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日蓮大聖人・池田大作

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夕張  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
1  一九五六年(昭和三十一年)七月の参議院議員選挙で、創価学会推薦の全国区候補である関久男が、夕張市内で二千五百余票を獲得した。夕張炭鉱労働組合は、組合推薦の候補の票が、それだけ食われたものとして、学会を憎み始めた。
 以来、学会員は、組合の統制を乱すという理由で、組合幹部から、陰に陽に排斥され始めたのである。
 当時、炭労は全盛期にあり、絶大な勢力を誇っていた。会社と組合との契約はユニオンショップ制で、組合員の資格を失うことは、即会社からの解雇に通じた。夕張の学会員の多くは、炭鉱で働く組合員であった。
 また、夕張に住む大多数の人は、何かしら炭鉱にかかわる仕事をしていた。組合員ではない学会員も、炭労ににらまれることは、生活の糧を失うことにつながりかねなかった。
 しかし、いかに炭労といえども、個々人の選挙権の行使まで、統制することはできないはずである。それは、各人の選挙権の侵害になることは、言うまでもない。ところが炭労は、学会は労働者の団結を破壊しているとして、会員に、にわかに圧迫を加え始めたのである。
 炭労組合には、労働金庫という、組合員に小口の貸し出しをする金融機関があった。組合員の学会員は、東京での学会の会合や、宗門の総本山大石寺に行く時など、臨時の費用が必要になると、この低利の労働金庫をよく利用していた。
 労働金庫を利用するには、組合の厚生委員の承認が必要であったが、組合幹部の厚生委員のなかには、「会社を休んで、どこかへ行く費用なら貸せない。創価学会をやめたら貸そう」と公言する者まで出ていた。
 また、組合には、月一回、その地域の組合世帯で行う″常会″があった。この″常会″で、″炭住″と呼ばれていた長屋の、屋根の修理や畳替えなどを申請すると、「組合の統制を乱すような、創価学会員の住居は面倒を見ない。信仰をやめるというなら話は別だ」と言いだす組合幹部もいた。
 組合の厚生委員たちは、学会活動を活発に続ける夕張の学会幹部が、よほど気になるらしく、日常生活の細部にまでわたって、調査をしていた。さらに組合は、学会員の勤務状態も調査した。調査結果は、彼らの予想に反して、学会員の勤務状態は、すこぶる良好であると出たのである。
 しかし、組合は、このころから、さらに陰湿な手段を弄して、学会員に圧力を加えるようになった。
 炭鉱住宅街の電柱や、家の壁にビラを貼ったり、有線放送を使って、″インチキ宗教が流行している。今に皆の家を訪問するかもしれないから、用心しなさい″などと、各戸に呼びかける始末であった。老獪にも、創価学会の名は出さなかったが、学会を指すことは明らかだった。
 学会員が、組合から締め出されるような風潮は、大人の世界から子どもの世界にまで及んだのである。狭い炭住街のことである。子どもたちは、大勢集まって遊ぶのが常であった。″ハーモニカ長屋″の、どこかの大人たちが、菓子を子どもたちに配るような時、学会員の子どもは、わざとのけ者にされ、仲間外れにされることも、しばしばあった。
 「お母さん、どうして、ぼくにだけお菓子をくれないんだろう?」
 一日働いて帰った母親に、留守番をしていた子どもは、悲しげに聞くのである。母は、怒りに燃えたが、心に唱題しつつ、耐えねばならなかった。
 「お菓子なんか、なんです。もらわなくたって、元気に遊べばいいじゃないの!」
 子どもは敏感である。母が耐えていることを感じ取り、子どもたちもまた、耐えるのだった。
 学会員には、何があっても動じない、信仰への確信があった。それは、驚くべき体験を重ねていたからだ。
 落盤事故に遭い、生存が絶望視されていたなかで、崩れた岩や柱が重なって、体の周りに空間ができ、圧死を免れた人もいた。落盤の衝撃をもろに受け、意識を失ったが、病院で検査を受けると、全身、どの骨も異常がなかったという人もいた。爆発事故の時に、入坑しなかったことから、命拾いした人もいた。
 坑内の仕事は、死と隣り合わせであった。それだけに、九死に一生を得た、迫力ある体験が少なくなかった。
 また、炭鉱という厳しい労働条件のせいか、どこの家にも、怪我人や病人が絶えなかった。しかし、再起不能と思われた人が、怪我を克服したり、重い病をかかえていた人が、健康になっていったという体験も続出した。
 こうした体験を重ねるごとに、学会員は、″これが功徳なのだ!″と、しみじみ思い、信仰への確信を深めていったのである。
 これらの体験は、狭い谷間の炭住街に、瞬く間に広がり、噂になっていった。
 仏法に関心をいだいた多くの友人が、話を聞きに訪れ、座談会は、いつも盛況を極め、入会者は、増加の一途をたどっていったのである。
2  夕張の創価学会員は、組合からの有形無形の圧迫を、誰言うともなく「三障四魔」として、とらえていた。そして、それゆえに、負けてなるものかと、いや増して弘教活動に励んでいった。
 夕張の同志は、数々の弾圧を、自らの信心の正しさの証明として、御書にある「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」との一節を互いに拝し合い、いよいよ発心を誓い合ったのである。
 こうした事態が続くなかで、北海道の炭鉱で最大であった夕張炭労は、組合の中央機関に訴え、全国の組合までも動かすにいたったようだ。そして、一九五七年(昭和三十二年)五月十九日の炭労定期大会で、「新興宗教団体への対策」が、行動方針として修正付加されたのである。それは、「階級的団結を破壊するあらゆる宗教運動には、組織をあげて断固対決して闘う」との一項であった。
 この直後から、夕張炭労では、「組合の統制に従わない組合員は、いずれ、組合を除名され、同時に会社から解雇されるであろう」と、まことしやかにささやかれ始めたのである。労働協約の、ユニオンショップ制を振りかざしての脅しであった。
 そうなれば、学会員にとって、まさに死活問題である。″そのようなことが、公然と行われることは、まさかあるまい″とは思うものの、日ごとに募る嫌がらせを考えると、何が起こっても不思議ではなかった。家族のことを思うにつけ、暗澹たる思いに沈む人もいたのである。
 学会の青年たちは、集っては激怒していたが、さて対抗策として何をなすべきかとなると、誰にも、即座に名案は思い浮かばなかった。寄っては散じ、散じては寄っているうちに、一つの抗議の方策が、徐々に形をなしていった。
 労働者である彼らは、まず、抗議デモを計画したのである。また、彼らは創価学会男子青年部員であるところから、″部隊旗を先頭に立てて、夕張の市街をデモ行進しよう″と考えたのである。そして、″学会員を奮起させ、組合の連中にも青年部の威力を示そう″と、ひそかに一決した。
 夕張の青年たちは、文京支部に所属するメンバーであった。部隊旗を先頭にといっても、旗は東京にある。東京まで行って借りてくるわけにもいかない。
 一時、中止という考えも浮かんだが、さすがに決意は固かった。そこで、日章旗を使用することになった。それも、スポーツ大会などで選手が行進する時、先頭のメンバー数人が、大きな旗の隅をそれぞれもって行進する、あの形式をまねることにした。
 六月六日正午、夕張の男子青年部員約百五十人は、本町二丁目の十字街に結集した。そして、四列縦隊の隊伍を組み、日章旗の四隅を持つ四人の青年を先頭にして、整然と夕張市街を行進し始めたのである。
 まず、商店街を二丁目から上一丁目へ抜け、炭鉱病院前へと、学会歌を高唱しながらの行進は、極めて高度の緊張を、ともなっていた。こわばった表情で、一種の悲情感も漂い、幾つもの鋭い眼差しが、キラキラと光っていた。道ゆく人や、沿道の家から飛び出したり、窓を開けてこのデモを見る人びとは、一様に怪訝な面持ちで、″なんのデモなのだろう″といぶかった。
 青年たちは、″今、「天下の炭労」に挑戦しているのだ″という正義感に燃えたぎっていた。時ならぬデモに、沿道の人びとは、路上に集まって来た。そのなかには、多くの学会員の家族もいて、青年たちに声援を送ったり、青年たちの歌声に唱和する人もいた。
 街の人びとは、この光景を随所で見て、このデモが、創価学会青年部の、炭労に対する抗議デモであることを初めて知った。
 「泣く子も黙る天下の炭労に、創価学会がデモをかけたぞ!」
 街の人びとは、意外な突発事に、一種の驚きの表情でささやきながら、この行進を見送った。しかし、ここ数カ月、炭労側の陰に陽にわたる圧迫を、ただ耐え忍んできた学会員の家族にとっては、喝采すべき、まことに胸のすくような痛快事であった。
 デモ行進が進むにつれて、青年たちは、ますます意気軒昂となって頬を燃やし、学会歌を高らかに斉唱して歩みを進めた。
 細長い夕張市街を、下一丁目から昭和通りに抜け、本町駅前広場を一周し、四丁目、栄橋三丁目を通って、また本町二丁目の十字街へと戻ってきた。
 夕張炭労事務所までは行かなかったが、人出の多い繁華街を、約一時間、示威行進したことになる。
 万一の妨害を考えて緊張していた青年たちは、なんの邪魔をされることもなく、無事に行進が終わってみると、一時に、どっと疲労が出た。
 しかし、間もなく、笑い声が弾み、一仕事終えた安堵の表情のなかに、誇らかな満足が、どの顔にも輝いた。彼らは、彼ら自身の力で、青年部として、独自に、勇壮に戦うことができたのである。
 心地よい歓喜が、五体を巡っていた。メンバーは、街の人びとが、驚愕した顔で見ていたことなどを語り合いながら、三々五々、解散していった。
3  反響は、たちまち現れた。夕張炭労は、翌六月七日、炭坑の入り口に、一通の通達を出した。″坑口発表″である。
 北炭二鉱に働く、夕張の創価学会の幹部六名に特に指定して、″「対決」を要することがあるので、出坑後(午後四時ごろ)、坑口の見張小屋の事務所に集合せよ″との通達である。
 六人のなかには、夕張の創価学会の一粒種で、当時の中心者の一人でもある荒川正造がいた。彼の学会での役職は、文京支部幹事であった。彼は、五人の幹部とともに見張小屋に赴くと、あらかじめ連絡しておいた、もう一人の文京支部幹事・三林秋太郎も来ていた。三林は、夕張のダンスホールの経営者であった。
 七人の創価学会幹部は、炭労組合の二人の幹部と対峠して席に着いた。最初から、空気は険悪であった。一言、二言、言葉を交わしたと思うと、組合幹部は、居丈高になって、いきなり大声でわめいた。
 「組合の統制を乱すような者は、即刻、組合を辞めてもらいたい。どうなんだ!」
 「なにっ! いったい、いつ、どこで、誰が統制を乱した?」
 「しらばつくれるな。胸に手を当てて、よく考えてみろ!」
