大の問題は、檀家や末寺を、いかに説得し、円滑に事を運んでいくかということであった。一挙に事を推し進めようとすれば、檀家は動揺し、それが帰一の大きな障害ともなりかねなかった。そこで、ひとまず身延から離脱し、妙本寺は単立するかたちをとることになった。
 だが、学会に反感をいだく、妙本寺の執事らは、事態を知るや、貫主の日照に反旗を翻し、檀家や近くの末寺の僧侶を動かして、これを阻止しようとした。学会の幹部は、帰一を進める妙本寺の窮状を聞くや、主だった檀家と会い、何度も粘り強く話し合いを重ねた。次第に、檀家の理解も深まっていき、やがて、帰一すべきであるとの意見が、大勢を占めるようになったのである。
 貫主の日照は、末寺の説得にも努めたが、その際、それを積極的に支持し、行動を共にしたのが、定善寺住職の小原日悦であった。
 日悦と日蓮正宗の堀日亨との因縁は浅からぬものがあった。日亨が古文書などの調査に、かつて定善寺を訪れ、一カ月ほど逗留した折、給仕にあたったのが修行中の日悦であった。
 以来、日亨を慕い続けてきたのである。それだけに、彼は、身延一門に属しながらも、日興上人の教風を守ろうとしてきた。
 日悦は、帰一の話が持ち上がると、強く賛同の意を示すとともに、定善寺の末寺を、すべて帰一させようと、固く心に誓ったのであった。しかし、それに真っ向から異を唱えたのが、定善寺の末寺の一つであった宮崎市の上行寺だった。実は、上行寺には、こんないきさつがあった。
 ――前年の五六年(同三十一年)夏、上行寺の檀家が、学会員に折伏され、入会してしまったことに憤った同寺の住職が、学会に法論を申し込んできた。それを知った身延の宗務院は、学会との公開法論は無謀であるとして、中止を命じたのである。
 身延にしてみれば、五五年(同三十年)三月、北海道での小樽問答で完敗していたことから、決して、勝ち目はないことを痛感していたにちがいない。まして、今度の法論は、上行寺の住職が、自ら新聞社にも知らせていただけに、敗北も大々的に報じられてしまうことになりかねない。
 しかし、上行寺の住職は、法論の中止によって、自分の面白が潰されてしまったと腹を立て、県内の他の寺にも呼びかけて、身延を離脱し、独立を声明したのである。
 日蓮正宗への帰一の話が具体化してきたのは、この内紛のさなかであった。上行寺の住職は、日悦に猛然と反対し、帰一への動きを切り崩し始めた。
 しかし、日悦の決意は固かった。身延に帰属した謗法の過ちを悔い、懸命に帰一を訴えて歩いた。そして、遂に本善寺、本照寺、法蔵寺、妙国寺、本建寺、本蓮寺の六カ寺が、ともに帰一することになったのである。
 この日悦が、帰一への強い決意をもつにいたった契機もまた、広宣流布に邁進する創価学会の姿を、目の当たりにしたことであった。
 日悦は、帰一の前年に行われた、福岡での学会の支部結成大会に、招かれて出席した。折伏行に邁進する創価学会に強い関心をいだいてきたが、この時、初めて、学会のありのままの姿を目にし、その息吹に触れたのである。
 在家の信徒たちが、真剣に広宣流布を叫び、場内は、燃えるがごとき弘法への熱気に満ちあふれでいた。後に、日悦は、この時の感想を知人の学会員に、こうもらしている。
 「私も僧侶として、広宣流布のことを口にはしていた。しかし、実感をもって、この言葉を知ったのは、この時でした。御書に、『仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり』と仰せだが、このままでは、私も、『法師の皮を著たる畜生』に終わってしまう――その思いが私に、帰一への意志を固めさせたのです。創価学会の出現は、本当に不思議です。学会でなければ、広宣流布はできない。仏意仏勅の団体という以外にない」
 日悦は、身延に帰属しながらも、日蓮大聖人の御精神は広宣流布にあることを確信し、檀家にも信心指導の手を差し伸べようと、懸命に努力を払ってきた。しかし、檀家の多くは、その呼びかけにも、なかなか耳を傾けようとはしなかった。
 さんざん指導を重ねても、勤行ができる人は、八百世帯の檀家のうち、わずか三人にすぎなかった。ましてや、折伏を行じようとする人など、皆無であった。
 それだけに、学会が勇猛果敢に折伏戦を展開していることに、驚きを禁じ得なかったのであろう。自身が夢に描き、なそうとしてもできなかった理想を学会に見た日悦は、学会に、日蓮大聖人のまことの御精神が脈打っているのを実感したようだ。
3  日向七カ寺の日蓮正宗帰一奉告法要は、午前九時から、法主・日淳の導師で執り行われた。この日、学会からは、理事長の小西武雄らの幹部が出席していたが、集った二千人の同志の喜びは、ひとしおであった。唱題の声にも、一段と力がこもっていった。
 式の最後に、定善寺住職の小原日悦が、あいさつに立った。
 静かな口調であったが、声には凛とした決意が込められていた。
 「私は、仏に仕える者として、このままで終わってよいものか、本当に寺を守ってくださる人に、真実の仏の心を伝えておるのかどうかを考えてきました。そう考えると、大聖人様の前には、顔向けできないという心で、いっぱいでございました。
 もう、余命いくばくもございません。日蓮大聖人の御信仰というものが、どういうものであるのかを、檀家の人に、縁ある衆生に、しっかりとお知らせして、そうして死んでいきたいと考えました」
 日悦は、一言一言、かみしめるように語っていった。
 「本当の信仰を伝えていかなければ、私は、大聖人様のもとへまいりまして、きっとお叱りを受ける。それで、本気になって、日蓮大聖人の御精神に還ろうと思ったのでございます。
 現在までの在り方は、間違っておりました。それは、私が悪かったのです。一言うべきことを言わなかったから、こんなになってしまった。誰の罪でもない。どなたにも、平身低頭、お詫わびしたい」
 前非を悔いる真摯な言葉が、参列者の胸を打った。目頭を押さえる人もいた。
 日悦は、それから、帰一にいたった経緯に触れ、日淳に深く感謝の意を表したあと、力を込めて言った。
 「ここで、私たちが申し上げなければならないことがございます。大聖人様の折伏行、これが大聖人様の御慈悲であります。それを皆さん国民のうえに投げかけているのが、創価学会でございます。私は、創価学会の生成から見てきているのでございます。創価学会こそ、宗祖の意そのままの団体なのでございます」
 それは、身延に帰属し、謗法の罪に苦しみながら、広宣流布を渇仰してきた小原住職の確信であり、心の底からの叫びであったにちがいない。
 本堂を埋めた学会員から、激しい拍手が湧き起こった。その響きは、日向の海にこだまする、新しき朝の波音を思わせた。広宣流布の怒濤が奏でた歓喜の潮騒でもあった。
 帰一にいたるには、苦難の坂道があった。日悦が帰一の方針を打ち出し、檀家は学会員になるように呼びかけると、人びとは、ほとんど寺に寄りつかなくなった。檀家を失うことは、そのまま生活の糧を失うことである。
 日悦は、そのころ、「これから、どうやって食べていくのか」と尋ねられ、堂前の井戸を指さしながら、こう答えたという。
 「水を飲んでも、三日や四日は生きてみせる」
 愚問として一笑に付す、毅然とした言葉であった。
 当時、本当に一粒の米もなかった。わずかな麦を食べて、半年間をしのいだ。
 しかし、この帰一は、決して戦いの終わりではなく、むしろ始まりであった。檀家の多くは、日蓮正宗への帰一というより、自分の寺が創価学会に奪われたと思ったのだ。
 しかも、日悦は、各檀家の謗法払いを厳格に行うよう、徹底して指導していっただけに、反発は大きかった。当時、どの檀家の家にも神札が貼られ、仏像が置かれたりしていたのである。
 檀家が定善寺に押しかけ、「悪僧日悦」と書かれた筵旗むしろばたで境内が埋まったこともあった。しかし、住職は、詰め寄る人びとに、悠然と御聖訓を拝して、まことの大聖人の御精神を、諄々と諭すように説き明かすのであった。
 創価学会に反発をいだく人びとは、そろって定善寺を離脱し、やがて、自分たちで寺院を建立した。
 しかし、日悦は、「学会さえあれば広宣流布はできる。あとはいりません」と、微動だにしなかった。
 日悦は、一八九八年(明治三十一年)に日向に生まれ、一九〇六年(同三十九年)に得度し、東洋大学、日本大学に学んでいる。
 定善寺の住職となってからは、日向市の公安委員長、地裁の調停委員なども歴任し、地域にも大きく貢献してきた。その高潔で思いやりあふれる人柄は、誰からも慕われていた。
 終生、学会員を、ことのほか大切にした。会員が定善寺を訪れれば、相手がどんな立場の人であろうと、「遠いところ、よく、おいでくださいました」と、丁重に、温かい笑顔で迎えるのであった。
