Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

裁判  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  猛暑の夏が過ぎた。やがて、涼しい風が吹き始め、澄んだ秋空が広がった。
 学会は、来る日も、また、来る日も、大空をかける若鷲のように、さっそうと飛翔を続けていた。
 山本伸一も、その先頭に立って、東奔西走の日々を送っていたが、彼の胸中には、大阪事件の裁判という暗雲が垂れ込め、人知れず心を悩ませていた。
 一九五七年(昭和三十二年)十月十八日、大阪地方裁判所で、第一回の公判が行われた。
 起訴された六十四人のうち、三人は大阪在住の、大村昌人の個人的な友人であり、創価学会員ではなかった。この日は、全被告人に召喚状が出されていたが、肺結核に苦しむ学会の一青年と、大村の友人の一人が姿を見せなかった。
 出席被告人六十二人といっても、買収関係の四十一人と、戸別訪問関係の二十一人とは、この時、初めて顔を合わせたのである。
 このうち買収は、蒲田支部の地区部長・大村昌人によるものであり、戸別訪問は、それぞれの学会員が、支援活動のなかで、熱心さのあまりに起こしてしまった個別の行為であった。したがって、同じ選挙違反の容疑といっても、性質の異なる別個の事件であったといえる。しかし、検察当局が、これを併合したのは、創価学会そのものに焦点を合わせたかったからといえよう。
 開廷前、法廷は、六十二人の被告人でごった返していたが、係官の指示に従い、定められた席に着く被告人たちの、きびきびとした動作は、常ならぬ法廷の雰囲気を醸し出していた。
 全員が起立するなか、田上雄介裁判長が、二人の裁判官と共に現れ、裁判長席に着くと、開廷が宣せられた。
 白髪の田上裁判長の風貌には、威厳と気品が漂い、その目は鋭かったが、柔和な温かさをたたえていた。これまで、検事たちの傲慢無礼な取り調べに憤りを感じてきた被告人たちは、この裁判長の風貌に、一種の安堵感を覚えたにちがいない。
 起訴状は十件に分かれ、山本伸一の容疑は、戸別訪問関係のほぼ全般にわたり、小西武雄の容疑も、買収関係のすべてにわたっていた。
 裁判長は、これらの事件を、全部、併合審理することを述べ、人定質問に入った。出席した被告人、一人ひとりの氏名、本籍地、居住地、職業、生年月日などが尋ねられていった。
 伸一は、法廷の被告人席にあって、いよいよ、長い戦いの幕が開いたことを感じていた。彼は、戸田城聖の弟子らしく、正々堂々と真実を訴え、無罪を勝ち取ることを、心に深く期していた。
 この時、伸一が、何よりも気がかりでならなかったのは、戸田の健康である。戸田の憔悴は著しかった。自分の逮捕、投獄によって、どれほど戸田を苦しめてしまったかと思うと、伸一の胸は、張り裂けんばかりに痛むのであった。
 ″果てしなく続くであろう、この裁判に、一日も早く勝利し、お元気な先生に、ご報告申し上げ、ご安心いただきたい″
 伸一は、終始、そのことばかりを考えていた。
 公判では、弁護人から、買収事件の被告人の大部分の者が、東京方面の在住者であるところから、生活上の問題などを考慮し、買収関係の審理については、東京の裁判所に移送すべきであるとの申し立てがなされた。しかし、検察側は、本件は関西の地で発生し、関係証拠も大阪にあるので、移送は不適当であり、申し立ては却下されるべきであると反対してきた。
 初公判で、既に戦いの火花が散るかに思われたが、これに対して、裁判長は、意見があれば、十一月二十日までに書面で提出するよう命じ、決定は後日に行うと断を下した。
 この日は、次回の公判は、年が明けた五八年(同三十三年)の一月十四日に行われることが告げられ、閉廷となった。初公判は、まずは、型通りに終わったが、理事長・小西武雄と青年部の室長・山本伸一を狙い撃とうとする周到な起訴状の記述は、今後の熾烈な裁判闘争を予見させた。
 第二回公判が、翌年に持ち越されたのは、検察庁の書類整理が、まだ完了していないためであった。
 十二月の上旬、裁判長は、申し立てのあった、買収関係の被告人の東京移送を却下した。
 中旬になると、大村昌人らの弁護人から、証拠の記録謄写が、翌年の一月末ごろまでかかることから、第二回公判の延期の請求が出され、三月六日に次の公判が行われることに決まった。
 その日は、総本山大石寺で、三月一日の法華本門大講堂の落成慶讃大法要に引き続いて、一カ月にわたる記念の総登山が行われていたさなかである。
 既に、戸田城聖の病は篤く、体力は著しく衰え、起居も思うに任せぬ状態であった。そのなかで戸田は、死力を振り絞るようにして、最後の戦いの指揮を執っていたのである。
 当時、山本伸一は、師の病状に、日々、心を痛めながら、総本山の理境坊に泊まり込み、戸田のもとで、総登山の一切の運営にあたっていた。伸一は、全国から集った会員のために心を砕き、戸田の手となり足となって、盛儀の成功に挺身していたのである。伸一は、今、片時たりとも、戸田の側を離れたくはなかった。裁判のことを、戸田に伝えることさえ心苦しく、総本山を後にすることは、後ろ髪を引かれる思いであった。その伸一も、あの逮捕以来、体調は悪化の一途をたどり、熱に悩まされる日々が続いていた。
 三月五日、伸一は、戸田のいる理境坊の二階に行き、裁判のために大阪に行くことを告げた。戸田は、布団の上に身を起こしながら言った。
 「おお、そうだつたな」
 「大切な戦いの最中に不在になってしまい、まことに申し訳ありません」
 戸田は、こう語る伸一の顔を、じっと見つめていたが、手を伸ばすと、伸一の腕を握った。
 「伸一、疲れているな。体の方は大丈夫か」
 戸田の顔には、疲弊の色がにじみ出ていた。その戸田が、今、自分の体を気遣ってくれていることを思うと、伸一は、熱いものが込み上げてきてならなかった。
 「先生、私は大丈夫です。先生こそ、ご無理をなさっているだけに……」
 「君の戦いは長いのだ。代われるものなら、私が代わってやりたい。伸一……、君は罪を一身に背負おうとした。本当に人の良い男だな。でも、だからこそ安心だな、学会も」
 戸田は、つぶやくように言うと、嬉しそうに笑った。そして、伸一に向かって、毅然として言った。
 「裁判は、容易ならざる戦いになるだろう。いつまでも君を悩ませることになるかもしれぬ。しかし、最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか。真実は必ず明らかになる。悠々と、堂々と、男らしく戦うんだ」
 戸田の言葉は、伸一の胸を射貫き、無量の勇気が噴き上がってくるのを覚えた。
 伸一は、総本山を後にし、大阪へと向かった。
2  三月六日の公判では、起訴状に対する罪状の認否が行われた。買収事件に関与した者は、大村昌人らとの共謀と、買収行為自体は認めたものの、小西武雄との共謀は、皆が否認した。また、戸別訪問の実行者も、その事実は認めたものの、やはり、山本伸一と相談したり、指示されたりしたことはないと、一様に否認したのであった。小西も、伸一も、当然のことながら、それぞれ買収と戸別訪問の共謀を否認した。
 やがて、検事の冒頭陳述に移った。そこでは、学会の組織と指揮系統が詳述され、「全選挙運動は被告人山本伸一総司令がこれを統括し、文書違反及び買収を担当したものは被告人小西武雄に直属する被告人大村昌人を長とする覆面部隊と称せられるものである」とされていた。つまり、学会が組織ぐるみで、買収と戸別訪問を画策し、実行したというのである。犯行の具体的事実は十件にわたり、被告人が、警察と検察で供述した調書を、その裏付けとしていた。
 冒頭陳述は、用意周到に練り上げられたものであろう。いかにも組織的犯行を思わせる完壁さを備えていた。
 この選挙で、買収と戸別訪問が行われたことは、残念ながら明らかな事実である。裁判の争点は、その違反行為が、上層部の指示で、組織的に行われたものかどうかにあった。裁判常識からいえば、理事長・小西武雄、室長・山本伸一という、当時の創価学会の両翼ともいうべき首脳を、有罪に追い込んでいくのに、十分な下地がつくられていたといってよい。当初、弁護士たちの目にさえ、小西や伸一が無罪を勝ち取ることは、不可能であろうと映っていたのである。
 一九五七年(昭和三十二年)当時、創価学会の急成長は、宗教界のみならず、政界にも大きな脅威となっていた。終戦直後は、壊滅状態に等しく、戸田城聖が第二代会長に就任した五一年(同二十六年)ごろでも、まだ会員数は、実質三千余にすぎなかった。それが、わずか六年ほどで、約六十万世帯に発展し、政界へも進出したのである。″学会を、このまま放置しておけば、国家権力をも揺るがす、不気味な存在になりかねない″との、危惧を与えたであろうことは、想像にかたくない。