 荒くれ男の集まる炭鉱の事務所である。暴力沙汰にも発展しかねない空気は、十分にあったが、さすがに、それぞれの団体を代表する幹部であった。形相は、時に瞋恚しんにの炎に燃え立ったが、腕力に訴えることは思いとどまった。それに、炭鉱労働者ではない三林秋太郎が加わっていたことも、救いであった。
 「感情的になっては、いくら話し合っても、話はつかんでしょう。ひとつ冷静にいこうじゃないですか」
 蝶ネクタイの、この場に不似合いな三林の発言に、一同は、われに返ったものの、話は水掛け論であった。組合側は、統制違反を繰り返したが、それが、前年の参議院議員選挙の時の、票の行方に関したことだとは、あからさまには言えなかった。
 また、学会側は、前日のデモ行進も、炭鉱に関係のない青年も多くいたし、学会独自の行動であって、組合に干渉されるような筋合いはない、と主張した。そして、これまで労使紛争の時など、学会員は、常に組合員として、共に戦ってきたではないかと反論した。
 議論は、どこまでも平行線をたどった。
 それもそのはずである。元来、労働団体と宗教団体とが、対決しなければならない要因は、根本的には何もないのである。しかし、夕張の創価学会の意気天を衝く勢いを恐れて、夕張炭労は神経質になり、警戒を一段と強めていったのである。
 この夕張青年部の炭労への抗議デモは、地元夕張の騒ぎだけには終わらなかった。テレビの全国ネットで、ニュースとして放映されたのである。これによって東京の創価学会本部も知ったし、文京支部の男子部の幹部は、驚き、かつあきれてしまった。
 ″夕張のメンバーは、なんという跳ね上がったことをしてくれたんだ。このままだと、勝手に何をやらかすか、わかったものではない″
 彼らは、大きな不安と、幹部の責任を強く感じた。文京支部の男子部幹部の一人である黒木昭は、直ちに東京を発って、夕張に直行した。車中、彼は、夕張の青年たちに思いを馳せながら、″なんという無茶をしてくれたか″と憤慨したり、また一方では、″なんという、かわいい青年たちであろう。彼らだけで、よくやったものだ!″と、心の底で賞讃したりしていた。
 忽然として姿を見せた黒木昭に、夕張の青年たちは、何事が起きたのかと思ったが、元気よくあいさつした。
 「どうなさった? 黒木さんが急に、お見えなさるなんて。何か起きたんですか?」
 黒木は、不機嫌な顔で、むっつり黙ったまま、独特な上目づかいで青年たちを睨んでいた。
 「実は、つい先日、みんなでデモをやりましたわ。炭労の連中は、びっくりしくさって……」
 一人の青年が、こう言いかけた時、黒木は、急に大声を張り上げた。
 「何もかも、ちゃんとわかっている。いったい、誰に指導を受けてやったんだ!」
 「…………」
 「支部の指導も受けずに、あんな勝手なデモをやるとは、君たちは、いったい、どういう了見なんだ! 無茶もいいところだ。あきれ果てたよ」
 黒木の声は、怒声に近く、目をむき、全身を震わせての叱咤だった。
 のんきなヤマの青年たちは、たちまち縮みあがって、なすところなく、うなだれた。黒木は、「黒豹」という、あだ名がついていた。色は浅黒く、髪の毛はやや縮れ、長身で腕力もありそうな、ボクサー風の偉丈夫である。これが全身全霊で怒鳴るのだから、青年たちが震えあがったのも無理もない。
 しかし、猪突の黒木も、根は優しい青年であった。怒るだけ怒ってしまうと、拍子抜けしたように、急に穏やかになった。
 「東京の方では、戸田先生をはじめ、みんな、君たちのことを心配しているんだよ。君たちは、悪行を働いたわけではない。夕張の学会員を、青年部の力で守ろうと思い立ってやったことは、ぼくも認める。しかし、夕張だけの創価学会ではない。君たちの行動が、日本の創価学会に、どういう影響を及ぼすかを考えるのでなくては、青年部の幹部としては失格だよ」
 黒木は、まるで自らを戒めるような口調になった。元来、黒木の性格は、夕張の青年たちが、今回、やったようなことを、いちばんやりかねない男であったからである。
4  このデモを契機として、夕張炭労と夕張の創価学会との間は、狭い谷間のなかで、とげとげしい対立が、さらに深まっていくことになった。そして、その背後には、全国炭労組合と創価学会本部が控えていて、事態は、この二つの集団の対決へと進んでいくのである。
 夕張炭労は、明治以来の労働運動の久しい伝統のもとにあったが、夕張の創価学会の活動が、この北海道の辺部な山奥に始まったのは、一九五二年(昭和二十七年)秋のことである。まだ五年もたつていない。
 今、それが天下の炭労を向こうに回して、一歩も引かない実力と信仰をもつようになったのは、彼らの、その間の、血のにじむような、涙ぐましいまでの、誠実な弘教活動の賜物であった。
 夕張市という人口十一万ほどの炭鉱市街に、たった一粒の妙法の種が下ろされたのは、一九五二年(昭和二十七年)九月のことである。それは偶然というには、あまりにも運命的な、一人の男の人生の転機から始まっていた。
 東京に住んでいた荒川正造という大工が、創価学会に入会を決意したのは、五一年(同二十六年)一月二十日のことであった。
 その日、彼は、偶然、知人に誘われ、それとは知らずに戸田城聖の自宅について行った。戸田は留守で、二階の部屋に青年たちが集まり、御書講義を受けている真っ最中であった。彼にとって、講義のすべてを理解できたとはいえなかったが、妙に胸に響くものがあった。また、元気のよい青年たちの血色のよさや、いかにも幸福そうな明るい笑顔は、当時の彼の周囲には、ついぞ見かけないものであった。
 講義が終わり、質問が終わったあと、彼は、極めて自然に、自ら入会を希望した。珍しいことで、講義の担当者は思わず尋ねた。
 「本当ですか。大丈夫ですね。すぐ、やめるということはないですね」
 異様に念を押されて、荒川正造は反発した。
 「やりますとも、絶対にやりますとも」
 彼が、このような決意を自発的にしたのは、その日の講義内容が、あまりにも示唆的で、身につまされたからである。
 ――荒川は、これまで間断のない悩みの人生を送ってきた。しかも、それは、二代前から続いていることであった。祖父は、妻子八人を残して失綜していた。父は、彼が十一歳の時、五人の子どもを置いて、いなくなってしまった。以来十七年間、行方は、いっこうにわからなかった。家出したのは、祖父も、父も、三十七歳の時であった。
 荒川は、三十四歳になっていた。彼も、妻子を養うために悪戦苦闘しているが、思うに任せず、時に自分も姿を消したくなるような、発作的な考えに悩まされることもあった。あと三年で、彼も三十七歳になる。彼は、何か宿命的なものを感じていた。
 その矢先に、「宿命の転換は、この信心によって確実に可能であり、日蓮大聖人の仏法という正しい信仰以外では、不可能である」と聞かされたのだ。彼の心は、即座に決まったのである。
 彼は、家に戻り、さっそく神札などを自らの手で処分した。家族は、どこかおかしくなったのかと驚いたが、彼は、「おかしいのは、誤った教えを信じてきた、わが家の方だ」と、耳にしたばかりの話をして説得した。家族は、皆、病気で悩んでいたので、彼の言葉に従わざるを得なかった。
 それから彼は、言われるままに、勤行、折伏を忠実に実践していくうちに、まず家族の病気が、順々に解決していった。激痛に苦しみ、胃癌ではないかと思われた妻の胃病が、二カ月の真剣な唱題で和らいだ。心臓弁膜症で四年間通院していた妹も、健康を取り戻した。長年のリウマチで苦しんでいた母も、脱肛で苦しんでいた荒川自身の病気も、ともどもに治ってしまった。
 荒川は、何よりも体験談が好きで、尊重した。自分の体験も重なり、折伏の勢いが増したことは言うまでもない。月に五世帯を超す折伏をして、表彰されるまでになった。
 慌ただしい一年が過ぎ、五二年(同二十七年)元日の朝早く、当時の文京支部長・原山幸一のところに、年始のあいさつに行った。
 「支部長、おめでとうございます。昨年中は……」
 原山は、彼のあいさつをさえぎり、立ち上がった。
 「荒川君、よいところへ来たね。今、出かけるところだ、一緒に行こう」
 「はあ……?」
 「学会の本部へ行くところだ。私についていらっしゃい」
 荒川が連れられていったのは、西神田の学会本部だった。彼にとって、初めての本部である。大勢の幹部の間に座ると、元旦勤行が始まった。間近に戸田城聖を見るのは、初めてである。戸田は、勤行に先立って、勤行の姿勢を厳しく指導してから、勤行に入った。やがて勤行が終わると、戸田は、あいさつに立って言った。
 「不肖、会長自身の命は、広宣流布のために捧げたものです。皆さんも尊い使命に生きている。昨年一年間の折伏の戦い、まことにご苦労でした。皆様に御礼申し上げます。今年も、どうかよろしく頼みます」
 戸田は、深々と頭を下げた。荒川は、恐縮した。
 それから、皆、御造酒を頂きながらの歓談が続き、戸田の話に耳を傾けていた。すると、突然、戸田は、はらはらと涙を流して、言いだした。
 「ここにいる方々は、また今年一年、この戸田と共に戦ってもらいたい。そして、立派に成長していきなさい。たとえ、どこの地に行こうが、この戸田について、折伏に邁進するものと、私は確信します」
 荒川は、自分の周りの人びとは、どんな顔で戸田の話を聞いているかと見回した。すると、すぐ隣に春木征一郎がいた。荒川は、このプロ野球の剛球投手の顔を新聞で見て知っていた。
 「春木投手ではありませんか?」
 荒川は、思わず小声で、ささやくように言った。
 春木も、にっとり笑いながら、頷いて小さい声で答えた。
 「そうです。春木です、あなたは?」
 「文京の荒川というものです」
 「そうですか。ぼくは、今、蒲田支部にいますが、近々、大阪へ行って、支部の建設をすることになっています」
 二人は、この時、初めて自己紹介をし合ったのだが、この後、間もなく、春木は、広宣流布の原野ともいうべき関西に旅立った。そして、この年の九月、荒川正造は、故郷である夕張へ移転することになる。
 荒川は、一年数カ月の信心を重ねて、優秀な組長に育っていた。故郷の夕張には、彼の親戚や知人も多かった。行方知れずだった彼の父も、夕張にいるという噂である。石炭産業の全盛期で、夕張に行きさえすれば、就職の心配はなかった。彼は、夕張に戻って、知人に、大いにこの妙法を教えたいと思い立った。思い立つと、彼の前途は、大きく開けるように思われた。″どこにいようと、今度は、御本尊様とともにあるのだから心配ない″という確信ほど、彼を励ますものは、なかった。
 決心のついた九月上旬、原山支部長のところへ、転居のあいさつかたがた指導を受けに訪れた。
 「一方ならぬお世話になりましたが、今度、故郷の夕張に帰ることになりました。今後、北海道で広宣流布の、お手伝いをし、きっと立派にやってまいります。いろいろど指導いただき、ありがとうございました。今後もよろしく……」
 荒川は、いささかの感傷を込めて礼を述べながら、言葉は、思わず涙声になった。すると、原山は感傷を吹き払うようなことを言いだした。
 「荒川君、北海道もいいが、今の君は、おそらく退転第一号になるぞ」