 また、葬儀を頼まれた家が貧しいと知ると、遺族が用意している供養の額を超えると思われる香典を持参した。
 さらに、寺院を会合で使用する青年たちに、パンや菓子を振る舞うことも珍しくなかった。そして、「学会の皆さんに使っていただいてありがたい。広宣流布のお役に立てます」と言うのである。
 住職は、三〇年(昭和五年)に、石段を大修復する際、供養を募ったこと以外に、生涯を通して、自ら施を求めることはなかった。
 さらに、供養の金額を定めることも、「永代供養」など、供養の名札を掛けることも決してしなかった。供養は、どこまでも信徒の発意によるものであるとの考えからであった。
 少欲知足の聖僧の生き方を守り通し、会員の励ましには財を惜しまず、自身には、極めて厳しかった。食卓は常に質素で、よく粥をすすっていたという。
 また、学会員が庭の整備や建物の修理を申し出ると、自らも作業に加わった。周囲の人が制しても、「皆さんこそ、お休みください」と言って、重いブロックを黙々と運ぶのである。
 さらに、形式主義を排して、現代という時代のなかで、宗開両祖の御精神に適った化儀の在り方を探求した。そして、塔婆は立てず、もし、希望する人がいれば、紙で塔婆を作った。
 また、後年、定善寺に墓園を開設した際には、墓石の形、大きさも、墓の広さも同じにし、そこを「平等園」と名づけている。それは、日蓮大聖人の仏法の御精神は、″皆、平等であり、地位や財産などによって差別があってはならない″との信念からであった。
 日悦は、八〇年(同五十五年)八月十九日、八十二歳で逝去している。日蓮大聖人の御精神通りに生きょうと努めた日悦は、学会を愛し、讃え、擁護し続けた。透徹した僧侶の眼は、広宣流布に挺身している学会の姿に、「地涌の義」を見ていたにちがいない。
4  この一九五七年(昭和三十二年)の八月ごろ、戸田城聖は、折あるごとに、原水爆に関する宣言の構想を練っていた。
 この年の三月十八日から、ロンドンのランカスター・ハウスで、国連軍縮小委員会が開かれていたが、九月六日、遂にもの別れに終わることになる。
 これは、アメリカ、イギリス、フランス、カナダの西側諸国とソ連の五カ国からなる会議であり、核兵器の生産、実験、使用の禁止などが、大きな議題となっていた。
 会議は半年近くにわたり、百五十回以上も行われたが、意見の一致をみずに、結局、なんら成果をあげることなく、小委員会は無期休会になってしまった。
 この小委員会で、ソ連は、核実験の無条件一時停止と、核兵器の全面的使用禁止を主張していた。それに対して、西側は、核実験の停止は核兵器の製造の停止と結びつかなければならないとの立場をとり、実験だけを切り離したソ連の停止案を受け入れなかった。さらに、核兵器の使用についても、自衛のための核兵器の使用はやむを得ないとした。
 また、西側は、空中、および地上の査察案を提唱したが、ソ連は、自らも査察案を出しておきながら、最終的には、これを拒否した。
 そこには、東西の複雑な思惑がからんでいた。当時、世界は、新たな核軍拡競争の局面を迎えていたのである。
 五五年(同三十年)ソ連が、大型の水素爆弾を高空で爆発させる実験に成功を収めたのを契機にして、核兵器の開発競争は、実用化に向かって走りだしたといえる。それまでも水爆実験は行われていたが、大きな装置を使っての爆発実験であり、航空機から投下する水素爆弾ではなかった。
 しかし、これによって水爆は、実際に運搬可能なものとなり、単に、爆発力の大きさを競う時代から、核を誘導兵器の弾頭に取り付けて、攻撃、防御に使える核の開発を競う段階へと移行していった。
 このソ連の実験から半年後の五六年(同三十一年)五月には、今度はアメリカが、同国として最初の水爆投下実験に成功している。さらに、アメリカは、放射性降下物、いわゆる″死の灰″を少なくし、それが広がる地域を極小化させるとともに、爆心地付近の破壊効果を最大限にする実験にも、成功を収めたとしている。
 アメリカは、この実験について、軍事的観点ばかりでなく、人道的見地からも、重大な成果をあげたとして、放射性降下物による危険は、必ずしも、大規模な核兵器の使用に伴うものではないと発表した。そして、この水爆を「きれいな水爆」と呼んだのである。
 これによって、水爆の脅威は、ますます現実味を帯び始めてきたといってよい。核兵器が実際に使用される可能性が、一段と高まってきたのである。
 五六年から翌五七年(同三十二年)にかけては、アメリカ、イギリス、ソ連が、核実験を繰り返し、核開発競争は激化の一途をたどっていった。そうしたなかで、五七年八月に、遂にソ連がICBM(大陸間弾道ミサイル)の実験に成功したのである。
 大陸間を、ひとっ飛びするICBMは、当時、「究極の兵器」といわれ、その完成は、早くて六〇年(同三十五年)、遅ければ六五年(同四十年)になるだろうと予測されていた。それが三年も早く、完成したのである。
 ソ連はこれで、地球上のいかなる地点であろうと、望むところに、核爆弾を撃ち込むことができるようになったわけである。それまで、核兵器の戦略的な均衡は、西側が、やや優位とされていたが、それが逆転し、ソ連が、やや優位に立ったことになる。
 アメリカは、通常兵器や兵力におけるソ連の優位に対して、核兵器における優位によって対抗するという基本的な立場をとってきていただけに、その衝撃は大きかった。しかも、前の六月、アメリカは、二カ月前の六月、ICBM「アトラス」の実験に失敗していたのである。
 アメリカにとっては、西側の核兵器の優位を維持するためには、一刻も早くICBMの実験を成功させ、同時に、ソ連の核兵器を生産停止に持ち込むことが、不可欠な要件となってきていた。
 それだけに西側は、核実験の停止と、核兵器の生産の停止を結びつけることに、固執せざるを得なかったといってよい。ソ連がICBMの生産を急げば、勢力の均衡は大きく崩れてしまうという、強い危機感に駆られていたであろうことは、想像にかたくない。また、ICBMで一歩、ソ連が先んじたことから、ソ連の奇襲攻撃を封じるためにも、査察制度の導入に踏み切りたかったといえよう。
 一方、ソ連は、西側の優位を完全に突き崩すために、世界各地に設けられたアメリカの海外基地を排除することに、交渉の重点を置いていた。アメリカは、ソ連が奇襲攻撃をしかけた場合、直ちに大量報復するために、ソ連を取り巻く海外基地網を設けていたからである。
 ソ連が、核兵器の全面的使用禁止や、核実験の無条件停止を強調したのは、この大量報復政策を無力化するためにほかならなかった。
 こうした米ソ両国の、それぞれの思惑から、双方の合意はみられず、軍縮交渉は、失敗に終わった。この軍縮小委員会が休会に入るにあたって、アメリカのスタッセン代表は、「意見一致にとって、最も大きな障害になったのはソ連が軍事目的のための核分裂性物質の生産禁止に同意しないことだ」と述べている。
 軍縮小委員会の不成功を、ソ連の責任であるとして非難したのである。しかし、それは、ソ連も同様であった。
 ソ連のゾーリン代表は、こう語っている。
 「西側は原水爆の放棄を望んでいない。核兵器の実験中止で協定に到達できることが明らかであるにもかかわらず、西側は実験を中止しようとしない。かれらが小委で交渉を続けてきたのは、軍縮のため努力しているようにみせかけ、国際世論をしずめるためであった」
 それは、米ソを中心とした東西両陣営の、根深い相互の不信感と、対立の激しさを物語っていた。
 そうしたなかにあって、たび重なる核実験は、核戦争への恐怖を募らせるとともに、大気汚染をはじめ、放射能の人体への影響を深刻化させ、反核の機運は、世界的な高まりを見せ始めていたのである。
 当時、アメリカのライナス・ポーリング博士は、核実験禁止アピールに、二千人の米科学者が署名したと発表。また、世界平和評議会総会では、核実験即時無条件停止のコロンボ・アピールが発表されている。
5  九月七日、戸田城聖は、学会本部にあって、ひとり原水爆の問題に、深く思いをめぐらしていた。外は、台風十号の影響で、激しい風雨であった。雨は、怒り狂ったように、窓ガラスを叩いていた。戸田の心にも、原水爆への怒りが、嵐のように吹き荒れていた。
 しかし、彼は、込み上げる怒りを抑えながら、努めて冷静に、思索の糸を手繰っていった。
 ″米ソをはじめとする東西両陣営は、互いに核兵器の開発に躍起となり、盛んに原水爆実験を繰り返している。これは、人類の自殺行為にほかならないことは明らかだ。その愚行を正当化させているものは何か……″
 戸田の思索は、核兵器が戦争の抑止力になり、それによって平和が維持されるという、核抑止論に及んだ。