 宗教が、時に国家をも左右する存在になることは、歴史上、しばしば見られるところである。それゆえに、宗教の台頭に、権力は常に鋭敏に反応し、なんらかの恐れを感じ取ると、いち早く弾圧の挙に出ることも珍しくない。
 日本の近代の歴史のなかでは、三五年(同十年)十二月に始まる大本教の第二次弾圧事件や、三六年(同十一年)九月に始まる「ひとのみち事件」が、大規模な宗教弾圧事件として知られている。それらが、いずれも急成長を遂げ、民衆に根差した新興教団であったことは着目に値しよう。
 なかでも大本教の第二次弾圧事件は、戦時下で敢行されていった宗教弾圧の先触れとなった。
 大本教は、一八九二年(明治二十五年)、出口なおによって開かれた宗教である。教義は、なおが神がかりによって書いた「お筆先」といわれる言葉を、なおの娘婿の出口王仁三郎が、神道などの諸説と結びつけて解釈し、体系化したもので、「みろくの世」の実現を掲げ、世直しを説いていた。それがや不況と社会不安を背影に、人びとの共感を呼び、急速にき教勢を広げ、一九三五年(昭和十年)当時、信徒数四十万と称せられるにいたっていた。
 当時、大本教は、昭和神聖会などの外郭政治団体をつくり、皇道政治、皇道外交、皇道経済などを主張し、国家主義的な運動を推し進めていった。そして、「昭和維新」を訴え、右翼の大物や、軍部革新派とも交流をもっていた。
 大本教が、教勢を拡大した背景には、社会不安があったが、大弾圧を被らなければならなかった背景も、やはり社会不安であった。
 社会は激動していた。二九年(同四年)、アメリカに端を発した世界大恐慌は、日本経済を危機的状況に陥れた。都市には失業者があふれ、農村は冷害や凶作に襲われて、疲弊の極みにあった。
 三二年(同七年)二月には、民政党幹事長・井上準之助が暗殺され、三月には財界の團琢磨が暗殺された。日蓮宗の僧侶・井上日召が率いていた、血盟団のメンバーが起こした事件であった。この事件の背後には、海軍の一部将校の協力があったとされる。そして、五月十五日、海軍の青年将校が犬養毅首相を暗殺した、いわゆる「五・一五事件」が起きた。
 時代は、あの「二・二六事件」勃発の前夜である。当局は、大本教という巨大教団が、軍部革新派と結びついて資金を援助したり、昭和神聖会などの関係諸国体を動かすことに、恐れをいだいていたのである。
 後に、大本教弾圧に関わった内務省の関係者の一人は、この事件について、次のように書いている。
 「『雉子も鳴かずば云云』と謂うことがあるが、若し大本が穏しく宗教の分野に留って居たならば、未だ特高警察の注意を引くこともなく、彼王仁三郎お に さぶろうは当分聖師様でおさまって居れたかも判らない」
 また、別の内務省関係者は、「宗教運動が正しい宗教運動である場合に於ては、警察が之を警戒し取締るべきものでないことは言をたないのであるが、然らざるものに対しては徹底的に之を取締らねばならぬこと亦言を俟たぬ所である」と述べている。
 国家目的に賛同、協力するのが正しい宗教であり、国家にもの申すような宗教は、邪教であり、取り締まらなければならないというのが、当時の内務省関係者の共通認識だったのである。教義の内容はともあれ、民衆のなかに根差したエネルギッシュな新興教団が、政治をはじめとして、社会的な影響力をもっところから、権力の弾圧は始まるといってよい。
 当局は、大本教を解体に持ち込むために、そのきっかけとなる大義名分を探し、虎視耽々と狙っていた。そして、徹底して刊行物をチェックし、教義や、王仁三郎の発言の問題点を洗い出していった。
 大本教では、国祖の神が再現して、三千世界の立て替え、立て直しをし、「みろくの世」が訪れると説いている。当局は、そこに目をつけ、皇室の統治を否認し、聖師である出口王仁三郎が、統治者になろうとしているとしたのである。
 しかし、それだけでは、せいぜい不敬罪にとどまってしまう。不敬罪は、五年以下の懲役であり、壊滅的な打撃を与えることにはならない。そこで、死刑または無期懲役を規定している、治安維持法の適用を考えたのである。
 治安維持法の第一条には、国体の変革を目的として「結社ヲ組織シタル者」は、「死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役」と規定されている。当局は、大本教が行った「みろく大祭」を、この「結社ヲ組織シタ」に強引に結びつけた。
 弥勒菩薩は、釈尊滅後、五十六億七千万年の時に、この世に再誕し、衆生を救うとされている。江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した神道家・大石ごり真素美ますみは、この五十六億七千万年を、三千年とみなす独特の教義を展開し、この時に弥勒菩薩が日本に下生すると説いた。
 王仁三郎は、この大石礙真素美の教義を取り入れ、二八年(同三年)が、その年であるとした。そして、王仁三郎が五十六歳七カ月に達する昭和三年三月三日は、彼が、「みろく菩薩」として出現する日とされ、その日に、その意義を込めた式典を開催した。それが「みろく大祭」であり、この祭典で教団の新人事が発表されている。
 当局は、この人事をもって、国体の変革を企てるための新たな結社が組織されたと、こじつけの解釈をしたのである。
 そもそも「みろくの世」という考えは、宗教的な理想を述べたものにすぎない。それを無理やり、国体の変革という政治的なものに結びつけることによって、不敬罪ならびに治安維持法を適用したのである。
 本来、治安維持法は、共産主義活動の抑圧を狙いとしたものであったが、この時、初めて、宗教団体に適用されたのである。これが契機となり、四一年(同十六年)には同法が大改正され、「国体変革」という″実行行為″に加え、「国体否定」という″思想・信条″そのものも、適用の対象に含まれることになった。つまり、国体の変革を企てる具体的な行為はなくとも、国体を否定する考え方自体までが、処罰の対象となったのである。以来、この希代の悪法によって、宗教弾圧は猛威を振るうことになる。これによって、明治憲法に曲がりなりにもうたわれていた「信教の自由」は、完全に剥奪されたといえる。
3  ――一九三五年(昭和十年)十二月八日、午前四時半。大本教への弾圧の火蓋は切られた。武装した京都府警の警察官三百人と、応援の綾部署員百人の、合計三百人が綾部の総本部に、京都府警の二百三十人が亀岡の本部に踏み込んだ。さらに、同時刻に、島根別院にいた王仁三郎逮捕のために、島根県の警察官二百八十人が行動を開始し、東京では昭和神聖会の総本部など数カ所に、警察官八十人が突入した。
 この日、多くの教団幹部が一斉に検挙され、出版物や文書、記録類、および物品が証拠品として押収された。その後も検挙は続き、翌三六年(同十一年)末までの検挙者は、九百八十七人に上っている。
 自白を取るための取り調べは過酷を極めた。容赦のない拷問によって死にいたった人も多く、その苦痛に耐えられず自殺を図る人もあった。苛烈な拷問のの結果によると思われる、保釈後の死亡者も多数に上っている。
 翌年三月十三日、王仁三郎ら幹部の起訴が決定すると同時に、大本教団は昭和神聖会、人類愛善会などの関連外郭団体とともに解散を命じられた。さらに、教団のすべての建造物に対する強制破却処分も発令されている。
 教団幹部らは、不敬罪や治安維持法違反で起訴され、教団組織の解散処分は、治安警察法によっている。しかし、教団施設を破却処分にする根拠とされたのは、法律ではなく、一八七二年(明治五年)出された大蔵省達第一一八号であった。
 憲法発布以前の太政官時代に出された、この大蔵省の通達の内容は、「無願ニシテ社寺(地蔵堂・稲荷ノ類)創立致シ候儀従前ノ通禁制タルヘキ事」というものであった。当局は、「勝手に地蔵堂などを創設してはいけない」という、明治維新直後の古色蒼然たる通達を根拠に、大本教のすべての建造物を徹底的に破壊する暴挙に乗り出したのである。
 資産価値のある動産は、当局の手で強制的に競売にかけられ、二束三文の捨て値で処分された。祭壇・神具の類や、書籍・旗など信仰に関係するものは、すべて押収されて焼却された。土地は、綾部町と亀岡町に、時価の百分の一以下で強制的に売却・譲渡された。建造物の破壊は、土建業者に請け負わせ、その費用は王仁三郎夫妻の負担とされた。
 建造物の破壊は徹底していた。請け負った土建業者は、綾部の総本部と、亀岡の本部に、合わせて約四百五十人の作業員を、連日、投入した。教碑・歌碑の類は文字をノミで削ってから破壊され、木造建築は柱を切ってからロープで引き倒され、庭石はハンマーで、礎石などはダイナマイトで破壊された。特に、鉄筋コンクリートで堅牢に造られた月宮殿の破壊には、ダイナマイト千五百発以上が使われ、その爆発音は、二十一日間にわたって遠くまで轟いたという。