 荒川は、思いがけなかった。平常、温厚な原山に似合わぬこの言葉は、彼に意地悪く響いた。
 ″退転、冗談じゃない。人生の再出発にあたって、縁起でもない″
 荒川は、反発して言った。
 「意地でも、信心はやり抜きます!」
 「なにも、意地でやらんでもよい。素直にやりなさい!」
 きつい叱責であった。荒川は、ハッとした。
 「はい、素直にやります」
 原山支部長は、にっこり笑って、初めて、温かい言葉を荒川にかけた。
 「君が、夕張に行って三年間、信心と折伏をやり抜いたら、君の方から東京に来なくても、ぼくの方から必ず夕張に行くよ。これは約束だ」
 そのころ、文京支部に熱心な組長がいて、青森県へ、もう一人は宮城県へ移転した。二人とも、出発に際して、″必ず広宣流布の新しい開拓を″と、固く誓って行ったのだが、いつか退転して、音沙汰もなくなっていた。原山は、荒川の夕張移転を聞いた時、この二人の前例が気にかかって、この愛すべき荒川だけは、退転しないようにと祈る気持ちであった。
 荒川は、この日、原山に一言われた、「素直にやれ」という言葉が身に染みた。夕張に移って、彼は、素直な信心を実践したが、もともと人柄も極めて素直であった。意地の悪いところは、さらさらなく、人の身を思いやる素直な心は、荒川を、誰からも慕われる立派な指導者に、いつか仕立てていた。
 荒川正造は、御本尊とともに、家族二人を引き連れ、夕張に着いてみると、北海道は、もう秋たけなわであった。駅に出迎えてくれたのは兄夫婦で、その炭住の十二軒長屋の一画に落ち着いた。そして、ここから弘教の一歩が始まった。
 一週間たった時、彼の体験を聞いて、三世帯の人が入会を決意した。荒川は、東京の地区部長に報告し、地区の手を経て、御本尊授与の手続きをした。こうして約一年たった時、夕張は十三世帯となり、二年余りたった時には、百二十世帯になっていた。だが、幹部といえば組長の荒川一人であった。
 荒川には、夕張は懐かしかった。ボタ山のある風景、坑口から響くウインチやトロッコの機械音……。住宅も、街も、炭塵と煤煙に煤け、草も、木も、電柱も、目に映るすべてが黒ずんで見えたが、そこには活気があり、人間の温もりがあった。
 北海道の山奥に、人口十一万もの都市が出現したのは、言うまでもなく、石炭層の発見から始まっている。
5  ――それは、一八八八年(明治二十一年)の夏のころであった。
 北海道庁の技師となった坂市太郎は、夕張地方を探検し、夕張川の支流であるシホロカベツ川の上流に出た。彼は、この川に沿って下ったところで、石炭の大露頭を発見したのである。通称二十四尺層といわれる、厚さ約七メートルの見事な炭層であった。
 坂市太郎にとって、夕張の探検は、これが最初ではなかった。既に、七四年(同七年)に訪れていたのである。
 当時、彼は、東京・芝に開設されたばかりの開拓使仮しかり学校(札幌農学校の前身)の学生であった。
 この学校に、地質・鉱山の調査と、その技術者の養成のために、地質学者であるアメリカ人のB・ライマンが招かれた。彼は、北海道全域の地質調査を、七三年(同六年)から七五年(同八年)までの三年にわたって、毎年、一回行っている。この調査において、ライマンは、実地指導のために、開拓使仮学校の学生たちを、調査助手として連れて行ったのである。
 夕張川方面を調査したのは、二回目の時であり、坂も同行していた。
 ライマン一行は、夕張川をさかのぼったが、行く手を滝にさえ、ぎられ、途中で引き返している。しかし、ライマンは、上流から流されてきた石炭の塊を発見し、その上流に埋蔵炭があることを確信していた。
 ライマンは、上流に必ず大炭田があることを述べて、機会があれば詳しく調べるように、助手の学生たちに言ったという。
 坂市太郎は、十数年前のライマンの言葉を忘れず、道庁の技師となって、ライマンの言葉が事実であったことを実証したのである。坂が、石炭の大露頭を発見したのは、ライマンが引き返したと思われる地点から、直線で十八キロほど北に上ったところであった。
 夕張は、宝の山となり、無人の山峡は、炭鉱として急速に開発され、明治、大正、昭和と三代を経て、いよいよ日本有数の炭鉱となったのである。人口の増加は、段々畑ならぬ、段々炭住街をつくりあげた。それが、天に至るといった趣で、ぎっしりと山腹一帯から斜面を占領し、夜になると、煤けた風景は消えて、一大夜景となって、谷間を美しく彩るのだった。白一色の冬の雪景色も、また美しかった。
 炭坑での仕事は、一日三交替の二十四時間操業で、昼も夜も騒音が響いていた。坑口を出入りするトロッコによる、人や、資材や、石炭の搬出入、切羽から選炭場までの、十余キロにわたるコンベヤーの間断ない動きによって、活気は山峡一面に満ち満ちていた。
 このような炭鉱都市に、妙法の旗が初めて翻ってから五年足らずのうちに、この市の在住者だけで約千世帯、周辺の町村在住者を入れると、約二千世帯の創価学会員が、大地から涌出したように、いつか現れていた。しかも、喜々として胸を張り、弘教活動に懸命であった。
 荒川正造は、彼の親類縁者から、一世帯また一世帯と折伏を始め、その一世帯から、また次の一世帯へと弘教戦線を拡大していった。目を見張るような体験談の誕生と相まって、歓喜に満ちあふれた座談会が、炭住街で毎夜のように開かれた。
 荒川一人の体では、どうにもならない。やがて、補佐となる幹部も徐々に育てながら、互いに力を合わせて基盤を固めていった。
 一九五五年(昭和三十年)八月、全国夏季地方指導の一環として、北海道の各地を転戦していた戸田城聖は、八月二十一日に、夕張に滞在して、はじめて本格的な指導に着手した。この夏、夕張の同志も、文京支部からの派遣員と一体になり、八日間に百二十三世帯の折伏を敢行している。
 また、この五カ月前の三月には、小樽問答の勝利があり、北海道には、弘教拡大の大波が起こり、夕張も、意気衝天の勢いになってきていたのである。
 戸田は、二十歳前、夕張の真谷地で、尋常小学校の教員をしていたことがあり、夕張は、彼の臥竜の天地であった。
 彼が、夕張を訪れたのは、実に三十五年ぶりで、教え子の一人は、夕張の小学校の校長になっていた。戸田にとっては、まことに思い出深いところである。
 この時、学会員は、戸田を囲んで、指導会を開催することができた。
 彼の、明快にして厳しく、また情理を兼ね備えた指導を、人びとは雲の晴れる思いで聞いていた。誰もが、いまだかつてない歓喜が湧くのを覚えた。
 質問会に移ると、参加者の一人が、寺院の建立を要望した。
 「先生、この夕張には、他宗の寺はうんざりするほどありますが、正宗の寺は、一つもありません。それで、みんなに蔑まれて困っとります。なんとか、お寺を建てていただけませんでしょうか」
 「わかりました。よくわかっている。今、皆さんの辛いところも、よくわかっている。そこで、こうしよう。夕張が二千世帯になったら、寺院を寄進申し上げます。それまで頑張りなさい。頑張れるかな、ハ、ハ、ハッ」
 激しい拍手が、湧き上がった。戸田は、簡単に引き受けてくれたが、三百四十余世帯の今の夕張の会員にとって、二千世帯は、途方もない夢にも思えた。しかし、彼らは明確な目標に向かって、この時から驀進を開始した。そして、二年もしないうちに、念願の二千世帯に達し、寺院の建立に取りかかると同時に、炭労事件が惹起することになるのである。
 指導会が終わっても、戸田に信心指導を受けようと、さまざまな病気や悩みをかかえた人びとが、旅館にやって来た。心臓弁膜症の青年、脳脊髄膜炎の少年とその父親、パーキンソン病の父をかかえた娘……。
 戸田は、信仰生活の実践、すなわち宿業の転換による根本的治癒を、懇切に、真心込めて説いていった。当時の夕張の学会員は、辛い苦しい環境にいただけに、確固たる信心の姿勢をもっていた。この日、戸田から指導を受けた人びとは、皆、やがて見事に蘇生の日を迎えることになるのである。
 戸田が、夕張滞在中に行った最後の会合は、初代夕張班長となった荒川正造をはじめとする、中核メンバーへの指導会であった。後に続くべき人材育成についても協議され、文京支部城北地区夕張班は、地区建設に向かって、組織的な新生のスタートを切った。
 翌月の九月には、原山幸一が夕張にやって来た。荒川正造が東京を後にしてから、満三年である。原山は、もはや文京支部長ではなかったが、″君が、夕張で三年頑張ったら、東京から必ず会いに行く″という約束を守ったのであった。
 三年たった今、荒川は、夕張の最高責任者となっていた。原山は、荒川の責任感から発する、さまざまな質問に答えて、幹部としての心得を、彼の長い経験から、諄々と語って聞かせた。
 「人間には、人それぞれ得意なものもあるし、反対に苦手のものもある。君のように、夕張の責任者となったからには、今、いちばん苦手なものを、得意なものにしなければならない。それには、どうしたらよいか。まず、上手な人のまねをすることだ。
 そして、後は練習次第だ。いつの間にか得意になるものだよ。
 また、大勢の前に立っと上がってしまい、思うことを十分に話せないこともあるだろう。そんな時は、折伏の時と同じ気持ちになって、五十人いるなら、そのなかで、真剣に聞いてくれる人を一人ぐらい見つければいい。それが大事だ。その人に向かって話せば、みんなも顔を上げて、自然に聞くようになるものだ。やってごらん」
 原山は、座談会の進め方や、個人指導の在り方など、幹部としての百般の心得を親切に教えた。義理堅い彼は、三日間、夕張にいて、班員の指導もして帰京していった。
 組織も軌道に乗り、幹部としての訓練も受け、夕張班は、広宣流布の強靭な前線となっていった。教学への意欲も、燃え始めた。岩見沢の会員も、夕張班に所属することになったので、自然と、夕張市内から周辺都市への弘教活動も、活発になっていった。
 班結成後三カ月にして、夕張班は幾春別いくしゅんべつ班と合併して、五五年(同三十年)十一月、文京支部夕張地区に発展した。九班の編成で、地域は、夕張から岩見沢、幾春別、幌内、三笠、栗山、栗沢へと広がり、総世帯六百八十世帯という陣容で、荒川正造が初代の地区部長に任命された。
 地区という単位の組織体となって、会員は、地区員としての責任を自覚したらしかった。
 われもわれもと積極的に動きだしたのである。地区の、それぞれの機能を分担し、統監部、登山部、新聞部、書籍部、通信部などの責任者ができ、一つの歯車が回れば、全体の歯車が、いやでも回らざるを得ないような組織となった。意欲さえあれば、組織の歯車がかみ合って、意外に大きな回転をするのを見て、会員は、ますます自信を深め、さらに次の回転へと動きだすのであった。
 これら、大きな回転の力として、「熊隊」といわれるグループもできた。壮年、婦人、男子、女子のなかから選抜して編成され、周辺の地方へも、どしどし出かけて、活発な指導とともに、折伏活動を実践するためのグループであった。
 「熊隊」には司令がいて、初期のころには、地区幹事・三林秋太郎などの名がある。司令は、一つの企画、日程が決定すると、隊員たちに招集をかけた。