 これは、″水爆という未曾有の破壊力をもっ兵器が登場したことによって、もはや、戦争になれば、互いに共倒れすることになるから、戦争はできない″という考え方に始まっている。彼は、この核抑止論をもたらしているものは何かに、思索のメスを入れていった。
 ″核抑止論者は言う。――たとえば、核兵器をもって先制攻撃をしかけ、仮に一千万という人を殺したとしても、生き残った者が報復攻撃によって、何千万もの人を殺せるから、結局、核兵器が戦争の抑止力になる、と。
 しかし、そんな思考自体が、人間精神の悪魔的な産物ではないか。この抑止力とは、人間の恐怖の均衡のうえに成り立ったものだ。
 したがって、互いに相手が、より高性能で破壊力のある核兵器を開発し、装備することを想定し、際限のない核軍拡競争という悪循環に陥らざるを得ない。そこに待ち受けているものは、悪魔の迷路といってよい″
 戸田城聖は、核抑止論の行き着く先を考えた。
 ″この考えに立つ限り、早晩、多くの国々が、安全を確保するためには核を持たなければならない、という発想に陥り、それが一切に最優先される時代が来よう。その結果、核兵器は全人類を何度も抹殺するほどの量となり、地球をも壊滅させ得る怪物へと肥大化していくにちがいない″
 戸田は、ここまで考えると、この二十世紀という時代に現れた、黒々とした深淵をのぞき込むような思いに駆られた。深淵の様相は定かではないが、まさしく、人類が遭遇するであろう最大の地獄であろうと思った。それは、あの広島、長崎の原爆投下の惨状から、十分に推測することができた。
 ″原水爆は、これまでの兵器とは、その殺傷力においても、破壊力に、おいても、決して同列にとらえることはできない。いかに言葉を飾ろうと、人間の魔性の落とし子であり、人間の生存の権利を、根本的に脅かす運命的な兵器なのだ。そうだとすれば、原水爆の存在は、「絶対悪」として断じていかなくてはならないはずだ。
 しかし、世の多くの指導者たちは、この恐るべき核兵器を、通常兵器の延長線上にあると考えている。それは、原水爆を実用に供する兵器にしようとするところから生まれた、あの「きれいな水爆」という言葉にも、端的に表れている″
 戸田は、アインシュタインの「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」との言葉を思い出していた。
 ″アインシュタインの言うように、人類を死滅に追いやる原水爆の登場は、すべてを一変させてしまうのに、人間の考え方だけが変わっていない。
 今、西側も、東側も、互いに、核軍拡競争に明け暮れ、相手が平和を望んでいないと非難し合っている。
 しかし、最も大切なことは、イデオロギーに左右されるのではなく、原水爆こそ、人類の生存の権利を脅かす「絶対悪」である、この共通の認識に立つことではないか。
 さらに、この魔性の産物である原水爆を使用する者も、また、悪魔であると断じていくことだ。野蛮の究極的な存在にほかならない原水爆の使用者を、人間は、人類の名において、決して許してはならない。絶対に! そして、この思想を、全世界に浸透させていくことだ″
 戸田は、手帳を取り出すと、深い思いに沈みながら、考えをまとめでは記していった。
 やがて、手を休めると、戸外の激しい雨の音に耳を澄ました。彼は、空模様が気がかりでならなかった。青年部東日本体育大会「若人の祭典」が、いよいよ明日九月八日に迫っていたからである。
 戸田は、明日の三ツ沢の陸上競技場での体育大会は、愛する青年たちのために、ぜひとも、晴天に恵まれてほしいと思った。この体育大会は、彼自身にとっても、大きな意義をはらんだ大会であった。
 彼は、この席上、原水爆に対する宣言を発表し、青年たちに託すことを、固く心に決めていたからである。
 彼は、会長室のガラス窓を叩きつけるような雨を見ながら、さらに思索を凝らしていった。
 ″もし、日蓮大聖人が、この二十世紀に出現され、人類の命運を左右する原水爆の脅威というものを御覧になったら、いったい、なんと仰せになられるだろう。
 十二年前の、あの日本の敗戦は、「立正安国論」に照らして、まさしく他国侵逼難であり、一国をあげて正法に背いた治罰の現証であるにちがいない。それにしても、広島、長崎への原爆の投下は、あまりにも悲惨であった。
 しかし、それゆえに学会が、世界広布の使命を自覚せざるを得ない時代が来たといえるのかもしれない。
 つまり、日蓮大聖人は七百年前に、人びとが正法に帰依すべきことを叫ばれたが、その教えを万人が渇仰し、信受するには、末世の相貌をあらわにした、現代という時代を待たなければならなかったとはいえないだろうか。
 してみると、現代ほど、大聖人の御指南を拝し、理解するのにふさわしい時代はないということになる。要するに、広宣流布が急速に伸展し得る時代が来ているのだ″
 戸田は、胸中に熱い血潮がたぎるのを覚えたが、おのずから生き長らえることの限界を、考えないわけにはいかなかった。この年四月に、発作を起こして倒れて以来、体力の回復が、なかなか思うに任せなかったからである。
 彼は、これまで、幾度も大病にかかったが、そのたびに病魔をはね返して生き、活力を増してきた。しかし、今の戸田は、どとか違っていた。気力は、決して衰えてはいなかったが、体の奥の奥に、何かが停滞しているような感じがしてならないのである。
 そして、人に対しても、物事に対しても、愛着ともいうべき感情が、次第に強くなってきていることに、ふと、気づいた。戸田は、不思議な思いに駆られながら、その感覚がどとからきているものかを考えた。
 ″ことによると、それは、生きる時間が少なくなってきたことを、生命が感じているからかもしれない……″
 彼は、自身の人生の終末が、近づきつつあることを予感したのである。
 しかし、なんの感傷もなかった。ただ、限りある生涯の時間のなかで、成すべきことは完壁に成し遂げねばならないという思いが、激しく込み上げてくるのを覚えた。
 彼は、もう一度、原水爆についての考えをまとめたメモを読み返した。
 雨脚は、一層、激しくなっていった。今の彼を悩ませているものは、宣言を青年たちに託す、明日の天気であった。
 戸田は思った。
 ″この宣言を、自分の、青年たちへの第一の遺訓として言い残そう″
 この日の天気は、一日中、荒れ模様であったが、深夜には、速く雲が行き交う夜空に、月さえ顔をのぞかせていた。
6  台風一過、九月八日の朝は、初秋の晴天であった。
 早朝から、横浜駅に降り立った学会員が、整理班のきびきびとした誘導でバスに乗り、陸続と三ツ沢の陸上競技場に向かって行った。
 バスは、四十秒ごとに発車し、グラウンドの観客席は、見る見るうちに人で埋まっていった。
 残暑の日差しは厳しかったが、集った同志のどの顔も、この日の秋晴れのように明るく、笑顔に輝いていた。観客席を埋めた五万の人びとは、喜々として開会を待った。
 午前九時、戸田城聖が会場に到着すると、直ちに青年部東日本体育大会「若人の祭典」の開会式が始まった。
 大会旗、音楽隊などに続いて、二千人の男子選手団、それに、鼓笛隊に先導された一千人の女子選手団が、学会歌の大合唱のなかに入場し、整列した。
 森川一正の開会宣言のあと、音楽隊の演奏が鳴り響くなか、水色の地に黒の若獅子が描かれた大会旗が、メーンポールに掲げられた。
 続いて、「崇高なる学会精神と、旺盛なる団結力を発揮して、正々堂々と戦います」と、元気に選手宣誓が行われ、男女両部長があいさつに立った。
 その直後、空には一機のセスナ機が飛来した。
 「若獅子号」と名づけられたこのセスナ機には、教学部長の山平忠平が乗っていた。機から、花束とメッセージが投下された。
 メッセージには、「日本民族と世界人類の永遠の平和と幸福を一身にになう創価学会青年部の諸君、天地もふるう未曾有の大体育大会をはるかな上空より祝福し、心ゆくまでの御健闘を祈る」とあった。
 そして、青年部の室長・山本伸一のピストル音を合図に、百羽のハトが一斉に放たれ、打ち上げ花火が轟き、何千という色とりどりの風船が、秋空に舞い上がった。
 体育大会の競技が、いよいよ開始された。
 トラック競技は、百メートル競走、八十メートルハードルなどが行われたが、なかでも一万メートルマラソンは、全参加者から大喝采を浴びた。各選手は、倒れそうになりながらも、懸命に走破し、創価青年の意気と闘魂を示した。
 一着のタイムは、三十三分二十九秒であった。
 また、支部別の幹部リレーでは、各支部の四人の幹部が、百メートルずつ、四百メートルを走った。支部別の対抗レースとあって、スタンドに陣取った各支部の応援団は、あらん限りの力を振り絞るかのように、声援を送った。
 このころには、会場は熱気の坩堝となり、青年部恒例の棒倒しに移った時には、スタンドにいた戸田城聖も、グラウンドに下りて来た。