 こうして、動産・土地は売り払われ、一切の建物は跡形もなく消え去った。教団活動に不可欠な経済的基盤と、活動拠点としての建物を、権力は完壁に破壊したのである。大本教を、この地上から抹殺しようとする、権力の意志が感じられる処分というほかない。
 大本教への弾圧は、国家権力に潜む魔性の狂暴さ、凄まじさを物語って余りある。宗教団体関係者への見せしめにしようとする狙いも、あったのかもしれない。
 国家神道の教えの非を戒め、勇猛果敢に折伏を進める創価教育学会に対しても、当局は厳しい監視の目を向けていた。戦時下にあっても、学会は折伏を展開し、入会に際しては、神札などの処分を厳格に行っていた。そして、国家神道を根本にした政府の在り方は、間違いであることを主張して譲らなかったのである。
 当時、学会は、会員数三千ほどの、まだ小さな教団にすぎなかった。しかし、当局は、牧口常三郎が、国家、社会の建設のために「教育改造」を掲げ、その根本的な方途が、日蓮大聖人の仏法にあるとしていることに、警戒心を強めていったようだ。
 また、学会のエネルギッシュな活動から、将来、大団体へと発展していくことを恐れ、早急に、その芽を摘もうとしたのかもしれない。
 一九四三年(昭和十八年)七月、遂に、弾圧の魔の手は創価教育学会を襲った。学会の、あの神札の拒否が、弾圧を決定的なものにしたのである。七月六日、牧口常三郎、戸田城聖らが身柄を拘束され、翌年三月までには、学会の幹部で検挙された者は二十一人に上った。
 牧口は、自分の逮捕を、国家諌暁の好機であると、とらえていた。取り調べの場は、さながら折伏、弘法の観を呈した。彼は、取調官に言うのだった。
 「さあ、問答をしよう。よいことをしないのと、悪いことをするのと、その結果は同じか、違うか」
 そして、宗教の正邪を論じ、神札を拝むことの誤りを正し、折伏こそが大慈悲であることを訴えてやまなかった。
 学会の指導理念を尋ねられれば、日蓮仏法の法理から説き起こし、学会の目的を語って、「ゆえに本会に入会するに非ざれば、個々の生活の幸福、安定は、もちろん得られませんし、ひいては国家社会の安定性も得られないと、私は、確信しております」と断言するのである。
 あるいは、教義を聞かれれば、法華経の概要を語り、仏教史を概括しながら、仏法の真髄が、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経にあることを述べていった。
 広宣流布の意味については、こう答えている。
 「広宣流布ということは、末法の時代、いわゆる現世のごとき濁悪の時代に、その濁悪の時代思想を、南無妙法蓮華経の真理によって浄化することで、宗祖日蓮大聖人の教えに、上は陛下より下国民にいたるまで、一人も残らずに従い、南無妙法蓮華経に帰依するようになった時を広宣流布と称し、そのとき、はじめて一天四海皆帰妙法の社会相が具現するのであります」
 さらに、「天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通われ、天皇学を修められているのである。天皇陛下も間違いもないではない」「しかし、陛下も、久遠本仏たる御本尊に御帰依なさることによって、自然に知恵が、お開けになって、誤りのない御政治ができるようになると思います」と、仏法の法理のうえから、人間の平等を語って、はばからなかった。天皇が現人神とされていた時代である。
 また、神札などの処分についても、「至上最高、絶対無二の久遠本仏であるところの本門の本尊に帰依するのみでありまして、それ以外のいかなるものをも、信仰の対象として礼拝することは、いわゆる信仰雑乱をきたすことになりますから、絶対にこれを排斥し、拒否しているのであります」と言い切っていった。
 そして、「私の直接指導によって、皇大神宮の大麻やそのほかの神宮、神社、仏閣などの神札・守札・神棚等を取り壊し、焼却した者は現在までで五百人以上あると思います」と述べているのである。
 牧口常三郎は、いささかも節を曲げることなく、堂々と国家神道の誤りを正した。そして、四四年(同十九年)十一月十八日、巣鴨の東京拘置所で獄死したのである。
 当時の取り調べの悲惨さは、言語に絶していた。特高の巡査に幾度となく殴られ、いじめ抜かれた末に、死を覚悟して、取り調べの隙をうかがって、二階から飛び降りた幹部もいた。また、投獄中に事業がつぶれるなど、たいていの者が一家の収入の道を断たれていった。
 あとに残された家族の生活も、哀れこのうえなかった。「国賊の家」と罵られ、食うにも事欠くありさまである。そのなかで、まず、妻をはじめ、家族が退転し、投獄されていた者も、妻子眷属への情から、遂に、相次ぎ退転していったのである。家族への情の涙が、信心の眼を曇らせたのだ。妻の強き信仰こそ、夫、家庭を支える土台といえよう。
 かつて、同志として、共に広宣流布を誓いながらも、弾圧の烈風にさらされるや、多くの者が御本尊を疑い、臆病にも、病める兎のように家にこもり、恐れ、怯えていた。また、大恩を受けた師である牧口常三郎を恨み、戸田城聖を憎んだ。
 「信心をして幸せになるどころか、牢獄にぶちこまれ、地獄行きじゃないか。あの牧口の野郎に騙されたんだ」
 こう罵る者たちが、跡を絶たなかった。なかには、自分が折伏した会員の家を訪ね、退転を促し、牧口や戸田を罵倒し、憎悪をかき立てて歩く者まで出る始末であった。
 戸田城聖は、出獄後、そのありさまを知ると、人の心のはかなさ、不甲斐なさに唖然とした。そして、歯ぎしりをしながら、怒りに身を震わせるのであった。
 ″臆病のゆえだ。牧口先生の弟子のなかに、まことに信仰者はいなかったのだ。御書を拝しながらも、こと法難となると、絵空事のようにしか受け止められなかったのだろう。そんな者が、何人集まろうが、広宣流布などできようはずがない。要は、広宣流布のために一切を捧げようとする、本物の信仰者をつくれるかどうかだ。臆病な羊の群れでは、また、これからも、ほんの小さな弾圧でもあれば、すぐに動揺し、崩れ去っていってしまうだろう。師子だ、一人立つ師子をつくる以外にない。そこに、これからの学会のすべてがかかってくる!″
 空襲のあとの焼け野原に立って、戸田は、ひしひしと孤独をかみしめた。彼は、恩師・牧口常三郎に代わって、広宣流布の実現に、生涯を捧げることを決意したのである。
 牧口の殉教、そして、戸田の二年間に及ぶ不退転の獄中生活は、信教の自由のための、権力との壮絶な戦いであり、学会が、日蓮大聖人の仏法の正法正義を守り抜いた永遠不滅の刻印となった。
4  日本の社会には、宗教は、冠婚葬祭などの儀式や、伝統的な形式の世界にすぎないという認識がある。また、宗教といえば、静かに瞑想にふけったり、宗教的権威者の前にひざまずく信徒の群れを想起する。つまり、宗教は、日々の現実社会での生活からかけ離れた、閉ざされた別世界のものと考え、また、そうあらねばならないとする根強い固定観念がある。そして、その枠を越えようとする宗教を危険視する。
 学会は、その閉ざされた宗教の枠を突き破り、苦悩からの人間の解放をめざし、新たな社会の建設へと躍り出た。そこから生ずる摩擦が、嵐のごとき批判や弾圧をもたらすといってよい。しかし、そこにこそ、宗教というものの本来の使命があり、姿がある。
 戦後、日本は民主主義国家となり、名実ともに思想、信教の自由が保障されるようになったが、政治など、現実社会に関わり、改革を標傍する宗教を危険視する宗教観は、いささかも変わらなかった。
 学会は、検察陣にとって、それまでの自分たちの宗教観とは異なる、理解を超えた教団であったことが、誤解をもたらし、当局の警戒心を高めていったといえよう。事実、戸別訪問の容疑で、会員を取り調べた警察官や検事たちにとっては、理解に苦しむ面が多々あったようだ。「誰の命令で選挙運動をしているのか」と聞くと、「日蓮大聖人様の仰せであります」と、胸を張って答える人もいた。
 それは、立正安国の原理のうえから、仏法者の使命として、有為な人材を政界に送り出し、民衆のための政治を実現しようとする思いの表明でもあった。しかし、警察官のある者は、それを愚弄ととらえ、不届きな宗教団体であると決めつけていった。また、戸別訪問までした会員が、学会から、選挙の運動費用を一銭ももらっていないというのも、納得しかねたようだ。
 古い常識に縛られた人間の心には、新しいものは奇異としか映らず、不安と恐れをいだかせる。それが憎悪を呼び覚まし、排斥へ、弾圧へと人間を駆り立てていく。
 社会のさまざまな不当な差別も、裏返せば、不安と恐れから生じるものであり、人間の臆病さ、弱さの産物といえるかもしれない。
 検察が、執拗なまでに、学会の上層部に追及の矛先を向けようとしたのも、古い宗教の常識を超えた創価学会に対する、不安と恐れが大きく作用していたといえよう。