 しかし、夕張の谷間は細長いうえに、二十キロ、三十キロと、離れて散在している隊員もいる。当時、電話のある家は皆無に等しい。連絡は、もっぱら青年部員の足によった。青年たちは、何枚かの紙片を握ると、一斉に「熊隊」の隊員宅を手分けして回り、「召集令状」といわれた紙片を置いていく。紙片は、縦十二センチ、幅四センチほどのもので、それには、ただ「○月○日○時集合」とだけ書かれ、丸の中に「熊」の字を刻んだ朱印が押されていた。隊員は、仕事から帰って、この″令状″を発見し、指定の日時に、司令の家に集合するといった具合であった。
 この「召集令状」を届ける青年たちを、「熊伝」と称した。つまり、「熊隊」の敏捷な伝令という意味である。
6  戦時中の「赤紙」といわれた一銭五厘の召集令状は、人を殺すための発端であった。だが、「熊隊」の「召集令状」は、人びとを蘇生させ、真に平和な世界を現出するための″令状″であった。
 北海道は、熊の″名所″だけあって、折伏隊にまで熊の名を冠したのである。それは、もともと、文京支部長代理でもあった山本伸一が、夕張から、しばしば文京支部へ通って来る荒川正造と三林秋太郎の二人に対し、荒川を「白熊」、三林を「黒熊」と親しみを込めて呼んでいたことに由来している。それというのも、荒川は、いつも決まって白っぽい服を、三林は、黒い背広を着ていたからである。
 それにまた、実際に「熊隊」が出動し、冬、数人ずつ連れ立って、雪深い山奥の村の家々を訪ねる様子は、まさしく熊の出没を連想させた。
 「熊隊」の、体格のよい、たくましい男たちや、防寒具のため着脹れした女性たちは、互いの姿を、「穴からはい出して現れた熊のようだ」と言って笑い合った。「雄熊」「雌熊」と言い合いながら、雪を踏んで進むのである。
 この「熊隊」は、総勢百人近くであった。この「熊隊」の機能は、隊員それぞれの得手、不得手によって分かれていた。
 ――まず、何度、折伏に行っても埒の明かない手強い人のところには、折伏に熟達した人びとが向けられた。この隊員を「熊特」と称した。
 会員のなかで退転しかかった人や、新入会者の指導にあたることを使命とする隊員を「熊指」といった。
 折伏を行ずる本隊の隊員を「熊折」といった。これらの隊員の緊密な連絡に活躍する青年たちを、前述のように「熊伝」といったのである。
 この「熊隊」を中心にして、夕張の会員たちは、休日を利用して周辺の町村に折伏に出かけた。時には数十人の会員が、朝早く駅頭に集合して汽車に乗り込む。夕張本町―野幌間の夕張鉄道や、夕張―追分間の国鉄夕張線がよく利用された。
 乗り込んだ人びとは、四、五人のグループに分かれて、各駅に到着するごとに、順々に降りて行って、そこで折伏を行ずるのだ。こうして、沿線の各駅ごとに、グループが散るのである。これは、まるで飛行機からパラシュートで飛び出して、各地に降下するのに似ていることから、「落下傘部隊」とも呼ばれていた。
 当日の朝、定刻に集まる人びとは、たまの休日を割いての弘教活動を生きがいとしている人びとであった。眠い顔をしている人もいる。握り飯をたくさん作って持ってきた婦人部員や、小遣いで汽車賃をためて参加した女子部員もいた。皺だらけの服に、『折伏教典』と聖教新聞を握り締めている青年、グループ分けに心を配るジャンパー姿の年配者など、裕福そうな服装をした人は、一人としていなかった。
 だが、互いの朝のあいさつは、極めて元気よく、遠足に向かう小学生のように、はしゃいでいた。
 各グループは、降りた駅の周辺で丸一日活動すると、帰りは終列車と決まっていた。朝とは反対に、「落下傘部隊」の隊員たちが、駅ごとに乗り込んでくる。列車の中は、そのたびに大変な賑わいになる。一日の戦果が問題となった。
 「どうだつた?」
 「やった、やった。ずいぶん手強い相手だったけれど、最後にはよくわかって、涙を流しながら、信心する決意を固めていました」
 聞く方も、話す方も、嬉しいのである。一人、また一人と、その人を宿命のかせから救うということが、こんなにも深い歓喜を起こすものだとは、彼ら自身、それほど深く自覚していたわけではなかった。しかし、この歓喜は、彼らの厳しい日常生活のなかにあっては、またとない光明であり、唯一の手応えのある生きがいであった。
 夜遅く夕張に着いて、家々に散る足取りは軽かった。そして、次の休日を待ちかねるのである。
 「熊隊」は、夕張の会員の情熱が、自ら創り出した土俗性そのままの、広宣流布の″人民軍″であったかもしれない。だが、それゆえにこそ、力強い戦闘部隊であった。
 弘教戦線は、見る見る拡大し、北海道全域にわたって、無数の拠点を形成していった。まず、室蘭本線の追分、苫小牧、白老、室蘭。追分から北上して、由仁、栗山、栗沢。後志しりべし・櫓山支庁方面では、長万部、今金、瀬棚、蘭越、倶知安くつちゃん、岩内。小樽から旭川にかけては、琴似、札幌、江別、岩見沢、美唄、奈井江、滝川、赤平、芦別、富良野、落合、美瑛、そして、上川、北見、網走あばしり。夕張から網走までは、四百キロを超えた。さらに、石狩、浜益、月形。日高本線では、富川、新冠にいかつぷ、浦河といったように、いずれも、夕張地区の大小の拠点となったのである。
 夕張の会員は、骨身を惜しまぬこのような実践によって、学会の伝統精神を体得していった。そして、日蓮大聖人の仏法の偉大さを、体験として自ら実感し、それを堂々と、声を大にして人びとに教えた。彼らは、一庶民として、最高の善を行じていた。夕張地区結成以来、毎月の折伏の成果は、文京支部のなかで常にトップクラスであった。
 荒川地区部長の仏壇には、御本尊申請の用紙が何枚も重ねられ、札幌で御本尊を受ける入会希望者のために、貸切バスが仕立てられた。
 地区結成から半年たった五六年(同三十一年)五月一日、東京・豊島公会堂の本部幹部会で、荒川正造は新進の地区部長として、全国の幹部を前に活動報告を行った。この荒川に、地区員百七人が大挙同行してきた。そして、その年の七月には、地区結成から八カ月で、結成時の約二倍、千三百五十世帯にまで躍進していたのだ。
 東京の本部や支部との連絡も緊密になり、五七年(同三十二年)一月には、文京支部長代理として、山本伸一が夕張を初訪問した。彼は、三日間滞在し、指導の手を尽くした。伸一は、このころ山口開拓指導の期間中で、多忙を極めていたが、厳寒の雪の夕張まで足を運んだのである。最も大変な環境のなかで戦う同志を、全力で励まそうというのが、伸一の信条であったからだ。
 伸一の、夕張滞在第一日の一月十三日には、地区総決起大会が、若葉劇場で開催された。勇んで集って来た、千三百人の地区員が、会場を埋めた。
 席上、班の増設が発表され、四十五班となり、二千五百世帯で、この年を出発することになった。先年、戸田城聖が約束した、寺院建立のための二千世帯は、いつの間にか達成されていたのである。
 とても不可能と思われていたが、この二千世帯の達成まで、わずか一年四カ月しかたっていない。学会の地方拠点として、夕張が、いかに急速な発展をしていたか、歴然たるものがある。
 それだけに、夕張地区に襲おそまいかかった魔も、大きかったといわなければならない。当時の夕張の人びとが、好んで口にした、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」との原理通り、やがて競い起こる炭労事件の種火は、この山中に、徐々に燃え広がっていたのである。
7  一九五七年(昭和三十二年)六月六日、夕張の青年たちが、炭労への抗議デモを独断で行ってから、夕張の組合支部のなかには、創価学会に対する好奇心と反発から、小さな対決が起こっていった。
 六月十四日、真谷地炭労から夕張の創価学会に対し、懇談会の申し入れがあった。会場は真谷地の幼稚園である。
 創価学会側からは、文京支部幹事になっていた三林秋太郎を先頭に、青年部の幹部以下二十四人、炭労側は、真谷地炭労の全役員も含めて、組合員数十人が参加した。懇談会とはいいながら、これだけの人数が左右に並べば、かなり険悪な雰囲気にならざるを得なかった。
 いざ開会となってみると、懇談とは程遠い、激しい争論になってしまった。炭労側は、宗教に関しては、なんの知識もなかった。その主張は、暴論といってよかった。
 学会側は、宗教の正邪についての議論となると、得意中の得意である。平静に、論理的に、いくらでも話すことができた。炭労側の無知は赤裸々となり、誰の目にも、恥ずべきことと映った。
 「これでは話にならん。なるほど、創価学会とは大した団体だ。組合の役員が、まるで子ども扱いにされたじゃないか」
 学会員をなめでかかっていた炭労側は、意外にも、学会が強敵であったことを知り、狼狽した。それを隠して、体面を整えながら退散するより仕方がなかった。
 この十四日、同じころ、夕張の北炭平和炭鉱の平和会館には、組合員で学会員の妻たちが集められていた。ここの組合支部の役員は、真谷地の炭労よりも、老獪で、陰険であった。懇談に事寄せて、彼女らの夫の、言動の批判から始めた。
 「どうも困りましたな。組合の団結ということが、最近やかましくなりまして、その対策が、東京の中央部で練られているわけです。このほど、その通達があり、夕張のわれわれも、なかに立って困っているんです」
 「どんな通達ですか?」
 「新興宗教への対策ということで、創価学会も槍玉にあがっているんですよ。つまり、創価学会の信心は、組合の団結を崩している、このままでいけば、組合を辞めてもらうより仕方がない。それは構わんとしても、実際上は、会社を辞めることと同じですからな」
 会社と組合とのユニオンショップ制をタテに、暗に脅迫しているのである。その日、その日の生活に、敏感な主婦たちにとっては、一種の脅威であったが、彼女たちは一層の唱題に励み、団結を固くしたのである。
 このころ、炭労幹部は、夕張の各炭鉱で、創価学会員に対して、にわかに攻勢に出てきていた。そして、六月十七日から十九日にかけて開かれた北海道炭労第十回定期大会の期間中、十八日には、学会をめぐっての、さまざまな発言がなされた。議題のなかで、特に問題とされたのは、先月の炭労の第十七回大会の決議「新興宗教団体への対策」の行動方針を、いかにして道炭労が消化し、具体化するかにあった。
 「新夕張炭労」の、ある代議員は、「組合統制上からいって、違反行為とうかがわれる点は選挙の時しか見受けられない」と語った。ところが、「大夕張炭労」の代議員は、折伏などの行為は、炭労の組織を破壊するものだと主張した。
 また、ある代議員は、「組合幹部が、組合員の日常の苦しみや悩みに、真剣に取り組まないと、創価学会に組織を崩される。組合幹部の官僚化が問題だ」と言って、反省を迫った。
 数々の議論があったが、大勢は、統制処分を含めて、断固、対決する方針を決定する必要があるという意見に傾いた。執行部は、これに乗り、かねて用意した対決原案を提示した。
 一、対策委員会の設置