 戸田は、野球帽を被り、開襟シャツにサンダル履きという軽装でグラウンドに立った。そして、笑みを浮かべながら観戦していた。
 今、いささか体力の衰えた彼にとって、愛する青年たちの活力みなぎる競技は、頼もしくもあり、徴笑ましくもあった。彼は、青年たちの、このたくましさが、将来にわたって生命のたくましさとなって輝きゆくことを、心に祈っていた。
 午前の部が終わると、休憩となった。人びとは、秋晴れの空に輝く太陽のもとで、それぞれ持参した弁当を開いた。ピクニックさながらの壮快な昼食であった。誰もが、底抜けに明るかった。人びとは、弾む笑顔の語らいのなかに、日々のままならぬ生活の苦渋も、疲労も、青空に霧散していくのを覚えていた。
 戸田は、そんな光景を見ると、無性に嬉しくなった。広宣流布の戦いは熾烈である。また、仏法の法理は、どこまでも冷厳である。そうであればあるほど、戸田は、温かな人間的な配慮が必要であると考え、日々、同志を楽しませることに心を砕いてきた。それだけに、人びとの楽しげな姿を見ることが、ことのほか嬉しかったのだ。
 戸田は、青く晴れ渡った三ツ沢の空を見上げた。
 彼は、太陽の光に目を細めながら、あの、原爆が世界で初めて広島に投下された一九四五年(昭和二十年)八月六日も、真夏の太陽が照り輝いていたことを思った。
 戸田の脳裏に、昨裂する原爆が浮かんだ。閃光が走り、キノコ雲が広がり、阿鼻叫喚の巷と化した街々が、彼の眼底に映し出された。
 戸田は、ひとり唇をかみしめた。そして、ハンカチで目をぬぐうと、心でつぶやいた。
 ″この人間の生存の権利を奪う魔性の爪を、断じてもぎ取らねばならぬ!″
 しかし、この時、彼の胸中に秘められた決意を知る人は、誰もいなかった。
 戸田は、再び空を見上げた。空には、数羽の鳥が、弧を描いて飛んでいた。
 午後の部は、女子部のリズムダンス「白鳥」から始まった。フィールドに五つの輪を描き、優美に舞う乙女たちの清楚な演技は、五万の観衆を、しばし魅了してやまなかった。
 そして、一転して幹部の玉転がしとなると、爆笑に次ぐ爆笑であった。二組に分かれて、直径が人間の背丈ほどもある玉をころがすリレーである。
 小柄な婦人部の幹部が玉を扱う様は、まるで、玉にしがみついているように見えた。また、肉づきのよい壮年の幹部が玉を転がすと、二つの玉が転がっているかのように見え、爆笑を誘った。
 赤組のアンカーは、小西武雄理事長であり、白組は、泉田弘理事であった。二人は熱戦を展開し、抜きつ抜かれつの末に、泉田が、わずかの差で先にゴールインした。
 「大法戦」と銘打った騎馬戦が始まると、戸田城聖は、再びグラウンドに下りて来た。今度はイスに腰かけて観戦した。
 千二百人余の男子部員が、四人一組となって騎馬を組み、二軍に分かれて戦うのである。屈強な青年たちの、闘魂みなぎつ戦いとあって、グラウンドに騎馬が勢揃いすると、スタンドからは大歓声があがった。
 やがて、戦闘の火蓋が切られると、喊声を轟かせながら、両軍入り乱れての大熱戦となった。
 戸田は、その様子を、深い感慨を秘めながら、じっと眺めていた。
 ″青年部を結成して満六年……。もっと早く、もっと立派に育ってほしいが、それは、私の勝手な望みかも知れぬ。やっと、ここまで育った。質量ともに見事に育ったというべきだろう。
 しかし、私が手塩にかけて、彼らを育てることができるのは、いつまでであろうか。水滸会の訓練も、しばらく中断されたままになっている。思うに任せぬことになってきた″
 戸田は、思わず彼方を仰ぎ、軽い、ため息をついた。限りある彼の生涯が、刻一刻と終焉に近づきつつあるのを、戸田は、自分自身で感じ取っていたのである。
 山本伸一は、近くで騎馬戦を観戦していたが、遠くを仰ぎ見ている戸田に気づくと、さっと、傍らにやって来た。その表情に、常とは異なる何かを感じたからである。
 戸田は、人が近づいて来た気配を感じて、顔を向けた。伸一が来たことを知ると、彼は口もとに笑みを浮かべた。どこか寂しさを含んだ微笑であった。
 「みんな立派に育ったな。しかし、いつまで育てられるかな……」
 ポツリと、戸田は言った。
 伸一は、戸田の言葉に、胸が締めつけられる思いがした。熱いものが込み上げてきたが、それを堪えて、笑みを浮かべて言った。
 「はい、育ちました」
 戸田は、頷きながら、熱戦に視線を注いでいた。
 この日の各種の競技の成績を総合した結果、男子部は、文京支部に所属する第四十五部隊が、女子部は、中野支部に所属する第七部隊が晴れの優勝と決まった。
 やがて、閉会式に移り、山際洋青年部長や、小西武雄理事長のあいさつなどがあったあと、いよいよ戸田城聖の話となった。
7  彼は、悠然としてマイクの前に立っと、力強い声で語り始めた。
 「天竜も諸君らの熱誠に応えてか、昨日までの嵐は、あとかたもなく、天気晴朗のこの日を迎え、学会魂を思う存分に発揮せられた諸君ら、また、それに応えるとの大観衆の心を、心から喜ばしく思うものであります。
 さて、今日の喜ばしさにひきかえて、今後とも、難があるかも知らん。あるいは、身にいかなる攻撃を受けようかと思うが、諸君らに、今後、遺訓すベき第一のものを、本日は発表いたします」
 五万余の観衆は、思ってもいなかった戸田の言葉に、耳をそばだてた。弟子たちは、「遺訓」という言葉に、何かただならぬものを感じた。しかも、それは、「難」と「攻撃」を受けることを予告したあとに、「遺訓すべき第一のもの」を発表すると、続いているのである。
 歓喜につつまれた「若人の祭典」の終了にあたって、戸田が語ろうとする遺言とは何かを思い、人びとは固唾をのんで、次の言葉を待った。会場の空気は一変していた。
 「前々から申しているように、次の時代は、青年によって担われるのである。広宣流布は、われわれの使命であることは申すまでもないことであり、これは、ぜひともやらなければならぬことであるが、今、世に騒がれている核実験、原水爆実験に対する私の態度を、本日、はっきりと声明したいと思うものであります。いやしくも私の弟子であるならば、私の今日の声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたいと思うのであります」
 人びとは、ここで″原水爆のことか″と思った。
 相次ぎ繰り返される近年の原水爆実験について、誰もが不安と怯えとをいだいていたことは確かであったが、多くの同志は、広宣流布という使命に立って、寂光土の建設を第一としていけば、それでよいのだという思いでいたことも事実であった。寂光土の建設がなされれば、原水爆などといった核兵器が存立するはずはないというのが、大多数の同志の確信であったのである。
 しかし、広宣流布の道はいまだ遠く、その道程にあって、核の脅威が、日ごとに高まりつつあることは、誰もが実感していた。
 そして、もし、原水爆が使用される事態になれば、広宣流布の道もまた、一瞬にして破壊されかねないという無残な予感に、心を痛めている人もいた。あの広島、長崎の悲惨な記憶が、いやがうえにも、不吉な予感を駆り立てるのであった。
 原水爆の問題は、学会員にとって、避けがたい問題であったが、事が事だけに、自らの思考ではもてあまし、漠然とした不安に怯えながら、いかにすべきかを模索していたといってよい。
 それを、今、戸田城聖は、核実験、原水爆に対して、彼の態度を明らかにし、声明を宣言しようというのである。しかも、その宣言を、彼の遺訓の第一のものとし、それを受け継いで、全世界に浸透させてほしいというのだ。
 戸田は、毅然としていた。強い気迫のこもった言葉が、マイクを通して陸上競技場の隅々にまで轟いた。
 「それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。
 それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。
 なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。
 それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」
 戸田城聖は、まず、核兵器を、今世紀最大のの産物としてとらえた。「魔」とは、サンスクリットの「マーラ」の音訳であり、「殺者」「能奪命者」「破壊」等と訳されている。つまり、人間の心を惑わし、衆生の心を悩乱させ、生命を奪い、智慧を破壊する働きといってよい。
 そして、この「魔」の頂点に立つものこそ、第六天の魔王であり、それは、他化自在天王といわれるように、他を支配し、隷属化させようとする欲望をその本質とする。