 検察の冒頭頭陳述は、事件の背景に、いかにも教団の組織的な意図があるかのように述べられていた。検察は、公職選挙法違反の罪を裁くことより、宗教団体そのものを裁こうとしていたのである。
 裁判の前途は見当もつかず、暗澹としていた。しかし、その闇を突いて、まっしぐらに進む以外に、広宣流布の道はない。
5  人類の暗夜を照らし、広宣流布の夜明けを開いた、救世の松明は燃え尽きた。一九五八年(昭和三十三年)四月二日、第二代会長・戸田城聖が世を去ったのである。
 その経過については後述するが、七十五万世帯の達成、法華本門大講堂の建立寄進など、生涯の願業をことごとく成就し、後事の一切を、山本伸一をはじめとする青年たちに託しての逝去であった。戸田の存在が、あまりにも偉大であっただけに、創価学会は空中分解するにちがいないと、公然と予測する者も多かった。
 戸田の逝去後は、理事長の小西武雄が、学会の責任者として表舞台に立ち、陰で山本伸一が、学会のすべてを支えていった。その両首脳が、被告人として、そろって法廷に立たなければならなかったのである。しかも、裁判の行方は厳しく、弁護士陣は、事態の容易ならざることを嘆くばかりであった。
 闇は限りなく深かった。
 裁判という重荷を背負い、戸田という指導者を失った学会を率いて、広宣流布の希望の峰をめざすには、想像を絶する強靭な精神の力を必要とした。山本伸一は、時として心身の消耗から苦悩をあらわにする小西理事長を励ましながら、必死で学会の前進の舵を握っていた。彼には、弱音を吐く暇さえなかった。来る日も、来る日も、胸中の戸田と対話しながら、命を削つての激闘が続いていたのである。
 戸田の逝去から時を経るにしたがい、学会内には、新会長を待望する声が、日ごとに高まっていった。広宣流布の伸展に不可欠なものは、指導者という柱であり、団結の確固たる機軸である。六〇年(同三十五年)の三月末以来、伸一は、小西をはじめ最高幹部たちから、全幹部の意向として、再三にわたり、会長就任を要請されていた。しかし、彼は、当初、それを辞退し続けた。この裁判の行方が、重く心の片隅に、のしかかっていたからである。
 会長になって、もし有罪判決を受けたら、会の存在は社会悪とされ、信用は失墜し、広宣流布の前進に大きな支障をきたすことは、明らかであったからだ。
 また、宗教法人法の規定により、当時、代表役員であった会長職の資格を失うことになる。
 戸田の命ともいうべき学会に、傷をつけないためには、せめて無罪を勝ち取り、身の潔白を明らかにしてからでなければならないと、伸一は考えていた。しかし、新会長の誕生も、学会の喫緊の課題であることを、彼は痛感した。
 ″このままでは、学会は必ず崩れる……″
 伸一の苦悩は深かった。
 遂に、理事たちの強い要望の前に、彼は、学会厳護の自らの使命を自覚し、会長として立たざるを得なかった。
 六〇年(同三十五年)五月三日、全国の同志の爆発的な喜びのなか、山本伸一は、第三代会長に就任任した。裁判は、なお継続中である。弁護士たちの見通しは依然として暗く、「裁判常識からいって、無罪に持ち込むことは難しいでしょうな」という、心もとない返事しか聞くことはできなかった。
 青年部出身の幹部たちは、弁護士たちの対応が、はがゆくて仕方なかった。彼らは、弁護士だけに任せることはできないと、箱根に合宿し、事件の発端から、その後の一切の経過を洗い直し、対策を検討し始めた。
 法律には全くの素人たちであったが、調書の写しを山と積んで、六法全書とにらめっこしながら、思案をめぐらしていった。「真実ほど強いものはない」という強烈な信念が、彼らを燃え立たせていた。
 彼らは必死だった。真剣こそ力であり、懸命こそ英知の母である。彼らは、立証の根拠になっているものが、非道な取り調べによる自白であることに着目し、その不当性を立証し、調書を却下することができれば、無罪を勝ち取ることもできるのではないかと考えた。そして、いかにして立証するかをめぐって、時には、夜を徹して議論を重ねていった。しかし、その考えに、大方の弁護士は難色を示した。
 「検事に、無理にそう言わされたなんていうことは、罪を逃れようとする者の常套手段なんです。供述調書を却下させるなんていうことは、至難の業なんですよ」
 弁護士としての、情熱も執念も感じられない言葉に、″これでは埒が明かない″と青年部出身の幹部たちは思った。彼らは、弁護士陣の強化を痛感し、有能な弁護士を大幅に補強することを、山本会長に提案することにしたのである。
 六〇年(同三十五年)の年の瀬であった。青年部出身の副理事長である十条潔が、学会本部で、山本伸一に首脳幹部の意向を伝えた。
 伸一は、彼の話をじっと聞いていた。なんとしても無罪を勝ち取ろうとする彼らの気持ちが、伸一には痛いほどわかった。嬉しくもあり、ありがたくもあった。
 話を聞き終わると、伸一は静かに言った。
 「ありがとう。無罪を勝ち取ろうという思いは、私も同じです。ただ、弁護士陣はそのままでよいと思う」
 伸一の言葉を聞くと、十条は勢い込んで語った。
 「そうおっしゃいますが、このままでは、おそらく裁判は負けてしまいます。もし、先生が有罪になれば、学会としても大問題です」
 「皆の気持ちは大変に嬉しい。しかし、私のために、そういう対応をする必要はありません。買収事件はともかく、法戦を勝利させようと健気に戦い、熱心さのあまり、戸別訪問してしまった同志が、断罪されようとしている。現行法では罪は罪であり、刑に服することはやむを得ないにしても、そういう同志がいるのに、自分だけが助かろうという気持ちにはなれない。戸田先生は、できることなら、私に代わって罪を受けてあげたいと言われたことがあるが、私も、今、皆に代わって罪を受けたいぐらいの心境なんです」
 十条は、山本伸一の真意を初めて耳にし、感動に胸を詰まらせた。
 伸一は、会長に就任し、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との御聖訓のままに、広宣流布に一切を捧げようと固く心に決めた日から、不思議なことに、なんの恐れもなくなっていた。
 あれほど心にのしかかり、彼を苛み続けていた裁判の重苦しさも、今は消え失せ、仏意仏勅のままに戦い、生きる大歓喜が、彼をつつんでいたのである。力の限り戦い抜き、それで、もし有罪になるならば、それもまた、自分に課せられた試練であり、御仏意ではないかとさえ思えるのであった。ただ、伸一には、被告人として裁判にかけられている同志のことだけが、気がかりでならなかった。心から彼らをいたわり、励まし、勇気づけてあげたかった。
 十条は、同志のことを、どこまでも思いやる伸一の心を知れば知るほど、なんとしても、山本会長の無罪を勝ち取らねばならないと思った。
 「しかし、先生……」
 伸一は、十条の言葉を制し、笑みを浮かべて言った。
 「大丈夫だよ。ぼくは無罪になるから」
 十条は、怪訝そうであった。伸一の心には、総本山の大講堂の落成を記念する総登山のさなか、公判に向かう伸一に戸田城聖が語った、「最後は勝つ」との言葉が、日ごとに不動の確信となり、大山のごとく胸中にそびえていたのである。
 「戸田先生は私に、『最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか』と言われた。先生のその言葉が、私に無限の勇気と確信を与えてくれるんだよ。先生の言葉には嘘はないもの」
 こう語る伸一の表情は、晴れやかでさえあった。
 十条は、何か自分の理解を超えた、途方もなく大きな境涯を仰ぎ見る思いに駆られて伸一を見た。彼は、自分が策に汲々とした、情けないほど小さな人間に思えてならなかった。
 まだ、不安そうな顔をしている彼に、伸一は言った。
 「心配ないよ。私も全力で戦い抜きます。学会のため、同志のために。断じて負けません」
 十条の顔が、ようやく、ほころんだ。
 会長・山本伸一の意向によって、弁護士陣の大幅な補強はなく、幹部などの個人的な知友の弁護士、一、二人が、新たに加わったにすぎなかった。しかし、青年部出身の首脳幹部による事件の洗い直しは、さすがに弁護団に強い刺激を与え、弁護士陣は、反撃の姿勢へと変わっていったのである。
6  山本伸一が会長に就任したころには、裁判は、もつばら買収関係に絞られて、審理が進められていた。買収が行われたことは事実であり、争点は、小西武雄との共謀があったかどうかに絞られた。
 一九六〇年(昭和三十五年)十二月十日には、買収関係の論告求刑を迎えた。検事は、厳しい口調で語っていった。
 「本来、世の中の浄化につとむべき宗教団体が、組織を挙げて買収を実行したもので、まさに積極的かつ計画的犯行である。しかも、創価学会は、前年の昭和三十一年(一九五六年)に行われた参議院議員選挙に、おいても、悪質な選挙違反を敢行し、社会の指弾を浴びながら、なんら反省することなく、再度、違反を重ねているものである」