 二、資料、調査、研究活動(創価学会の実状調査を行い、労働者組織に及ぼす影響について宣伝パンフレットを作成)
 三、組織内部の強化を重点とする対策(組合員の学習会で宗教問題を取りあげる。また、レクリエーシヨン・家庭常会でより人間関係を深め、不満を取りあげる)
 この三点を決定したものの、いざ具体的な実行となると、各炭鉱の労組は、それぞれ違ったニュアンスをもっていた。「新夕張炭労」のように、対立を回避しようとした組合もあった。しかし、ある強硬な組合は、大会の直後、有線を使って、さっそく反学会の宣伝をするのであった。
 この不当な決議に対し、組合員である学会員は勇敢に戦った。
 北海道炭労が、「新興宗教団体への対策」と題して、創価学会に対する対決方針を決議したことを、文京支部幹事の三林秋太郎は、六月十九日の朝に知った。
 彼は、急いで本町の電報電話局に向かい、扉を開けた。そして、さっそく、この一大事を文京支部に電話した。
 支部の応答は「わかった、こちらで検討して、すぐ折り返し連絡するから、自宅で待機してほしい」ということであった。
 三林は、自宅で、地区の幹部たちと待機したが落ち着かない。じりじりと数時間待ったところへ電報が届いた。学会本部からのものであった。
 「タダチニヒコウキデジヨウキヨウサレタシ」(直ちに飛行機で上京されたし)とある。三林は、青年部の幹部の一人と、すぐさま夕張を飛び出し、札幌に向かった。
 札幌の航空会社では、東京行きはすべて満席で、二日先の予約券しかないという。二人は焦る心のまま、千歳空港に向かい、空席待ちに入ったが、その日は遂に暮れ、一夜を待合室で明かさなければならなかった。翌朝の第一便も空席は出ず、空しく待つより仕方がなかった。
 ところが、出発五分前になって、突然、二席のキャンセルがあり、二人は思いがけず、第一便に乗り込むことができた。
 三林と青年が、学会本部に到着したのは、二十日の午前十一時を回っていた。戸田城聖をはじめ、理事長の小西武雄や、文京支部長代理の山本室長などが待ち受けていた。
 三林の詳細な話によって、夕張の状況が、今、どうなっているかがわかった。
 山本伸一が、結論を下すように、三林たちに言った。
 「わかった。『こちらから手を打つから、夕張の諸君は安心しなさい』と言ってください。ともかく、しっかりと信心をやり抜くことです」
 伸一は、文京支部長代理として、夕張の会員の心が、今、どんなに本部を頼っているかがわかっていた。
 ″彼らは、日々、落盤と爆発の危険にさらされた坑内の、地底深くで働きながら、なおかつ創価学会員として、広宣流布への情熱をたぎらせてきた。そして、炭労の巨大な力を身に染みて知っていながら、立ちふさがったとの魔に、懸命に挑戦しようとしている。彼らを断じて守らねばならぬ!″
 伸一は、夕張の会員を思うと、もはや、黙してはいられなくなった。
 彼は、強い口調で、三林に言った。
 「もし、これ以上、夕張の同志が、いじめられるようなことがあったら、学会は総力をあげて戦います。私が先頭を切って、夕張に乗り込みます!」
 このころ、風雲急を告げていたのは、なにも夕張だけではなかった。四月下旬に起きた大阪の参議院補欠選挙の違反事件でも、日を追って多くの逮捕者が出ていた。さらに、捜査当局は、小西理事長や山本伸一までも逮捕に踏み切ろうと、耽々と狙っていた。その動きは、弁護士を通じて、小西や伸一にも伝えられていたのである。
 そして、やがて小西も、伸一も、共に大阪で逮捕されるにいたる。創価学会始まって以来の暗雲が、北海道と大阪に、同時に湧き起こっていたのである。
8  三林たちが夕張に戻って間もない六月二十三日、「北炭平和炭労」の第十五回定期大会が、市内の若菜劇場で開催され、先の北海道炭労第十回定期大会での決議が報告された。
 その時、組合員である学会の一人の班長は、真正面から質問の矢を放って、執行部に勝負を挑んだ。
 「この配布文書には、『学会員が信仰することによって、ストライキをやらなくても賃金が上がり生活が楽になる。坑内でも怪我をしないし、病気にも絶対にならない』と言っているとあるが、平和労組員の学会員のなかに、そのような言動を吐いた者があったかどうか、具体的に事例をあげてもらいたい。
 次に、組合の団結を乱し、組合活動に不利益をもたらした学会員があったかどうか、もし、あれば、事実をあげて説明願いたい。
 さらに、われわれは今日まで、極めて組合活動に協力的であったと思うが、そうでないとすれば、その実例をあげていただきたい」
 執行部は、この三点の質問に、たじたじとなった。実例と言われると、何もないからである。彼らは、事が面倒になるのを避けた。
 「ご質問に該当するような実例は、なかったように思います。また、私どもは創価学会について、まことに不勉強であり、ほとんど内容に関しては知りません。今後、よく勉強して、しかる後に組合の方針を決定いたしたく思います」
 全道大会の強行決議は、この夕張の一支部の炭労にいたると、たちまち馬脚を現し、いかに不当な決議であったかが明らかになった。炭労そのものの無責任さが、露呈したといえよう。
 しかし、北海道炭労は、先の決議に基づいて、創価学会への対策委員会を発足させ、創価学会締め出しの具体的スケジュールの指令を、六月二十七日、全道にある炭労組合の各支部宛てに出した。そのスケジュールは、七月から九月までの三カ月間を闘争期間とし、三段階に分かれていた。
 第一段階の七月いっぱいは、「創価学会対決準備月間」とし、会員数や活動状況の一切の情報を収集する。そして、全道の組合七十五支部の統一指導機関として、仮称「新興宗教対策指導本部」を設置し、各支部には対策委員会を設けるというものであった。
 第二段階の八月は、「創価学会撲滅第一次行動月間」として、学会員の改宗にあたることが主眼である。具体的には、指導本部を中心とする活発な教宣活動を展開し、各家庭を戸別訪問する。そして、家族ぐるみの話し合いのなかで、改宗を促すというものであった。
 第三段階の九月には、三カ月の闘争成果を検討し、あらゆる視点から総点検を行って、情勢によっては、第二次闘争スケジュールを組むというものであった。
 それは、「信教の自由」を踏みにじる、思い上がった指令であった。
 彼らはマルクスの宗教観――宗教は阿片である、という一片の見解を金科玉条として、創価学会に偏頗な目を注いでいるにすぎなかった。彼らは、マルクスの権威の袖に隠れて、日蓮大聖人の仏法のなんたるかを、また、創価学会のなんたるかを知ろうとせず、理不尽にも学会員を排斥しようとしたのである。
 炭労が、三カ月間のスケジュール闘争に入ろうとした直前、事態は意外な方向に動いた。そして、炭労の既定方針は全く力を失い、思いもかけぬ方向転換を余儀なくされることになるのである。
 これには、風雲のなかに身を投じ、一歩も怯むことなく、壮烈な戦いを挑んだ学会員の果敢な行動があった。学会本部の青年幹部をはじめ、北海道、とりわけ夕張の会員が、一糸乱れぬ見事な団結で、大いなる魔に立ち向かった時、魔の影は、いずこともなく消え失せたのである。
9  六月二十七日、炭労の「創価学会撲滅闘争」スケジュールの指令が出されると、戸田城聖は激怒した。
 「炭労が、そこまで学会員に圧力をかけようというなら、断固、受けて立とうじゃないか! いよいよ戦闘開始だ!」
 学会としては、態度を表明するため、直ちに北海道で大会を開く準備に入った。
 また、夕張では、文京支部幹事の三林秋太郎が、単身、夕張炭労事務所に赴いた。組合長に、直接、抗議するためであった。その途中、三林は、北海道新聞の支局長と会い、支局長も同行することになった。
 三林は、組合長との面会を強く求めたが、書記長が代わって応対し、話は埒が明かなかった。三林が組合長との面談を主張するたびに、書記長は隣の部屋に引っ込んで、組合長と相談しているらしい。そして、最後に、書記長は、三林に向かって言った。
 「三林さん、あなた方が信仰するのは勝手だが、布教活動は、今後、やめていただきたい。組合員は、いい迷惑です」
 三林は、書記長の言葉をつかまえて離さなかった。
 「何を言うんです。布教こそ信仰の生命ですよ。憲法にだって布教の自由は保障されている。炭労は、それを妨害するんですか。憲法違反になりますよ。私たちの布教は、この世から不幸な人びとを一人でも救うためにやっているんです。これをやめるわけにはいきません。
 また、あなた方は、対決を決議したというが、いったい学会と、どのように対決するつもりなんでしか」
 書記長は、三林の厳しい追及に沈黙で応えていたが、また、中座して隣の部屋へ去った。そして、今度は組合長、教宣部長と三人で姿を現した。
 組合長が言った。
 「三林さん、こうしていても埒が明きませんね」
 「じゃあ、どうしたらいいと思います?」
 「この際、あらためて正式な場所を設けて、話し合おうじゃないですか」
 この時、先年の小樽問答のことが、ふと頭をかすめた。
 ″公場対決……いよいよ炭労との対立は、ここまで来てしまったのか″
 彼は、とっさに心のなかで唱題し、″一歩も引くわけにはいかぬ″と心を固くした。
 「つまり、それは公の場所で、学会と炭労とが対決するということですか」
 「そういうことにも、なりかねませんね」
 「結構です。対決、結構です。よろしい、受けましょう。では、いつ、どこでやるんですか」
 「そうですね。日にちは、七月四日、夕張の市内でということで、どうですか。場所は、こちらから日をあらためて連絡いたします」
 「わかりました。いいですね、間違いありませんね」
 「必ず連絡します」
 北海道新聞の支局長は、はからずも、この会見の立会人になってしまった。
 三林は、この確約をとって事務所を出ると、学会本部と連絡を取った。
10  学会本部の動きは、迅速であった。直ちに、炭労との対決のために行動が開始された。青年部の代表が、次々に北海道へ向かったのである。
 程なく夕張炭労からは、対決の場所などを指定してきた。
 ――七月四日、夕張労働会館ホールで行いたい。双方から十人ほどを出し、炭労側は道炭委員長の出席を予定している、ということであった。
 また、北海道新聞社から、新聞社の司会で、炭労と学会との、「紙上討論会」を行いたい旨、申し入れがあった。「紙上討論会」には、炭労は夕張代表一人と道炭労代表一人の二人が、学会側からは南条尊康北海道総支部長と夕張の三林秋太郎の二人に参加してもらいたいという要請であった。それも六月二十九日の予定である。
 三林は、事態のあまりの急展開に驚いた。
 彼は、「紙上討論会」前日の二十八日、札幌の旅館で南条と落ち合い、討論会の打ち合わせを行った。床に就いた時は、深夜になっていた。しかし、二人は緊張からくる興奮のために、なかなか寝つけなかった。
 それでも、やっと、とろとろまどろみ始めた時、三林は部屋の戸を叩く音を、ぼんやり耳にした。
 しばらくすると、枕元に誰か立っている気配である。誰だろうと跳び起きた途端、三林は、「あっ」と驚いた。
 ――山本室長ではないか!