 この観点に立つ時、人間の恐怖心を前提にして、大量殺裁をもたらす核兵器の保有を正当化する核抑止論という考え方自体、第六天の魔王の働きを具現化したものといってよい。
 彼の原水爆禁止宣言の特質は、深く人間の生命に潜んでいる「魔」を、打ち砕かんとするところにあった。
 当時、原水爆禁止運動は、日本国内にあっても、大きな広がりをみせていたが、戸田城聖は、核兵器を「魔」の産物ととらえ、「絶対悪」として、その存在自体を否定する思想の確立こそが急務であると考えたのである。それなくしては、原水爆の奥に潜む魔性の爪をもぎ取ることはできないというのが、彼の結論であった。
 それは、いかなるイデオロギーにも、国家、民族にも偏ることなく、普遍的在人間という次元から、核兵器、及びその使用を断罪するものであった。そこに、この原水爆禁止宣言の卓抜さがあり、それが、年とともに不滅の輝きを増すゆえんでもある。
 戸田が、原水爆禁止宣言のなかで、原水爆を使用した者は「ととごとく死刑に」と叫んだのは、決して、彼が死刑制度を肯定していたからではない。
 彼は、九年前の四八年(同二十三年)に、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、A級戦犯のうち東条英機ら七人が、絞首刑の判決を受けた時、次のように述べている。
 「あの裁判には、二つの間違いがある。第一に、死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落とした者も、同罪であるべきだ。なぜならば、人が人を殺す死刑は、仏法から見て、断じて許されぬことだからだ」
 また、彼は、しばしば、「本来、生命の因果律を根本とする仏法には、人が人を裁くという考え方はない」とも語っていた。
 では、その戸田が、なぜ、あえて「死刑」という言葉を用いたのだろうか。戸田は、原水爆の使用者に対する死刑の執行を、法制化することを訴えようとしたのではない。彼の眼目は、一言すれば、原水爆を使用し、人類の生存の権利を奪うことは、「絶対悪」であると断ずる思想の確立にあった。
 そして、その「思想」を、各国の指導者をはじめ、民衆一人ひとりの心の奥深く浸透させ、内的な規範を打ち立てることによって、原水爆の使用を防ごうとしたのである。
 原水爆の使用という「絶対悪」を犯した罪に相当する罰があるとするなら、それは、極刑である「死刑」以外にはあるまい。もし、戸田が、原水爆を使用した者は「魔もの」「サタン」「怪物」であると断じただけにとどまったならば、この宣言は極めて抽象的なものとなり、原水爆の使用を「絶対悪」とする彼の思想は、十分に表現されなかったにちがいない。
 彼は、「死刑」をあえて明言することによって、原水爆の使用を正当化しようとする人間の心を、打ち砕とうとしたのである。いわば、生命の魔性への「死刑宣告」ともいえよう。
 当時は、東西冷戦の時代であり、原水爆についても、東西いずれかのイデオロギーに立つての主張が大半を占めていた。戸田のこの宣言は、それを根底から覆し、人間という最も根本的な次元から、原水爆をとらえ、悪として裁断するものであった。
 宣言を述べる戸田の声は、一段と迫力を増していった。
 「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に弘めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。
 願わくは、今日の体育大会における意気をもって、この私の第一回の声明を全世界に広めてもらいたいことを切望して、今日の訓示に代える次第であります」
 宣言は終わった。大拍手が湧き起こった。感動の渦が場内に広がっていった。
 戸田城聖が、この原水爆禁止宣言をもって、第一の遺訓とした意味は深い。日蓮大聖人の仏法が、人間のための宗教である限り、「立正」という宗教的使命の遂行は、「安国」という平和社会の建設、すなわち人間としての社会的使命の成就によって完結するからである。
 戸田は、原水爆の背後に隠された爪こそ、人間に宿る魔性の生命であることを熟知していた。そして、その魔性の力に打ち勝つものは、仏性の力でしかないことを痛感していたのである。
 原水爆をつくりだしたのも人間なら、その廃絶を可能にするのも、また人間である。人間に仏性がある限り、核廃絶の道も必ず開かれることを、戸田は確信していた。
 その人間の仏性を信じ、仏性に語りかけ、原水爆が「絶対悪」であることを知らしめる生命の触発作業を、彼は遺訓として託したのである。
 以来、この宣言は、創価学会の平和運動の原点となっていった。
 三ツ沢の陸上競技場に集った五万余の参加者のうち、子どもたちを除けば、戦争にかかわりのなかった人は、一人としていなかった。それだけに、原水爆実験の果てに、いつまた、あの戦争が勃発するかもしれないという強い不安に苛まれていたといってよい。
 しかも、これから起こる戦争では、広島、長崎に投下された原爆を、はるかにしのぐ、大きな破壊力をもっ核兵器が使用されようとしているのである。もし、世界戦争が起これば、日本はもとより、世界中が廃墟となるであろうことは間違いない。
 ″もう、戦争はごめんだ″との悲願こそ、人びとの共通の感情であったが、そのために、学会員として、また、一人の人間として、何をなすべきかは、わからなかった。しかし、戸田のとの声明は、暗夜の海に輝く灯台のように、進むべき進路を照らし出したのである。
 青年たちの胸には、この時、人類が直面した未曾有の危機を克服する、新たな使命の火がともされたといってよい。だが、それはまだ、小さな灯であった。その火が、人びとの心から心へと、燃え広がり、平和のまばゆい光彩となって、世界をつつむことを実感できた人は、皆無に等しかったにちがいない。
 山本伸一は、戸田城聖の原水爆禁止宣言を、打ち震える思いで聞いていた。彼は、この師の遺訓を、必ず果たさなければならないと、自らに言い聞かせた。そして、戸田の思想を、いかにして全世界に浸透させていくかを、彼は、この時から、真剣に模索し始めたのである。
 伸一の胸には、数々の構想が広がっていった。しかし、彼は、はやる心を抑えた。それが、創価学会の広範な平和運動として結実していくには、まだ、長い歳月を待たねばならなかった。
8  三ツ沢の陸上競技場での東日本体育大会に続いて、九月二十二日には、西日本の体育大会が、大阪市立運動場で開催された。
 山本伸一は、戸田城聖と共に、との体育大会に出席し、翌二十三日を大阪で過ごし、帰途、総登山の輸送会議に臨んだ。翌年三月、総本山の大講堂の竣工を記念して、総登山が実施されることになっており、その輸送の打ち合わせが行われたのである。
 伸一は、二十五日夕刻、本部に戻り、戸田に総登山の輸送計画について報告すると、直ちに葛飾に向かった。この日の夜、伸一が総ブロック長に就任した、葛飾総ブロックの結成大会が行われたのである。
 葛飾区は、東京二十三区の北東部に位置し、江戸川と荒川に挟まれて、大小の河川が流れる「東京の水郷」ともいうべき地域である。区内には、家内工業を中心とした小さな企業が多く、人びとには、気取りのない下町気質があった。
 伸一は、人情味に富み、庶民の温もりが漂い、のどかな田園風景が広がる、この葛飾が好きであった。
 彼は、車窓から景色を眺めながら、葛飾の未来に思いをめぐらしていた。
 ″時代の流れは、やがて、これらの水田を一大住宅地に変えてしまうであろうが、それだけに限りない未来性を秘めた地域といえる。二十年後、三十年後には、東京の広宣流布を決する心臓部となるだろう″
 伸一は、東京の、また、日本の広宣流布の未来のために、この葛飾に、全国に先駆けて模範のブロックをつくろうと、固く決意していた。
 学会にブロック制が敷かれたのは、一九五五年(昭和三十年)の五月であったが、折伏による人のつながりのうえに成り立つタテ線組織に比べると、ブロックは組織も脆弱であり、連携も希薄であった。
 しかも、月のうち、ブロック活動にあてられる日は数日にすぎないところから、会員への指導の手も十分には差し伸べられず、各支部や地区の幹部も、ブロックの活動となると、あまり熱が入らないのが実情といえた。
 しかし、広宣流布の未来を考えるならば、人びとの生活の場である地域社会に密着したブロック組織の強化は、不可欠な課題であった。そのために、八月二十八日の本部幹部会で、都内各区に総ブロック制を敷くとともに、組織の刷新が図られたのである。今後は、総ブロックのもとに、大ブロック、ブロック、小ブロックの布陣が整えられていくことに地域に花開いた信心即生活の実証は、人びとを幸福へと誘う道標となろう。また、地域に築かれた同志のスクラムは、新たな社会建設の基盤となろう。