 そして、「被告人・小西武雄は、当時、創価学会の理事長兼蒲田支部長で、現在は学会の最高顧問の要職にあり、本件犯行についても、究極的に買収方針を決定した」として、小西に懲役一年を求刑したのである。
 首謀者の大村昌人も同じく一年、林田定一が八カ月、あとが六カ月から三カ月の懲役刑という求刑であった。創価学会そのものを裁き、断じようとするかのような、憎悪の感情に満ちた、厳しい論告求刑であった。
 十二月の十五日と二十七日には、最終弁論が行われ、遂に翌六一年(岡三十六年)二月二十七日、田上雄介裁判長から、買収関係の判決が言い渡された。
 大村昌人に懲役十カ月、林固定一に懲役六カ月、また、三人の被告人に懲役四カ月、二人の被告人に懲役三カ月、そのほかの大部分の者は、七千円、もしくは五千円の罰金と三年ないし二年の公民権停止という判決であった。
 最後に小西の名が呼ばれた。
 「被告人小西武雄、無罪!」
 ここに、小西の寛罪は晴れた。田上裁判長は、偏見や感情を交えず、選挙違反という事実に即した冷静な審理を重ねていくなかで、真実を探り当てていったのであろう。
 小西武雄は、五七年(同三十二年)の四月上旬、大村昌人たちが小西の自宅を訪れ、買収の計画を打ち明けたさい、「無茶をしてはいかんよ。危ないから気をつけた方がよい」と言って、彼らを諌めた。しかし、大村が検事の取り調べで、その話をしたところ、検察は、この言葉をもって、小西が買収行為を決裁したものとしたのである。つまり、「危ないから気をつけた方がよい」という発言を、″違反行為だから気をつけてうまくやるように″という意味にすり替えたのだ。
 裁判長は、この言葉を、その場の雰囲気、前後の状況などから、買収に同意する肯定的な意味にとらえる根拠はないとした。また、買収の費用が学会から出ている証拠もなければ、青年部員たちの来阪が、学会としての組織的行動であるとする根拠もないところから、共謀の事実は認められないとして、無罪の判決を言い渡したのである。
 ともあれ、小西のこの一言が、大村らの買収行為を承諾したとの嫌疑をもたらしてしまったのである。指導者の言は重たい。その発言に、いささかでも不明瞭さや、あいまいさがあれば、いかようにも利用されかねないことを知らねばならない。
 裁判は、ここに一つの山を越えた。だが、小西武雄の無罪から、会長・山本伸一の無罪を予測することはできなかった。むしろ、小西が無罪になっただけに、検察は、伸一を有罪に追い込むことに躍起になっていたのである。前途はいまだ暗く、立ち込める濃霧のなか、険しき連山を越えていかなければならなかった。
7  一九六一年(昭和三十六年)三月六日の第五十六回公判から、裁判は、いよいよ戸別訪問関係の審理に移った。ここでも焦点は、学会の上層部、ことに山本伸一が、教唆、共謀したかどうかに絞られていったが、検察、弁護側双方に、物的証拠となるものは何もなかった。そこで、何人もの証人を申請し、証言を積み重ねて、互いの主張を証明していかなくてはならない。
 この日の公判では、選挙投票日の前々日、京都や奈良から選挙の応援にやって来た会員たちに、伸一が、どのような話をしたのかについて尋問が行われた。投票日の当日、戸別訪問の現行犯で逮捕された、京都の壮年会員の供述調書では、山本室長が、皆の前で、「堂々と戸別訪問をしてください。責任は私がもちます」と指示したとされていたからである。
 その日に、大阪で伸一の指導を聞いた会員が、相次ぎ証言に立った。最初証言したのは、年配の壮年であった。
 「その時の話の内容は、どんなことでしたか」
 弁護人が尋ねた。
 「″絶対に選挙違反をしてはならない″というご注意がありました。それから、ある作家の方が、選挙に立候補して当選した時、そこの娘さんが、バケツと雑巾を持って、ポスターを貼らせてもらったところに行って、丁寧にお礼を言い、そのポスターの跡をきれいに掃除したことを話されました。そして、″信心をしていない人でも、そこまでしているのだから、ましてや信心をしている私たちは、立派な行動をしなければならない″という指導をしてくださいました」
 検事が質問した。
 「戸別訪問してもよいという話は、ありませんでしたか」
 「そういうことは聞いておりません」
 証人たちのうち、誰一人として、伸一が戸別訪問を指示した発言を聞いた人は、いなかったのである。
 やがて審理は、戸別訪問で逮捕された被告人たちへの質問に入った。山本伸一に関する各被告人の供述は、いずれも、伸一から戸別訪問の指示があったことを否認するものであった。それのみか、むしろ、伸一が選挙違反に対して、どれほど心を砕き、違反行為を厳しく戒めていたかを、うかがわせるものであった。公判を重ねるたびごとに、真実は次第に浮き彫りにされていった。
8  一九六一年(昭和三十六年)四月十二日の公判では、関西総支部幹事の鳥山邦三と、岡山支部長の岡田一哲の、被告人尋問が行われた。検察にとっては、この二人こそ、戸別訪問した会員と、山本伸一を結びつけるカギとなる人物である。鳥山は四条畷方面を、岡田は守口方面を担当していたが、それぞれの担当地域で戸別訪問を行い、現行犯逮捕された会員がいたところから、伸一と謀議の末、自分の担当方面で戸別訪問を指示したとして、起訴されていたのである。
 彼らも、伸一との謀議を明確に否定した。そして、検事の取り調べが、手錠をはめたまま朝から夕刻まで行われたり、手錠の紐をイスにくくりつけられたりしたことや、深夜、就寝したあとに再び起こされ、調べを受けたことなどを述べたのである。
 朝から夕刻まで、手錠をはめられたまま取り調べを受ければ、肉体的な苦痛も相当なものとなり、過酷な拷問に等しいものとなろう。そもそも、彼らは戸別訪問に関する容疑者にすぎない。それだけに、異常な取り調べであったと言わざるを得ない。鳥山と岡田から、山本伸一の逮捕に結びつける自供を得るために、取り調べは過酷なものになっていったと見ることができよう
9  七月十二日の第七十回公判では、山本伸一が法廷に立った。伸一は質問に答え、事実を淡々と語っていった。
 ――東警察署の留置場から、拘置所に移された九五七年(昭和三十二年)の七月八日には、夕食もとらせずに、検事二人が深夜十一時まで取り調べを行ったこと。取り調べに際しては手錠は外されていたが、手錠姿で地検から地検の別館に連れて行かれ、何も調べられもせずに往復させられたこと。そして、罪を認めなければ、大東商工、学会本部を手入れし、戸田城聖を逮捕すると言われ、やむなく無実の罪を一身に被ろうとしたこと……。また、選挙にあたっては、終始、無違反を訴え、戸別訪問を指示するような発言は、絶対にしていないことを述べていった。
 伸一に続いて、戸別訪問で現行犯逮捕された、京都の壮年会員の被告人尋問が行われた。伸一が戸別訪問を指示したという容疑は、この壮年の供述に端を発していた。被告人の壮年は、いかにも純朴そうな小柄な男であった。
 彼は、自分の戸別訪問は認めたが、山本伸一が、「堂々と戸別訪問してください」と言ったことについては、きっぱりと否定した。
 検事は尋ねた。
 「今、戸別訪問をしなさいという話は全然なかったと言いましたが、警察では指示されたことを認めていますね。調書には、あんたの言った通りのことが書いであったんでしょ」
 厳しい口調であった。検事の質問に、京都の壮年会員は、恐る恐る答えた。
 「調書を読んでもらい、合点のいかんところがあったので、『訂正してください』と言いましたが、取り上げてくれませんでした」
 「検察の調べでも、山本から戸別訪問を指示されたことを認めていますね」
 「警察で正直なことを言っても、取り上げてくれませんでしたから、ここで言っても無駄だと思いました。そして、早く帰していただこうと思いまして、『その通りです』と言ったんであります」
 「それにしても、供述調書とこうも違ってくるのは、どうしてですか」
 検事は、怒りを含んだ口調で尋ねた。
 壮年は悔しそうに、検事の顔を見すえて、意を決したように一気に話し始めた。
 「警察で刑事さんから、『おまえの言うことはでたらめじゃ。ほかの者は、皆、戸別訪問せよという話を聞いている。おまえだけが聞かんはずはない』と責められました。しかし、身に覚えのないことなんで認めないでおりますと、『おまえ、聞くところによると、長男が修学旅行へ行くそうゃないか。はよ白状して帰ったらええやないか。強情張ったら、いつまでも泊められることになるんやで。素直に白状すれば、わしが担任の先生に言って、旅費も半額にまけてもらったる。千円ぐらいの小遣いなら、わしがやるで』と言われました」
 壮年の目が潤んだ。