 三林は、わが目を疑ったが、まさしく山本伸一が悠然と微笑んでいたのである。三林と南条は驚いて、布団の上に座り直した。伸一は、二人に親しく笑いかけた。
 「驚かしたかな。夕張に行っていたんだが、こちらのことが心配になって、急速、やって来たんだよ。明日は、思う存分、戦いなさい。何事も学会精神だ。討論会といっても、根本は折伏精神です」
 二人は、伸一の突然の出現に驚いたものの、会った瞬間から、すべては安心感に変わった。
 翌日、南条と三林が宿を出る時、伸一は、三林の肩に手を置いて言った。
 「さあ、炭労との対決だ。君たちの今日の戦いで、勝負は決まる。しっかり頑張って来なさい」
 「はい、頑張ります!」
 「しっかり頼んだよ」
 伸一の激励に、三林は涙ぐみながら、必勝を心に誓った。彼は、心で唱題を続けながら、会場の産業会館にタクシーを飛ばした。
 奥の部屋に案内されてみると、炭労側の代表は、道炭労の事務局次長と法規対策部長の二人に変わっていた。そして、午後一時になって、北海道新聞の社会部長が司会者となり、いよいよ討論会が始まった。
 司会は、まず炭労側に、対決にいたった経緯の説明を求めた。事務局次長は、最初から創価学会に対する認識の浅さをさらけ出した。
 「率直に言って、一昨年ごろまで、私どもは創価学会なんて知らなかった。昨年の参院選をきっかけに、急に表面に出てきたんです」
 しかも、学会の推薦した候補の票が意外に伸びたことに驚いて、このままいくと、組合の組織にも大きな影響が出る――というわけで、対決せざるを得なくなったと、かなり正直な告白をした。
 学会側の反論は、炭労の認識が根本的におかしいと、三林から始まった。
 「選挙を破壊したというのか、あるいは労組の末端組織を破壊したというのか、そのどちらですか。
 もし、学会の会員に、労組の組織に沿わない者がいたら、言ってもらいたい。信心によって、よりよい組合員になってほしいと念じているのが、私たちの学会精神だ。私たちは、労組から褒められこそすれ、反感をもたれることは何一つしていない。
 選挙にしても、これは、国民に与えられた権利であって、自由は尊重してもらわなければならない。
 誰に一票を入れようと自由なのに、それを組織の破壊などというのは見当外れです」
 両者の立場は、これで明らかなように、もともと労働団体の目的と、宗教団体の目的が対立するものでない以上、対決すべきものはなく、両者の推薦候補者に対する選挙についての利害が、衝突しただけの話であった。しかし、派生的な問題が討論の材料となり、双方相譲らず、最初の見解を繰り返し主張するよりほかはなかった。
 最後の結論らしいものといえば、次のような炭労側の言い分であった。
 「私たちは、まだ学会側の言っていることがわからない。……学会側の言うことが、今後の行動に素直な形で生かされない時は、現れた現象に対して″対決″する。そのようなことがないように学会の方でも指導してほしいし、われわれも、しばらく見守っていきたいと思います」
 これに対して、学会側は最後に言った。
 「あなたたちの言うことがわからないのは、私の方も同じだ。宗教と対決することが的外れで、炭労側の言っていることが、もし、なされるならば、明らかに憲法違反になるだろう。対決、対決というが、もっと話し合いをすべきなんですよ」
 炭労は、「学会のことはわからないが、対決の姿勢は堅持する」という。学会は、「炭労の言う″対決″の理由自体がわからない」というのである。討論は全くかみ合わず、不毛に終わった。
 その背景には、宗教に対する両者の考え方の大きな隔たりがあった。
 炭労の幹部は、″苦しい生活の問題は、組合運動によって基本的には解決できるのであり、宗教は、それを阻害するものだ″と信じているのであった。
 これに対して、学会の幹部は、″人間の根本的苦悩の解決は、正しい宗教によらなければならない。組合運動が生活改善の有力な一手段となることはあっても、部分的なものにすぎない″と考えていた。
 両者の認識と信念の懸隔は、どこまでも平行線のままであった。
 結局、宗教への無認識、学会への無理解が、いたずらに事態を紛糾させていたといってよい。それは、広宣流布の至難さを物語るものともいえよう。
 この紙上討論会が行われた二十九日午後の同じころ、夕張では、東京から派遣された津田良一部隊長たちが、三林の留守宅で、地区の幹部から事情を聞いていた。
 そこに、夕張炭労の教宣部長が、突然、訪れた。彼は、極度の緊張からか、硬い表情で、唾をごくりとのみ込みながら、思いがけぬことを言いだした。
 「あのう……まことに申しにくいことなのですが、『対決』の件については、無期延期にしていただきたいのですが……。本当に申し訳ありませんが、なにせ、私どもの方では、七月にはストに入ることになっておりますし、その準備や何やかやで、『対決』などしている余裕は、今はないのが実情です……」
 豹変もいいところである。無期延期とはいうものの、白紙撤回に等しい。津田良一ならずとも、激怒するのは当然であった。
 「対決、対決と言って、喧嘩を売ってきたのは、あなた方の方ですよ。忙しいのは、私たちだって同じです。こうして東京から、わざわざやって来ているんです。『対決しない』では、東京に帰れませんよ。ここまで来たんだから、予定通りやりましょう」
 津田は、怒りを抑えて執勘に食い下がり、頑としで聞き入れなかった。教宣部長は、しどろもどろになり、哀願するような調子になった。
 「勘弁してください。本当に忙しいんですから、幾重にもお詫びします。……ねえ、荒川さん、なんとかしてくださいよ」
 同席した荒川にまで呼びかけた。荒川は、むらむらと怒りが込み上げてくるのを覚えた。
 「何を言うんです。あなた方が、学会員をいじめるようなことをさんざんしておいて、今さら、なんです。わざわざ、そのために津田さんたちも東京から来ている。もう、絶対に駄目です!」
 教宣部長は、慌てて立ち上がり、引き留める手を振り払って、捨て台調を残して逃げ帰った。
 「対決だけは、なんとしてもできませんからね……」
 炭労側のこの急変は、いかにも不可解であったが、その決定は、東京の炭労本部から来たらしかった。炭労の大会が決定した対決方針によって、夕張炭労は真正直に進んだ。しかし、炭労の方針は、憲法に保障された「信教の自由」を脅かすことになりかねないと、十分に承知していた組合本部は、急遽、中止命令を出さなければならなくなったにちがいない。
 ちょうど、このころ、札幌の旅館では、山本室長を囲んで、さっき終わったばかりの討論会の録音テープを聴いていた。テープが終わると、山本伸一は、ただ一言、短く言った。
 「成功だったね、こちらの勝ちだ」
 この時、夕張から電話が入り、対決中止の申し入れがあったと報告してきた。
 伸一の目が鋭く光った。彼は、現地の混乱を予想し、その真っただ中に身を挺すべく、再び夕張に向かった。
 三林宅には、心配顔の幹部や会員が大勢集まっていた。伸一は、人びとの顔をぐるりと見回した。
 「みんな、安心してください。私が、責任をもって指揮を執ります。民衆のための戦いだもの、必ず勝つに決まっています」
 その夜、伸一は、多くの人びとを指導しながら、既に決定していた通り、七月一日に札幌で、翌二日に夕張で行う炭労への抗議集会の準備を、遅くまで進めた。
 六月三十日の朝、伸一は、炭労の教宣部長に面会を求めたが、教宣部長は、その日に行われる第四十四回夕張炭労代議員大会への出席を口実に、面会を拒否してきた。
 大会終了後、伸一は、再び教宣部長に面談を申し込んだが、教宣部長は、発熱を理由に、頑として拒み続けた。伸一は、悔しがる青年幹部を旅館に集めた。
 「夕張での対決は、これでなくなってしまったが、問題は解決したのではない。炭労側は、今後も、さまざまな手段で、学会員をいじめにかかってくるだろう。だから、この際、夕張の学会員が二度といじめられないように、徹底して戦い、一気に事を決しておく必要があるんです」
 伸一は、七月二日の夕張大会の行動計画を、青年たちと綿密に打ち合わせながら、今回の事件の本質について語って聞かせた。
11  山本伸一は、この日の朝、一通の電報を東京に打った。
 この六月三十日、東京・港区の麻布公会堂で、学生部の結成大会が開催されたのである。
 ――「アタラシキセイキヲニナウシユウサイノツドイタルガクセイブケツセイタイカイオメデトウカイチョウセンセイノモトニイサンデスダチユケ」ヤマモトシンイチ
 (「新しき世紀を担う秀才の集いたる学生部結成大会、おめでとう。会長先生のもとに、勇んで巣立ちゆけ」山本伸一)
 この祝電が、学生部結成大会で読み上げられたのは、体験談の終わった直後であった。
 大会には、およそ五百人の妙法の学徒が参集していた。
 学生部の設置が発表され、白谷邦男が初代学生部長の任命を受けたのは、一年前の四月のことであった。だが、信仰そのものに最も懐疑的な年代の学生層をまとめるには、長い準備期間が必要であった。
 昨年の九月、打ち合わせの会合をもった時、全国から集った学生は、わずか五十人に満たなかった。以後、青年部のなかで地道に懇談会や委員会を繰り返し、十二月になると、部員は百九十人になった。そのなかには、女子学生十二人が含まれていた。
 しかし、まだまだ結成大会には、こぎ着けなかった。メンバーは奮起し、部員増加に励み、ようやく五百数十人の部員がそろったのである。
 この日、夜来の雨も上がり、学生たちが喜々として全国から集って来た。
 戸田城聖は、壇上から、にこやかに学生たちを慈しむ熱い視線を注いでいた。
 ″東大法華経研究会の、あの理屈屋たちも、ここまで育ってきたか。女子学生もかなりの人数だな……。将来の社会のリーダーは、大学出身者が圧倒的に多くなるのは明らかだ。妙法を護持したリーダー、すなわち学生部出身者の未来社会での活躍がなければ、広宣流布の実現は困難になるだろう。今は、この五百人が大切なのだ。願わくは、健やかに立派に育ってほしい″
 研究発表、代表の抱負などの後、白谷学生部長があいさっした。
 「学生部も、支部、青年部の非常なお力添えを得まして、ここに、ようやく結成式を行うことができましたことを、諸君と共に、望外の喜びに思う次第であります」
 信心嫌いが多いといわれる学生を、これだけ集めることができて、学生部長は、ほっとしたところだった。
 彼は、この学生たちへの希望を、次のように語り、話を結んだ。
 「全民衆が求めてやまない、本当に信頼できる人材となってもらいたいと思うのであります。どうか今日を契機として、学業に専念することはもちろん、闘争の場にあっては、雄々しく立ち上がる真の人材になってほしいと思います」