 山本伸一は、この本部幹部会で葛飾総ブロック長の任命を受けると、まず、大ブロック、ブロックの組織づくりに入った。
 伸一は、その組織案の作成を、西山国昭・キヨ夫妻をはじめ、葛飾区に居住するタテ線の支部幹部たちに委ねた。
 彼らは、自分たちのつくる組織案が、今後の葛飾の組織の骨格になるのだと思うと、いたく緊張し、唱題に励みながら、深夜まで検討を重ねていった。
 まず、区内に住むタテ線の地区幹部以上の幹部を網羅し、居住地域を調べ、区内の地域割りをしながら、大ブロック、ブロックの責任者を選定していったのである。
 しかし、それぞれタテ線の支部が異なり、交流もあまりないところから、一人ひとりの詳しい実態はわかりかねた。そこで、人づてに活動状況を聞いたり、電話で連携を取るなどして、ようやく各大ブロック、ブロックの組織案が出来上がった。
 彼らは、それを組織表にして、学会本部を訪ね、山本伸一に見せた。
 「皆で、検討いたしまして、できれば、この案でいきたいと思いますが……」
 西山国昭が、こう言って組織表を差し出すと、伸一は、「ありがとう」と言いながら、丹念に目を通した。そして、表に記載された一人ひとりについて尋ねていった
 「このブロック長候補の方の仕事は何ですか」
 「仕事ですか。仕事は……」
 西山は、同行した幹部に答えを促すように、顔を見回したが、誰も首をかしげて、口をつぐんだままだった。
 「ちょっと、仕事はわかりません」
 伸一は、重ねて尋ねた。
 「では、この方の奥さんの信心状態は?」
 「ええと、奥さんは……」
 今度も、誰も答えることができなかった。
 伸一は、さらに組織表の隣の行を指さしながら、質問を発した。
 「この婦人部の方に、お子さんは何人いるんですか」
 この問いにも、皆、互いに顔を見合わせ、口ごもってしまった。
 伸一は、テーブルの上に組織表を置くと、厳しい調で言った。
 「この組織表は、死んでいるようなものです」
 「はぁ……」
 西山国昭は、伸の言葉の意味がよくわからなかった。
 伸一は、戸惑いの表情で彼を見入る西山たちに語っていった。
 「いいですか。組織といっても、それを良くしていくのも、悪くしていくのも、人間の一念であり、戦いなんです。ですから、その組織の責任者となる幹部については、本当にこの人が適任なのかどうかを、あらゆる面から、慎重に検討しなければなりません。そのためには、その人のことを、どれだけ知っているかが大事です」
 伸一は、噛んで含めるように語った。
 「それぞれの組織の中心者を決定する場合には――その人の家はどこにあり、角から何軒目なのか。また、平屋か二階屋か、家族は何人いるのか――こうしたことも、すべて知らなくてはなりません。なぜかというと、役職につけば、その家に、人も出入りするようになります。そうなっても問題はないかどうかも、考える必要があるからです。
 さらに、どこに勤めているのか。会社では、どんな立場にあるのかなども、考慮しなくてはなりません。仕事が多忙を極め、活動の時間が十分にとれない人の場合は、それを補佐できる人を付けることも、考えなくてはならないからです。また、その人がどんな性格なのかも、的確につかんでいなければ、人間を生かすことはできません。
 一人ひとりのことが、自分の手のひらにあるように、何でもわかっていなければなりません。そして、組織表を見ただけで、その組織の活動の様子までが目に浮かぶようでなければ、生きた組織表とはいえないのです。ただ事務的に組織を編成し、人を当てはめ、それで組織が出来上がると思ったら、大きな間違いです。今のように、皆さんが何も説明できないような組織表では、戦いにはなりません」
 西山国昭たちは、伸一の鋭い指摘に、深く反省せざるを得なかった。
 「私が皆さんに、こういうことを言うのは、よく戸田先生が、『学会の組織は、戸田の命よりも大切だ』と、おっしゃっているからなんです。
 先生がそう言われたのは、仏意仏勅を賜った創価学会の組織が盤石であれば、必ず広宣流布はできるし、逆に、いい加減な組織になってしまえば、広宣流布も破壊されてしまうからです。
 今回、組織の検討を皆さんにやってもらっていますが、大切な学会の組織をつくるんですから、本当によく考え抜いた的確な人事であると、頷けるものをつくってください」
 伸一に励まされ、彼らは、その組織表を持ち帰り、もう一度、再検討することにしたのである。そして、一軒一軒、家庭訪問するところから始めていった。伸一の指摘を念頭に置きながら訪問を続けていくと、確かに多くの新たな発見があった。
 家庭訪問の結果を持ち寄りながら、連日にわたって、慎重な検討が繰り返された。組織表は、当初の案から、大幅な修正を余儀なくされた。
 こうしてつくられた新たな組織表をもって、西山たちは、再び伸一を訪ねた。
 「一人ひとりのことを、よく知ったうえでつくられた案ですね」
 伸一は、彼らの顔を見回し、確認した。そして、組織表に目を通すと、力強く言った。
 「それでは、この案でいきましょう」
9  九月二十五日夕刻、東京・葛飾区亀有の、葛飾総ブロック結成大会の会場には、三々五々と学会員が集ってきた。刈り入れを待つ稲穂が風にそよぐ、日暮れの田んぼ道を行く同志の表情は、喜々としていた。
 山本伸一が到着した時には、会場は千数百人の人であふれでいた。午後七時、結成大会は開会となった。
 開会宣言、各部の代表決意などに続いて、葛飾総ブロックの総ブロック委員になった西山キヨがあいさつに立った。彼女は、タテ線では向島支部の常任委員をしていた。幾分、緊張した面持ちで語り始めた。
 西山キヨは、学会の一切の企画を立て、活動を推進する、青年部の室長である山本伸一を総ブロック長に迎えた今、いよいよ葛飾の新しい出発の時が来たことを述べ、広宣流布のために、身を粉にして戦っていきたいと、抱負を語った。
 そして、「山本総ブロック長のもと、全員が一丸となって頑張りましょう!」と呼びかけて話を結んだ。期せずして雷鳴のような拍手が湧き起こった。伸一が、総ブロック長として葛飾に来たということは、この葛飾から広宣流布の新しいうねりが起こることであると、誰もが確信していた。
 参加者は、伸一が、蒲田支部で、文京支部で、また、あの大阪の地で、広宣流布の新たな突破口を開き、常に未聞の金字塔を打ち立ててきたことを、よく知っていた。その確信が決意となり、万雷の拍手となって、響き渡ったのだ。
 幹部のあいさつが続いたあと、総ブロック長・山本伸一の登壇となった。大拍手と歓声が場内をつつんだ。人垣の後方に立っていた人たちは、背伸びをし、爪先立ちになって、伸一の姿を見ようとした。
 彼は、笑顔を場内に向けると、静かに、しかし、力強い声で語った。
 「私が葛飾に来たのは、ただ任命を受けたからではありません。私はこの葛飾に、全国に先駆けて、模範的なブロックをつくるために来ました。戸田先生は、常に葛飾の皆さんのことを考えられ、そして、私に、『今度は葛飾だ』と言われて、派遣されたんです。
 それは、ブロックの模範を、皆さんと共に、葛飾につくりなさいという意味にほかなりません。戸田先生は、葛飾の皆さんなら、必ずそれができると信じて、私を派遣されたんです。私も、模範のブロックをつくる方々は、皆さんしかいないと確信しております」
 伸一は、葛飾の同志に満腔の敬意を寄せ、心から賞讃した。仏子を大切にし、讃えることは、仏法者の当然の行為にほかならない。彼は、下町の、素朴で、人間味、人情味のあふれる地域性は、堅固な人間組織をつくりあげるための、最大の要件であると考えていた。
 伸一は、力強く呼びかけた。
 「ブロックの模範をつくるということは、幸せの模範をつくるということです。この葛飾を、皆で力を合わせ、東京一、いな、日本一の、幸せあふれる地域にしていこうではありませんか!」
 彼は、こう訴えながら、この愛する庶民の町を、全国に先駆けて、幸せの花園にしようと、固く心に誓っていた。
 庶民の幸せのない社会の繁栄は、虚構の繁栄にすぎないといえよう。
 また、学会の組織の伸展といっても、その目的は、どこまでも一人ひとりの幸福境涯の確立にある。
 場内は熱気に満ち、壇上に立つ伸一の顔には、汗が噴き出ていた。
 「では、模範のブロックをつくるには、どうしたらよいか。
 まず、全会員が、しっかり勤行できるようにすることです。柔道にも、剣道にも、基本があります
 が、幸せになるための信心の基本は、勤行にあります。日々、真剣に勤行し、唱題を重ねた人と、いい加減な人とでは、表面は同じように見えても、三年、五年、七年とたっていった時には、歴然たる開きが出てきます。
 宿業の転換といっても、人間革命といっても、その一切の源泉は、勤行・唱題にほかなりません。