 「留置されて二日目のことでした。寒かったので、『家から着替えを取り寄せてください』と刑事さんに頼んだ時、刑事さんたちは、カッターシャツとメリヤスのシャツを、自分にくださいました。こんなことまでしてくれて、親切な、情け深い人たちやなと思いましたが、でも、身に覚えのないことは言えませんので、違うことは違うと答えました。すると、『おまえ、子どもがかわいそうやないか。慈悲がないのか。鬼か』と言われ、『いつまでも強情張っとると、入れ代わり、立ち代わり、晩もろくに寝かさんと、おまえを責めて白状させるで』と言われたのであります」
 被告人の壮年の目から、涙がこぼれ落ちた。声が詰まったが、大きく息を吸うと、さらに話を続けた。
 「自分が働いておっても生活が苦しいのに、ここにいつまでもいたら、家族は飢えることになってしまう。私は、胸が張り裂けるような思いでした。でも、ありもしないことを言ったら御本尊様を裏切るようで、忍びなかったんです。しかし、言わなければ帰してもらえません。それで、心のなかで御本尊様にお詫びして、嘘をついたんであります。『室長の山本先生に言われました』と。ただ、早く帰してほしいために言ったのであります」
 法廷は静まり返っていた。壮年のすすり泣く声が聞こえた。密室のなかの不当な扱いを知る者は、当事者だけである。法律に暗い庶民を、権力を行使する者が恫喝し、意のままに操れば、真実は闇のなかに葬り去られていく。
 弁護側は、京都の壮年会員をはじめ、被告人の法廷での供述が、警察調書や検察調書と異なるのは、取り調べに異常さがあり、調書は、本人の意思に反してつくられたものであることを主張していった。
 それに対して検察側は、取り調べにあたった警察官と検事を証人として申請し、取り調べには、なんら不当なところはなく、調書の供述は、十分に証拠能力をもつことを立証しようとした。
 証人となった警察官、検察官は、脅迫的な言辞を用いたことも、鳥山邦三や岡田一哲らに手錠をはめたまま調べたことも、認めようとはしなかった。
 山本伸一を取り調べた検事たちにも、尋問が行われた。彼らは、戸田を逮捕するなどと言ったことも、常軌を逸した取り調べを行ったことも否認したのである。
 しかも、ある検事は、「山本は、手錠をはめられて帰る時でしたが、『この姿を忘れんでくれ』というような、つまり、捨てぜりふを残して出ていったという記憶がございます」と語ったのだ。裁判長の、伸一への心証を悪くさせようとする意図をもっての発言といえよう。
 主任検事も、証人として法廷に立った。彼も、不当な取り調べの事実を認めようとはしなかった。そして、鳥山や岡田の、手錠をはめたままの取り調べを否認するため、「私は、調室の中では、必ず手錠を外す方針でやってきたんです。そのために拘置所の看守と争ったこともあります」と、平然と述べたのである。
 また、伸一が釈放された七月十七日のことに質問が移ると、「こういうことを覚えています」といって語り始めた。
 「その日は、朝から八千人の人が中央公会堂に集まりまして、その一部の人が、検察庁の中に一気に入って来たんです。廊下が真っ黒になるほどでした。それで、私は山本君に、『これでは調べにならんじゃないか』と言いましたら、山本君が『それでは、私が注意して解散させましょう』と言ってくれました。そして、目の前にずらっといた一人に、山本君が、『控えさせろ』と言うと、わずか五分ほのうちに人が去り、構内は真っ白になってしまったんです」
 伸一は、唖然とした。そんなことなど全くなかった。
 「それから、帰り際に見ましたら、ちょうど雨が降っていましたが、中央公会堂の周囲には、学生、高校生など、二十歳未満の数千の大群が隊伍堂々と並んで、山本君の釈放を待っておりました。まぁ、こういう姿なんか、いろんな意味で考えさせられました」
 主任検事の供述は、山本伸一が、学会内にあって絶対的な権力を誇り、彼の一言で、すべてが行われるとともに、社会的に好ましからざる異様な集団であることを、裁判長に印象づけようとするものにほかならなかった。
 伸一から、主任検事への質問が行われた。
 「参考のために承っておきたいのですが、お話のなかで、検察庁の中が真っ黒になるほどの人が来て、私が合図をしたら、一斉に退散したという、何か検察庁に対して圧力をかけたかのような発言がございました。それは検察庁の、どの場所でしょうか。また、何人ぐらいの人が来ていたのでしょうか」
 一瞬、口ごもったが、主任検事は、すぐに落ち着きを取り戻していった。
 「正確な人数まではわかりません」
 「では、私は、どこで合図をしたのでしょうか」
 「…………」
 主任検事は、答えなかった。いや、答えられなかったのである。
 「そのようなことは、ほかの検事の方は一度も証言されておりません。錯覚か、それとも嘘か、どちらかではございませんでしょうか」
 「それは事実です」
 主任検事は、平然として答えた。
 伸一の見事な反撃であった。
 裁判長の、伸一への心証を害しようとした主住検事の目論見は崩され、むしろ、裁判長の、検察への不信を募らせる結果を招いたのである。法華経には「還著於本人」(六三五ページ)とある。法華経の行者を謗り、害しようとした者は、かえって、自身にその果報を受けることを説いたものだが、主任検事の言は、まさに、その証明といってよかった。
 質問のあと、山本伸一は、「私が感じましたことでございますが……」と前置きして、語り始めた。
 「私は、当時、選挙の責任者として、違反者を出してしまったことに対して、断腸の思いでございました。道義的な責任を感じ、深く反省いたしておりました。ただ、何人もの同志が逮捕され、その取り調べの様子を聞くにつけ、ずいぶんひどいやり方をするなと、感じていました。実際に、検察陣の態度には、横暴な面があったことは事実であります。
 そうしたなかにあって、ほかの人の指示があったように言わなければ、釈放してもらえないとなれば、違反行為をした人は、当然、誰かの名を語ろうという気持ちになると思います。また、責任ある立場にいる者は、こんな苦しみを他の人に味わわせたくないとの思いから、自分が罪を被り、責任を取ればよいのだという気持ちになります。この取り調べのなかで、そういう状況がつくられていたことを、申し上げておきたいのであります」
 伸一の発言は、この事件の被告人たちの心情を代弁するものでもあった。
 彼は、さらに言葉をついだ。
 「もう一つ申し上げたいことは、組織が、どんなに強固であったとしても、命令一つで、お年寄りから若い人までが、一心不乱に動くわけではないということです。そこには、信仰のうえに立った大きな目的があり、その理想を、それぞれが分かちもっているからこそ、常日ごろからの会員の献身的な行動があるのでございます。その点も、どうか、おわかりいただきたいと思います」
 伸一が、こう発言したのは、上意下達の組織体質から、伸一の指示で違反行為が行われたと、裁判長が見ることを恐れたからではない。命令一つで会員が動くと考える、同志への愚弄を、人間への侮蔑ともいうべき検察の偏見を、正しておきたかったのである。
 この日、検察側は、被告人たちの法廷における供述よりも、検察の取り調べにおける供述調書の方が、信頼に足るものであるとする意見書を提出した。重なる公判によって、取り調べでの供述が、被告人の意思によるものでないことが明らかになってきたために、検察調書に証拠能力なしと判断されることを恐れたのである。弁護側もまた、検察調書の証拠能力について反駁する意見書を出した。
 調書の証拠能力をめぐる二つの意見は、裁判長を苦しめたにちがいない。被告人たちの法廷での供述は、そろいもそろって、非道な取り調べが行われ、無理やり事実と異なる供述をさせられたことを告げている。しかし、警察官も、検察官も、全員それを否認しているのである。
 田上裁判長は、どこまでも、慎重に事実を見極め、真実を解明しようとしていた。彼は、裁判長の職権をもって、被告人たちを拘置所から調室まで連行した看守たちを、証人として召喚した。
 何時間にもわたって、手錠をはめられたまま調べを受けた岡田一哲を連行した看守が、証人として尋問された。裁判長は、職務の内容などを聞いたあと、こう質問した。
 「検事調室で、『手錠を外せ』と言われたことは?」
 「全然、覚えはありません」
 続いて、やはり手錠をはめられたまま調べられた鳥山邦三を連行した看守が立った。
 「証人が、被告人を連れて行った時、検事に言われて、手錠を外したことはありましたか」
 「ありません」
 今度は、検事が質問した。
 「手錠を外した覚えは、本当に、ないんですか」
 「外したことは覚えていません」
 「証人は、創価学会に入っていますか」
 「全然、関係ありません」
 看守たちの証言は、取り調べにあたった検事たちの供述を覆し、手錠をはめたまま、過酷な取り調べが行われたことを物語っていた。
10  一九六一年(昭和三一十六年)十一月一日の、第八十回公判では、調書の採否が決定された。