 やがて、拍手のなか、戸田城聖の登壇となった。彼の表情は、いかにもにこやかで、晴れ晴れとしていた。
 「ただ嬉しいという言葉以外にない。私は、数え年五十八でありますが、二十四の時から四十幾つまで、時習学館という私塾を開いていました。ここに初代会長が、しょっちゅう来られましてね、私と一緒に教育学の研究をしてくださったんです。
 それで驚いたことに、なにも博士が偉いというわけではないけれど、そのころ、私が数学や国語を教えた人のなかに、いつの間になったのか、文学博士になっているのがいるんです。
 これは私を驚かせたんだな。そのころ、指導し、教えた生徒の数は、約一万に近い。このなかから、法学博士だ、文学博士だ、なかには会社の重役だというのが、たくさん出てきた。けれども、一万人からみれば幾人もいないんですよ。
 学生部は、少ない、少ないとみんな言うけれど、私は、これくらいいればたくさんだと思います。そうたくさんはいらない。このなかから半分だけ重役になって、半分だけ博士になってしまえば、それで十分ではないか」
 一斉に拍手が起こった。戸田の膝下に、五百人もの学生が集い、生涯を妙法に捧げつつ、社会の指導者として巣立ちゆくことを誓ったのだ。彼は、それが何よりも嬉しかった。
 かつての一万人の教え子は妙法を護持していたわけではなかった。しかし、今、彼の眼前に整列している学生部員は、妙法を信受し、広宣流布に生きようとしている。一人として使命のない人がいるはずはない。戸田は、数十年先の彼らの姿を想像すると、喜びが込み上げて仕方なかった。
 「これだけの指導者ができたら、それこそ、今、世間で指導者と仰がれている人たちは、全く顔色がなくなってしまうにちがいない。私には、これくらいいれば結構なんです。どうか、よろしくお願いします」
 創価学会学生部は、この日、晴れやかに旅立ったのである。戸田城聖が、久しく構想して成らず、やっとまとまった最後の組織であった。
12  今にして思えば、この一九五七年(昭和三一十二年)六月三十日という日は、創価学会にとって、まことに記念すべき歴史的な日であったといわなければならない。前日の二十九日には、戸田城聖が、「妙悟空」のペンネームで著した小説『人間革命』が発売になっていた。発行の日は、七月三日となっている。戸田が十二年前の四五年(同二十年)に、出獄した日である。この小説は、彼の信仰生活を骨子とし、戦時中の苦闘を浮き彫りにしていた。時の軍部政府の弾圧によって獄につながれた時の、すさまじいばかりの信仰体験は、彼自身を蘇生させたばかりでなく、七百年来の広宣流布の火を、燎原の火として燃え盛らせたのである。
 そして、この三十日に、大阪府警察本部は、刑事二人を上京させていた。理事長・小西武雄と、青年部の室長・山本伸一の両名を逮捕しようと決断したのである。小西武雄は東京にいたが、山本伸一は遠く北海道にいた。伸一の留守宅から本部に電話が入り、直ちに札幌の旅館に連絡があったが、伸一は、この時、夕張に出かけていた。翌日の札幌大会の準備で騒然としているなかに、北海道警察本部の刑事が、札幌の旅館にやって来た。不在の伸一に代わって、関久男が応対した。
 「大阪府警に出頭せよと言うのですね。わかりした。しかし、今はダメですよ。一両日、待ってください」
 「それは困ります。すぐ大阪へ発ってもらわないと……。逮捕状も取ろうと思えば、すぐに出るんですよ」
 刑事の言葉に、関は厳しい口調になった。
 「何を言うんです、君たちは。山本伸一は、逃げも隠れもしません。明日は札幌で、明後日は夕張で、非常に大事な会合があるんです。それまで待ちなさい。一日、二日遅れたって、差し支えないでしよう。私が、山本伸一の身柄については、間違いなく保証します」
 「……すると、三日ならよいのですね」
 「そうです」
 「間違いありませんね?」
 「間違いない」
 「では、上司に聞いてみます。電話をかけてきます」
 東京や大阪とも連絡の必要があったのか、ずいぶん長い電話であった。そして、やっと了解を取った。
 一方、七月一日の札幌と、二日の夕張での、炭労への抗議集会に参加するため、東京などの青年部の有志が、二十九日から三十日にかけて、陸続と津軽海峡を渡っていた。これらの青年たちは、炭労の圧力粉砕を願い、夕張の同志を激励し、応援しようと立ち上がったのである。
 彼らは、自ら旅費を工面し、そのうえ、なんとか時間をつくって、同志のために北海道に向かったのである。
 戸田城聖は、この慌ただしい事態の推移を見守りながら、泰然自若としていたが、小西や伸一に対する大阪府警の仕打ちに対しては、心から憤っていた。彼は、年来の親友の弁護士・小沢清に、大阪へ、急遽、赴くことを依頼した。
 戸田は、いやな予感を覚えていた。彼の体は、春以来、日に日に衰弱していて、その度合いは意外に深かった。夜寝ても、目はすぐ覚めた。そして、その後、明け方まで眠れないのである。夜は長く、それでいて、朝はすぐ来るように思えた。
 小西と伸一のことが、瞬時も戸田の頭を離れなかった。今後の事態の展開が、しきりに思いやられた。
 広宣流布の歴史を、学会が織りなす一つの織物とするならば、五七年(同三十二年)という時間の経糸たていとに、この六月から七月にかけての一週間に起こったさまざまな出来事の緯糸よこいとは、思いがけぬ鮮烈な色合いとなった。
 小説『人間革命』発刊の喜びの糸、学生部結成大会の祝賀の糸、大阪府警からからんできた黒い粗い糸、札幌と夕張の燃えるような大会の糸、そして、大阪へ向かう山本伸一の憂慮の糸……さまざまな色彩の糸が交じり合い、一日一日とを滑らせながら、この″時の布″は、しっかりと織り上げられていった。
13  七月一日夕刻六時から、札幌市の中島スポーツセンターで、創価学会札幌大会が開催された。急な開催であったが、約一万三千人の会員が一堂に集うことができた。遠く函館からも、釧路からも、旭川からも、貸切バスなどを仕立てての参加であった。東京の代表の顔もあった。
 急を聞いて駆けつけた会員の熱気は、開会前から場内を圧し、いやがうえにも意気衝天の勢いを示した。
 北海道総支部長・南条尊康の開会の辞、文京支部幹事・三林秋太郎の経過報告に次いで、東京から来た青年部幹部の、「炭労の一方的決議を批判す」と題する講演があった。
 彼は、炭労幹部の宗教に関する驚くべき無知をあげ、憲法第二十条の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」という条項と、労働組合法第五条の「何人も、いかなる場合においても、人種、宗教、性別、門地又は身分によって組合員たる資格を奪われないこと」という規定を、はっきりと提示した。
 そして、今回の炭労の、創価学会への対決、干渉は、明らかに違法であり、組合の存在を揺るがすものだとして、次のように結論した。
 「したがって、今回の決議において、わが学会員を一人でも締め出すというような考えがあるならば、それは組合幹部が、自ら組合の資格を投げ捨てるということ、すなわち、現在の組合の自殺行為にほかならないのであります」
 これを受けて、夕張地区の幹部であり、同時に炭労の組合員でもある二人の会員から報告が行われた。二人の話は生々しかった。
 ――組合運動によって封建的労働条件などは、ずいぶん改善されてきたが、個人の幸福の問題となると、理想から、はるかに遠い現状である。組合費を納め、組合員としての義務を完全に果たしたとしても、夫婦喧嘩、借金の苦しみ、病苦などの解決はできない。個人の幸福のためには、信仰が不可欠である――というものであった。
 続いて、「炭労の封建制をつく」と題する講演に移り、自由と平等という、現代民主主義に反している炭労の差別的措置が指摘され、炭労幹部が糾弾された。さらに、「炭労幹部の猛省を促す」として、大阪から来た幹部が、労働貴族に成り下がった炭労首脳幹部の官僚主義の実態を暴き、また、彼らが、自己の政界進出のために組合員を踏み台にしていることを明らかにした。そして、彼らは、来るべき選挙が気になって、創価学会三カ月撲滅運動などという不遜なことを考えだしたのであり、まさに、血迷った姿であると攻撃した。
 参加者の、炭労への抗議の義憤は、ますます燃え盛っていった。
 次いで、理事の一人が「創価学会と組合活動について」と題して講演した。
 ここでは、まず日蓮大聖人の仏法から、この事件を見ていった。そして、仏典には「還著於本人」(法華経六三五ページ)という言葉があることを述べた。天に向かって射た矢が、遂には、自分に還ってくるように、学会を撲滅するという炭労こそ、いずれ必ず分裂するのではなかろうか、と確信をもって訴えた。
 そして、話を一転させ、学会員にして組合員であることに、本来、なんの矛盾もないはずだと指摘していった。
 「創価学会は、『組合員であるならば、組合という法がある。組合の法に従って、組合員として立派な生活をしなさい』というのが、学会の指導精神です。これは、今まで指導してきたはずであり、皆さんも実行してきたところです。
 何も労組を乱してはいません。それを乱したように言うのは、選挙の票が減ったからではありませんか。組合と選挙の問題、これを創価学会と炭労の問題、つまり信仰と組合活動の問題にすりかえることは、先ほども話があったように、憲法の精神に反するものであり、組合法を無視するもので、社会に認められることではありません」
 さらに、彼は、学会員の日常の信仰生活が、一般の組合員に誤解を与えるものであってはならないと述べ、弘教活動においては、細かい注意をもってあたるよう指導した。
 最後に、この大会の実行の責任者・山本伸一室長の登壇となった。
 伸一には、この時、大阪府警の黒い影が迫っていた。彼も、それを知らされ、緊張の極にあった。しかし、横溢する伸一の生命力に、聴衆は、誰一人として、そのことに気づかなかった。
 彼の心の奥では、怒濤が逆巻いていたが、伸一は、力強く叫んだ。
 「炭労が、どんなに叫んでも、わが学会は日本の潮であり、その叫びは師子王の叫びであると信じます!」
 そして、彼は創価学会の使命に言及した。
 「資本家も、また、労働者においても、悩める人は数知れない。その人びとに、大功徳ましますこの御本尊をご紹介申し上げるのが、学会の使命なのであります」
 彼は、″主題はこれで決まった″と思った。すると、彼の胸にわだかまるものは、一切、消えて、熱鉄のような闘魂がほとばしりだした。