 ですから、日蓮大聖人は、『深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり』と仰せになっているんです。
 また、勤行の姿勢が、その人の生き方に表れます。弱々しい勤行の人は、生命力も乏しく、どうしても弱々しい生き方になっていくし、義務的な勤行であれば、信心の歓喜はなかなか得られません。お互いに、白馬が天空を駆けるような、リズム感あふれる、すがすがしい勤行をしていきましょう。
 そして、真剣な祈りを込め、大宇宙をも動かしゆくような、力強い、最高の勤行を、日々、めざしていこうではありませんか。
 その意味から、私は、わが葛飾総ブロックは、『朝晩の勤行をやりきる』ということをスローガンに掲げて、前進したいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 学会の飛躍的な発展の源泉は、一人ひとりの会員に、勤行の実践を徹底して教えてきたことにあった。また、そこに偉大なる宗教革命もあったのである。およそ経文とは無縁な民衆に、勤行を教えることは、想像を絶する労作業であったが、それゆえに仏法を、民衆の手に取り戻すことができたといってよい。
 人びとは、経文を知らないがために、経を読む職業宗教屋をありがたく思う。それが、宗教の権威に盲従する精神の土壌をつくりあげる根本要因となっていった。また、それが、僧侶を傲慢にさせ、民衆を蔑視する風潮をつくっていったともいえよう。
 山本伸一は、会場の参加者を見渡した。ぎっしりと場内を埋めた人びとの目は輝き、求道の息吹が感じられた。
10  彼は、腕時計を見た。時間は、まだ、たっぷりあった。
 「私が話すだけでは、十分な意思の疎通は図れませんから、今日は質問会にしたいと思います。聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください」
 場内から大きな拍手が湧き起こった。
 「壇上だと、皆さんから遠くて、質問が聞こえないので、私が下に行きます」
 こう言うと伸一は、壇上を降り、会場の中央に進んでいった。男子部の役員が、すぐに机とイスを用意し、伸一を会場中の人びとが取り囲むようにして、質問会が行われた。
 勢いよく、何人かの参加者の手があがった。経済苦の問題、病気の悩み、夫婦仲のことなど、どれも深刻な問題であった。
 悩み、苦しみ、その活路を仏法に求めて、健気に信仰に励もうとする同志に、伸一は全精魂を傾けて、勇気と励ましの指導を続けた。この人たちを苦悩から救い、断じて幸せにしてみせるとの、熱き思いをたぎらせて。
 皆、無名の庶民である。しかし、広宣流布の使命を担うために出現した、尊き地涌の仏子なのだ。
 彼は、一言一言に愛情を込め、誠実を込め、責任を込めて、一期一会の思いで語っていった。
 四、五問の質問を受けたあと、伸一は、会場の同志に促すように言った。
 「今日は、葛飾総ブロックの出発となりましたが、組織といっても、人間と人間のつながりです。タテ線に比べて、これまで、なぜブロックの組織が弱かったかといえば、それは、人間関係が希薄であったからです。互いに悩みを分かち合い、喜びを分かち合いながら、広宣流布をめざす、麗しく強い、人の和こそが、組織の強さです。
 創価学会といっても、それは皆さんを離れてはありません。皆さんの大ブロックが、ブロックが、そのまま創価学会です。そこが歓喜にあふれでいるか、功徳に満ちているか、温かい人間の交流があるか――それ以外に広宣流布の実像はありません。創価学会も、広宣流布も、どこか別の遠い世界にあるのではない。それは、皆さんの日々の活動のなかに、さらに言えば、皆さん自身の生き方のなかにあります。
 どうか、『私が創価学会の代表です』と言える一人ひとりになってください。また、最高のブロック、大ブロックをつくってください。自分の担った分野で、最高のものをつくりあげていく――それが、戸田先生との共戦の姿であり、弟子としての戦いです。やろうじゃありませんか!」
 伸一の指導は、参加者を奮い立たせていった。割烹着姿の婦人も、油の染みついた作業服の青年も、どの顔も紅潮していた。そして、決意に輝いていた。
 「最後に、私たちが戦いを起こすうえで、最も大切なものは何かを述べておきたいと思います。それは勇気です。朝起きるにも、勤行をするにも勇気が必要です。また、悪いことを悪いと言い切るにも、折伏をするにも、勇気がいります。人生も、広宣流布も、すべては勇気の二字で決まってしまう。
 信心とは、勇気の異名です。どうか、勇気をもって、自分の弱さに勝ち、宿命に打ち勝ってください。そして、『私は、こんなに幸せだ』と言える境涯になろうではありませんか。それが、戸田先生の願望です」
 心に染み渡るような指導であった。
 「それでは、元気いっぱいに戦って、また、お会いしましょう!」
 伸一は、こう話を結んだ
 葛飾総ブロック結成大会は、喜びのなかにその幕を閉じた。会場を後にする人びとの足取りは軽く、胸には、希望のかがり火が赤々と燃えていた。葛飾にブロックの模範を――これが、その日以来、葛飾の同志の合言葉となったのである。
 伸一は、青年部の室長として、全国各地を東奔西走しながら、月数回のブロックの日には、勇んで葛飾にやって来た。
 当時、ブロックの日は、毎週水曜日になっていた。伸一は、そのつど、指導会、座談会、御書講義と、全力で奔走した。時には、自転車を借りて、駆け巡ることもあった。
 彼は、言うのであった。
 「私は、皆さんにとっては、『水曜日の男』だね。水曜には葛飾で元気を取り戻して、また、タテ線に行って、力いっぱい頑張ろうよ」
 また、伸一は、会合のあとには、必ずといってよいほど、家庭指導に回った。家庭を訪ねれば、その人の生活の様子がわかる。家庭内の深刻な悩みを知ることもできよう。また、会合では見ることのできなかった、人間の素顔を見ることもできる。それらを知らずしては、一人ひとりに対する適切な指導の手を差し伸べることはできない。
 この家庭指導を重ねていくなかから、心と心が解け合い、結ばれ、創価の同志の金剛不壊の絆が固く結ばれていく。ゆえに、家庭指導のない組織には、真の団結も生まれることはない。
 伸一は、仕事や家族のことなどを尋ねながら、十分に相手の話を聞いた。そして、悩める人には勇気を、迷える人には確信を与え、全精力を注いで激励していった。
 また、幹部の家を訪問した時は、家族に、ねぎらいと励ましの言葉をかけることを忘れなかった。幹部としての存分な活躍ができるのは、家族の協力が必要だからである。特に妻が幹部である場合には、夫に丁重に礼を述べ、心から感謝の意を表した。
 仏法が人の振る舞いを説くものである限り、感謝の心をもち、礼儀と常識をわきまえることは、信仰者の必須の要件であり、そこから共感の輪も広がっていく。
 伸一は、自ら家庭指導を実践し、範を示しながら、その大切さを訴えていった。
 「会合に出席している人だけが学会員ではありません。出たくとも、仕事など、さまざまな事情で参加できない人もいる。
 また、悩みをかかえて悶々として、信心の喜びさえも失せ、会合に出席する気力さえ、なくなってしまった人もいるかもしれない。
 その人たちにこそ、最も温かい真剣な励ましが必要なんです。
 もし、会合の参加者にのみ焦点を合わせ、組織が運営されていくなら、本来、指導の手を差し伸べるべき多くの人を、見落としてしまうことになる。
 ひとたび、組織の責任者の任命を受けたということは、戸田先生の大事な弟子を、先生からお預かりしたということです。その人たちを悲しませたり、退転させてしまうようなことがあっては、絶対になりません」
 伸一の意識は、むしろ、会合に参加できなかった人に向けられていたといってよい。彼は、会合終了後の家庭指導こそが、勝負であると心に決めていた。そして、同志が元気になり、希望と勇気をもてるためには、どんなことでもした。共に記念のカメラに納まるととも、色紙に励ましの言葉を揮毫して贈るとともあった。さらに、寸暇を惜しんで、激励の手紙を書いた。
 信心とは希望である。同志である会員に、大いなる希望を与えてこそ、真実の仏法のリーダーといえる。
 同志は、一歩、社会に出れば、冷たく厳しい世間の風にさらされながら、必死に生き、戦っている。そうであればあるほど、学会は、兄弟、姉妹、家族以上の思いやりにあふれた、温かい同志愛の世界でなければならないと、伸一は思った。
 彼の行くところ、どこでも明るい対話の花が咲いた。その対話のなかから、新たな創意工夫が生まれていった。
 たとえば、勤行の正しい仕方を教えられていない会員が数多くいることを語り合ううちに、勤行の仕方を書いた手引を、印刷して配布するという案が出され、直ちに実行に移された。