 全被告人の検察調書四十五通のうち、採用決定は二十五通で、却下は二十通に及んだ。また、警察調書十四通は、すべて却下されたのである。なかでも、山本伸一に関する四通の検察調書は、取り調べのやり方からみて、黙秘権の侵害を認めざるを得ず、強要による自白の疑いがあるとして、全部、却下となった。
 伸一が、戸田城聖を、創価学会を、同志を守るために、呻吟の末にやむなく認めた、違反行為の証拠となる検察調書が却下されたことは、彼を有罪に追い込む根拠が、大きく崩れたことになるといってよい。
 また、鳥山邦三、岡田一哲の調書のうち、山本伸一との共謀を認めた調書についても、任意性のないものとして却下された。
 それは、巌窟の闇牢に差した一条の光であった。しかし、その光は、いまだ淡く、彼を無罪の白日のもとに導く光明となるかどうかは、測りかねた。
11  それから半月が過ぎた十一月十五日、検察の論告求刑が行われた。
 これまでの公判で、検察調書は公正を欠くものであることが暴露されてきたにもかかわらず、検察の求刑は、極めて厳しいものとなっていた。
 論告では、偶発的に起こった戸別訪問事件を、上層幹部の指示によるものとし、あくまでも、支援活動の最高責任者である山本伸一に結びつけようとしたのである。
 そして、情状にいたると、「本件戸別訪問は、表面、宗教活動を仮装して戸別訪問を広範囲にわたって組織的に敢行しているもので、起訴されている分は、いわば氷山の一角にすぎないのである」と決めつけた。
 さらに、前年の選挙でも戸別訪問者を出していながら、なんら反省するところなく、また違反を重ねたことは、酌量の余地はないとしていた。
 そして、「民主政治は公正な選挙を基礎とすることはいうまでもないが、被告人らは、かように選挙の公正を害しているのであるから、ふたたび選挙に関与せしめることは不適当である。しばらく、選挙権の行使から遠ざけ、本人の反省を促すとともに、他戒の効果をもあげる必要がある」と述べている。
 学会への憎悪に満ちた論告といってよい。検察は、創価学会が選挙に関与することを、是が非でも禁じたかったにちがいない。
 続いて求刑が行われた。
 ――山本伸一は禁固十カ月、鳥山邦三は禁固八カ月、岡田一哲は禁固六カ月であり、そのほかの人も、たいていは禁固五カ月から二カ月であった。被告人のうち、罰金刑はわずか二人である。そして、いずれも公民権の停止が含まれていた。戸別訪問としては、まれに見る重い求刑であろう。検察の論告求刑を聞き、法廷にいた人は、しばし唖然として息をのみ、検事の顔に、きつい視線を注いだ。
 田上裁判長は、論告求刑を聞き終わると、とがめるような口調で、検事に尋ねた。
 「今、本件が氷山の一角と言われましたが、では、ほかにどういう事実がありましたか。その証拠はありますか」
 検事は、一瞬、はっとした表情をしたが、すぐに平然として答えた。
 「別に証拠があるわけではありません」
 裁判長は、検事の顔を、じっと見つめながら言った。
 「それでは、あなたの推測ですか」
 「そういえば、そういうことになります」
 この短いやりとりが、検察の根強い偏見を、おのずから露呈するものとなった。
 長かった裁判も、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。
 論告求刑から一カ月後の十二月十五日には、弁護側の最終弁論が行われた。
 それは総論に始まり、創価学会の組織の概要、選挙に対する学会の考え方などを述べ、各論に入り、−人ひとりの容疑に即して、その真相を詳述したものであった。そして、供述調書の多くに、いかに架空の事実があるか、また、なぜそうなっていったのかを、つぶさに解明し、検察の主張の矛盾点を鋭く突いていった。
 たとえば、京都の壮年会員の戸別訪問は、″山本伸一の指示を受けて行った″と逮捕直後の調書にあるにもかかわらず、伸一については、二カ月余も取り調べをしなかったことを指摘。それは、検察官自身が、当初、壮年の供述に信憑性を感じていなかったからではないかと反論している。また、戸別訪問を禁止する現行法の問題点を述べ、戸別訪問罪は、立法論的にも撤廃すべきものであるとの論拠を示したあと、過去の戸別訪問の判例をあげ、検察の求刑の異常な厳しさを指摘した。
12  翌十六日には、山本伸一の最終陳述が行われた。伸一の脳裏には、一瞬、この裁判の四年半にわたる来し方の、さまざまな出来事が去来した。
 ――戸田城聖は世を去り、柱なき学会のすべてを、陰で支えた二年間の苦闘。裁判ゆえに、会長就任の要請を再三にわたり辞退せざるを得なかった日々。しかし、やむなく会長となり、新しき広宣流布の幕を開き、烈風にひた走った激闘の歳月……。
 今、広宣流布の奔流は勢いを増し、二百万世帯を超える大河となって、民衆の大地を潤さんとしている。思えば、被告人という重荷を背負っての戦いであった。だが、その裁判も、間もなく終わろうとしているのだ。
 伸一は、胸に込み上げる感慨を抑えながら、裁判長に視線を向けた。裁判長に一札してから、静かだが、力強い声で語り始めた。
 「幾つかの点について、申し上げたいと思います。一つは、検事の論告求刑のなかで、宗教活動を仮装してうんぬんとありましたが、選挙を行うのは憲法に保障された国民の権利であり、義務であります。われわれが選挙運動をやってなぜ悪いか、明らかに偏見であると思います。学会が選挙運動を行うことは、国民としての権利を行使するものであることを、申し上げたいと思います」
 伸一は、田上裁判長を正視しながら、言葉をついだ。
 「第二点は、戸別訪問についてであります。戸別訪問は、現在の法律では違法であることはよく承知しておりますが、この問題については、現在、各方面で、論議を呼び、戸別訪問は認めるべきであるとの声も少なくありません。われわれも、過去に数回、選挙をやっており、それぞれの地方で、一部ではありますが、残念ながら戸別訪問の罪に問われた者があります。もちろん法律を犯すことは、いけないことでありますが、今までの戸別訪問は、たいてい略式命令による罰金刑等の軽い刑でありました。ところが、この大阪地検に限って、禁固という重い罪を求刑しております。これは、はなはだ過酷であると思います」
 伸一は、語りながら、過酷な取り調べに泣かされた、多くの同志のことが思い出された。彼らは、確かに戸別訪問をしてしまったが、選挙民に、買収や供応を行ったわけではない。ただ民衆のための政治を熱望するあまり、人びとの家を訪れ、自らの思いを弁論で訴えたにすぎない。
 違法ではあっても、その動機は、あくまでも純粋であり、むしろ、腐敗、堕落した、金の力をもってする選挙に、抗しようとしたところから起こった過ちにすぎないことを、伸一は訴えたかった。
 彼の声に、一段と力がこもった。
 「次に、大阪の土地柄であると思いますが、昔から、大阪は商人の町であり、当時の身分制度のもとで、権力者が町民を睥睨してきた歴史のせいか、大阪の検事は全く横暴であり、取り調べも非道なものでありました。権力を笠に着て、弱い者いじめをするかのようなやり方であり、断じて許しがたいものであります」
 伸一は、最後の法廷で、なお堂々と闘っていた。自分の一身の問題のためではなかった。多くの愛する同志を、かくまで苦しめた権力の魔性への、法廷における最後の抗戦であった。
 今、攻守は所を変えて、検事席の検事たちは、いつしか顔を伏せていた。
 伸一は、語るべきことを語ると、脳裏に、戸田城聖の面影が浮かんだ。あの伊丹の空港で、戸田が語った、「裁判長は、必ずわかるはずだ……」との言葉が、まざまざと蘇ってきた。
 彼は、静かに言葉を続けた。
 「この事件で、私が逮捕され、拘置所から出ました時、私の恩師である戸田城聖先生は、『勝負は裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ。裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか』と言われ、やがて、亡くなりました。取り調べがいかに不当であっても、裁判が公正であれば、人びとは冤罪に泣かずにすみます。無実の罪を着せられようとした民衆にとって、最大の希望となります。最後に、この事件のすべての被告人に対して、公正なる審判を、お願いする次第であります」
 伸一は、率直な思いを、そのまま吐露したにすぎなかったが、劇的な結びとなった。
13  審判の日が来た。歴史の瞬間は迫りつつあった。
 一九六二年(昭和三十七年)一月二十五日――最終公判となる第八十四回公判が、午前九時三十分から、大阪地方裁判所で開かれたのである。
 誰もが固唾をのんで、田上雄介裁判長の言葉を待った。裁判長は、被告人全員の名前を読み上げていった。
 「右被告人等に対する公職選挙法違反被告事件について、当裁判所は……」
 穏やかだが、明断な声であった。裁判長の声が、静寂のなかに、せせらぐように流れた。