 「日蓮大聖人は仰せであります。『天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか』と。
 『天晴れぬれば』とは『法華を識る』ことであります。また『地明かなり』とは『世法を得可きか』となり、世法に通達することです。つまり、信心を根本にして自分の商売、事業を改良したり、思索し、工夫して、立派に事業を発展させ、境涯を高めていくこと――これが大聖人様の御指南であり、学会の指導原理なのであります。
 したがって、組合に対しても、信心即生活、即仕事、即労働組合。これが学会の正しい在り方、指導であります。しかるに炭労の方は、少しも理解しようとしない。広宣流布に進む学会を阻む炭労の姿は、仏法の眼から見るならば、悪鬼入其身の姿であり、仏法の法理に照らせば、諸天善神の治罰を被るものと信じます」
 山本伸一は、集った聴衆が叫びたいことを要約し、しかも明確にした。スポーツセンターの天井を揺るがすような拍手が、わっと湧き上がった。
 「翻って考えてみれば、大聖人御在世にも、三類の強敵が現れました。それは、まさに、妙法が民衆の心のなかに確立していった時でした。
 学会は一昨年の小樽問答で、北海道にあって道門増上慢となった誤れる宗教の権威を打ち破りました。そして、今また、僧聖増上慢と化した炭労の圧力を、同じ北海道の地で打ち破ることは、喜びに堪えない次第です。
 『大悪をこれば大善きたる』『大悪は大善の来るべき瑞相なり』との御金言を思う時、三類の強敵現れ、いよいよ広宣流布も間近であることを、私たちは確信すべきであります……」
 伸一には、″一気に事を決する″と思い決めた気迫が満ちあふれていた。この夜、集った会員は、意気揚々として、それぞれの地元に帰って行った。
 大会終了後、直ちに記者会見が行われたが、炭労の早とちりという印象が、記者たちの頭に残った。
 成功裏に札幌大会が終わると、首脳幹部は、その夜中に夕張に移動した。東京方面から応援に来た青年たちのうち、数十人は、夕張の会員の手狭な家に分宿した。そして、散在する会員宅を一軒一軒激励して歩いた。
 旅館に設けられた本部では、山本伸一が中心となり、翌二日の行事の最終検討が真剣に行われていた。昼の「市中行進」から、夜の「夕張大会」へと詳細なスケジュールが出来上がった。人びとが散会し、それぞれの宿泊予定の家に戻ったころ、夏の夜空は白々と明るくなりかけていた。
 七月二日の午前十時ごろになると、札幌から、バスや列車で、約二百人の青年部員が到着した。前夜、札幌大会に参加した東京の青年たちである。それを迎える地元の青年たちとの交歓は、いやがうえにも、意気を高めた。
 昼過ぎ、東京と地元の青年約二百五十人の精鋭は、夕張本町駅前で四列縦隊に整列し、デモ行進に移った。学会歌を高唱しながら、整然と夕張の街頭を進んだのである。
 沿道の民家からは、主婦や子どもたちが、首を伸ばして見ていた。道行く人びとは、怪訝な面持ちで見送っていたが、学会員は、家から飛び出し、行進する青年たちに和して、胸を張って、学会歌を歌っていた。行進は、炭労事務所の前で止まった。
 「夕張炭労よ、話し合いをしようではないか!」
 青年たちは、幾たびもシュプレヒコールを繰り返したが、反応はなく、誰一人、出てこない。入り口や窓から、数人が顔をのぞかせるだけである。緊迫した空気のなかを、数人の新聞記者が右往左往していた。
 一方、夕張大会の結集の準備は、朝から万全を期て進められていた。夕刻になると、出坑したばかりの壮年や青年が、そして、婦人たちが集まり、定刻の午後六時には、会場の若葉劇場を埋め尽くした。集った同志は千五百人である。会場からあふれた人たちも、二百人はいたであろう。
 炭労の地元であるだけに、夕張の青年部員は、厳重な警戒態勢を敷いていた。
 登壇する人びとは、前夜の札幌大会の時と、ほとんど同じであり、訴える論題も同じであった。しかし、地元だけに、はるかに熱がこもり、緊迫感をはらんでいた。気勢も大いに上がり、地元会員が、どんなに勇気づけられたかは言うまでもない。
 札幌大会と違った点は、炭労側から傍聴を申し込んできたことである。開会直前、夕張炭労の書記長や厚生部長など、数人の幹部がやって来た。山本伸一はこれに応対し、快く迎えた。
 「よろしゅうございます。ただし最後まで、学会の主張を、はっきりと聞いていっていただきたい。終わってから懇談をいたしましょう」
 堂々たる応対であった。
 炭労の幹部たちは、約束にもかかわらず、一時間ほどすると退席してしまった。渉外係の青年部員が、出口で押しとどめていると、伸一が現れた。
 「せっかく、おいでになったのだから、話し合いをしませんか」
 「いや、実は急用ができたので帰らなければなりません」
 書記長は、あくまでも逃げ腰である。伸一は、手を差し出した。書記長は照れたようにおずおずと手を出し、軽く握手だけすると、逃げるように出て行った。
 外で耳をそばだてて聞いていた一人の組合員が、書記長を見かけて質問した。
 「書記長! 対決はどうなった?」
 「臨時大会を開いてからのことだ」
 炭労幹部は、闇に紛れて姿を消した。しかし、最後まで傍聴した炭労の役員もいたのである。それは、真谷地炭労の副委員長たちであった。彼らは、午後八時四十分に大会が終了すると、山本伸一のところまで、あいさつに来た。
 「学会の主張は、よくわかりました」
 「そうですか」
 「私どもとしては、決して浅はかな行動は取りませんから、安心してください」
 「わかりました。今後は、何かありましたら、すぐお話しください。意思の疎通がいちばん大事です」
 伸一も、さわやかに応え、真谷地炭労の幹部は、礼を述べながら帰って行った。
 二つの大会は、無事に終わった。
14  学会の幹部たちは、三林宅に引き揚げ、大成功を喜んでいたが、山本伸一は、一人、別室で横になって休んでいた。彼には、大阪事件が待ち構えていたのである。
 既に、小西理事長が逮捕されたという情報も入っていた。彼も、明日は出頭する予定だが、同じく逮捕は免れまい。一難去って、また一難である。
 伸一は、やがて起き上がると、身支度を始めた。そして、人びとに気づかれないように、用意してもらっていた車に乗って夕張を去った。
 夜の街道を、自動車は砂煙を上げて疾走した。見渡すと、広漠とした原野に、遠く山脈が黒々と連なっている。かなりの標高であろう。夜空に、高い稜線が浮かんでいた。
 ″いっそのこと、あの山脈のなかで、静かに暮らすことができたら……″
 伸一は、疲れていた。連想は、大雪山の山中の生活にまで及んだ。彼は、一瞬、われを忘れたが、その瞬間、憔悴した戸田城聖の顔が浮かび、一切の迷想は消えた。
 車のヘッドライトは、一本の道をくっきりと照らし、札幌へ、札幌へと近づきつつあった。
 伸一は、深夜、札幌の旅館に着き、そこで一泊した。疲労は極点に達していた。すぐ深い眠りにおちたように思われたが、眠りは意外に浅かった。わずかな時間で、すぐ目が覚めてしまったのである。
 夜明けは、なかなか来なかった。夜は、我慢のならぬほど長かった。大阪の腹立たしい事件が、どこまでも頭にこびりついて離れない。時間が、小刻みに過ぎるのに身を任せた。
 やっと夜が明けた。伸一は思い悩み、何度も寝返りを打ちながら横になっていたが、雨戸から陽が漏れるのを見て起きた。疲労だけが残っている。青ざめた顔は、別人のように活気を失って冴えなかった。ただ、夏の札幌の涼しい朝風だけが救いであった。
 早朝、伸一は真剣に勤行をし、一切の勝利を懸命に祈った。朝食を終えると、青年部の津田良一たち、二、三人がやって来た。飛行機の出発まで、時間はまだある。彼は、青年たちと旅館を出た。そして近くの公園に入り、池の周りをゆっくり歩いた。
 「津田君」
 伸一は、津田に呼びかけながら、しばらく口をつぐんで、池の水面に視線を落としていた。
 「いよいよ、大阪へ行かなくてはなら、なくなったが、厄介なことになったものだ」
 「室長、逮捕されるようなことはないんでしょう」
 「それは、わからない。何がどうなっても、君たちは、戸田先生を守り抜いてくれ。先生のお体が、今、いちばん心配なんだ」
 人影まばらな朝の公園は、まことにのどかに見えたが、伸一の心のなかは、波濤が渦巻いて重苦しかった。
 時間が来た。伸一は、公園から車で千歳空港に向かい、羽田行きの日航機に搭乗した。
15  山本伸一が北海道から去った七月三日、炭労問題への社会の関心は、依然、大きなものがあった。炭労が申し込んできた七月四日の対決討論は、いつの間にか、彼らが勝手に引っ込めてしまって消えていたが、世間は、そんなことで承知するはずもない。
 マスコミは、この点を追及して炭労に迫った。七月三日付の「北海道新聞」には、全国炭労事務局長談として、次のような言葉が掲載になった。
 「いまとなってみれば、真向からぶつかり合うのはむしろ逆効果だと考え、冷静に対処する方針にした」
 炭労の中央部は、この時点で方向転換を余儀なくされていた。創価学会に対する攻撃的な姿勢は、くるりと変わって、「冷静に対処する」などという守勢に変わったと見なければならない。
 彼らも、組合が宗教に介入することは、法に反することを悟ったのであろう。してみると、炭労の創価学会への対決策というのは、不当な圧迫であり、一種の嫌がらせであったという以外にない。
 札幌の北海道放送(HBC)の企画で、この三日の夜、「放送討論会・炭労対創価学会」のテレビ放送が行われた。生放送である。
 炭労側の全国代表は、北海道炭労委員長と北海道炭労事務局次長で、創価学会の代表は、理事の一人と北海道総支部長であった。司会は「北海道新聞」の論説主幹であった。
 六月二十九日の「紙上討論会」と同じように、両者の主張は平行線をたどった。かなり激しい応酬もあり、司会者までが興奮して、その立場を忘れるような場面もあった。しかし、もはや、炭労としては、基本的に後退の姿勢に変わっていたので、竜頭蛇尾に終わらざるを得なかった。
 それからしばらくは、この対決の問題をジャーナリズムが取り上げ、一般紙やラジオ、週刊誌などが、連日のように騒ぎ立てた。
 要するに、結果としては、天下の炭労の思い上がった弾圧攻勢を、若い創価学会が、見事に打ち破っていたのである。しかし、それは、権力の魔性が牙をむいて襲いかかろうとする、ほんの兆しにすぎなかった
 炭労問題は、これで一応のピリオドが打たれたが、さらに大きな権力の魔性との闘争が、今、始まろうとしていた。

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