 一人ひとりの心に兆した強い責任感は、智慧を生み、創意と工夫とを育んでいくにちがいない。
 伸一は、懸命に動いた。自分が動いた分だけが、広宣流布の前進につながるというのが、これまでの戦いを通して、彼がつかんだ確信であった。
 会合終了後、家庭指導をして、自宅に帰ると、深夜になることも少なくなかった。葛飾区内といっても、場所によっては、大田区の自宅まで、二時間近くを要したのである。
 しかし、彼は、丈夫ではない自らの体をかばおうとも、労を惜しもうともしなかった。広宣流布の新時代の幕を開くために、この葛飾に、ブロックの模範を築き上げることが、自分に課せられた使命であると、強く、深く、決意していたからである。
11  山本伸一が、葛飾の同志と語り合うなかで実感したことは、戸田城聖や本部を身近に感じている人が、極めて少ないということであった。何かあれば本部へ、という雰囲気が之しいのである。
 葛飾は、東京二十三区のなかでは、地理的にも学会本部から遠いことは確かである。しかし、問題は決してそれだけではなかった。同志の多くは、自分たちの上には、支部長や地区部長など、幾重にも幹部がいるのだから、直接、本部を訪ねたりするのは、恐れ多いことであり、控えるべきであるとの思いをいだいてきた。
 つまり、会員と本部とを隔てる、心の壁ができているのである。支部中心のタテ線の活動が定着していくにつれて、いつの間にか、一人ひとりが本部に直結していくという意識が、薄らいでいってしまったのであろうか。
 もし、幹部が会員の上に君臨して組織を私物化し、会員が、師を求めて、本部に行くことも樺るような組織であれば、戸田の精神とは、全くかけ離れた、硬直化した官僚組織であり、広宣流布を阻害するものとなってしまう。
 学会の広宣流布への原動力は、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、戸田城聖が第二代会長に就任した日の、あの七十五万世帯への大師子吼にほかならない。「七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします」と、一人立った戸田の決意と確信に触れ、全同志がそれに相呼応することによって、広宣流布の未曾有の伸展があったのである。
 つまり、戸田城聖の広宣流布への一念こそが、学会の戦いの電源であり、それにつながることによって、戦いの歯車は、勢いよく回転してきたといってよい。
 伸一は、同志の心に立ちはだかる壁を、まず、取り除かなければならないと思った。
 彼は、懇談のたびごとに訴えていった。
 「組織を図に表す時には、便宜上、ピラミッド型にしますが、それは精神の在り方を示すものではありません。学会の組織の本義からいえば、戸田先生を中心にした円形組織といえます。皆さんと戸田先生との間には、なんの隔たりもありません。皆さん方一人ひとりが、その精神においては、本来、先生と直結しているんです。
 戸田先生は、『会員は会長のためにいるのではない。会長が会員のためにいるのだ。幹部もまた同じである』とよく言われますが、皆さんのために先生はいらっしゃる。
 ですから、ブロック長の皆さんであれば、月々のブロックの活動を、お手紙で報告してもよいでしょうし、自分自身のことや、家庭のことを報告することもかまいません。誰にも遠慮などする必要はないんです。皆さんは、戸田先生の弟子ではありませんか。
 また、私も、なるべく本部に行っているようにしますから、私を訪ねて、どんどん本部に来てください。幹部のための本部ではなく、会員のための、皆さんのための本部なんですから」
 伸一は、それから、幹部の在り方について、語っていった。
 「皆さん方一人ひとりを、直接、指導してさしあげたいというのが、戸田先生のお気持ちです。しかし、時間的にも、それは不可能なので、先生のパイプ役として、私が葛飾に来ているんです。
 ですから、皆さんのことは、逐一、戸田先生にご報告し、一つ一つ私が指導を受けております。幹部は、どこまでも、先生と会員をつなぐパイプなんです。
 したがって、幹部は、同志を自分に付けようとするのではなく、先生にどうすれば近づけられるかを、常に考えていくことです」
 伸一自身、そのために、戸田の了解を得て、学会本部で葛飾の大ブロック長会を開くなど、ありとあらゆる努力を払っていったのである。
 学会の強さは、戸田城聖と一人ひとりの同志との精神の結合にこそあった。広宣流布の大願に生きる、戸田との共戦の気概が脈打っていない組織であれば、それは、もはや、烏合の衆に等しいといえよう。
 葛飾の同志は、次第に戸田を、そして、本部を身近に感じ始めるようになった。彼らは自らの心のなかに、戸田城聖の息づかいを感じ、戸田の指導を、自分に対する指導であると、思えるようになっていった。そして、一人、また一人と、己心の戸田に誓い、その誓いを果たすべく、自発的に戦いを開始したのである。
 伸一の戦いは、時間との戦いでもあった
 限られたブロック活動の日を使って、一人でも多くの会員と会い、信心の覚醒を促すことは容易ではなかった。
 しかも、そのうえ伸一は、そのころ、『大白蓮華』誌上に七回にわたって「男子青年部の歩み」を執筆していた。画板を携えて歩き、活動のなかで、わずかな時間を見つけては、画板を机代わりに原稿を書いた。そして、さらに夜更けに、自宅で原稿用紙に向かう日が続いていた。
 青年部の室長としての激務のうえに加わった葛飾での戦いは、彼の疲労をいたく募らせ、微熱にさいなまれた。
 しかし、伸一は、ますます闘志を燃やし、祈りには一段と力がこもった。
 活動から拠点に戻ると、彼は真っ先に仏壇の前に座り、唱題に励んだ。同志のトラックに乗せてもらい、会場から会場に移動する間さえも、心のなかで題目を唱え続けたのである。一分一秒の時間を惜しんでの唱題であった。
 葛飾の総ブロック長としての伸一の戦いは、戸田城聖が逝去し、伸一が会長に就任する前年の五九年(同三十四年)七月まで続けられた。
 伸一によって、一人ひとりの同志に植えられた信心の苗は、幹を伸ばし、大きく枝を茂らせ、葛飾は六〇年(同三十五年)の十二月、三総ブロックに発展している。
 山本伸一が、葛飾総ブロック長として活動を開始し始めて間もないある日、戸田城聖は伸一に言った。
 「伸一、また、君の朝の授業を始めよう。将来のために、私は、もっと多くのことを教えておかなければならないと思っている。君を、世界一流の大指導者に育て上げるのが、私の責任だからな」
 戸田は、彼の事業が不振に陥り、その再建のために、伸一が夜学に通うことを断念せざるを得なかった五〇年(同二十五年)ごろから、ほぼ毎朝、伸一のために、さまざまな分野の学問の講義を続けてきた。しかし、ここしばらく、朝の授業は中断されていた。広宣流布の伸展にともない、会長として、戸田のなすべきことが激増し、伸一への講義の時間が取れなくなったためである。
 今も、戸田の忙しさは、決して変わってはいなかった。しかも、彼の肉体は、間違いなく衰弱しつつあった。その戸田が、また再び、朝の講義を行おうというのである。
 「しかし、それでは先生のお体が……」
 伸一が言うと、戸田は答えた。
 「そんなことは、君の心配することではない」
 驚くほど厳しい口調であった。
 それから戸田は静かに、胸の思いを吐露するように言うのだった。
 「伸一、私は人間をつくらなければならないのだよ。広宣流布を成し遂げる本当の後継者を。命をかけても、私は、それをしなければならぬ。伸一、学べ。すべてを学んでいくんだよ」
 烈々たる気迫のこもる言葉であった。
 伸一は、「はい!」と言うと、深く頭を垂れた。
 戸田の限りなく大きな慈愛に胸が締めつけられる思いがし、目頭が熱くなった。
 真剣勝負の朝の授業が再び始まった。
 戸田は、死力を振り絞るようにして、講義を続けていった。彼の授業は、歴史の話から政治、経済、文学へと広がり、哲学にいたり、さらに、仏法の眼から、それらの事象をいかにとらえるかに及んだ。縦横無尽な広がりをもち、それでいて深遠な講義であった。
 日ごと、戸田は伸一の顔を見ると、「昨日は何の本を読んだか」と、厳しく尋ねた。
 窓から差し込む朝の光のなかで、師は一人の愛弟子に、自らの知識と、智慧と、思想と、魂とを注いでいった。
 伸一は、師の白熱の慈愛を浴びる思いで、感動に打ち震えながら、一心不乱に学びに学んだ。戸田は、彼の後継の、分身ともいうべき山本伸一の大成の総仕上げのために、命を削るようにして、最後の薫陶を開始したのである。

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