 「主文……」
 刑の言い渡しである。九人の被告人に罰金一万円、四人に七千円、二人に五千円、さらに二人に四千円、三人に三千円が言い渡された。これで二十人である。禁固刑は一人もない。公民権停止は短縮されて十七人に適用された。山本伸一の名前は、なかなか出なかったが、主文の最後に、裁判長は明確に宣した。
 「被告人・山本伸一は無罪!」
 傍聴席は、さっとざわめき、どの顔にも歓喜の光が差したが、これに続く判決理由の朗読に耳を澄ました。判決理由では、罪となるべき事実として、会員が幾つかの地域で戸別訪問を行い、現行犯で逮捕者を出したことがあげられていた。
 また、山本伸一については、公訴事実を一つ一つ反駁し、無罪であることを示していった。なかでも最大の焦点となったのは、選挙投票日の前々日、大阪に来た会員たちに、伸一が戸別訪問を指示したという、京都の壮年会員の供述調書であった。裁判長は言った。
 「畏敬の念に満ちた被告人・山本伸一から、直接に『堂々と戸別訪問をしてください。責任は私がもちます』と頼まれ、もしくは命令されたと仮定するならば、これを聞いた百人以上の学会員のうち、一人のみが戸別訪問し、他の誰もがしないなどということは、およそ考えられないことであります」
 明快な論証であった。田上裁判長は、さらに言葉を続けた。
 「また、室長として学会における地位も上級幹部であり、本件選挙の最高責任者であった同被告人が、百人以上の聴衆を前にして、前記のごとき言辞を弄することは、常識上からもはなはだ疑問であります」
 傍聴していた幹部は、誰もが、″そうだ″と頷いた。判決理由は結論に入った。
 「そして、右のほかに被告人・山本伸一が謀議をしたことを認め得る証拠は、なんら存在しないのであるから、結局、被告人・山本伸一についての前記公訴事実については、いずれも犯罪の証明がない。よって、無罪であります」
 また、裁判長は「この事件について、検察は、総責任者である山本伸一を陣頭にして、学会として組織的に行ったものだという見解で起訴されているように思われます。しかし、証拠調べの結果、各下部組織において、終盤戦で焦りなどから、違反行為という事態が発生するに至ったものであり、学会全体として行ったという証拠はありません」と明言したのである。
 公判は午前十時四十分に終了した。
14  遠く、険しい道のりであった。しかし、学会の正義は、伸一の無実は、ここに証明され、欺瞞の策謀に真実が打ち勝ったのだ。遂に闇牢の巌窟は砕かれ、今、伸一の胸中には、まばゆい旭日の光彩が降り注いでいた。
 「先生!……」
 伸一は、恩師・戸田城聖を思い、心で叫んだ。
 彼の心は、にっこりと微笑む戸田を見ていた。
 傍聴していた幹部たちは、喜色満面で、たちまち伸一を取り囲んだ。
 「おめでとうございます」
 口々に、無罪となった伸一を祝した。
 彼は、弁護士たちに丁重に礼を言うと、車で関西本部に向かった。車窓には、雲聞から差し込む柔らかな冬の日差しを浴びて、堂島川が、銀色に照り輝いていた。
 車中、伸一は、一人、戸田城聖を偲んだ。
 ″先生! 先生の仰せの通りになり、晴れて無罪となりました。これで、先生の命である尊い創価学会に傷をつけずにすみました″
 彼は、師の偉大さを、しみじみとかみしめていた。そして、自分が逮捕される直前の、五七年(同三十二年)六月初旬のある夜、戸田が、広宣流布の道程は、権力の魔性との熾烈な攻防戦とならざるを得ない、と語っていたことが、思い返された。
 牧口常三郎の獄死、戸田城聖の二年間の獄中生活の苦闘……。さらに、わずか二週間ではあったが、自身の入獄と、この四年半にわたる裁判を思うと、伸一は、権力の魔性と戦いゆかねばならぬ学会の、避けがたき宿命を、強く、深く実感せざるを得なかった。
 今、山本伸一は無罪となり、広宣流布の伸展を封ぜんとする権力の画策は破れたのである。
 伸一は、思った。
 ″国家権力によって冤罪を被ってきた人びとの数は、計り知れないにちがいない。また、これまで、権力によって虐げられ、自由を奪われ、不当に差別されてきた民衆は、いかに多かったことか。いや、世界には、今なお、権力によって、虐げられ、呻吟する民衆は跡を絶たない″
 ここまで思いをめぐらした時、伸一の脳裏に、「撰時抄」の一節が浮かんだ。
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず
 流罪地の佐渡から鎌倉に戻られた日蓮大聖人が、御自身を迫害した権力者・平左衛門尉に対して言われた御言葉である。
 ――王の支配する地に生まれたがゆえに、身は権力のもとに従えさせられているようであっても、心は従えさせられることはない。
 つまり、いかなる権力をもってしても、強き人間の精神を縛り、支配し、隷属させることは、断じてできないとの仰せである。それは、御本仏としての御境涯を述べられたものだが、同時に、精神の自由こそ、人間に与えられた、本然の権利であることを示された、人権獲得への一大宣言とも拝せよう。
 また、大聖人は、人間は等しく仏の生命を具え、皆、わが身がそのまま宝塔であると教えられている。さらに「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」と、男女の平等をも明言された。地位や立場はもとより、国家、民族、性別など、あらゆる違いを超えて、人間は等しく、誰もが尊厳無比であり、平等であることを説かれているのである。
 日蓮大聖人の仏法は、権威、権力のための宗教でも、宗教のための宗教でも断じてない。また、一民族や一国家のための宗教でもない。まさに人間のため、人類のため、人権のための宗教なのだ。人種差別も、民族紛争も、根本的な解決の方途は、この大聖人の仏法を基調としたヒューマニズムのなかに、見いだすことができよう。
 なれば、広宣流布とは、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る人権闘争にほかならないはずである。そして、そこにこそ、創価学会の担うべき社会的使命もあろう。
 この時、山本伸一の生涯にわたる人権闘争への金剛の決意が、胸中に人知れず芽吹いていたのである。
 ″権力の魔性の桎梏からの人間の解放、人権の勝利……。よし、やろう。仏子として、わが人生をかけて!″
 伸一の一念に深く刻まれたこの誓いこそ、やがて、広く世界をつつみゆく、SGI(創価学会インターナショナル)の新しきヒューマニズム運動の、大潮流をもたらす源泉にほかならなかった。
15  判決は、たちまち電波に乗り、全国のテレビ、ラジオで報道されたのをはじめ、新聞各紙にも大きく報じられた。
 山本伸一の無罪を知った同志の誰もが、「当然だ!」と思った。そして、喜びに震え、安堵に胸をなで下ろした。ことに関西の会員たちの喜びは大きかった。
 「ニュース、聞かはったか。判決が出たんや。無罪や! 先生は、無罪やで!」
 ニュースを聞いた会員たちは、同志の家々を駆け巡り、互いに手を取り合い、涙して喜び合った。仏壇の前に座り、感涙にむせびながら、感謝の祈りを捧げる人もいた。
 しかし、学会の首脳幹部には、まだ一抹の不安があった。無罪の判決は出たものの、検察は一貫して強硬姿勢を取り続けてきただけに、控訴が懸念されたからである。もし、控訴になれば、またこの先、何年間かにわたって、裁判が行われることになる。それは、学会の前進を阻む大きな障害になるであろうことは、想像にかたくない。
16  それから二週間がたつた。
 二月八日、伸一は遠く日本を離れ、中東に赴いていた。イラン、イラク、トルコ、ギリシャを経て、この日、彼は、エジプトのカイロに滞在していたのである。
 彼のもとに、学会本部から電報が届いた。
 「控訴なし……」
 判決から十四日間の控訴期間内に、検察の控訴はなかったのである。あの厳しい求刑を思うと、考えられないことであった。検察は、第一審の山本伸一の無罪判決を覆すことは困難であると判断し、やむなく控訴を断念したのであろう。
 これで、大阪地裁の判決が、最終の審判となったのである。
 伸一は、ホテルで電報を目にすると、にっこりと頷いた。窓から差し込む夕日に、彼の顔は紅に映えていた。
 彼は、深い感慨に浸りながら、大阪府警に出頭し逮捕された、一九五七年(昭和三十二年)の七月三日を思い起こしていた。その日が、奇しくも、戸田城聖が二年間の獄中生活を終えて出獄してから、十二年後の同じ日であったことを思い返すと、戸田と自分とを結ぶ、不思議な運命の絆が痛感され、感動に胸が高鳴るのを覚えた。
 「先生!……」
 今は亡き恩師を偲び、心でつぶやいた。窓外のカイロの空は、夕焼けに染まり、太陽はひときわ大きく、金色に燃えていた。
 のちに彼は、との七月三日に寄せて、万感の思いを句に託している。
  出獄と
    入獄の日に
      師弟あり

1
1